第6章 極寒の中で来ないバスを待つ人

 金曜は晴れた。昨日も晴れたし、天気予報によると明日も晴れるそうだ。それはタランティーノ映画のサントラを聴いている時のように、難しくなく小細工もなく妙に寛大で行動的な天気であって、俺はそんな天気のように元気良く、用事があるからと早退していく永司に教室の窓からこれでもかと手を振りまくり、それから岸辺がいる教室に行って岸辺一緒に昼飯を食おうと誘った。
 学校裏の森は日光浴しながら昼飯を食おうと試みる生徒達でごったがえしていたので、俺達は校庭の一番遠い桜の木の下まで歩いていき、靴を脱ぎ、足を伸ばし、そこでメシを食った。昨日も天気は良かったのに芝生はまだ僅かに湿気っている。大地が気持ち良さそうに呼吸をしている。
 俺は学校のカフェテリアで売っているサンドウィッチとペットボトルのお茶、岸辺はサンドウィッチと缶珈琲を手にして木陰に座る。そして二人でメシを食いながら、岸辺の女の話をした。
 岸辺の女は未だに一度も見たことがない。どうも彼女は人見知りが激しいようで、岸辺の友人には誰一人として会いたがらないのだそうだ。本当はその彼女に会ってみたいと思うし、話に聞く限りではかなり自由奔放な女性のように思えるが、彼女のことは岸辺が一番理解しており、またその岸辺が彼女の意思を尊重している以上それが一番正しい選択なのだろうと思う。
 岸辺の女は複雑怪奇でありながらとても単純な一面を持っているらしい。「構って欲しい」「愛して欲しい」「自分を見て欲しい」「自分を理解して欲しい」そう願いつつ、それを否定し続けるのだそうだ。
「典型的な『女の子』なんだよ」
 そう岸辺は言う。何となく意味は分かる。女の子ちゃんという生き物は、そういう一面をバッグの中のハンカチと一緒に持ち合わせている場合があるんだ。俺はその手の女の子ちゃんとは付き合ったことはないけど。
「変なこと訊いて良い? 感じ悪いかもしれんこと」
 俺はハムとレタスがたっぷり入ったハムサンドを食べながら言う。学校のサンドウィッチは美味くて好きだ。
「良いよ。なんなりと」
「面倒くさくなることってない?」
「ないよ」
 岸辺はキッパリと言い切ってから珈琲を飲み、そしてツナサンドに手を伸ばした。
「まったく?」
「全くないね。でもそのうちに面倒くさくなるかもしれない。何か悪いことが重なると、そう感じるんじゃないかな」
 何か悪いことが重なると、そう感じるんじゃないかな。俺は岸辺の言葉を心の中で何回か繰り返す。しかし岸辺はきっと、面倒くさくなんかならない。おそらくは辛抱強く耐えることができる。
 岸辺はそれから何も言わずツナサンドを食べ、野菜サンドも食べ、珈琲を飲み干した。俺もハムサンドと野菜サンドとカツサンドを食べ、お茶を半分くらいまで飲んだ。俺達は簡単にゴミを片付け、そのまま芝生の上に寝転ぶ。
 桜は生き生きと葉を伸ばし、生徒達の声がよく響いた。葉と土と花と大地が呼吸する匂い、大気が緩くうたた寝する感じ、遠くから聞こえる車の音、上空を飛ぶ飛行機。世界は夏を始める準備をしている。
 岸辺は何も言わなかった。
「俺も面倒くさくなったことはないんだ。でもホントに頭に来て」
 ブチ殺したくなるはずが、その殺意が何故か自分に向かった。
 俺の独り言を呟いても岸辺は何も言わない。その代わり、メガネを外して頭の上に正しい形で置き、青少年が持つ独特の色気を感じさせない完全な清らかさで俺の髪を軽く撫でた。岸辺の女は、岸辺のこういう部分が好きなのかもしれない。
「そういえばお前一時期コンタクトにしてたよな」
「してた。今もたまにするよ。でも僕は、メガネを取れば美青年、なんて魔法はかけられていないし、どっちでも良いんだ。地味な顔だし」
