第14章 俺の知らない場所で、俺の知らない重要な何かを
9月の半ば、俺はサトルと一緒にスーパーに買い物に行った。
二人とも腹が減っていたのでオヤツでも買いに行くか、と気軽に声をかけた。サトルが洗濯機の向こうからこちらに出てくるかどうかは分からなかったし、嫌がったらそれはそれで良いと思っていたのだが、意外にもサトルは少しも躊躇せず立ち上がった。
天気は良かったが随分と過ごしやすい日だったので、途中で暑さにへたばることもなく、俺達はのんびりとサトルの学校の話なんかをしながら歩いた。サトルは最近とても楽しそうで、よく喋るしよく食べる。会話は学校の話題ばかりだが、あらゆることを報告してくれるので俺は世界で一番サトルの学校生活に詳しい高校生になった。
「だからこれが俺の本気って言ったら、イチが俺はその倍強いって言うんだ」
サトルは俺の少し後ろを歩きながらそう言う。おそらく俺が振り向いてサトルの顔を見るのはあまり良いことじゃないので、俺は前を見たままふんふんと頷く。しかし、きっと近いうちにサトルは自然に俺の隣を歩くようになるだろうという予感だけで、今はとても満足している。
「だから、実は実力を隠してたんだぜって言ったら、イチは俺だって秘められた能力をまだ発揮してないからって言った」
俺はそれに笑う。
イチとサトルは今、サッカーゲームの話をしている。二人ともそのゲームが好きで、どうやってもお互い負けを認めたくないらしい。だが喧嘩はしない。仲はとても良い。サトルが誰かととても仲良く楽しくやっているという話は、聞いているだけでなんでこんなに楽しいのだろう。
俺とサトルはそのゲームの話をしながらスーパーまで行き、店内のパン屋で焼きたてのカレーパンとその他のパンを選び、それからアパートまで戻った。サトルは一度も俺を見なかったし、俺も一度もサトルを見なかったけれども、何の問題もなかった。人は、こういうふうでも何の問題もないんだと思った。何かを隠していても、何か拘りがあっても、何か触れてほしくない部分があっても、少しくらい距離があったって。
永司と話したいな。
洗濯機の向こうの、指定の場所にサトルが座った時にとても強くそう感じた。
「いただきまーす」
サトルの声が聞こえる。俺も買ってきたばかりのパンを袋から出す。
少しだけサトルと俺は互いに別々のことを考えた。俺は永司のこと、サトルは……何だろう。とにかく永司のことじゃない他のこと。
暫くしてから、何か変な声がした。あまりに変な声で、それがサトルの声だと気付くのに少し時間がかかった。
「どうした?」
「今ジュース飲もうとしてペットボトル持ち上げたら蟻がいて、避けて置こうと思ったら蟻も避けて、結局潰しちゃった」
サトルの淡々とした声がする。淡々としているけれど、とても嫌な思いをしているのは確かであって、頭を撫でて慰めてやりたいな、と思った。けれど洗濯機は俺達の間に依然としてあるんだ。
「嫌な気分だ」
「でもわざとやったわけじゃないだろ」
「こんなに小さいのに、蟻を潰した感触があった」
そう言ってサトルは黙る。それは想像しなくとも、嫌な気分になるのは確実なことだった。どんな小さくても生きているものを潰す感触は手に残る。手と心と記憶に残るから。
