第3章 私達のすぐ近くに、息を潜めて

 土曜日、緋澄とラーメンを喰いに行くことになった。
 苅田は学校が終わるや否や最近気に入っているらしい片言の日本語を話すロシア人の女とセックスしに行き、真田と暁生は太陽を復活させる為に祈祷をするとかで昨日から行方不明、砂上は塾で、永司は4限の体育が終わって教室に戻ってきた時点で「仕事に行きますので先に帰ります」と、高校生とは思えない書置きを残していなくなっていた。だから今日はすんなり帰ろうと思っていたのだが、たまたまトイレで目が合った緋澄が開口一番「腹減った」と言うので、ラーメンを喰いに行くことになったのである。
 ラーメン屋は学校近くの「ひょうたん」である。ここのオヤジはデブでハゲで早口で、やたら美味い餃子を作る気の良いオヤジだ。
 緋澄と一緒に何故か俺と同じクラスの堀田と本城も付いてきたので、4人でテーブルを囲み、各自注文をする。俺はギョーザとラーメンとチャーハンの「ひょうたんAセット」、堀田は蟹玉で本城はギョーザと天心飯、緋澄はボケっとしているので俺が勝手に麻婆豆腐を注文する。豆腐だから良いだろう。
 ひょうたんのオヤジがフムフムと頷き注文を取り終え厨房へ戻っていくと、堀田と本城は緋澄の手を取りその爪にマニキュアを塗り始めた。女の子ちゃんという生き物は、たまに予想外のことをする。
「緋澄君を見ているとね、何かしたくなるのよ」
 堀田が楽しそうに目を細めながら、緋澄の細い指に息を吹きかけて言う。本日もオレンジ色に大きな白い水玉模様の変な形をした不思議なワンピースを着ている堀田が、緋澄にどんな奇天烈ネイルアートを施すのか少し不安な俺だったが、堀田が言っているそれは分かる気がする。母性本能じゃなく、着せ替え人形感覚だ。
「緋澄は子供の頃、クラスの女子に色々されたろう?」
 俺が何気なくそう訊ねると、緋澄は小首を傾げたまま固まった。緋澄は3日前の自分がどんなだったのかすら覚えていないんじゃなかろうかとチト不安になる。
「堀田と本城はウチの学校いつからいるんだっけ?」
「中等部」
「おんなじ。中等部」
 二人は中指までマニキュアを塗り終え、フーフーしながら応えた。それから堀田が言う。 「緋澄君はね、その頃にはもう本当に美人さんだったよ。真夏に校庭でボケっとしゃがみ込んでたりすると女子がみんなで駆け寄って、日傘差すの」
「緋澄に?」
「そうよ。紫外線から美しい緋澄君を守るんだって、みんなで協力するわけ」
 堀田がどことなく得意げに言うと、本城もコクコクと頷く。
 特に何の意味もなく真夏の日光の下にとにかくボケっとしゃがみ込んでいる緋澄と、今にもソフトクリームのように溶けだしそうな緋澄に日傘を差しだし、何やら必死の女子中学生。
 その光景が目に浮かぶようだった。女の子ちゃん達の一方的な呼び掛け、繋がらない会話、そして彼女達のよく分からない興奮。それは今でも目にする。例えば俺の目の前で緋澄にマニキュアを塗っているこの二人組みとかで。
「暁生なんかはどうだった? 中等部の頃から怖がられてたの?」
 そう訊ねるとまず堀田が答えようとし、今度は自分の番だと本城が割り込み、少々罵りあいを小声でしてから結局本城が俺に答えた。
「あの頃の南君は今ほど怖くなかったのよ。今みたいに…今は前みたいに笑うようになったから、ちょっと前みたいにって言った方が良いね、ちょっと前みたいにカリカリギラギラしてなくて、まぁ元々一人でどっか行っちゃう子だったけど、友達も普通にいた。完全に一匹狼みたいになったのは中等部の2年くらいからかな。元々よく旅行する子だったみたいだけど、どんどんその頻度が上がっていって、ちょっと学校とモメはじめて、その辺から怖くなってきたのよ」
 俺は高校で今のメンバーと知り合った。過去のアイツ等のことはまるで知らないので、なんだか面白く思えた。俺の知らない暁生と緋澄。でも想像出来る。
「苅田は?」
 今度は堀田の出番。
「髪の毛が真っ赤で、体も大きくて、あの頃から怖かった!」
 本城がコクコクと頷く。勿論マニキュアを塗りながら。
「全然変わらない?」
