第4章 失う時間はいつもある・彼はライ麦畑を走り出す

 梅雨時には毎年うんざりさせられる。だけど俺は元気に学校へ行き、出来るだけ勉強し、元気にメシを食った。雨は止まず空はいつも誰か多くの人々に圧力をかけているようで、時折やけに肌寒いし、それに靴はいつもビショ濡れだけど、俺は音楽を聴き、永司に語りかけ、日記を書き続けた。
 久々に太陽が現れた日、学校をサボって永司とデートをした。
 紫陽花で有名な近所の公園に行って、花々の観察をしながらぶらぶらと散歩をする。平日の昼間とあって人の姿は少なく、俺達は楽しく健康的に久しぶりの日の光を味わうことができた。
 永司の手を握る。園内の人気のない一画のベンチに座って、コンビニで買ったビールを飲む。永司の身体に触れる。凭れ掛かる。膝枕をしてもらう。頬を撫でてもらう。少し二人で昼寝をする。目覚めるとまた二人で公園の散策にでかける。
 木々はどれも広々と葉を伸ばし幸福感を味わうように日光を浴びていて、鳥達もずっと姿を見せなかった昆虫達も、のんびりと午後の時間を過ごしていた。紫陽花ばかりが並ぶ小道に入ると、暫しそれを二人で慈しむ。綺麗に咲いた紫陽花はどれも大きくて美しいけれど、控えめな花の色のせいかそれは決して積極的な美しさじゃない。そういうものを愛でるのは好きだ。
 俺達は紫陽花に囲まれながら、隣の子とのじゃんけんのことや、こんぺいとうの仔猫の話をした。時間はゆっくりと流れていて、大きな紫陽花の葉の影にカタツムリが寝ているのが見えた。
 全ての色がやけに鮮明に目に映っていた。緑はより緑に、空はより空の色を発色している。
「ずっと気になってることがあるんだ。ある子供と、その子に忠告された言葉」
 永司と向き合う。永司は足を止めて小さく頷いた。
 それから俺は出来るだけ丁寧に――あの子供――カタツムリを踏み潰す子供の話をした。永司にあの子供の話をするのは始めてだった。俺自身あまり彼の話は他人にしたくなかったし、何故だか特に永司にはしたくなかったのだが、俺は永司に話をした。彼の声はどれだけ苦痛を与えても死ねないようになっている拷問用の錐のように俺の頭をギリギリと音を立てて突き刺すので、彼が語ったことの全てを記憶できていない上に、俺は彼の言葉の幾つか重要な部分を失っている。以前ははっきりと覚えていたのに、だ。だから全てを失う前に永司に言う。あの忠告を言わなくちゃならない気がする。
 永司は黙って俺の言葉に耳を傾けていた。真剣に聞いているようで、どこか無表情だった。
 俺は彼と始めて出会った時のことを思い出す。カタツムリの殻、ウサギの悲鳴。そして、彼の忠告を思い出す。そして話す。

 ずっと気になっていること。
「【世界の共有】と彼は言った」
 俺はそれを口にする。世界の共有。
 その瞳に僅かな波紋が見え、俺は永司の瞳から視線を逸らさず瞬時にその手を握り締める。

『逃がしちゃいけない』

 遠くから自分の声がする。そう、ここは逃がしちゃいけない、絶対に必要な部分。
 潜れ。沈んで行け。掴め。
 
 何を思った? 今お前は何を感じた? 何を考えた? 何が頭に浮かんだんだ?

 だが何も分からない。
 何故なら永司がそれを隠すから。
「どうすりゃ良いんだ」
 グラリと足元が揺らぎ、自分では制御できない部分が唐突に崩壊する。俺は自分の言葉の意味も分からないまま酷く泣きそうになった。自分でも驚くほどそれは不意に起こった。
 全ては一瞬の事で、全ては俺の意識とは関係ない漠然としたどこかで行われ、俺はただその結果として泣きそうになっている。
「あ、違う。間違えた」
 また自分でも分かんないこと言ってる。永司の手を離して急いで俯き自分の顔を両手で覆う。自分がいかにも情けない顔をしている。多分猿みたいな顔。醜い酷い顔。そうじゃないだろう、こうじゃないだろう。分かってる、分かってる、大丈夫。
 両手を降ろし、一息吐いて永司の顔を見上げる。
「ごめん」
 永司は何も言わない。表情も崩さない。どうしてか分からない。
「とにかく世界の共有について考えなくちゃならないって言われたんだ。それは多分、お前に関係していることで。だから俺はそれについて考えなきゃいけないんだけど」
 動悸がする。意味もなく手が震えている。まだ何か自分じゃ分からないことに対して俺は動揺しているんだ。大きく息を吐いて永司の肩に頭を寄せた。永司は大きくて美しい手で俺の髪を撫でてくれる。紫陽花は静かにそこに佇んで俺たちを囲んでいた。