二人で黙ってパンを食べた。
カレーパンはあげたてを買ってきたのに、いつもより美味しくなかった。
「嫌な気分」
パンを食べ終えてからもう一度サトルは呟いた。
俺はゴミをサトルから回収して、自分の分のお茶を飲んだ。
「なぁ、枯れかけの花を無造作にぶっ刺してあるみたいなプランターって見るの嫌じゃね?」
と、俺は言う。
サトルは幾分考えてから、あんまり気にならないけど、ちょっとだけ気持ちは分かると言った。
「俺は誰かが怒鳴っている声を聞くのが嫌。怒っている顔とか、怒っている人そのものも見るの嫌だ」
サトルの声は誰にも聞かれたくないみたいに小さかった。それは多分自分の母親のことで、自分の姉のことで、自分が毎日のように目にし耳にしているだろう彼女等の諍いのことで。
それから俺達は互いに口を閉ざしたまま、お互い同じことを考えた。
その日の夜、永司の電話はずっと繋がらなかった。携帯は電源が落とされており、家の電話はずっと話中だったのだ。キャッチがあるのになんで話中になっているんだろうと最初は疑問に思い、何度も何度も電話をしているうちにとても怖くなってきた。
何か起きたのだろうか。
深夜のテレビは恐ろしくつまらないものだけれど、他に何かしようとは思わない。ただつけっ放しのテレビをぼんやりと眺める。誰かと話がしたいけれど、誰とも話したくないような気もする。俺はただ待っている。電話が繋がるのを待っているだけ。
何か起きたのだろうか。
2時半を過ぎた頃に頭痛が始まった。頭痛薬は効かないけれど何かそれらしきものを飲んで気分を落ち着かせたいので、台所へ行って水を持って来てビタミン剤を飲んだ。何にも意味なんかないけど、気分の問題だ。
頭を押さえて日記を書く。日記だけはちゃんと書こうと思っていたけど、集中できなくてやけに短くてそっけない日記になった。いつものように最後にまとめる。
■サトルとの距離
■生きているものを潰す感触はその手と心と記憶に残る。
■何かを隠していても、何か拘りがあっても、何か触れてほしくない部分があっても、少しくらい距離があったって、結構問題はないもの。
ベッドに潜り込んでもう一度リダイアルを押すが、やっぱり両方とも繋がらない。
俺は目を閉じる。耳鳴りがしていて頭が痛い。背中がゾクゾクしているから、風邪でもひいたのかもしれない。
「――――ッ!!」
自分の声で飛び起きた。
よく分からないくらい身体中鳥肌が立っていてガタガタ震え、汗でびっしょりになっていて、そして、俺は驚くくらい涙を流していた。心の奥がひっくり返って全部徹底的に破壊されているような感覚で、俺は顔を覆って呻き声をあげる。
涙が止まらない。
いつの間に眠ってしまったのか、そしてどんな夢を見たのか。俺は何を口走って目覚めたのだろう。
とにかくひたすらに悲しい。ひたすらにひたすらに涙が零れる。どういう種類の悲しさなのか全く分からないような、何もかもを詰め込んだような胸の痛み。俺の身体の隅々まで、隙間無く心が壊れそうな痛み。
ボタボタと涙がシーツに零れ落ちて行く。
「……永司?」
永司の身に何か起こった?
いや、起こっている?