「んー。もっと武闘派だったような気がする。今よりずっと怖かった。苅田君が誰かをどうにかするところをこの目で見たことはないけど、怖い噂は今よりずっとよく耳にしたな。実際私も今みたいに苅田君と仲良く喋れるようになれるなんて想像も出来なかった」
 少し想像力を働かせればそれは納得の範囲だ。苅田だって何も苅田家の次男坊だからってだけで多くの他者を支配出来るようになったわけではあるまい。何処でも何時でもノシノシと山の主の如くのさばる苅田は、要はそう振舞えるだけの事はしてきた、ということなのだ。
 俺が過去の彼等について色々考えていると、ひょうたんAセットがやってきた。三人に先に食べるぞと声を掛け、割り箸を取っていただきますをする。
「砂上は?」
 餃子を口に放り込んでから訊く。
 緋澄の指にマニキュアを塗り終えた本城は待ってましたとばかりに説明する。どうもこの二人はさっきから嬉しそうだ。でも何が嬉しいのかよく分からん。
「彼女は変わってないよ。いっつもステキ! もう何も言うことナシ! 可愛いし、面白いし、頭良いし、運動神経良いし、みんなに好かれてるし、サイコー!」
「サイコー!」
 堀田も言う。確かに俺も砂上は好きだが、暁生を虐待する時のマジギレ砂上をこの二人に見せてやりたいものだと思う。
 本城に続きマニキュアを塗り終えた堀田がその細い指にフーフーと息を吹き掛けていると、ひょうたんのオヤジが次々と美味そうな飯を運んでくる。テーブルは直ぐに皿で一杯になった。それぞれ箸を取り、思い思いに各自の品々を口にする。
「アンタばかぁ? 餃子なんか頼んで口臭くなったらどーすんの?」
 堀田の突っ込みに本城が顔を赤くするのを見て、女の子ちゃんという生き物は大変だなぁと思う。
「俺は気にしない。どんなメシでも気取らず美味そうに食べる子と食事をするのは楽しい」
 そう言うと、今度は本城が勝ち誇ったような顔で堀田を見る。このコンビはいつもこうだ。傍から見ていると結構面白い。
「真田さんと岬杜君は深海君と一緒で高等部から外部入学してきたから分からないけど、深海君のお友達の岸辺君は一緒だったからどんなだったか分かるよ」
 堀田が話を戻そうと俺に無理のある微笑みを向ける。うんうんと頷いて続きを待つ。
 ラーメンを啜る。チャーハンを食べる。餃子を食う。
 オヤジが緋澄の麻婆豆腐と伝票を持ってきた。
 だが堀田は何故か固まったまま話を進めない。
「ね? 覚えてるよね岸辺君のこと。アンタ一緒のクラスだったことあるもんね」
 何かから逃げるように堀田は本城に話を振ったが、話を振られた本城も固まる。誰かに助けを乞おうとしても、ここにいるのは話の続きを待っている俺と自分の爪を気にしながら麻婆豆腐を食べている緋澄と、あとは調理場で片付けをしているオヤジさんだけだ。
「……は、は、班長やってた。班長」
 ようやく本城が言う。どうやら岸辺は、彼女達の記憶に留まるような奇抜なことはしなかったらしい。
 なんだか妙な間ができ、各自黙々とメシを食った。岸辺は大人しい奴だって知ってるから俺は気にしないし、ここに本人がいても「僕は目立たない子だったからなぁ」とモジモジしながら言うだけであんまり気にしないと思うのだが、二人は気にしているようだ。
「藍川はどんなだった?」
 食べ終わりラーメンのスープを飲んでから、雰囲気を変えてやる。それに本城が答える。
「一緒のクラスになったことないからよく知らないけど、苛められてたらしいよ」
 箸を置いた手が止まった。
 俺の様子を見て、本城がシマッタという顔をして堀田を見る。堀田は俺の顔を見て、少し怯えながら言う。
「私達は何も知らないよ。イジメも私達の知らないところで起きてたから。でも、そういう話は確かに聞いたことある。砂上さんが藍川さんと友達になったからイジメは止んだんだって」
 砂上が藍川を選んだのだ、と直感的に思った。そこには多分、藍川からのコンタクトは無かったはずだ。藍川はどちらかというと、そういう時に他人への迷惑を嫌がって一人になるタイプだろう。だから、藍川に接触したのは砂上の方だ。
 多分砂上は、藍川を苛めていた連中に何も言わなかっただろう。そしてこれからも何も言わないだろう。ただ砂上はその連中をあの謎めいた瞳で鳥瞰している。