 暫くそうしていると、気分が落ち着いた。それと同時に、今の出来事が全部夢だったような気分にもなった。俺は子供の話をしていないし、永司も聞いてない。その時間は切り取られて、なかったことになっているような気がした。だから俺はそれを口にする気にはなれない。大切であればあるほど、それはいつも何故か上手く伝えられない気がする。


 デートの帰りに、街中から少し外れた場所にあるイタリアンレストランで夕飯を食べた。俺が渡り蟹のリングイネが食べたいと言ったら永司が連れて行ってくれたのだ。メシは美味かったし、店は静かで上品だったし、元から少ない永司の口数が更に減ったこと以外は文句はなかった。
 店を出て駅に向かうと、幾人かのアルコール臭いサラリーマンと擦れ違う。今日という一日が終わろうとしているのだ。
 二人で歩きながら俺は鼻歌を歌った。街はいつも饒舌だけど永司は寡黙だ。そして俺は歌を歌う。
 歩いていると、雑貨ビルの下で何やら罵声が聞こえた。見てみると、どう頑張ってもお人よしには見えない若い男が、中国系の若い女を殴っているところだった。こういうのはたまに見る。俺は彼等の隣まで行くと、手拍子を打ちながら「毒キノコな彼女」を歌ってみせた。

オレンジ色に白の水玉 毒キノコな彼女ぉ
俺の友達にマニキュア塗るのさ、お喋りな彼女ぉ
昨日の衣装は深海生物 今日の衣装は紅白歌合戦 明日の衣装はジャングルの昆虫さ
とりあえず俺の友達は男だぞ!
毒持っていそうな衣装ぉ 毒キノコな彼女ぉ

 歌が終わると両手を挙げて拍手を求める。ポカンとした顔をして足を止めた通行人達が、何だか分からない顔をしたままそれでも笑って拍手をしてくれた。お人よしに見えない男もポカンとした顔をして俺の顔を見ていた。俺は男に必殺の笑顔を向け「ワンスモぁ?」と話しかけたのだが、男は女の服を握ったまま縦にも横にも振らなかった。男の気がそがれたようなので、俺はまた鼻歌交じりで永司と一緒に駅に向かって歩きだした。
「俺、吟遊詩人になったら一生お前を守るぜ」
 と、俺は言う。最近までは召還士や黒魔道士になりたかったけど、今は吟遊詩人が一番カッコイイと思った。でも永司は少し笑みを見せただけで何も言わなかった。
 駅で永司と別れ、家に帰ると今日あったことを日記に書いた。瞬間的に自分を襲った理由が分からない動揺のことも書いた。なんであんなふうに泣きそうになってしまったのか分からない。だって永司は隠しているんだ。あの日からいつも何か隠している。今更衝撃を受けることじゃないんだ。
 日記の最後に箇条書きをする。
■失う時間はいつもある
■焦らない
■大丈夫