しゃくりあげたまま立ち上がろうと足に力を入れたが、身体がブルブルと震えて上手く立てない。とにかく涙が出て、我慢できなくて嗚咽を漏らした。
携帯を手にしてリダイアルを押す。やっぱり繋がらない。
何か起こっている。
その予感が俺を戦慄させた。
何が起こっているのか分からないまま這うようにして起き上がり、鍵を握り締めて部屋着のままで家を出た。
東の空が白みはじめようとしている。俺は自転車に乗って永司のマンションに全速力で向かった。途中で激しい耳鳴りが続いていることに気付いた。
何台かの車やトラックと擦れ違い、朝の澄んだ空気が火照った身体に当たっては流れていく。焦りや苛立ちを感じているかどうか、心が混沌としすぎてよく分からなくなっていた。自分の目は永司のマンションへ行くまでの道のりを確認し続けるだけで、自分の耳は不愉快な音をただ漠然と聞いているだけで、自分の足はペダルをこいでいるだけで。
ただ何度か俺は何かを呟いていた。だが何を口にしているのか分からなかった。もしかしたら大声で何事か叫んでいたかもしれない。もしかしたら呟いた気がしただけで何も言っていないのかもしれない。
時折津波のように強力な感情がやってきて、何もかもを飲み込むような勢いで心の中の小さな灯火や温度を破壊していく。その度に俺はスピードをあげてどうにもならない痛みに息を止める。息を止めて何かをやり過ごす。
マンションに着くと部屋を見上げる。暗い。寝ているのか、いないのか分からない。急いでエレベーターに乗って家の前まで行きチャイムを鳴らすと、まるで俺がこの時間ここに来ることなんてずっと前から決まっていたかのような速さで、永司が扉を開けた。その当然のような扉の開け方がやけに気持ち悪かった。気分の悪くなるような古い映画でも観ているかのようだ。
「おはよう」
永司が言う。
俺はもう泣いていなかった。泣いてはいなかったが、決して冷静なわけではなかった。
だが扉を開けた永司を見て、それまでごうごうと唸りをあげて突進し、うねり、あらゆるものををなぎ倒すような激しい竜巻のようだった俺の心が、まるで凍りついたかのように静まった。静まって完全に停止した。
永司は笑みを浮かべていた。今まで一度も見たこともないくらい、穏やかで優しくて深い愛情に満ちた笑みだった。俺が知っている、狂気を隠し持っているいつもの永司じゃないみたいだった。
それは解き放たれた瞳だった。
もう涙は出なかった。
永司は常に自分で何かを決定している。自分だけで、自分ひとりで。そしてそれを口にしない。
電話は繋がらなかった。俺は永司の側にいなかった。
永司は何かを決定した。
俺の知らない場所で、俺の知らない重要な何かを、ひとりで。
それから数日、これといって見た目は何も変化がなかったが、永司は確実に変わっていた。俺にはそれが分かる。真田は分からないって言ったけれど、俺には分かるんだ。世界中の誰にも分からなくても俺だけにはよく分かる。
永司の瞳が微妙に変わった。手から伝わる感情がほんの僅かに変わった。
永司はまるで死期を悟った年老いた賢い獣のように静かに穏やかになった。言葉は元々少ない。だから静かになったのは言動じゃない。そういうのじゃなくって、例えば5月のあの頃にあった俺に対する殺意や、同じくあの頃にあった俺に対する苛立ちや憤りや、永司特有の狂わんばかりの独占欲が、まるで元から無かったかのように自然に消えていた。それは痕跡もなく消滅してしまっていた。
確実に変わった。だけど、俺以外は誰もそれに気付かなかった。
それは何よりも、永司が自分に起こった変化を隠していたからだ。永司は平穏な日々の続きのような顔をして俺に接した。俺がぼんやりしていれば何も分からないくらい自然に。
俺は藍川に言われたようにただ静かに耳を澄ます。永司もまた同じように耳を澄ましている。二人で、深い海に沈みこむように。
9月も終わろうとしている金曜の昼、俺は岸辺と昼飯を喰った。
