第5章 良い予感・悪い予感

 人と歩調を合わせることには長けていると思う。誰にでも合わせられるし、角が立たないよう立ち回ることもそれなりに出来ると思う。
 でも永司といる時は自分のペースで歩いてたと思う。相手に合わせることもなければコチラに合わせてもらうこともなかったと、自分では思っている。自分では。
 それがあの時以来狂ってしまった。それは目に見えるほどの明らかな狂いようで、二人三脚なんかしたら確実に一歩目から躓くだろうと、むしろ一歩目の足を上げることすら出来ないだろうと予想されるほど俺達の歩調は揃わない。俺は永司の歩幅とリズムを掴むのに必死だが、当の永司はと言うと、なんだか揃えたいのか乱したいのかすらよく分からないような有様だ。それは水はけの悪いどこかの廃棄処分場やどこかの人里離れた湿地帯を二人で泥まみれになりながらもがいているようなもので、なんだか絶望的。
 ただ俺達にあるのは「一緒にいたい」という想いだけ。それで良いじゃないかと思う俺は、永司の歩調を気にしないことにした。俺が合わせようとしても揃わないなら、永司が俺に合わせれば良い。俺に付いてくれば良い。
 俺は正しい。俺が歩けば永司は付いて来る。俺が「今からエウロパに行く」と言えば永司は宇宙船と宇宙服をどこかから調達してくるだろう。だからそれで良いんだ。
『俺、吟遊詩人になったら一生お前を守るぜ』
 自習の時間、教師が誰も顔を出さないにも関わらず受験生らしい真剣な顔つきと正しさで各々が黙って勉学に励んでいる時、俺は隣の永司に椅子を寄せ手を伸ばしてノートにそう書いた。数日前に本人を目の前に口にした言葉だ。
 吟遊詩人になったら、足元に開いた空洞を覗く永司に歌を聴かせるんだ。永司は振り向くだろう。そして俺を見るだろう。
 そう思うと同時に心の根が揺らぎだす。自分のリズムで歩きたい。自分は間違ってないし自分は永司を懸命に想っている。何が悪い? どこに問題がある? どうしてこんな何でもないことで、何でもない所で急に不安になる? 「分からない」というただそれだけのことが何故こんなにも俺を苦しめるんだ。別にイラつく所じゃないだろう? 情緒不安定。落ち着け、永司はまだ何も言ってない。何も反応してない。ここは笑うところだろ? ニッコリ笑って永司を見れば済むだけ。
 でも俺は永司の顔を見ることが出来ない。
 永司が無表情だったら嫌なんだ。何を考えているか分からない瞳を向けられるのが嫌なんだ。世界の共有って何だ。いやあれはもう終わった話。なかった話。あれを思い出すのは止めよう。
 視線を自分のシャーペンに置いたまま、俺は息を吐く。
 落ち着け。俺は変わらない。根性と気合で永司と生きていく。イラついたらイラついたで大丈夫。
『吟遊詩人になったら守るけど、忍者になったらブン殴ってやる』
 小難しい専門書を読んでいるだけで何も書かれていない永司のノートに、続けてそう書き込む。シャーペンの硬い芯が擦れる音が聞こえた。
 永司の手が動き、シャーペンを握り、それから何気なくクルリとシャーペンを回した。知らないシャーペン回しの技だったので思わずそれに見入った俺を、永司が可笑しそうに見つめた気配を感じた。
 それから、綺麗で整った字で書かれる。
『返り討ちにしてやる。その後何をされるのか予測し、重々考えてから襲ってくるように』
 俺はようやく永司を見る。
 永司は笑っている。目の奥が優しい。
 みんな見てくれ!! 永司が笑ってる!!