 次の日も天気は良く、それは数日続いた。梅雨の中休みに入ったのだろう。カビが生えて世界が堀田の毒キノコになってしまいそうだったので、太陽が現れることは色んな意味でとても良いことだった。なにせ太陽につられて暁生と真田が帰って来る。太陽が復活したのは俺のおかげだと言い回る暁生に、お前はアメノウズメかと突っ込みを入れながら楽しい時間を過ごす。屋上へ出ていつものメンバーで煙草を吸い、暁生と二人で「全校生徒の前でバンド演奏」という妄想を繰り広げて屋上でシャウトしまくる。俺は伸び伸びとした健康な男子高校生そのものだった。
 明日からまた天気が崩れますよーと朝の天気予報のお兄さんが言っていた日の昼休み、皆でいつものようにダラダラゴロゴロしていると、たまたま子供の頃の話になった。
「苅田がエバってんのは、子供の頃秘密基地作るの上手かったから。そんだけの理由!」
 暁生が思い出したかのようにこの前の同じことを叫ぶ。よっぽど苅田の秘密基地が印象に残っているのだろう。
 それから各々が小さかった頃の話をする。
 砂上曰く、暁生は幼稚舎にいた頃当時流行っていた長髪ワルダー戦隊隊長の真似をして二階から外に飛び出して大怪我をし、更に回復した後すぐにまた同じ過ちを犯し、母親達から「南君はちょっとアレだから一緒に遊ぶ時は気をつけましょう警報」が発令されるほどだったとのこと。苅田に関しては不思議と高二になるまで一緒のクラスになったことはなく、良く分からないのだがとにかく目立っていたとのこと。緋澄に関しては今と何も変わらないとのこと。そして自分は、今も昔も清く正しく永遠の処女であり続けると誰もそんなこと聞いてないのに勝手に宣言。
 真田曰く、自分は中学の時の教頭に飛び蹴りをかました勇者であるとのこと。幼稚園には行ってないので集団生活は小学校からだとのこと。また、喧嘩で武器を使うようになったのも小学生からだとのこと。
 俺曰く、近所のマダム連中からはそこらのアイドル以上の扱いだったこと。引越しが多かったので記憶が混乱していること。とても良い子だったし、笑うとキュートだし、分数の足し算が出来なくても許されるし、人気者だし、運動神経は良いし、自分は天使の――ここで皆に遮られた。
 話は続く。
 緋澄曰く、良く覚えてないとのこと。この前の麻婆豆腐は美味かったとのこと。
 暁生曰く、自分は天才で王様だったとのこと。苅田とは幼稚舎から一緒で昔からよく喧嘩したが、自分は一度たりとも負けたことはないとのこと。苅田は昔から威張っていて、幼稚舎で飼ってたウサギの世話を一度もせず、にも関わらず自分の家で飼っているやたら凶暴な大型犬の世話はよくしていたとのこと。子供の頃はヤクルトが飲めなくて笑ってやったらブン殴ってきやがった、とのこと。緋澄に関しては女みたいな奴だったとのこと。砂上に関しては、ソツがなく一切の弱みを見せず計算高い女のようで嫌いだったとのこと。
 苅田曰く、砂上は中等部に入った頃には既に乳がデカかったとのこと。口説くチャンスを窺っていたが男っ気もなければ隙もなく、結局去年同じクラスになってようやく口説いたとのこと。抱きたいので気が向いたら電話しろとのこと。緋澄に関しては、昔はよく俯いていて、綺麗だったが常に女子に囲まれていた印象が強いとのこと。暁生に関しては、
「俺に殴られてしょっちゅう泣いてた」
「泣いてないッ!!」
 暁生が顔を真っ赤にして立ち上がる。
「そう言えば飼ってたウサギが死んだ時、暁生君が号泣しながら幼稚舎中を駆け巡って確かそのまま帰っちゃって更に行方不明になって大騒ぎになった記憶が」
 砂上の呟きに暁生は言葉を詰まらせる。そんなチッコイ頃だ、そりゃ泣いても恥ずかしい話じゃないが、何故行方不明になるのだろう。
「でも俺は、苅田に喧嘩で負けたことはない」
「そりゃお前、どんだけ殴っても泣かせてもオメェが、俺的には負けてないから負けじゃないって言い張ってただけだろうが」
 苅田の言葉に俺は笑う。暁生サイコー。すげかわいー。
 予鈴が鳴ったのでケタケタと皆で暁生を笑いながら立ち上がり歩いていく。その間ずっと暁生は憤慨していたので、これから一週間は暁生の言動に注意が必要だと思われる。俺のよく行く公園の砂場にデッカイ落とし穴なんかを作られるかもしれないからだ。