 岸辺はそう言って笑う。それからまた俺の髪を撫でた。
 仰向けに寝転んだまま足を組み、二人で空を眺める。青空はこのまま梅雨が終わってしまいそうなくらいの勢いだった。嫌なことは全部「ゼロ」にして良いよ、と誰かに言われているみたいだ。もし全ての晴天が本当に嫌なことを全部ゼロにしてくれたら、全ての人間と神様は自信溢れる幼稚園児みたいな顔で笑ってくれるだろうか。
 煙草を吸いたかったがまさか職員室から見えるこの位置で吸うわけにもいかず、また今から屋上に行くのも面倒で、俺は無駄に大きな声でテンポ良く毒キノコな彼女を歌った。
「岬杜君は随分変わったね」
 ここしかないというタイミングで岸辺が言う。それを切り出す最も適した瞬間を丁寧に選び取ってくれたかのように。だから俺は草原の象のように落ち着いてそれに対応出来る。言い訳じみたことを考える必要もなく、永司のことは俺が一番理解して――と必死に主張する必要もなかった。
 どういう意味で変わったのか、傍目で見てそれが分かるほど変化があるのか、常に近くにいすぎる俺には客観性が欠けていてよく分からない。
「どこが変わった?」
「君と一緒にいても威圧してこない。いつもどこか見え隠れしていた焦燥感もなくなってる」
 威圧。焦燥感。納得出来る。
「永司はちょっと前に俺を殺そうとしたんだ」
「それは独占欲の成れの果て?」
「分からない。ていうかちょっとは驚けよお前。まあ良いけど、とにかく俺には全く理解出来なかった。分かったのは、愛情と殺意。憎悪のようなものがあった」
 剥き出しの殺意は丹念に研がれた刃物の切っ先のように、真っ直ぐ俺だけに向けられていた。直線的な殺意を、アイツは意識して俺に向けていたのだ。
 思い出そうとすると鼓動が早くなり、身体に力が入った。
 思い出したくない。
「それで?」
 岸辺が促す。
「殴る気にもなんないくらい頭に来て。どうしても許せなくて――だっていつも原因はアイツで俺は真剣にどうにかしたいって思ってるのにアイツは何にも言わなくて。いつも黙ってていつも何も言ってくれなくて俺にどうしろって言うんだッ!!」
 上半身を起こして叫んでいた。何かを、どんなものでも良いからとにかく何かを投げつけたいのに手元に何もない。とりあえず靴でも投げてみようかと思ったが、そういうことは突発的にやることであって「とりあえず靴でも」なんて考えて行うことじゃないので、結局俺は手をウロウロさせただけでまた先程と同じように芝生の上に寝転んだ。
「今日は良いお天気ですなーっ!!」
 叫んだのは俺。
 岸辺はずっと隣で寝転んだまま。
「俺は永司に言いたいことを言えてないし、永司も俺に言いたいことを言えてないんだ。でもそれって違うだろ? なんか違うじゃんそういうのって。そうだろ? だから俺は区切りをつけたんだし、それは間違ってないと思う。なのにアイツは俺のそんな苦労を分かってるのか分かってないのか……ああァあなんで俺の思うように動いたり考えたり出来ないんかねアイツは!!」
「手に負えないんだね」
「そう。永司は手に負えない!」
「でもそういう岬杜君も大好きなんだね」
「うん、大好き」
 答えてからにへにへっと笑った。恥ずかしいような気分になったので身体をクネクネさせた。それから手で顔を覆ってまた笑った。
 岸辺も可笑しそうにクスクスと笑った。
 アレからの永司は何も語らない代わりに、何かしでかしたりヤラかしたりしない。極めて忠実であり、それはまるで鍛えられた逞しい身体と深い瞳を持ち、常に静かに主人の側に寄り添うことを任務とする恐ろしく無口な大型犬のようだ。しかしそれでも俺の思惑通りには動いてくれない。こうしろああしろと命令しても、それに従うように見えて実際は俺を納得させてくれない。永司は俺に忠実でありながら、同時に自分で全てを決定している。