 俺はそう叫びそうになる。飛び上がって永司を抱き締めたくなる。太陽の下で嫌がる暁生を胴上げしたくなる。キレそうになってる真田を誉め殺ししたくなる。永司と手を繋いで何かしたい。何でも良い。散歩とか登山とか運動会とかマラソンとか、何でも良い。永司が笑ってる。

「やぁみんな」
 少し前から雨足が弱まり今はもう降っているかいないか分からないくらいになったので、屋上に行ってみんなでズラっと並んで楽しく可笑しく不健康に食後の一服を楽しんでいると、なんとも能天気な声を出しながら英検3級ハーフ川本がやって来た。ここに来る生徒は俺達の他は藍川、楠田、お昼寝しに来る入来、たまーに芳丘聡重とその友達。そのくらいなので、その登場に皆揃って川本を見た。俺もペラペラと喋繰り捲くっていた口を閉じる。
「深海くんを呼びに来たよ。今日は僕と日直だろう?」
 一斉に向けられた好奇の眼差しに動じず、むしろにへらにへらしながら躊躇無く近付き俺の肩に手を乗せる川本は、そのままの格好で砂上に視線を送りあろうことかウィンクをした。
「ウィンクって久々に見たぞ。ウィンクって。ていうか、俺の肩に手を置いて砂上にウィンクするな。このウィンク3級」
 すかさず俺が突っ込む。砂上は慣れているのか適当な、でも結構可愛い砂上らしい愛想笑いをし、真田は憮然としている。暁生と緋澄はすぐさま興味を失い、苅田は何やらにやにやしている。にやにやとにへらにへら対決だな。
「黒板消しやってよ深海くぅん」
「そんなこと言うためにやって来たのかお前。ちょぉっぷちょぉっぷ」
「ゴミ捨ては僕がやったよ」
「でもいつも俺が毎回黒板消ししてるじゃん。ちょぉっぷちょぉっぷ」
「僕はチョークの粉アレルギーなんだよ」
「なにその嘘くさいアレルギー。ちょぉっぷちょぉっぷ」
 笑いながら川本の頭をチョップチョップしていると、今日は随分と機嫌が良いみたいねと砂上に言われた。別にそんなことは、と言いかけたところで、川本からも苅田からも機嫌が良いと言われた。
「そんなことはないですぅ〜!」
 3級にチョップするのを止めて、超可愛い深海ちゃん必殺にっこりん顔を辺り構わず所構わず見境もなく振り撒きつつ隣の永司に何の脈絡なくガバっと抱きついた瞬間、真田に無言でケツを蹴られた。
「ですぅとか言うなテメーはタラちゃんか!」
 暁生もそう言いつつ何故か蹴りを入れてきた。何だか楽しかったのでゲラゲラと笑うと、真田が飛び蹴りをかましてきたので、俺を庇った永司と一緒に屋上の水溜りに盛大に突っ込んでしまった。
 俺は笑い転げ続け、永司は真田と無言で喧嘩を始め、3級川本は砂上を口説き始め、緋澄は俺の隣で首を傾げながら正座を始め、苅田と暁生はいつの間にか幼稚園児の頃の話を蒸し返して諍いを始め、とにかくよく分からないけど混沌とした世界になってきてそのまま午後の授業が始まるまで皆で屋上にいた。
 そして予鈴が鳴る頃になると、どういうわけか「川本は昔から次から次へとのべつ幕なし日がな一日、とにかく色んな女にラブレターを書いている恋文職人」ということで満場一致になり、それから今日は皆で永司のマンションに遊びに行くことになっていた。

 午後の授業が始まると、ノートを取りながら永司が見せたシャーペン回し技の会得に勤しんだ。一時間に7回くらいシャーペンが飛んで行った。コソコソ拾うのが面白かった。それから何度も前の川本を覗き込んだ。川本も一応真面目にノートを取ってはいたものの、女子中学生が好みそうな薄いピンクのファンシーな便箋に女子小学生が好みそうなシールをペタペタとそこらじゅうに貼り付け、そこに女子高校生が好みそうな細い紫のペンで何かを書いていた。
『To Dear Kiyo Sazyo 先ほどはI enjoyed it。next timeは二人だけでmeatしたいな。Of course、君が望むなら君の友達全員welcomeだよ!?』
 ここまで読めた。とりあえず、二人だけで肉したいとはどういう意味だろうか。焼肉屋に行きたいとか、そういう意味だろうか。

 川本の「二人だけでmeatしたい」を見たら、なんだか無性に肉が喰いたくなったので、夕飯は皆で永司のマンションの近くにある焼肉屋に行った。
