第15章 狭間の町にて

 月曜は朝からちょくちょくとつまらないことがあったので、昼を待たずに学校をサボった。三年になってからは出来るだけ真面目に学生生活を送っていたので、サボるのは久しぶりだった。
 永司の単車のケツに乗って二人だけで山の方に行きそして幾つかの山を越え、途中で休憩して道の駅で蕎麦を喰い、それから山に入って超頑張って栗拾いをして遊んだ。永司は栗を拾ったことがないのでイガの剥き方を知らず、俺が靴でイガを剥く方法を教えてやった。しかし最初は楽しく可笑しくやっていたのだが、どういうわけか途中から永司がかなり真剣に栗拾いに没頭しはじめたので俺はそれを眺めたりして時間を潰した。
 空は雲ひとつなく、山の空気は木々や土の匂いがし、惚れた男は栗拾いに没頭。こういうのって結構良いと思う。
 途中で永司が我に返り、ちょっと戸惑ってから妙に不自然な笑みを浮かべた。この男は照れたらこんなことになるんだと少し感動した。かわいーじゃねぇか!みたいな。
 ブラブラと山の中を歩きながら物凄くどうでも良い話を沢山した。「心の隙間」って言葉についてや、「声を張り上げる時」ってのはどんな時なのかって話。あとは「生きたいという望みを失うこと」って話と、「花の美しさ」について。
 美しい花を見ても、その感動を人には伝えられない。その色の美しさを、その生命の輝きを、その瑞々しさを、その質感を、言葉では何も伝えられない。花の美しさはいつも言葉にはできないのに、花の美しさはちゃんとある。そういう話だ。
 コンビニのビニール袋に栗を入れながら山中をほっつき歩き、ほっつき歩いているうちに一度遭難しかけ、無事に単車を置いておいた小さな公園まで戻ってブランコに腰掛け休憩をする。
 俺達はずっと会話をしている。
 永司とこうやってずっと会話を続けること自体が久しぶりのように感じた。俺はとても楽しい。なんてことはないひとときを積み重ねていくことが楽しい。
「花の美しさを言葉にはできないように、生きたいという望みを失うこともまた言葉にはできない。言葉では大切なことは何も伝えられない」
 永司が言う。
 俺はそうだね、と答える。それから、でも言葉にしないともっと伝わらない、と続ける。  永司はそうだね、と答える。
「お前はそうだね、と言いつつも、あまり納得はしていない」
 そう指摘すると永司は目を伏せて苦笑する。
「いや、一応分かっているんだ」
「一応」
「そう、一応」
 そう言って永司は俺を注視し、挑むような笑みを見せた。
 たまらない。
 俺はたまらない気分になる。俺にベタ惚れのくせに俺の思うように動かないこの男がたまらなく好きだ。永司はムカツク。言葉では何も解決などしないと俺にその目で言う。分かり合えない痛みを突きつけてくる。わざとそうしてくる。
 なんてムカツクんだろう。
 なんでこの男は俺の思うように生きないんだろう。

 帰る途中に小さな村の小さな昆虫館に寄った。国道に出る途中に看板を見つけて、急遽行くことになったそこは妙に静かな村だった。夕日に照らされたお地蔵さんの横に老婆が一人歩いていて、それがやけに印象的に見えた。
 小さな昆虫館はこれまた小さな無人駅に隣接された建物で、小さな村が予算はたいてエッサホイサと作ったらしく、なかなか小綺麗で新しかった。入館料は二百円と書かれているけど、どれだけ呼んでも誰も出てこないので、四百円を入り口に置いて勝手に入った。
 館内には誰もおらず、墓場のように静かでトンネルのように薄暗い。しかし蝶の標本を中心に様々な展示物があったし、ジオラマや模型なども凝っていて、生態と特徴の説明も分かりやすい。奥の方に「絵を描いてみよう」というコーナーがあって、鉛筆とノートとナミアゲハの標本があった。ナミアゲハを観察しながらできるだけ丁寧に絵を描いてみると、それにかなりの親近感が持てた。こういうコーナーって良いと思う。