学校裏の森に行って木陰にあるベンチを二人で独占し、俺は秋限定のランチボックスを、岸辺はクラブサンドを食べた。
「金返せって言うんだよ、ただ一言」
岸辺は笑いながらクラブサンドが入っていた紙屑を丁寧に畳んだ。
「夜中に?」
「そう、真夜中に物凄く怒った声で。岸辺ですけどって声かけても駄目。だたひたすら、てめー金返せ、の一点張り」
「間違い電話?」
「いや、悪戯電話」
岸辺は俺を見てニヤっと笑った。今日の岸辺は久しぶりにコンタクトだ。岸辺はどんどん大人っぽくなっていって、見栄えも結構良い感じになってきた。なんと言うか、トンボに例えると脱皮してる。まだ羽は乾いてないけど。
「何で悪戯電話って分かったん?」
「聞き覚えのある声だったんだ。黙って聞いてると女の人の馬鹿笑いも聞こえた」
「あーー」
分かった。真田と暁生のアホコンビだ。
「暁生君でしょって訊いたら、物凄く焦ってたよ。ちげーよ!俺は街金の三田川だ! って。でも、じゃがバター好きですか?って訊ねると、すげー好きだよ! なんて言う」
そこで俺達は大いに笑った。
それから暫く暁生のアホっぷりを二人でネタにした。最近暁生ネタが多いのは、俺の周りで暁生ブームが到来しているからかもしれない。当の暁生は知らないだろうけど。
良い天気だった。
風もなく、空気が柔らかだ。校舎からは生徒達の笑い声が聞こえ、どこから飛んでくるのかカラスアゲハがひらひらと心地よく舞ってどこかへ消えた。
俺もまた、食べ終えたランチボックスを片付けて袋に入れる。後で食堂に返さねばならない。
「ねぇ深海君、今日は岬杜君どうしたの?」
岸辺に問われ、俺はああ、と顔を上げた。
「苅田が単車のパーツ買ったとかで、苅田と一緒にいるみたい」
「そうなんだ」
岸辺はそう呟きながら少し不思議そうに首を傾げた。永司と苅田は実は意外と仲が良いんだと言うと、岸辺は顔の角度を元に戻してちょっと笑みを浮かべる。どうもそういう意味で不思議がっていたわけじゃないみたいだった。
「ねぇ岸辺。話ちょっと変わるけど、いや永司の話なんだけど。アイツって最近どっか変わったように見える?」
質問してみる。
岸辺はまた首を傾げる。それからうーんと唸って、分からないなぁと答えた。3年になってクラスが変わったので、以前よりも永司を見かける機会自体がほとんどないからそれは当たり前かもしれない。
「何かあった?」
その質問には上手く答えることができそうにない。
「岸辺は俺に隠し事をしたい時、どうやってそれをする?」
「徹底的に」
岸辺は当たり前のことを言うようにそう言う。
「徹底的に隠す。自分の感情が自分で分からなくなるくらい徹底的に、断固として隠すよ。君は力がある上に勘が良いから、生半可なことじゃ駄目だ。だからそれなりの覚悟をもってして完璧にやるもしくは」
「もしくは?」
岸辺はニッとからかうように笑う。
「開き直る。隠し事をしていること自体はバレるだろうけど、君は人の考えていることまでは分からない。隠し事をしている、ということしか分からないんだ。だったら何も分からないと同じじゃないか。だからそのこと自体はもう開き直って接する」
なるほどね、と俺も笑った。
確かにその通りで、俺は何を隠されているのかまでは分からないんだ。
だからか。だから永司は平気なんだ。
何だかやる気が無くなった。なんのやる気かは分からないけど、とにかくそういう種類のものが大きく失われた。
それからまた強い哀しみに襲われた。
どこかに行ってしまったと思っていたカラスアゲハが戻ってきて、俺達の前をひらひらと横切って行く。一羽の見慣れぬ大きな鳥が俺達に木陰を作ってくれている木の上に止まった。