 お泊りセットを持ってわざわざ焼肉屋用の服に着替えて来た砂上が合流した頃には、皆それぞれビールを飲み、霜降和牛上ロース(たれ)と骨付きカルビとレバーがなくなった辺りで、つまりは徐々に調子が出てくる気配があった。
「お前なに飲む?」
 声をかけると砂上が網の上で焼けている肉を凝視しつつ、己の食欲と理性で壮絶なバトルを繰り広げている。俺は砂上は太ってないと思ってる。苅田だって砂上のスタイルの良さは常に誉めている。にも関わらず、砂上は常に体重を気にする。
「あ、ちょっとスンマセン。ユッケと特上塩タン追加で」
「今と同じロース。それとハラミ」
「砂肝」
「私はミノ、テールを追加だ」
 通りすがった店員を暁生が呼び止めると皆で次々と追加の品を口にする。俺もハツとトントロを頼む。
「焼酎ロック。自分で割るから水は分けて持って来てください。あと、ササミと海鮮盛り合わせ」
 砂上が覚悟を決めたようだ。
 この焼肉屋は可もなく不可もない佇まいで、肉の質もそれと同様だった。人数も多いので奥座敷に案内されたのだが、水もオシボリも来るのが遅く、ハズレかなと不安にはなったもののビールはすぐ来たしジョッキはキンキンに冷やしているし、ビールのつまみのチャンジャがやたらと美味かった。
「緋澄、お前食ってるだけじゃねぇか。俺はお前の母ちゃんじゃねぇんだから自分で焼けや」
 緋澄の隣に座ってしまった暁生がブツクサ言いながら緋澄の分も肉を焼いている。一人で豆腐サラダの器を抱え込んで食べていた緋澄がそれを受け、反省したのかどうか知らんが焼き野菜をガバっと網の上にブチ撒ける。
 成長期真っ只中の青年が四人に性別不明なのが二人、それに覚悟を決めた砂上が加わり、皆で仲良く罵り合い毒突き罵詈雑言を並べて、楽しく焼肉だ。
「つまりね、俺が言いたいことは、」
 そう言いながら焼けた肉を永司の皿にやり、半分焼けた肉を引っ繰り返そうと持ち上げた時に緋澄が真田のミノと苅田のロースの皿を両手で持ち上げ、惜しげもなく空気も読まず順序も加減もなく、一気に網の上にブチ撒けた。
「あああああッ!!!!」
 一斉に非難と悲鳴と驚きの声を上げたが、緋澄は何事も無かったかのように豆腐サラダの器をまた抱え込んで食べようとしている。
「つまりだね、俺がここで出刃包丁持って手首に当てて、お前等の目の前でゆっくり引いたら、お前等……ちょっとテメーら人の話聞けや!」
 皆は緋澄がやらかした肉を処理し、俺は恐らく焼肉屋に来店したことがないと思われる永司の世話をしながら一人で勝手に演説をし、皆で思う存分飲み食いし、そのうち酒が回った暁生が勝手に全裸になって何故か勝手に「恥ずかしい」と喚きながらおしぼりをチンコに巻いたりして正に宴たけなわ寸前。となった状態でまた緋澄が暁生が注文したユッケをガバっと網にブチ撒けた。
「ああああああああああッ!!!」
 暁生チームの網は緋澄のせいですんげー汚い。暁生は半べそをかきながらチンコにオシボリを巻いたまま網の上にブチ撒けられたユッケを処理している。
「つまり俺が言いたいことはですね!」
 アルコールが入ってるからか、俺はやけに饒舌になっている。
 永司は何も注文しないので、ビビンバとクッパを勝手に頼んで勝手に半分づつ食べることにした。暁生は再びユッケを注文する。
「私はヒジキが嫌いだ!」
 永司の食べていたビビンバを横取りして食べていると、真田が声をかけてきた。
「了解、お前の気持ちは分かった。来世では上手くやっていこうぜっ」
「そのホーミング食べかけビビンバちょっとくれ」
「俺の食いかけのハツやるよ」
 惜しげもなく高級な肉が我々の胃の中に入っていく。ひっくり返そうとすると緋澄が今度は生レバーをブチ撒けようとした。
「落ち着いて聞いてくれ緋澄! これはわんこそばじゃねぇんだ!」
 緋澄にユッケを焼かれないように必死にその皿を抱えて喰っていた暁生が、嘆願するようにそう叫んだ。 

 焼肉屋を出ると途中コンビニで買い物をし、雨の中を歩いて永司のマンションに向かった。