 ページを遡ってみてみると、色々な落書きがある。子供の他愛ない落書きから、女子中学生がよくやる「塚本先輩大好きv」とかいうのから、卑猥なのから何時間かけて描いたんだと思うような素晴らしい蝶の模写まで、様々だ。
 顔をあげて小さな館内に視線を巡らすと、永司がトンボのコーナーの前に突っ立っていた。墓場のように静かでトンネルのように薄暗くて昆虫の死骸ばかりある場所に、永司は『永遠に突っ立っている人』みたいにそこに佇んでいる。
 不意に、俺は自分という存在がここにはないような変な気分になる。俺はここにいなくて、小さな昆虫館の中で永司だけがポツンと突っ立っている絵を見ている感覚に陥ったのだ。
「閉館だよ」
 職員なんだろうか。奥の扉が開いて、分厚い本を片手に持った、大学生くらいの若い眼鏡をかけたお兄さんに声をかけられる。
 そして永司は絵の中の存在じゃなくなる。
 俺は何故か慌てて永司の下に駆け寄ってその腕を掴む。
 永司は不思議そうに俺を見つめる。

 小さな昆虫館から出ると外はもう暗かった。昆虫館のライトが消され、無人駅のホームと街灯とジュースの自販機だけが辺りを照らしている。
 俺は自販機まで行って永司の分の無糖珈琲と自分の分の缶のミロを買った。おつりを取り出して振り向くと、影絵のような世界に永司がいた。永司は、『そっち側の世界』の住人みたいに影の世界に馴染んでいた。俺は何となく夜が嫌いになる。夜は永司を俺から引き離すような気がする。永司は馴染みすぎている。影の多い世界にあまりにも溶け込みすぎている。本来そっち側の住人で、俺と一緒にいるのが普段の方が間違っているんだっていうやけに断定的な感覚に襲われる。
 一両しかない電車がやってきた。降りる人は少なくて、どこか非現実的な静けさがあった。これが夢ならば一番納得がいく、そういう種類の静けさだ。
 駅からほんの僅かな人が出てくる。その中に、俺がよく知っている人の顔があった。俺はそこで急激に生々しい現実に帰る。
 その人はスーパーの買い物袋をふたつも提げて、昆虫館と駅の間にあるベンチに一直線に向かい、そこで立ち止まって腰掛けた。自分の両脇に買い物袋を置いて両足を伸ばし、うんと背伸びをしてから大きなため息を吐き、そして体を縮めた。
「どうしたんですか? こんなところで」
 俺は少し離れた場所から声をかける。
 その人はこちらの方を見て、目を細める。
「誰?」
「深海。隣の」
「深海君か」
 うん、と返事をして彼女に近づいた。
 今日の彼女は化粧もロクにしていない。髪は後ろでひとつに束ねられ、薄手のニットのキャミソールに同じ素材のカーディガンを羽織っている。それは別に違和感があったわけでなく至って普通だったし、これと言って挙げる部分もないごくごく普通の身なりだったのにも関わらず、俺は初めてこの人を、主婦だと感じた。
 おそらく、この人は疲れているんだ。それがどこからか滲み出ている。
「どうしたの?」
「深海君こそ何してんのこんなとこで」
「ガッコさぼって遊んでた。栗一杯拾ったんだ」
 にっと笑みを浮かべながら、栗が入った袋を持ち上げてみせた。彼女はできるだけ笑顔を見せようという意思がある表情で頷いた。それから、左隣に置かれたスーパーの袋を持って、それを右の袋隣に並べる。俺は彼女が作ってくれた空席に座り、永司に目配せをする。彼女は永司を遠くから鑑賞するように見てから口を開いた。
「えらくカッコイイ子だね。友達?」
「まぁね。永司って言うんだ」
「エージ君ね。君も座れば?」
 声を掛けられると永司は小さく会釈をし、それから俺の隣のやや狭いスペースに腰を掛ける。
 目の前を自転車が通り過ぎ、それから一台の軽トラがゆっくりと走り去っていく。辺りはやけにしんとしていて、駅の明かりと街灯に照らされた空に蝙蝠たちが忙しく舞っているのが見えた。
「駅って良いよね。私は電車には興味ないけど、駅は好きなんだ」
「分かる。駅って場所が、ただそれだけで好きなんでしょ?」
「そう。ただ駅ってだけでさ」