 頑固なんだ。俺の決定を尊重してくれるが、根底にある自分の決定も変えない。
 そして俺は、その根底にある岬杜永司が手に負えないながらも大好きだったりするんだ。本当に苛立つし殴りたくなるくらいムカツクけど、不可解な分だけ俺の意識を離さない。俺の意識と視線を離さない力がそこにはある。
 そんなことを考えていると、少し落ち着いた。
 芝生をむしってみる。芝生っていうのは、なんでこんなにもむしりたくなるものなんだろう。
 校庭では女の子ちゃん達のグループが幾つかバレーボールをして遊んでいた。テニスコートではテニスを、バトミントンコートではバトミントンをしているグループが見える。男はそのいずれにも加わっておらず、僅か数名がサッカーをしているだけだった。
「お前、死のうと思ったことある? 誰かを殺そうと思ったことある?」
 せっせと手で芝生をむしりながら、岸辺に訊ねてみる。
 隣で寝転んでいる岸辺は胸の上で両手を組み、気持ち良さそうに目を閉じ日光を浴びていた。岸辺は随分男前になったように見える。自分を嫌っていることが見て取れた弱々しく俯きがちだったその顔は、いつの間にか穏やかな落ち着きと内から控えめに湧き出す存在の重みを獲得している。口元や眉の辺りからは、以前感じていた頼りなさはもう感じない。
 こうして目に見えるほどに岸辺は変化したのだ。
「ないよ」
 少し悩んでから岸辺は答える。両手は胸の上で組まれたままだったし、瞳は閉じられたままで。
「俺、やっぱりお前好きだな」
「普通なところが?」
「いや。そうじゃないけど」
 俺はそこで口を閉じ、芝生をいじっていた手を瞼の上に置いて日差しを遮り目を閉じる。
 離れた場所から聞こえる生徒たちの声と、ボールの音。風の音。校舎の方から聞こえる、誰かが誰かを呼ぶ声。それに応える声。隣の道路を通り過ぎる車の音。
 永司、と自然に呼びかけそうになったが、寸前のところでその不在を思い出す。
 俺は今、凄く気分が良かった。芝生の上は良い匂いがするし、生命が日の光を浴びて歓喜の声を上げているのを感じる。悪い予感の欠片もない。
 なのに永司が側にいないのはいただけない。アイツは俺のストーカーなのに、どこに行ってしまったんだろう。職務怠慢だ。今日電話で叱ってやろう。
 予鈴が鳴ったので二人で身体を起こして服についた芝生を払い、靴を履いて歩き出した。並んで歩いていると、岸辺の身長が伸びたことがよく分かる。身体の骨格が男になってきている。
「お前今、幸せ?」
 と、俺は訊ねる。
「そうだね。彼女には翻弄されっ放しだけど、僕は彼女の視線を感じ彼女は僕の視線を感じている」
 と、岸辺は答える。
 視線を感じあうから、幸せ。
 なんだか凄かった。ハッキリ言って、それは衝撃的だった。シンプルであって、深みがあった。古今東西それは変わらない、恋愛の根底にあるものだ。
「しあわせ独占禁止法違反で実刑判決ですぅ!」
 俺は叫びつつ岸辺にちょっぷちょっぷをお見舞いする。
 そして学校の廊下で別れる寸前に岸辺は立ち止まり、少し悪戯っぽい笑みを浮かべながらこうも言った。
「最近靴の大きさが変わったんだ」
 俺の身長は伸び悩んでいるので、もう一度ちょっぷちょっぷしておいた。

 サトルの姉と話をしたのは、その日の夜だった。