 永司のマンションに行くのはちょっと久しぶりだったけれども、俺の予想ではそこは何も変わっていないはずだ。俺が残したままのコップや皿なんかがキチンと並べられていて、俺が置いていったプラモや服や下着なんかも何も変わらずそこにあって、永司は何も足してはいないし、勿論引いてもいないはず。煙草のストックは常に余裕があって、シンプルでありながらどこか小洒落た木製CDラックには永司のほんの少しのCDの他は全部俺のもので占められているはず。冷蔵庫には俺を待っているビールと麦茶。そして猫がいる。そうだ。俺がここで暮らしていた時と唯一違う点は、子猫がいることだ。
 エントランスからエレベーターに乗って共同廊下から永司の部屋の前に立つ。
 永司が鍵を開け、中に入る。
 猫を溺愛している暁生が永司より先に靴を脱ぎ散らかして勝手知ったると言ったふうにズカズカと部屋に入ると、永司と砂上がそれに続き、そして俺も玄関に足を踏み入れた。
 ただいま、と、言おうと思っていた。
 それなのに、その言葉は出なかった。
 俺はそのあまりに不可解な違和感に、片足を玄関に踏み入れ、片足を共同廊下に残したまま暫く動けなかった。苅田と緋澄が少し不思議そうな顔をしながら俺の横を通り抜け、部屋に入っていく。そして最後に真田が来る。
 真田も同じく、全く同じく、片足を共同廊下に残したまま体をピタリと止めた。
「なんだこれ?」
 俺は隣の真田に小さく問う。真田は辺りを見回すと一度戻り、再度玄関に入ったが、結局先程と同じように足を踏み入れた瞬間に体を止めた。不思議そうに、さっきと同じく辺り見回している。
 何だか酷く嫌な予感がした。
 永司は知らない間に残虐非道な殺人鬼になっていて、どこかから人間……いや命ある様々な生き物を攫って来ては想像を絶する拷問にかけて殺しているような、そんな気味の悪い妄想に取り付かれた。気配はない。「良くないもののあらゆる痕跡」は、神経質な殺人者によって隅々まで消去されているような感じ。だがそこに「あったのかもしれない気配」は、俺に関係あるもののような気がしてならなかった。
 真田は最初だけ多少戸惑いを見せたものの、すんなりと靴を脱いで部屋に上がった。それからずっとそこに突っ立っている俺を振り返り、俺の問いにあまり緊張感のない顔で首を傾げてそれを答えとし、リビングに入って行った。
 俺は無駄に神経質になっているのかもしれない。気分を変えるために必要以上に丁寧に靴を脱ぎ、皆の右足と左足の靴が全てバラバラになるように慎重に並び替えてからリビングへ向かった。
 何も変わっていない日常がそこにはあった。猫と遊びだした暁生と、勝手にゲームを始めた苅田と真田と、お泊りセットを片手に勝手にシャワーを浴びに浴室に入った砂上。永司と緋澄はソファーに座ってくつろいでいる。
 俺が先程感じた違和感を払拭するように元気良く永司の膝の上に向き合って座ると仔猫がはしゃぎながら俺の背中に飛びつき、真田が俺に投げつけたゲームのコントローラーが仔猫と俺の背中と仔猫に触ろうとした緋澄の手に当り、すぐにリビングは騒然となる。しかし砂上がシャワーを浴び終えて出てきた頃には、各自好きな格好で好きなことをしつつビールを飲んでいるのだ。
 楽しい。
 各々が好き勝手な格好をして好き勝手なことをしているだけだけど、何の纏まりもなくとっ散らかっているけれど、このメンバーでゴロゴロしているのはとても楽しかった。
 夜少し遅い時間に始まるスポーツニュース番組を見ながら、今日のプロ野球の結果についてバーボンや焼酎やビール片手にアレコレと苅田と真田と俺で感想を言い合う。
「そう言えば中学ん時の友人で、カナヅチだからってプールの授業を絶対に受けない西武ライオンズファンの男がいた。ソイツはプールには入らないけど自分も体育には参加しているんだってアピールするために、毎時間プールサイドの強い日差しの下でライオンズのスタメンを真剣に考え、紙に書いて先生に渡してた。よく分かんねーけど、とにかく立派な授業のサボリ方をしていると俺は思ってたな」
 ぬるくなったビールの残りを量るために缶を軽く振りながらそう呟く。コイツは凄い技を発見した天才なんじゃないかと当時は真剣に感心したものだ。