 電車には興味ないけど、線路は好きって人もいると思う。そういうのも分かる。ただそれだけで好きということ。
 隣の彼女をそっと窺う。いつもと様子が違うのは明白だけど、よく分からない。ただこの人は疲れているんだ。それだけは分かる。
 俺は葉子さんを思い出す。葉子さんの言葉ひとつひとつを。
「何をしても拭えないような腐りかけた悪臭がする疲労が襲ってくる。その疲労の重さは量れないほどのもので、その疲労の深さはどこまでも続いている」
「なにそれ。どうしたの」
 唐突な独り言に彼女は無理矢理っぽい笑顔を俺に向けた。
 昔の彼女が……俺はそこで一度永司を背中で窺い……彼女だった人がそう言ったことがあるんだ、と答えて、そのまま続ける。
「多くの女性は、ある時期が来ると『とてつもない疲労感』に襲われることがあるんだって話だった。その疲労はプラットホームで電車を待ってるのに、いつまでたっても電車は来ないみたいなものだって。その人はそういう話をしてくれた」
「君と同年代くらいで、そんな疲労感に苛まれる子がいるんだ」
「いや、その人は俺よりずっと年上だったんだ」
 俺はまた、ちょっとだけ永司を気にする。
 彼女は俺の最後の言葉に、ようやく彼女らしい、人をからかってる笑みを浮かべて俺を見た。
 それから大きなため息を吐いて、肩の力を一気に抜く。ギザのピラミッドの頂上までようやく石を運び終えたみたいに、一気に。
「蝙蝠飛んでるー」
 彼女は子供みたいにひょいと空を指した。
「うん、蝙蝠飛んでる」
「君ん所には、ちょくちょくとそういう年上の女の人がやってくるのか?」
「疲労感に苛まれてるような?」
「うん」
「そうでもないとは思うけど」
 もしかしたら、そういう込み入った話をしてくれたのが葉子さんだけだっただけで、他の人もそういう疲労感を背負っていたのかもしれない。俺は過去に自分と関わりあった女性達を思い出してみる。ほとんどが年上だ。
 永司が隣で缶珈琲のプルタブを開ける音がした。
「ミロ飲む?」
 手にしていた缶を見せると、彼女はやけに嬉しそうにそれを受け取った。喉がカラカラだったんだ、と言いながら念入りに缶を振って、それからプルタブを開けて中身を飲む。
「ねぇ君。その昔の彼女のこと教えてくんない?」
 俺はちょっと躊躇する。で、なんだか言い訳するみたいな風に永司の方を振り返った。永司は気にするなって言葉にはせずに、促すように首を傾げる。
 俺は彼女の方に向き直り、葉子さんのことをできるだけ細かく思い出してから話し出した。
「その人のこと…例えばどんな仕事をしててどんな生活をしててどんな人生を送ってるかとか、そういうことは全然知らないんだ。年齢も知らない。ただある日ある交差点で声をかけられて知り合った。背が高くて美人で、いっつも完璧にスーツを着こなしてて、極端に賢い人だった」
「どんなふうに賢いの?」
「上手く言えないけど、ありとあらゆる意味で賢い人だと思う。俺の友達にその人と同じタイプがいるんだけど、なんていうかな。ありとあらゆることを完璧にこなすんだよ。勉強もできるし運動神経も良い。クラスメイト達からの信頼も厚くて冗談も通じる。どんな話題にも対応できて、他人との距離の計り方も極端に上手いから誰からも妬まれない。妬まれる要素で一杯なのに、それをどうすれば回避できるのか知ってて実践できるんだ。他人に対してどういう態度で、どういう話題を振るべきか知ってるって言うかね。その人のことよく知らないけど、とにかく俺の友達と同じ種類の賢さを持つ人間だってことだけは分かったよ。最も難しいことをやってのける種類の人間」
「君のそのオトモダチは女の子?」
「うん。女」
 彼女は眉根を寄せて何か真剣に考え込んだ。
 俺はそっと彼女の向こう側に置いてある二つのスーパーの袋に目をやる。卵が2パックあるのが分かる。小麦粉と牛乳、パン粉、ホットケーキミックス、肉、野菜、細々とした調味料や食材。
 肉?