 俺はもう回らない洗濯機の横で、サトルのクラスメートの話を聞いていた。彼はサトルから「イチ」と呼ばれており、学校でよく鼻血を出すわりには男子からは常に一目置かれる存在であり、ユーモアセンスもあり、幾種類かのハードと数多くのゲームソフトを持っているらしかったし、更にサッカーがやたらと上手いとのことだった。
 サトルとは特に仲が良いわけではないようだが、サトルは彼を気に入っているみたいだ。彼は気さくで男らしいのだというエピソードを簡単に聞かせてくれ、それから最近になって生まれた自分とイチとの二人だけのささやかな交流なども語ってくれた。二人はお互いに仲良くなるきっかけを探しているように見え、夏休みが始まる前にはかなり親密になれるだろうと思えた。そして、サトルもその予感を抱いているようだった。
 サトルはイチの話に夢中で、俺はそれを聞いていた。辺りは暗くなり、下の階の人が風呂に入っている音が聞こえたが、俺はサトルが熱心にイチの話をするのを止めたくはなかった。サトルは常に話し相手に飢えているが、話すべきことは山のようにあるんだ。
 そんな時に彼女が帰って来た。
 挨拶をする俺の前を足早に通り過ぎ、サトルに向かって何か言葉を放った。短いものだったので多分それは「どきなさい」か「邪魔」か「ウザイ」か、その辺りだったのだろう。サトルは何かを言い返した。もしくは露骨な態度を示した。そして姉らしき女性によるサトルへの壮絶な罵りが始まった。
 彼女は不幸だった自分の少女時代をしきりにほじくり返し、お前がいかに恵まれているのか、自分の時はああだった、こうだった、それなのにお前は何も家の手伝いをせず、私の言うことを聞かず、生意気で、私が子供の頃は私が子供の頃は私が子供の頃は私が子供の頃はと、機関銃のように早口で捲くし立ててサトルを責め、自分の不幸話をサトルにブチ撒けた。飢えた痩せこけた醜い鳥が、憎悪を持ってサトルを突きまわしているようにも見えた。
 立ち上がって後ろに立っても彼女は何も気付かずに興奮している。その肩をトントンと軽く叩くと、ようやく彼女は振り向いて俺を見た。
 別に咎めるつもりはありませんよという意思を表す、気軽な笑顔を向けてみる。それでも彼女はすぐに視線を落とし、露骨に苦々しい表情を浮かべた。それから俺とは一切視線を合わさず、サトルを憎々しく見下ろす。お前のせいで私が恥をかいた、とでも言いたいようだった。
 サトルはその間、忘れられた置物のようにじっとしていた。無表情だが視線は硬く冷たく暫定的に自分の家の扉の蝶番の部分に向けられている。サトルは静かに怒っている。姉と同様に俺に対しても怒りを感じている。俺が何もしなければサトルの怒りは姉にのみ向けられただろうが、俺は割って入った。それがサトルの怒りの理由だ。カッコ悪いところを見られたという羞恥心もあるだろうが、多くはサトルのテリトリーに侵入したことについての怒り。
 サトルは自分の家庭に関する全ての事柄に極端に敏感だった。痛みの走る部分を無意識に庇ったり守ったりするように、彼は誰かがそれに間違って触れてしまわないように常に気を遣っていた。それなのに俺はその領域に踏み込んだのだ。赤の他人ならばともかく、サトルは俺にはそこに触れて欲しくなかっただろう。自分に近ければ近い存在ほど、彼はその境界を慎重に扱うタイプだからだ。
 しかしサトルが腹を立てることを承知で俺はその境界に足を踏み入れた。残念だが彼の姉の機関銃のような攻撃は治まる気配がなかったし、彼女が吐く言葉ひとつひとつは実弾のように彼を傷つけるものだったからだ。
 俺はサトルの領域への足の踏み入れ方を何度も間違えている。しかし過去のそれと今のそれは、重みが全く違っていた。もしここで、今ここで、サトルに声をかけたりサトルの体に触れようとしたならば、俺とサトルとの関係はあっさりと終わるだろう。彼はもう洗濯機の向こうで俺を待ったりしないし、一緒にカレーパンを食べることもなくなる。