 砂上は不思議な女だ。
 考えていると、今までずーっと黙ってメシを…というか麻婆豆腐の豆腐だけを食っていた緋澄が、堀田の服を見て言った。
「毒もってそうな衣装だね」
 ラーメンを食べている最中だったならば、俺は麺を鼻から噴き出すところだったろう。

 その日の夜、俺は永司に電話をする。気分が良かったので、即興で歌を歌ってやった。それは「毒キノコな彼女」という歌で、永司はとても誉めてくれた。

 俺と隣の子供は、梅雨に突入するまでの間に良い友人になった。
 子供は人と向き合って話をすることが苦手らしく、俺は共同廊下に廃棄された洗濯機を挟んで彼と会話をする。
 最初はロクに返事もしない彼だったが、俺が常に洗濯機を挟むという「距離の置き方」をするようになると、驚くほど素直に口を開くようになった。学校のこと、友達のこと、先生のこと。少年の話題は極めて健康的な小学生そのもので、きっと彼と接した人間のほとんどは彼が巧妙に家族の話題を避け続けていることに気付かないだろう。しかし少年は特定の話題を避け続けるためだけにそれらの他愛もない会話を俺と交わすわけではない。彼は明らかに他者との「会話」に飢えていた。
 少年は相槌を欲しがっている。聞き手を、一緒に笑える相手を、意見を交換しあえる相手を、自分の声に耳を傾ける相手を欲している。だから俺達は会話を続けた。会話は途切れることはなく、俺達は洗濯機を挟むことで成り立つ妙な親友のようだった。ゲームの攻略情報を提供し合う。小腹が減ると洗濯機を挟んで一緒にパンを喰う。たまに宿題も手伝った。勿論洗濯機を挟んで。
 梅雨に入ったある日、彼の姉らしき人に会った。
 彼といつものように話しこんでいると、その人が階段を上がってきたのだ。挨拶する俺を無視して前を通り過ぎ、それから彼も無視して彼の家に入った。大学生らしき彼女は目元がキツく、いつも余裕のない表情を浮かべている痩せこけた鳥のような印象を受ける人だった。
 彼女が部屋に入ると、途端に彼は黙り込む。とてもじゃないが、仲睦まじい姉弟というわけではないようだ。姉ではないのかもしれない。だが母親であるわけもない。複雑な家庭なのかもしれないので、俺は彼女について考えるのを止める。
「じゃんけんしようぜ」
 声をかけた。返事がない。
「じゃんけんぽぽ〜い」
 声をかける。返事はない。
「何だした?俺、ぐー。お前は?」
「僕、チョキ」
 声が返って来る。俺は彼が少し緊張しているような気がしていた。何に対してかは分からない。多分彼女にだろうけど。
「お前な、男は黙ってぐーだろ」
「じゃあもう一回。僕が勝ったら14体目の巨像の居場所教えて」
「お前まだあのゲームクリアできてねぇのか? しょうがない、お前が勝ったら教えることにする。じゃんけん、ぽぽーい。お前なに?」
「男は黙ってぐー」
「俺、キツネ」
 彼は黙った。でもすぐに笑い出す。
「なんだよキツネって」
「キツネだよ。人差し指と小指を立てて耳にするキツネ。お前この技知らねぇんだろ。大人になるとこんな技を繰り出せるんだ、覚えとけ」
 彼は小さく笑っていた。でもすぐに黙った。
 梅雨の雨は断続的で、人々の足元をグチャグチャにする。傘をさしていてもいつの間にか肩も髪も濡れてしまい、人々は気が重くなる。同じように今の彼もまた気が重い。
「ねぇ。大人になったらビールって美味しくなる? 煙草って美味しくなる?」
 と、彼が小さな声で訊ねる。自分が子供であることにうんざりしているような声だった。彼はきっと俺とは違う子供時代を現在進行形で進んでいる。俺のように「子供は夏休みがあるからずっと子供でたい」「ずっとこのまま友達と遊んでたい」「面倒なことが多そうだから大人になんかなりたくない」「宿題さえなければ」なんて考えない。
「大人になってもビールも煙草も不味いと思う人は沢山いるから、なんとも。でも、大人になると色んな技を獲得できる時がある。経験値ってヤツで」
「例えば?」