 ここから俺のアパートまで電車で結構かかるはずだ。1時間ではきかないと思うのだが、この人は一体ここに何をしに来たのだろう。これからどこかへ行くのだろうか。友達の家とか? そういう雰囲気には見えないが。
「それから?」
 声をかけられて一瞬何のことか分からなくなった。えっと、と口篭ってから、葉子さんの話を続ける。
「なんていうか、洗練されてる人なんだ。格好も持ち物も嗜好品も仕草も考え方も、何もかもより良いコトやモノを選び抜いている感じで。その上性格も良くて明るくてよく笑う人だった。つまりさ、どの角度から見ても完璧なんだ。一流パティシエが作るケーキみたいに、味もデコレーションも完璧なんだ」
「一流パティシエが作るケーキのデコレーションみたいに綺麗で中身の完璧な人が、とてつもない疲労感に苛まれる」
「そう。その疲労感は、『何をしても拭えないような腐りかけた悪臭がする。その疲労の重さは量れないほどのもので、その疲労の深さはどこまでも続いている』」
 彼女はまた難しい顔をして考え込む。気配を消していた永司が煙草を取り出して火を点けた音がした。
 彼女は両手を伸ばしてぐっと両膝を押さえ、顔を下に向ける。
 俺はよく分からないまま、何だか彼女の肩を抱いてやりたくなった。なんで人っていうのは、辛い時に辛いって言えないんだろう。それを言うことも、そういう自分を見せることも嫌がるんだろう。なんで俺は他人が思ってることや感じてることを理解できないんだろう。なんで力を込めるだけで、何もできないんだろう。今の彼女とか、今の俺みたいに。
「その時……来ない電車を待ってて、それでその彼女はどうしたの?」
「俺が臨時特急だったんだって。そう言ってた」
 俺が言うや否や彼女はパっと顔を上げて、俺を凝視した。
 それからスッキリと得心したみたいに笑った。でもどこか今にも泣き出しそうな顔だった。
「君はそういう子なんだな」
「どういう?」
「そういう子さ」
 彼女は優しく笑って、半分母ちゃんみたいに、半分女性として俺の頭を撫でた。
「私さ、私はね、そういう種類の人間と出会ったことがないんだな。馬鹿の周りにゃ馬鹿が集まるのかね。だから世界が狭いんだよ。馬鹿だから自分の子供も上手く育てられない。馬鹿ばっかりに囲まれて生きてるとロクなことない。店の金盗んだとか、給料盗まれたとか、客取ったとか取られたとか。バラエティ番組の話とか男に殴られたとか、もううんざりだ」
 彼女は一旦口を閉ざし、さっきみたいに空を指して蝙蝠飛んでる、と言った。俺は同じように空を見上げて、うん、飛んでるねって言う。
「昨日うるさかったろ? ごめん」
「喧嘩?」
「まぁね。私は娘が大嫌いだ。あの子は選択して不幸になってる。自分で選択して不幸になってるんだ。何だかね、言い訳の材料をたらふく用意することが生きる目的になってるんだ。それでいて、自分がそんなふうになった理由を誰かのせいにする。この前なんかね、自分探しの旅に出るなんて言うんだよ。馬鹿じゃないかって殴ってやったわ。あの子はね、犯人探しがしたいだけなんだ。自分が上手くいかない全ての元凶は私らしいけど、私は口論じゃ負けないからね、だから他にも犯人が欲しいんだろ。私はさ、不幸のポケットをまさぐって、暇があれば取り出して陳列して、ひとつひとつ犯人を割り当てていくようなあの子がとにかく嫌いなんだ。昨晩なんて何て言ったと思う? 私は一人で生きていけるから、もう出て行く、だって。一人でなんて生きていけるもんか。何かトラブルがあったら必ず泣き出して何でも人のせいにするくせに。逃げたいんだってさ。あの家から、私から、逃げてやりたいんだってさ。正論で責めりゃ自分の悪いところは分かってるって言う、そのクセ何ひとつ悪い部分を直そうとしない、直せない自分の弱さを口にはするけど慰めて欲しいだけ、いつも被害者面で傷つくことは誰よりも上手くって、自分は不幸だから誰よりも人生の辛さを理解してると思い込んでるあの子が、逃げてやりたいんだってさ」