 置物と化したサトルと黙ってそれを見守る俺に挟まれ、彼女はこの状態を作る原因となった自分の弟に更に苛立ちの視線を向けた。彼女は彼に家に入れと命じたが、サトルは従わない。そして業を煮やして彼の腕を掴もうとした時、サトルは動いた。
 自分に触れようとした彼女の手を、力一杯叩いたのだ。
 彼は一瞬たりとも彼女を見なかったし、俺も見なかった。自分が動かない限り硬直状態は続くのだと悟り、静かに立ち上がって家の中に入って行くまで一度も。
 サトルが家に入ると彼女は俺から逃げるようにドアノブを握る。俺はその背中に声をかけてみる。
「大丈夫ですか?」
 彼女は困惑した面持ちで、少しだけ振り返る。
「ちょっと興奮しちゃったんですよね? もう落ち着いたかな?」
 できるだけ柔らかく、先程と同じように、別に咎めるつもりはありません、言い争うつもりもありません、という声をだす。
 彼女は少しだけ警戒心を解き、小さく頷く。
「サトルのお姉さん?」
「……そうですけど」
 彼女の声には多少の怯えとそれを隠そうとする険しさがある。この人はいつもこんな声を出すのかもしれない。
「俺は隣のもんです。深海って言います。よろしく哀愁のよーろっぱ」
 明るく言いつつ手を差し伸べてみると、彼女は少し体をこちらに向けて意外にも俺の手を握り返してきた。
 だから俺は彼女の手に訴えかける。
 力を分け与える。
 彼女は不思議そうに俺の手を凝視した後に、人が変わったように俺に話を始めた。
 話の内容は最初こそ、夜分遅くに少し騒々しくしてしまう時があって申し訳ないという極めて分かりやすい内容であったが、暫くすると、俺の方をしっかり向き合うわけでもない微妙な態勢のままで視線を落とし、彼女は先程のように自分の不幸をブチ撒け始めた。
 自分は子供の頃からいかに恵まれていなかったか。母親は自分に何もしてくれなかった、何も買ってはくれなかった。恐ろしく貧乏で、自分はいつも習字道具さえ近所のお姉さんのお下がりを使わなくてはならず恥ずかしい思いをしていた。母親はちょくちょく男を変えた。それなのに母親は自分に厳しかった。今も家に金を入れなくてはならないから、一人暮らしもできない。大学の費用も半分しか払ってくれない。自分は金がいるのに、母親はそれを理解してくれない。半年前にようやく彼氏ができたのに、最近別れてしまった。アルバイトばかりしていて彼氏をおろそかにしてしまったからに違いない。自分は友人に恵まれていない。バイト先の人にも嫌われている。自分は何も悪くない。自分は常に人より不幸だ。
 俺はこの人の名前も知らないのに、この人は別に聞きたくもない不幸話を機関銃のように勝手に喋り続けた。
「私はいつも人より辛い人生を送ってきた」
 絶え間なく不幸話を語り終えた後、彼女は、今度は何故だかそれを勝ち誇ったように言った。世界苦労選手権があれば自分は真っ先に日本代表に選ばれるだろうと思っているような顔で、しかも『あなたにはこのような苦労は絶対に分からないでしょうけど』とでも言い足したいような勢いで。
 俺は彼女が愚痴をこぼし続けている間中、ずっと簡潔な相槌を打っていた。NHKの集金のおじさん相手でも、それが自分を責めないと分かった途端に、同じように自分の不幸をこれでもかと語りだしそうな彼女の話を、かなり辛抱強く聞いていたと思う。
「誰も私の味方になってくれない。いつもいつも孤独。私が悪いの? どこが悪いの?」
 彼女は訊ねながら挑んでくる。だから俺は答えない。万が一俺が正しく答えたとしても、彼女はきっとそれを認めない。
