最終章 二足歩行の痩せた獣

「だからさ、自分でもハッキリしないわけ。夢なのか現実なのか分かんない記憶が多いし、なんか曖昧なんだよね、所々。例えば黒づくめの男の人の記憶があるんだけどさ、その人が本当に実在したかどうかよく分かんねぇの。なんかオカシイんだよ、全体的に。その時見た風景や会話なんかはよく覚えてるんだけど、その空気っていうか、世界自体がどこか変だったりさ。そもそも、世界は常に謎めいてたんだ。母ちゃんと姉ちゃんみたいにいつだって謎めいてて、俺はそれが普通なんだと思ってた。そういうものなんだって」
 帰る途中で道の駅に寄って二人でメシを食い、その後道の駅の裏にあった小さな公園で俺は、水のない噴水の縁に腰をかけて永司と話をしながら携帯でメールを打っている。メールの相手は暁生で、空メールが来たけど何だという内容だ。
「夢だったか現実だったかなんて、どうでも良いんだ。そういうのは関係ないんだ」
 隣に座っている永司は俺が送信ボタンを押すのを待ってから、話をせがむ。
 だから俺はできるだけ色々話してやろうとした。多少大きくなってからの記憶はまだまともなものが多いし、その頃の話は今までに何度か話してやっているのだが、今永司が聞きたがっている幼少期の記憶というのは本当に曖昧だ。
「やっぱり良く分かんね。でも凄く可愛かったぞ」
「それは分かる」
 暁生から電話がきたけれど、出た瞬間に「間違えただけ」と言い暁生はそのまま切ってしまったので、もう放っておく。
 俺は自分の小さかった頃のことをもう一度思い出そうとするけれど、かなり断片的なものしか脳裏に浮かばない。こういうのは何気ない時にふと思い出すものであって、話せと言われるとなかなか思い出せないものだと思う。思い出す作業は総じてそういうものなのじゃないだろうか。思い出そうとすればするほどその記憶は、耳を齧られたネコ型ロボットの四次元ポケットみたいに酷く雑然としたところの奥の方に迷い込んでしまう。
「なんで俺ばっか話して聞かせなきゃならんのだ。たまにはお前もそういうこと語って聞かせろよ」
「俺にはそういう逸話がないんだ」
「ないわけないだろう。お前何か? 俺には語れない壮絶な過去でもあんのか? それともアレか、己のことは一切ハルコに語るべからずとかいう生活目標でも掲げてんのか? 毎度毎度自分のことだけはひたすらに隠しやがって」
 妙に腹が立ってきたので、5分くらいずっとブチブチと小言を並べてやった。その間に4箇所も蚊に刺され、痒くて痒くて仕方なくてムカついているのに、暁生からまた空メールが入った。新しい嫌がらせかもしれない。
 携帯の電源を切って永司と向かい合う。
 息を大きく吸って、それから覚悟を決めてずっと言いたかったことを一気に口にした。
「大体お前、ちょっと本格的に馬鹿なんじゃねぇの? 前からずーっと思ってたんだけど、会話がなかったら何も始まらないし何も理解できないし何も解決しないんだよ。話して理解できなくても良いんだよ。そんなことは別にどーだって良いだろう? ああ、これは価値観の違いなんだなぁ、フムフム永司くんはこういう考え方をしているわけですな、なるほどなるほどぉ〜って、俺はまたひとつ永司マニアに近づけれるわけじゃん。結婚とは長い会話って言うだろ」
「ニーチェだね。春樹は結婚してくれるのか?」
「お前となら五千万回してやるよ」
 ヤケクソ気味にそう言うと、永司はとても楽しそうに笑った。物凄く幸せそうにだ。
 それから世界中探しても永司以外は誰にもできないくらい愛情を込めて俺の髪を撫でた。
「それなのに、お前は肝心なことは何も言わない」
「言葉が見つからないんだ。そういう才能に欠けているんだ」
「才能なんて関係ない」
「あるんだよ」
「ねぇよ」