「例えば雨。雨が嫌いだと思うことは簡単だけど、好きになる技を編み出せる。雨の音を沢山録音して聴いてみると、雨が作ってくれるその音が好きになれる。雨の匂いに敏感になると、雨と大地が協力して作る匂いがたまらなく好きになれる。次第に雨の日も好きになれる。そういうふうに、何かを変えるための、もしくは変えないための技を自分で色々開発できるようになる」
 雨の話を終えると俺と彼は互いにコツコツ宿題をし、なんでもないことを少しお喋りして互いの家に帰った。

 翌日も雨だった。
 電車とバスに乗って学校に行き、結構真面目に授業を受けた。教科書を広げ、教師達の話に耳を傾け、重要な部分にペンで線を引いたり囲ったり、余白に小さく補足を書き込んだりしたわけだ。真面目に勉強するのが嫌になると、前の席の英検3級止まりのハーフ川本に、[そうだ、京都へ行こう!]と書いたノートの切れ端を渡す。すると川本は速攻で[OKOK!ノープロブレム。むしろwelcome!]と返事をしてくる。俺は意味不明のその紙切れと川本に満足し、また勉強をはじめる。
 時折雨が窓を強く叩きつけたが、それは嫌いな音じゃない。雨が窓や傘や屋根や道路なんかを叩く音は、良い音だと思う。紫陽花の前にしゃがみこんでカタツムリを眺めていた時のことなんかを思い出す。
 放課後になると、永司を校内のカフェに待たせて俺は生物室で真田と話をした。俺は椅子に座り、真田は俺の前の机に腰を下ろし足を組む。最初は俺たちの共通の友人である藤原の話をしていたが、途中で何の脈絡もなく真田が俺の作る味噌汁に関して文句を言い出した。よく分からんかったが頑張って要約すると、今まで我慢してきたが赤味噌の味噌汁はあまり好きではないので止めてくれ、と言うことのようだった。多分。真田は文句を言うだけ言うと納得したようでその話は終わった。
 放課後の誰もいない生物室で真田に味噌汁について文句を言われた後、俺は「その他に何か言いたいことはありますか?」という意味で口を噤む。真田は真田で「特に何もありません」という意味で口を噤む。
 生物室には俺と真田以外誰もいない。静寂があり、そして俺は本題に入る。
「唐突に、死のう、難しいこと全部放り投げてあっさり死のうって思ったことある? 例えば、学校の屋上から急に飛び降りようとするみたいに」
「お前友達いないのか?」
 真田が怪訝そうな顔で覗き込んでくる。
「結構いると思う」
「じゃあ、他の友達に相談してみればどうだ。ヒジキの周りにはもっとそういう話題に適した人間がいると思うぞ」
 真田は適当に言う。
「あのね」
「お前、麹味噌で味噌汁を作れ」
「分かった。お前がいる時は出来るだけそうする」
 真田は今度こそ納得したようなので俺は話を続ける。
「俺は少し前に、学校の屋上から飛び降りたんだ。永司に捕まえられて未遂になったけど、死ぬところだったんだ。俺にはそれだけの怒りがあった。自殺なんてものから最も遠い場所で生きている俺が、後先考えずフェンスを越えて飛び降りるくらいの怒り。でも今考えてみると、やっぱやたら不思議なわけ。なんていうか、なんて発作的だったんだろう、って。そんなに簡単にフェンスを越えれるものなのかなって」
「知らん」
「知らんだろうけど。……それがどんな人間であれ、普通に生活してて、普通に生きてて、普通に道を歩いていて、そこにある底のない穴に気付かずズボって入っちゃうことってあるんだなって思ったんだ。俺みたいな人間でも」
 真田は黙り込み、グダグダと喋る俺をウザがるように体の向きを変えて窓の外を見た。組んだ足がユラユラと忙しく揺れているが、苛立っているのか考え込んでいるのかよく分からない。
 俺は辛抱強く真田の反応を待つ。このまま真田が俺の話を無視しても、俺はコイツにだけは何度でもこの話をするつもりだった。
 真田が机の上から降り、隣の椅子の向きを俺に対して逆側にヒョイと変える。そしてその椅子に跨り背凭れの上に腕を組み、更にその上に顎を乗せる。
 目が合う。
 コイツの目はいつもどこか焦燥感がある。永司の瞳とは全然違うのに、それでも融通がきかない永司のどこかに共通点がある気がした。
 俺は椅子の角度を横にずらし、真田に対して正面を向く。何度か座り直して、聴く体勢を整えると真田が口を開く。