 彼女は続ける。
「毎日毎日辛い夢の中を延々と彷徨っている感じがする。終わって欲しいと願ってもどうせこの夢は終わらない。誰も優しくしてくれない夢。誰も私を理解しないし、誰も私を見ない。私という存在を見てくれない。どうせ私は誰にも分かってもらえない。幸福な人間には私の孤独が分からないのよ」
 俺は相槌を打たない。すると彼女は、俺の方を向いているのか自分の家のドアの方を向いているのか分からない状態のまま、不安そうに目を泳がせる。それから体を小刻みにゆらす。
 彼女は俺が何かを言うのを暫く待っていたが、我慢ができずにまた口を開く。
「ロシアかどこかの……とにかく物凄く寒い地方の荒野にある大きな古ぼけた建物の前にいるの」
 今までの常に誰かを責め続けていた口調とは違い、それは小さく弱々しく、頼りないものだった。否定されたり咎められたり嫌な態度を取られたり、もしかしたら聞き返されることにすら怯えているように聞こえた。
「うん」
 俺は丁寧に相槌を打つ。
 彼女は迷い、怯え、戸惑い、そしてまた口を開く。
「その建物は昔の死刑場のようなところで、ただひたすらに広くて、周りをぐるっととても高くて古い威圧的な塀に囲まれているの。私はその死刑場の門の前に立っている。みすぼらしい格好をしていて、コートも羽織ってない。靴は黒い革靴だけど、履き心地が悪くて足が痛い。私は死刑場の門の側にあるバス停に行ったんだけど、もう廃線になっているみたいでバスなんか来やしない。風が冷たくて体が痛いのに、ひとっこひとりいない。誰もいない。車も通らない。鳥もいない。虫もいない。荒野には、死刑場と、塀と、廃線になったバス停と、乾燥した土があるだけ。私はひとりで……」
 彼女のバッグの中で携帯が鳴った。メールだったようで、その音はすぐに止まる。
 俺は続きを待つ。彼女は携帯には手を伸ばさず、体を小刻みにゆすって自分のタイミングで続きを口にする。
「私はひとりで……極寒の中、バスを待つ。来ないバスを。もう誰も使わないバス停で」
 彼女は最後に自分の非礼を……多分それはほぼ初対面の相手に一方的に自分が恨み言をブチ撒けまくったことだろうけど……とても小さな声で詫び、それから逃げるように自分の家に入って行った。

 俺は彼女がドアの向こうに消えるまでその後姿を見守り、それから自分の家に帰った。
 冷蔵庫からビールを取り出して、買い置きしていたハムとキュウリにマヨネーズをつけてツマミにし、ゆっくりと時間をかけてそれらを腹におさめた。死んだ貝のように隙間なく思考は閉ざされ、なにをしようにも頭が上手く動かなかった。嫌な疲れ方をしたんだと感じた。
 夜遅くなってからシャワーを浴び、ベッドに入る前に日記を書く。書き終えてから最後に箇条書きをする。
■何か悪いことが重なると、面倒くさくなる。多分、注意しなければならないのは悪いことが重なることじゃなくて、面倒くさくなること。
■永司は俺の決定を尊重してくれるが、自分の決定は変えない。多くの場合永司の決定は、永司が勝手に、俺に何の相談もなく、どこかで厳密に断固として行われる。
■極寒の中で来ないバスを待つ人と、雨の日のプラットホームで電車を待ち続け、臨時特急列車に飛び乗った人。

 日記を書き終えると永司に電話をし、おやすみを言う。永司は低い声でおやすみと返す。電話を切り、誰もいない部屋で俺は眠ろうとする。
 目を閉じた時に、俺はサトルの姉のことを思い出し、そして気付く。
 彼女もまた、サトルと同じように最後まで俺を見なかったことを。





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