 永司は嘲笑とも冷笑とも違う、嫌な笑い方をした。諦めているような、全部分かってるみたいな、何だか『ほら、やっぱり』って言われた気がした。何がやっぱりなのか分からない。
「伝える努力ってもんをさぁ」
 もう嫌になってそこで言葉を切った。自分の声が震えていた。
 ああ、また泣きそうになってるなってぼんやりと感じた。永司に関することにだけ、俺はとても弱い。
「ガツガツにセックスしたいね」
「ハァ?」
 一瞬猛烈に腹が立った。一生コイツとはセックスしてやんねぇと思った。俺は今かなり大事なことを話しているわけで、ついでにイラついているわけで、更に言うともうわけも分からず泣きそうになっているわけで、永司の下半身の問題なんて極めてどうでも良い。まず俺の話を聞いて、それから永司は自分のことを語るべきなのだ。
「春樹はどんな時にセックスしたいと思う?」
「知らねぇよこの馬鹿が」
 吐き捨てて立ち上がり歩き出そうとすると、手を捕まれる。その力強さに振り返ると、永司の真っ直ぐな視線が俺を抑制した。
「俺は、お前のこと隅々まで欲しい。余すとこなく悉く欲しい。だから最終的に出る言葉が『セックスしたい』」
 俺の心が動く。心に力があるとすれば俺の心は今、あらん限りの力をもって伝えられない感情を俺に示している。
 永司の言いたいことはとても良く分かる。永司のそういう気持ちは、抱き締めたいくらい理解できる。
「それは分かる。そういう気持ち」
「分かる?」
「分かるよ。ミチミチに欲しいんだろ? 根こそぎ薙ぎ倒すくらいの全力で」
 俺は掴まれた手を引いて立つように促す。

 それから永司は一度も休憩せずに単車を走らせた。俺はその間、ずっと永司の背中を眺めながら歌を口ずさんでいた。ジョンレノンのLOVEを。そういえばあのCDは結局見つかってないのだが、どこに行ってしまったんだろう。あれは絶対に探しださなきゃならない。そして永司と二人で聴かなきゃならない。
 いつの間にか見知った風景を走っており、単車は低く良いエンジン音を立てたまま俺のアパートの前で停車した。俺は単車から降りずに暫くどうすべきなのか考えた。どうすべきか、どうしたいのか。
 どうしたいんだろう。
 俺はただ、本当に、永司と楽しく日々を過ごしたいだけであって……いやそうじゃなくて、今はどうしたいんだろう。難しい。
 何で俺はもっと孤独じゃないんだろう。孤独だったらこんなことで悩まないのに。何も悩まずに永司と一緒にいたいと思うだろうに。何で永司だけ孤独なんだろう。会いたいと思う気持ちや一緒にいたいと思う気持ちはあるのに、多分それだけじゃ駄目で、俺は一人でいる孤独も二人だから感じる孤独もちゃんと知らないから。
 何で俺は悩んでるんだろう。
 何で永司だけ苦しんでるんだろう。
「お前ん家行く」
 そう言うと、永司は何も言わずまた単車を走らせた。

「俺は多分すっごく我慢してる」
 エレベーターに乗ったと同時にそう告げた。
「何に対して?」
 永司は二人分のメットを抱えて、階数のボタンを押しながらそう訊ねた。
「分からない。分からないけど我慢してる。泣くかもしれない」
 上昇する。
 永司が俺を見る。
「なぁ永司。苦しい時は苦しいと言って良いんだ。俺もお前も。そして俺は今、何かよく分からないことに対してとても我慢している。とにかくお前は全部言え。イライラするから。早く言え。ムカツクから。お前のせいでずっと情緒不安定だから。俺は今も子供みたいにぐずぐずと泣きたい気分で一杯」
 上昇が止まり、音がしてエレベーターのドアが開く。俺たちは喧嘩中の気まずいカップルみたいな変な空気を抱えて永司の部屋の前まで行く。
 永司が鍵を開けて玄関に入る。俺もそれに続いて中に入りドアを閉める。そして、靴を脱ごうと下を向いた瞬間に抱きすくめられた。