「教師はそれを許してたのか?」
 苅田がテレビのリモコンを手にして、音量を調整しながら訊ねる。
「あのセンセーはライオンズの熱狂的なファンだったんだ。ソイツの考えるスタメンの出来が良いから結構楽しみにしてた。そういえばアイツは、数学のテストも一軍メンバーの打率や傾向を綺麗に纏めて書いて提出してた」
「数学の教師もライオンズファンだったってオチ?」
「うん。かなりの」
「その頃深海ちゃんはライオンズの本拠地に住んでたのか?」
「いや福島。磐梯山の近く」
 俺がそう答えると、今日は…というか今はご機嫌らしい真田が会津民謡の会津磐梯山を唄いだす。コイツの声は掛け値なしで日本一なので、機嫌が良いのか久々にその声を披露してくれて嬉しい。唄が終わると俺は自分の小噺のまとめに入る。
「アイツには西武ライオンズの神様がついてるんだ。ライオンズの神様に守られて学校生活を送ってるんだ。多分、今もね」
 相当カッコよくキメたはずなのに、一同は分かった分かってないのか分からないような、多分ただ適当に聞いていたんだろうけど間の抜けた返事をした。ふーんとか、へ〜とか、そんな感じの。俺は一番真っ当なリアクションをしてくれそうな砂上に顔を向ける。焼肉屋からの帰りにコンビニで買ったトコロテンを一人で食べていた砂上は俺と目を合わすとニッコリと嘘くさい微笑みを見せ、またトコロテンを食べだした。
 期待はせずに隣の永司に視線をやる。
「うん」
 一応真面目に返事はしてくれたものの、最も適していただろうと思われるタイミングを大きく外していたのでそれは励ますような相槌とはとても言えず、会話をキャッチボールに例えるとそれはただのすっぽ抜けた球だった。
 とりあえず永司にチョップチョップをしておく。
「緋澄君は女子に守られてるわよ」
 トコロテンを食べ、会話には参加する素振りを見せなかった砂上が、トコロテンを置き代わりに片手に烏龍茶を持って口を挟む。
「それは俺も知ってる」
 俺も見た。二年の時に散々見た。授業中に居眠りばかりする緋澄を数学の藤沢が叱ろうとしても、女子からの強烈な反撃に遭っていた。
「センセー! 緋澄君はしょうがないんです!!」
 俺と砂上が声を合わせて言う。当事者である緋澄以外がクスクスと笑う。永司も笑ってる。あ、なんか珍しい感じ。
 砂上は続ける。
「昔からそうだった。女子に守られて学校生活を送ってる。授業に参加しなくても、寝てても、ぼーっと窓の外を見てても、図工の時間に絵を描かなくても」
 西部ライオンズの神様に守られている男と、女子に守られている男。良いな。俺も数学の藤沢に苛められないようにと、体育の神様かなんかかが守ってくれると嬉しいのだが。
 そのまま話は膨らみ、著しく脱線し、変形し、合体し、解体され、しまいに暁生が仔猫を胸に抱きながら「まるパンは俺の娘だ!」と叫び、暁生が今まで俺達がどうせまた文句を言うからという理由でひた隠しにしていた仔猫の名前を暴露。後は皆で「まるぱん祭り」になった。

 朝方になると流石に皆眠りについた。
 眠れない俺は永司をずっと眺めていた。
 今日は良い日だった。永司は笑い、今も俺の側で自然に眠りに落ちた。何よりもそれが嬉しい。俺の隣で、自然に眠りに落ちたことが。
 良い予感がする。
 しかし、俺がここに来た時の違和感は今もほんの少しだけ残っていて、しかも俺はその違和感の正体に気付いている。永司が眠る時にそれに気付いたんだ。
 それは、ズレだった。
 岬杜永司が暮らすこの区画は、ズレている。ほんの僅か、ほんの数ミリほど、現実から、もしくは世界からズレている。
 それは痕跡のようだった。
 ここで何かがあった。ここで【何かがあった】もしくは【何かが起こった】ので、ここは半ミリほどズレた世界になった。
 このズレは次第に消えて行き、やがて元々あった世界の窪みにピッタリと嵌るのだろう。
 悪い予感がする。
 世界がズレるほどの【大きな何かが起こった】ということが、俺を怯えさせる。





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