「中学2年の夏、私は車に撥ねられたことがある。その日は学校で一番嫌いな男子生徒と喧嘩をしたんだ。背が低くて走るのが速くて頭もそこそこ良くて、顔もなかなか良かったヤツだけど、とにかくいつも『自分が勝てる他の誰か』と『自分』を比較するヤツだった。理由はもう忘れたけどそいつと喧嘩したんだ。一方的になってマウント取って殴ったらソイツの歯が折れた。そしたら私の前の席の女子生徒が泣き出した。その女子は優しくて大人しくて、毎朝私におはようと言う子だった。でもその女子はその男子生徒が好きだったんだ。それで、泣いてた。手をブルブルさせて止めてくれと私にしがみついた。
ひたすら暑い日だった。生徒指導だの親だの校長だのの話が嫌で、私は学校を出た。一人で村道を歩いていて、セミが五月蝿かった。ジメジメしててうんざりするくらい喉が渇いてて、蛙が田んぼを占拠しててミミズが一杯道路で干乾びてた。向かいの山の麓から赤い車が一台やってきて、こっちに向かってきてた。空は青くて太陽は黄色で車は赤かった。あの頃の私におはようと言う、そういう子が泣いていた。私の手には血がついていた。私はお前みたいに怒りがあったわけじゃなかったと思う。でもお前と同じで、発作的に車の前に飛び出た」
 真田が何か思い出すように口を閉じる。顎の下に重ねられた腕の右手の指先だけが静かに一定のリズムで動いている。ゆっくりと言葉が浮かぶのを待っているようだった。
 そして真田は続ける。
「骨折して入院して、なんであんなことしたんだろうって考えた。私の本能は危険を知らせなかったし、そこに何が待っているか、どんなことが起こるのかさえも想像することが出来なかった。お前の言うように、ストンと穴に落ちるみたいにそれは起こった。でも人に殺意を抱く時は違う。私はその穴をはっきりと意識していて……」
 真田はそこで口を閉じる。俺は辛抱強くその続きを待っていたが、真田は少し考え込んでから怒ったように眉間に皺を寄せ、顔を背けた。言葉が追いつかない自分に苛立っているのか、それともそこにあるものを嫌悪しているのか、俺には分からない。
 廊下から数人の足音がし、生物室のドアがガラリと音を立てて開かれた。見知った顔が3つ、コチラを窺ってくる。俺が、もう少し待っててくれ、という意味で手を上げて制止を訴えると、彼らは快くそれに応えドアを閉めて去っていく。
 生物室はまた静寂に戻る。
 真田は少し怒ったような表情のまま、もう一度俺に視線を寄越す。
 静かにリズムを刻んでいたその手が止まり、ピタリと動かなくなる。
「発作的な衝動は、何かのキッカケで発生した落とし穴みたいなもんだと思う。何か良くない偶然が重なった場合だけ、その落とし穴に嵌ってしまう。フェンスなんて関係ないんだ」
「その穴……深淵を覗き込んでいる人間もいる。覗き込んでいる人間には何が見えるんだろう」
 俺はここまで来てからようやく、一番訊ねたかったことを注意深く口にする。真田は俺の視線から目を離さず、その質問の意味を理解する。
「覗き込む類の深淵は、【何かのキッカケで発生する落とし穴みたいなもの】なんかじゃない。巨大な深淵ってものは、誰かや何かが偶然落ちてくるのを静かにじっと待っているものではなく、常にそこにあるものだ。私達のすぐ近くに、息を潜めて。普通の人間はその巨大な深淵にはまず気付かない、気づいたとしても魅入られているだけだったりする。但し岬杜永司の場合は――巨大な深淵と対話できる人間なのかもしれない」
「対話?何を話しているんだ?」
「知らない」
「お前は他人に殺意を抱いた時、その深淵を覗いたか?」
「覗いてないと思う。ただ、息を潜めている深淵の僅かな呼吸を聴いた」
 互いに暫く見つめあう。それから真田は組まれた両手を外して椅子から立ち上がり、俺に背を向ける。俺は横に置いておいた通学用のショルダーバッグを手にして、その中から携帯を取り出し、永司に「校門で待ってて」と連絡をした。
 真田と2人で並んで歩く。
 教室を出るとさっきの3人組が生物準備室の前で待っていてくれたので、彼等に手を上げて感謝の言葉を口にし、手を振る。それから真田と2人で階段を降り廊下を渡り、昇降口を出て傘を差し校門へ向かった。永司が待っているのが見える。