「雨の日、とても疲れている日に人身事故で電車が止まってる。車両の中にアナウンスが流れて、誰も彼もがどうしようもなく疲れきっていて無口になってる。俺は音楽でも聴こうとイヤホンを耳にして再生ボタンを押す。するとドアーズとかレディオヘッドとか、そういった類の音楽が流れてるんだ。俺は何かやらなきゃならないことが山のようにある。それが何か分からんのだけど、とにかくやらねばならんことがあるんだ。でも電車は動かない」
「君は動く必要がないのかもしれないよ」
「そうなのかもしれない。でも永司はどんどん動いているんだ。ずっと考えてたんだけど、全てを含めそれが良い兆しなのかどうか分からない」
予鈴が鳴ったので俺達はそこで話を終わらせて立ち上がった。
「岬杜くんの最も凄いところは、深海くんをここまで夢中にさせたところだ」
岸辺がそう言った。最近同じことを誰かに言われた気がした。
その日の夜に俺は参考書をぼんやりと捲りながら永司と携帯で話した。
これと言って変わった会話は交わしていない。ただ、今日の授業はつまらなかったとか暁生ブームがきているとか、苅田の単車のパーツの話とか、構文150とか、そんなんだ。
永司は極めて落ち着いていて、極めて自然体で俺の話に耳を傾けていた。本当にこれっぽっちも問題のない、親密な恋人同士のような雰囲気だった。どうしてこういう雰囲気を作れるのか分からない。不自然な沈黙も淀んだ空気もない。
ブン殴りたくなる。
「あのさぁ。唐突ですけど二人で同じ問題を抱えたいよね」
「なんだよ突然」
「永司と俺、二人で同じ問題に立ち向かいたいよね。そういう意味で世界を共有したいよね。同じ問題について同じ気持ちで互いの意見をぶつけあって、同じ気持ちで解決にむけて足掻きたいよね」
「そうだね」
そうだね。
目の前にこいつがいたら蹴り倒していただろう。永司は避けるかな。避けないかな。
サトルと俺は洗濯機を挟んで会話をしている。でもその距離はあまり気にならない。それはサトルが望んだ形であって、俺はそれに納得しているからだ。
でも今の永司と俺はどうだろう。俺が望んで永司から離れているのに、なんでこの距離がこんなにむかつくんだろう。
この距離って一体なんだろう。
こういう距離ってなんだろう。
電話が終わると俺は日記を書く。
繋がらない電話を握ったまま眠った日に何かが起こり、永司は変わった。今の永司に脅威は感じない。俺はもう以前のように永司と一緒に暮らせることができるような気がする。
ただし、永司の変化について俺はまだそれが良い変化なのかどうか分からない。世界を破壊したいくらい分からない。分からないんだ。苦しい。分からないんだ。
■それが良い兆しかどうか分からない。
10月に入って最初の土曜日、珍しく朝早くに目覚めた俺は洗濯やら掃除やらやりたくないけどやらなくちゃいけないことを早々とやっつけ、昼前に家を出た。昼過ぎに永司と待ち合わせをしているので、どこかで時間を潰すつもりでのんびりと歩いて駅に向かっていたのだ。
天気が良く過ごしやすい日だった。身体も軽く、気分も良い。
幼児と小学生がよく遊んでいる公園を突っ切って行こうと柵を乗り越えると、久々に勘が働く。誰かが俺を意識しているような感じだ。
しかし辺りを見渡しても別にこれといって何もない。気にしないでおこうと歩いていると、ジュースの自販機の前で一人の老人が小銭をばら撒いていた。財布から小銭を出そうとして手元が狂い中身をブチ撒けた、という状況。たまに見かける光景だ。
大丈夫ですかと声をかけ、一緒に小銭を拾う。十円やら百円やらを拾って近くの植木の間なんかもチェックして、お金を手渡す。
その老人は柔和な眼差しで俺を見つめていた。60代だろうか70代だろうか、俺は老人はひとくくりで「老人」なのでよく分からないけれど、年の割には随分とカクシャクとしている人だった。柔らかそうな生地の淡い緑の服を着て品の良い帽子を被り、一見地味だが高価そうなステッキを手にしている。
「ありがとう」
と、老人は言った。それから、良い天気だね、と続けた。
確かに素晴らしい天気だった。雲ひとつなく、空は秋の涼しい青色で染められていた。