 彼女は怒りと憎しみを込めてそう吐き捨てた。
 この人とその娘は、本当に何もかもが違っているんだと思った。ここまで性格が違うと理解しあうことは多分無理で、それでいてお互いにお互いを認め合うことを放棄しているように見える。
「つまんない話して良い? もう既につまんないけどさ」
 彼女は何かをずっと我慢してきたように言う。
「つまんなくないよ」
 俺はまた彼女の肩を抱きたくなる。
「今日休みだったの。お店。ママ達がグアムに行くとかでさ、今日から5連休。私も誘われたけどね、行かなかった。サトルいるしさ、自分だけそんな贅沢する気にはなれんもんね。お金もないし。だから今日は朝から掃除して、家をピカピカにしたんだ。トイレ掃除もお風呂掃除もして、レンジの周りも綺麗にして、冷蔵庫の中も整理して。そんで、たまには良いもん作ってやろうかなって思ってスーパーに買い物に行った。一杯買ったんだ。子供達が喜びそうなもんばっか、一杯。今日は娘とも喧嘩しないようにして、5連休中に一回でも3人でどっか行こうかって話でもしようかなって」
 でもね、って言って彼女は口を閉ざす。
 俺はスーパーの袋に目をやる。
 永司は俺と彼女の会話の邪魔にならないように、ずっと気配を消している。
 俺はサトルのことを考える。いっつも自分の家の前に座り込んでいる小学生。
「でもね。駅の前を通ったら、踏切が降りて電車が通った。電車がさ。駅の周りにはポスターなんかが貼ってあってさ、京都とか箱根とか、そういう場所の。人が駅に入ったり出たりしててさ、まぁ当たり前なんだけどね。今日は良い天気だったよね。良い天気だったじゃん。とにかくさ。あのね。私さ、私ね。なんで私は、旅をしなかったんだろうってその時思ったんだ。若い頃から旅って憧れ続けてたのに、結局一回もしてないんだよ。今回の旅行だって行かなかった。行かなかったんだよ。私、どうして旅に出なかったんだろう。サトルだってもう大きいし、娘に世話を頼んでも良かったじゃない。一回くらい私だって旅に出ても良いじゃない。ねぇ、良いじゃない。ずっと行きたかったんだ。どっか知らない場所にさ、行ってみたかったんだよ」
 彼女は顔を背けて、小さな男の子が泣くのを拒否した時みたいに腕で目元を拭った。拭ったというよりも力まかせに擦った。
「そんで、そのまま電車に乗ったんだ」
「そうなのよ。馬鹿だよねぇ、スーパーの袋ブラ提げてさ」
 彼女は顔を背けたまま笑った。
 俺はさっき彼女がしてくれたみたいに、半分母ちゃんみたいに、半分男として彼女の頭を撫でた。
「私馬鹿なんだよねぇ結局。一人旅したかったらすれば良いじゃんね。別にすれば良いんだよ。別にスーパーの帰りに電車飛び乗らなくたって良いんだ。でもさ、やっぱ気になるじゃん、子供達のことがさ。普段はなーんにもしてやってないクセに、こんな時ばっかりさ、気になるんだよ」
 彼女はゴシゴシと目元を擦り自虐的に笑ってから続ける。
「こういう話をさ、誰かとしたかったな。その、君の元彼女とかさ、そういう私が今まで出会ったことのない種類の人と色んな話をしてみたかった。私が本当に話したかったこととか、私が本当に聞いて欲しかったことを。私の周りにはこんな話をできる相手がいないんだよ。したって分かってもらえない。だからさ」
 彼女は顔を俺に向けて、にっと笑った。
「君ともっとこういう話をしておけば良かったね」
「今からでも遅くないよ」
「そうだね」
 それから彼女は俺の手を照れながら握り締め、ブンブンと大げさに握手をしながら、君の手は何だか好きだな、と言った。
 そして俺と彼女は手を握ったまま、暫くじっとしていた。東の空からでっかくて赤い月が顔を出していて、彼女のことを良い子良い子ってするみたいに柔らかい風が吹いた。
 サトルは今なにをしているだろう。
 今日はイチと遊んだだろうか。それとも今日は真っ直ぐに帰ってきて、家の前で座っていたんだろうか。
 永司がいつの間にか二本目の煙草を吸いだしていた。本当に人通りのない場所で、不思議なくらい静かだった。