「この間、学校の裏の林で暁生がシャベルを持っててな。首からタオル引っ掛けて穴を掘ってたんだ。結構大きい穴だった。膝くらいまで入りそうな穴だった」
 俺が待っている永司に手をあげようとした時、真田が口を開いた。何だか妙に嬉しそうな笑みを浮かべ、傘をクルクルとまわしている。
「なにやってるんだ?って訊いたんだ。そしたら暁生、うるせーな落とし穴掘ってるんだよって言った。私に膝の深さまで掘った穴を誇らしげに見せて。たまんないんだ。暁生は愛しくてたまんない」
 笑いながらそう言い終え、真田は駆け出した。そして突っ立っている永司に傘で攻撃し、よく分からない悪態を吐きながらそのまま帰って行った。後からやってきた俺は真田のせいで少し濡れてしまった永司を見上げ、可哀想にと言いながらニヤニヤしつつ撫でてやった。
 永司と俺は途中まで一緒に帰った。永司の濃い茶色の傘がいつも新品に見えるのを不思議に思いつつ、並んで歩く。
 雨の音についての話から入り、好きな音の話になった。
「春樹が夕食を作る音が好きだった。包丁やまな板の音。冷蔵庫の開閉の音。卵がないと言って一人で怒ってる時の音。火を点ける時の音、何かを焼く音、何か適当に歌っている声、食器の音。夕食の準備が整ってから、俺を呼ぶ時の声」
 信号で止まる。
 目の前を車が何台も通り過ぎて行く。その中の一台が級友の送迎車だったらしく、窓から俺に手を振っていた。俺も笑って手を振る。
「永司は生活の音が好きってことだな」
 信号が青になったので、また並んで歩き出す。足が濡れて気持ち悪くなってきた。永司の足を見るとそんなに濡れていないように見えるので、俺は『雨の日の歩き方』が下手なのかもしれないと思った。もしくは永司が特別上手いのかもしれない。
「春樹と一緒に暮らした日々の音が好きだった。今もよく思い出す。色んなことを。買い物しに一緒にスーパーに行って春樹が何かを選んでいる時、春樹が昼飯を食べようとデリバリーのチラシを探している時、洗濯機が回る音、水道の音、お前がうたた寝してる時。何でも良いんだ。お前が側にいれば、どんなことでも幸せに思えた」
「過去形にすんなよ」
「そうだね」
 今日の永司はよく喋ったが、俺は何だか責められているような気がした。大体俺は好きで永司と離れて暮らしているわけじゃないんだと思うと頭にキタので、とりあえず真田のように傘でガシガシ突いたり、傘を窄めたり広げたりを繰り返し雨粒を飛ばしたりして攻撃してやった。『雨の日の歩き方』が上手い永司もこれでびしょ濡れになったので、俺は満足し、スッキリして帰った。永司も久々によく笑っていた。

その日はアパートの近くのパン屋でカレーパンを買って、洗濯機の横にいる少年と一緒に食べた。揚げたてのカレーパンはまだ温かく、少年はずっと学校での出来事を話していた。クラスメイトが次の日曜日に遊園地に行くと言って自慢しているが、自分にだけその話題を振ってこないから頭にくること、担任の先生は優しい人だが、音楽の時にひとりひとり歌わせるから嫌だということ、今年からやってきた校長先生は禿げているけど、話が短くて良い奴だということ。少年はパンを食べ終えた後も一生懸命喋っていた。だが、俺がヒョイと洗濯機の向こうを覗き込もうとすると途端に足を縮める。何か動物でも……こんぺいとうの仔でも連れて来て彼に触らせてやりたいなと、何となくそう思った。

 夜になると、キャベツがモリモリの野菜炒めと、ニラとエノキのスープを作った。野菜炒めは上手く作れたけど、ニラとエノキのスープは煮すぎてクタクタになってしまって失敗だった。
 夕飯を食べ終えると風呂に入り、歯を磨き、永司にメールした。『フェラチオしていいか?』と書いて送ると『考えさせてくれ』と返事が来た。
 だから俺はそのままのことを日記に書いた。息を潜めている深淵と暁生の落とし穴のこと、今日は永司がよく喋ったこと。それから、フェラチオして良いかと訊ねられ「考えさせてくれ」という男はあまりいないだろう、と書いた。
 左手で書いた文字は今日も能天気だった。





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