「君も何か飲むかね?」
お礼に――と、老人は微笑んだ。気持ちの良い微笑みだったが、この人はとても不思議な目をしていた。俺はこの眸を知っている気がする。
老人の口調はどこか従いたくなるものを含んでいた。この人は人を従わせる立場に長年立っていた人なのかもしれない。俺は別に急いでいるわけでもないし世界中の老人を忌み嫌っているわけでもないので、では何かいただこうとすんなり応じた。そうした方が良い雰囲気だったから。
喉が渇いていたわけではないけれど微糖の珈琲缶を奢ってもらう。老人も同じものを買った。二人でベンチに腰掛けて、他愛のない会話をした。天気の話とか帽子や杖の話とか、それから猫の話なんかも。
「猫は何匹か飼ったよ。あれは不思議な生物だ。決して迎合しないし、一匹一匹独立した世界を持っている。あの世界は人間には覗けないものなのだろうな」
老人は言う。俺は珈琲を一口飲んで、相槌を打つ。
「若い頃に飼っていた猫で、もぐらと名付けた雌の黒猫がおった。呆れるほど無愛想な猫で、唯一家の庭師にだけ懐いておったな。そのもぐらがある日夢に現れてな、わしに何か言うんだ。だがわしはあやつが何を言っているのか分からなんだ。ただ、とにかくこいつはここから出て行くんだということは分かったし、わしはそれを止められないということも分かった。目覚めるとやはりもぐらはもういなかった」
俺は老人の話に耳を傾けながら、ぼんやりとその瞳を眺めていた。
どれだけ温和な老人を演じようが、この人は人の上に立っていた…いや今も立っている人だ。雰囲気は誤魔化せてもそういう匂いや瞳の威圧感は消せない。
それからこの人は俺を知っている。俺は知らないけどこの人は知っている。
「あ、分かった」
俺はそう呟き、立ち上がる。老人は驚いたように目を瞬いていたが、俺はそのままゆっくりと辺りの気配を探った。
何人かいる。この近くに。
「あのね、話変わるけど、あの人たちのこと怒らないで欲しいな。もう手遅れだろうけど一応フォローしとくね。俺を捕まえられるのは世界中であんたの孫だけなんだよ」
老人は目を細めて少し笑った。
「それから正直に言って俺はあの時結構本気で腹が立ったよ。試したかったのか一方的にことを進めたかっただけなのかただ会ってみたかったのか知らないけど、もっと他の方法があっただろうし、あんなやり方はやっぱり面白くない。シナチクは面白い奴だったけどね。……シナチクのこと怒った?」
「怒ってはないよ」
「良かった。あいつは面白いから好きなんだ。でも今はいないね?」
俺は背伸びをしてもう一度周囲の気配を探ってからベンチに座りなおした。
「シナチクは良くやってたよ。尾行は気配を消して複数で深追いせず。視線もほとんど気にならない程度だったし、捕獲の際の手際も素晴らしかった。良い仕事してたと思う」
俺に気付かれずに尾行できる人間はほとんどいない。人の気配や視線には敏感だし、そもそも勘が良いんだ。俺に気付かれずに完璧に尾行できるものがいるとしたら、それは母ちゃんの友達の鳥たちくらいだろうと思う。
老人は正体がバレても微動だにしなかった。雰囲気的には打ち明けるつもりはなかったはずだが、バレたからといって困ることもないのだろう。
「何故あの子の祖父だと分かったのかな?」
「総合的に。あと、目が似てる」
シナチク達はどこか行儀が良く企業の匂いがした。いくらお金持ちが多い学校に通っているからってあの手のレベルの連中を抱えている家は少ないだろうし、いかにも抱えてそうな苅田家には俺はあの日泊まっている。俺の素行チェックまでして、更に俺に会いたがる人間はそんなにいないだろうと思うのだ。だからあの時点で大体予想はしてた。
「君は報告以上に勘も良いし頭も良いようだ」
「勉強はあんまりできないんだぁ〜」
「数学に随分と手をやいているようだね」