 梅雨の中休みが終わると厚い雲が頭上に広がり、またしょぼしょぼと雨が降り出した。気分を変えようと子供のようにオメメが可愛いキリンさんの黄色い長靴を履いてポンチョを着て学校に行ったら、皆に笑われた。自分で言うのもなんだが、この格好の俺はとても可愛い。あまりにもキュートなのでか知らんが、今日の登下校は誰かに見られている気がした。ストーカーは永司だけで十分なのに。
 学校から帰ると隣の子と一緒にオヤツを食べながらお喋りをする。最近はもうすっかり日課となっているし、少年も俺と喋るのが楽しくてしょうがないといった感じだ。
「で、倒れるたびに僕が、せんせー、吉田くんがたおれましたーって言うの」
「吉田君が倒れたことを先生に伝える役目なわけだ」
「うん。もう吉田君がくらくらし始めたら言う準備するんだ」
 彼は俺が買ってきたカレーパンを貪りつつ、クラスの病弱な吉田君について語ってくれていた。最近出来たばかりの近所の新しいスーパーの中にパン屋があり、彼はここのカレーパンが大好きだ。確かに美味いので俺も大好きだ。だからこうして洗濯機を挟み二人で食べる。
 食べ終わると丁度、「吉田君が全校集会の度に如何にパタパタと倒れるかについて」の話が終わったので、今度はお茶を飲みながら学校の七不思議について語ってくれた。よくある話だ。
 体育館に不思議な通路がある・夜中に音楽室のベートーベンの肖像がニヤニヤする・トイレに花子さんがいる・学校には昔人体模型があったけど、それは本当は死体だったことが判明して理科の先生が逮捕された・階段の数を数えると毎回数が違う・4月4日の4時4分に4年4組に入ると、死んでしまう・彼の学校の校長先生は、前の校長先生もその前の校長先生もその前の校長先生も、ずっと前から今の校長先生まで、みんなジ・アルフィーのファン。
 彼はかなり興奮しながらそれらを教えてくれた。一部妙なのも混じっているが、まぁ彼の小学校ではそれが七不思議なのだそうだ。
「こんなの信じてるヤツなんていないね! ぜったいウソに決まってるし!」
 彼は興奮した口調で言う。
 そして興奮ついでに怪談話に突入した。子供は基本的に怖い話が大好きだ。大好きだが、子供は得てして話す最中に自分で怖くなってくるお間抜けパターンに陥りやすいので、そこはコッチが注意しなくてはならない。たまに茶化して話題を変えようと思うのだが、残念なことに少年は怪談に夢中になっていて誘導出来ない。
「ユーレイなんていないよね?」
 辺りはもう暗くなっていた。楽しくお喋りしている時には何も思わない雨音も、一度意識してしまうとやけに気味が悪く聴こえるもので、多分それに意識を囚われた彼が意識的に明るい声を出し同意を求めてくる。
 馬鹿だなぁと思ってクスクス笑うと、今度は少し怯えた声で訊いて来る。
「ユウレイって本当にいるの?」
「噂では実在するらしい」
「うそ!」
「モンゴルの奥地に満月の晩だけ現れるんだ」
「あ……うん…モンゴルって何県にあんの?」
 我慢出来ずに爆笑すると、からかわれたと分かった少年が洗濯機を叩き物音を立てつつ抗議してくる。騙されてやんの〜と笑い飛ばしてやり、こちらも負けじと洗濯機をコツコツ叩く。
 二人でそうしていると、誰かが階段を上がってきた。
 少年のお姉さん…らしき人だ。今日も痩せこけた鳥を連想させる彼女は、挨拶する俺を完全に無視して前を通り過ぎる。少年のランドセルの音がした。彼女に蹴られたか。
「アンタお風呂の用意した?」
 彼女が質問、いや詰問する。少年が返事をしないと彼女は忌々しそうに舌打ちし、「アンタの仕事じゃない」と小言を口にしながら家に入っていった。
 鞄を手にして立ち上がると、少年もまた同様にランドセルを手に立ち上がったところだった。
「サトル、早くお風呂の用意してよ!」
 女の一番醜い声が少年の家の中から聞こえてくる。少年は顔を顰め、先ほどの彼女のように、いや先程の彼女を真似……いや、まるで先程の彼女に報復するかのように舌打ちした。それは【とても強く】俺の胸に焼きつく。
 少年と目が合った。彼の髪に触れたことはある。だが小さく膝を抱える彼は顔を上げたことはなかった。洗濯機を挟んで会話をし、手を伸ばして彼の教科書やパンをやり取りしてきた俺達は、今初めて互いの視線を合わせた。
 彼の瞳には感情がなく、無口な動物の目がそこにあった。
「また明日な。明日はクリームパンだからな」
 いつものように声をかけると、彼の目は感情を取り戻し子供らしい笑みを作る。
「オレ、やきそばパンがいい!」
「やきそばパン高いから明日は特売のクリームパンだよ」
 ノブを握ったまま早口で言い合う。なんだ、洗濯機なんてなくても良いじゃないか。これなら彼を家に呼んで二人で遊ぶことも出来るかもしれない。そんなことを思う。
「サトル!早くしなよ!」
 女の声。
 少年が顔を顰める前に声をかける。
「じゃあな、サトル」
 俺は、サラリと口にしたつもりだった。
 だが、彼は瞬く間に表情を変え、強い視線を俺に送った後に無言でドアの向こうに入って行った。
 それは明らかな拒絶だった。
 俺はまだ彼の名を口にしてはいけなかった。彼はそこまで俺を認めていなかった。
 足の踏み入れ方を間違えたのは二度目だ。

 その夜、まだ子供が起きている時間帯に隣の家から激しい物音が聞こえ始めた。何かを壁に投げつけ、何かが壊れる音。何かを破壊する音。途切れ途切れにそれらが聞こえた。
 そして本来なら子供が夢を見る時間、もう一度物音が聴こえ始めた。何かが壊れる音。何かを叩きつける音。女がヒステリックに罵り合うような声。
 そして彼はライ麦畑を走り出す。
 俺は彼が崖から落ちないように見張りだす。





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