 月光が似合う場所だなと思う。影絵や月光や、小さな駅や小さな昆虫館や、分厚い本を持った眼鏡をかけたお兄さんの似合う場所。
 ここにはもう二度と来れないのかもしれないと、ふと思う。もう一度ここに来たくても、どうしても辿り着くことができないんじゃないかなと。もしまたここを訪れたとしても、それは全然違うここであって、もっと生々しいありふれた場所になってるような気がする。なんていうか、ここはそういう『狭間』のようなものなんじゃないのかな。
 電車がやってくる。
 駅に着くとまた数人が降りて、電車と人はすぐにどこかに消えてしまった。それは全部幻で、本当は電車なんてやって来なかったとでも言うように。
 俺は彼女を見る。
 彼女も俺を見る。
「人の中には子供がいるんだ。子供たちはライ麦畑にいて、そこでいつも駆け回ってる。ライ麦畑には深い崖があるんだけど、子供たちは夢中で走ってるからそれに気づかないんだよ。だから俺は崖に近づきすぎた子供たちを捕まえてあげるんだ。そっちは危ないんだよって」
 そう言うと、彼女は眉間に皺を寄せて少し首を傾げた。それから握ったまんまの俺の手を眺めてとてもゆっくりと何かを考えていた。おそらく、ゆっくりと考えるべき大切なことを。
 だから俺はじっと待った。
「急に思い出したんだけどさ」
 彼女は顔をあげ、何だか嬉しそうに俺を見る。
「うん」
「ずっと前に……まだサトルが産まれてなかった頃。あの子が小学生だった頃ね。二人で近所のスーパー銭湯行ったの。普段あんまり構ってやれてなかったから、一杯話を聞いてやってさ、学校のこととか先生のこととか友達のこと、あの子も色々喋ってくれた。私があの子の髪を洗ってやったら、あの子も私の髪を洗ってくれてね。お風呂からあがって、二人でかき氷食べてさ。楽しかった。楽しかったよ。良い日だった」
 彼女はそこで言葉を切って鼻を啜った。照れたように笑ってから続ける。
「そこ、大きめの休憩室があってさ。照明が結構暗めになってて、仮眠できるようになってたの。休んでいこうと思ってそこで二人で横になってたら、ちょっと眠っちゃったのね。それで、目覚めて見ると私の隣で寝てたあの子が、あの子がさ、私の横にピッタリとくっついて頬杖ついて凄く怖い顔で何かを見てるわけ。何だろうってあの子が睨んでる方見たら、馬鹿そうな中年男二人組みがさ、ニヤニヤしながらこっち見てたのよ。分かる? あの子、その人たちのこと睨んでた」
「うん」
「その時は、どうしたんだろうって思ってた」
「うん」
「何か言われたのかもしれないと思ってさ、もう帰ろうかって言って帰った。こうやって手を繋いでさ。その二人組みはずっと気持ち悪い目でジロジロ私のこと見てたけど、私はそういうの慣れてたしさ、気にしなかった。だから、あの子が何で怖い顔してたかなんて分からなかった。でもさ、今考えてみると」
「うん」
「あの子、私を守ろうとしてくれてたんだ」
「うん、そうだね」
 彼女は照れたように笑いながら、そうだよね、きっとそうだったんだよねと何度も呟いた。  それから大きく息を吸って。
 止めて。
 大きく息を吐いて。
 俺の手を離して。
 ぐいと足を伸ばしてから、ぴょん!と子供みたいに立ち上がった。何だかとても可愛い感じで、ぴょん!っと。
「帰るわ。夕飯作らないと」
 振り返った彼女は俺を見てにっと笑う。力強い口元、視線、手を伸ばしスーパーの袋を持つ手。
「お肉やばぁ〜」
 スーパーの袋を持ち上げて、彼女はブツブツとそんなことを言っている。
「あのね」
 俺は話しかける。
「サトルと一緒に風呂に入ってやってよ。あの子はお風呂が怖いんだ」
「そうなんか。よし、今日は一緒に入ってやろう。キミ、深海君のオトモダチ、ごめんねなんかさ」
 彼女は永司に謝り、手を振って真っ直ぐに駅に向かった。
 自分が母親だったことを久しぶりに思い出したような顔をして。





back  novel  next