アハハと俺はひきつった笑みを浮かべた。数学のテストが0点ばっかりということはもうバレているらしい。さっきまでちょっとカッコイイ深海ちゃんだったのに、一気にオバカな深海ちゃんに格下げになった気分だ。俺的に。
「それで何の用ですか? 俺は結構良い子ちゃんですよ?」
そう言うと、老人は声を立てずに笑った。
「ただね、実際に会ってみたかっただけだよ」
「そうなんだ。ちょっと質問なんだけど、俺の身元調査とかしたよね?」
「それなりにね」
「俺の母ちゃんの職業ってなに?」
訊いてから相当カッコワルイ気がした。自分が相当オバカな子な気がした。でもこれでようやく母ちゃんの仕事が分かるのだ。長年の謎がようやく。
「訊ねる相手が違うんじゃないかね?」
しかし老人はゆっくりと首をふる。
「母ちゃん教えてくれないのよ」
「だったらそれはそれなりの理由がある」
それはそうだ。
俺は溜息を吐いて老人の珈琲の缶に目を落とした。老人はそれに全く手をつけていない。
それからまた俺達は他愛のない話をした。雲の種類とか毎日生産され処分され続けるコンビニの弁当なんかの話。味噌汁の具や各地の名産物の話なんかもした。初めて会った名前も知らない人と交わす会話に適しているかどうかは知らないけれど、老人は聞き上手で話が随分と弾んだ。
それから俺と老人は空に雲を描きながら飛行機が飛んでいるのを眺めた。
「今日はあの子とは会わないのかね?」
老人は訊ねる。俺は携帯を取り出して時間を確かめ、そろそろその「孫」に会いに行く時間なんだと答える。
老人は飛行機を見上げたままだ。
砂場で遊んでいた幼児たちの一人が大きな声で母親を呼ぶ声がした。
「あれが……あの子が先日わしのところにやってきたよ。呼んでもいないのに来たのは初めてだった」
俺の視線は急激に落ち着きをなくし、うろうろと宙を彷徨ってから足元に落ちてそこでようやく止まる。
「あれは昔から無口で何を考えておるのか分からん不思議な子だった。何をやらせてもそつなくこなしたが、中でもある分野で異様な才能を示した。戦後GHQによって研究開発を禁止されていた空白の期間を埋めることができる才能だ。あれは自分の才能がいかに貴重でいかにわしが…社会が、国家が欲しているものなのかを知っていた。そしてそれに従事することを条件にある要求をしてきた。わしらはそれを飲んだ。あれが15になった頃の話だ」
俺は黙って聞いている。視線を落としたまま。
老人は淡々と続ける。
「そして先日、あれはわしの所にやってきた。わしは…わしはな深海君。再びあの子の要求を飲んだ」
手を繋いだ母と子が目の前を通り過ぎた。
俺は暫く黙っていた。それからもう一度携帯を出して時間を確かめ、顔を上げて老人を見つめた。
「あいつはどんな要求をしたんですか。これも訊ねる相手が違いますか?」
「違わないかもしれない。だが言えない」
「誰にも言わない約束でもしたんですか」
「そうだ」
「なら何故そんなことを俺に言ったんですか」
俺は立ち上がって老人の真正面に向き合った。
目が合う。
俺はきっと怒っている。怒ることじゃないのに怒っている。何故だか分からないけど、きっと凄く怒っている。
老人は眩しそうに目を瞬かせ、それから俺を真っ直ぐに見据えたまま押し黙った。確かに優しい表情だった。しかし隠しきれない威厳に満ちており、それからその瞳は拭いがたい悲しみに満ちていた。
俺は暫くそのまま老人を見つめていた。
空は青く風もなく、遠くから子供達の声が聞こえてくるだけで辺りはやけにしんとしていた。
「もぐらは帰ってきたのですか?」
俺は訊ねる。
「いや」
老人は長い沈黙の後にそう答える。
俺は時間を確かめ、頭を下げてからその場を去った。
永司に会っても、俺はその出来事に関しては何も言わなかった。永司に訊ねても何も答えないのは明白で、その上俺の苛立ちが限界にくることも分かっていたからだ。
家に帰ってから日記に全てを書き込んだ。
手が震えている。
永司を殺してやりたい。