「…靴」
「うん」
 返事はすれど永司は離さないので、俺はもぞもぞと脚を動かして靴を脱ぐ。それでも永司は離さない。永司の身体は俺への執着で一杯だ。こいつは何を欲しがっているのかすら俺は分からない。例えば毎日一緒にいて、毎日セックスして毎日抱き締めあって毎日キスして毎日毎日永司だけを見つめたとしても、永司はきっと満たされない。
 満たされないんだ。この男は。
「お前さ、俺の何に執着してるんだ?」
 そう訊いても永司は何も答えなかったが、俺にはコイツが笑ったような気がした。それがどんな種類のものか分からないけどとにかく笑ったような気がした。それを確かめようと顔を上げると酷く攻撃的な口付けをされる。強引に舌をねじ込んできてその熱を伝えてくる。性欲を無理矢理呼び覚ますような舌、唾液、体温。飲み込まれる。
 キスをしながら永司は俺のベルトを外しにかかる。俺はこの急展開についていけず、ただ息が荒くなってきただけで。
「ちょ――ッ! 待ちなさい永司君!」
 顔を背けて喚くとキスだけは止まった。でも服を脱がそうとしている手は止まってない。  永司の目の奥は加虐的というよりも純粋に破壊的だった。
 俺はそれを感じて心の底で安心する。電話が繋がらなかった夜から永司のこういう部分が消えてしまったかのように見えたのだが、それはまだ生きている。俺は永司がこういう部分を消去したことについてやけに怯えていたのだ。
 唐突に体験する全てを永司と分かち合いたいと感じる。俺はこういうのがない。ここまで純粋に加虐的とか破壊的とか、そういうものが恐らく生まれもってほとんどない。だから知りたい。ありとあらゆる永司の心の動きとか、ありとあらゆる体験とその体験による感情の変化を分かち合いたい。
「お前のこと凄く嫌い」
「俺も春樹のこと大嫌い」
 永司は口元で笑う。俺も笑う。
 こういうふうに素直に言えば良い。凄く愛してて凄く憎んでいると言えば良い。こうやって俺の何に怒りを抱いているのかも素直に吐き出せば良いのに。
「永司って馬鹿だろ」
「お前も馬鹿だろ」
 永司の眸が揺れ、それから喰い殺したい願望で一杯の視線を俺に向けてくる。たまらない気分になる。この男は俺が欲しいのだ。俺はこの男が欲しいのだ。たまらない気分になる。挑みかかってくる視線に同じく挑みかかりたくなる。
 舌を差し出して永司の唇を舐めてから激しいキスをする。永司の手から胸から足から髪から舌から、溜まりに溜まって滞っていた激しくて濃密な何かが瞬く間に爆発したのを俺は感じ取った。それは極めて暴力的で、俺はこのままコイツに殴り殺されるのかもしれないと思った程だった。
 コレはこういう男なんだ。
 誘発されるように俺もまた攻撃的な気分になる。俺はコイツに殺されはしないし、実際に殴られたら殴り返すだけだ。しかも倍返ししてやる。
 深いキスが終わらない。頭にくるわ息は苦しくなってくるわで永司の髪を掴んで強引に顔を引き離し、大きく息を吸って寝室を指差した。それでも永司は離さないので更に髪を引っ張ってその腕に噛み付いて頭突きをしようとしてかわされた所でその腕から逃げた。
「咬むなよ」
「うるせぇテメーにはイチから躾が必要なんだ。ハルコちゃんは玄関でセックスとかそういうの嫌いなんだよ。エッチなことはベッドの中でコソコソと〜」
「噛み付いてくる奴に躾が必要って言われたくない」
 俺は永司の言葉に笑いながら服を脱ぎ散らかし、そのまま寝室へ足早に突入していく。ここに入るのは久しぶりだ。なんで今までこの部屋をあんなに恐れていたのか今はよく分からない。
「ハルコ、今とっても上機嫌よ!」
「さっきまで怒ってたくせに」
 永司も服を脱ぎ散らかしてベッドに入ってくる。
「別に怒ってねぇよ」
「春樹は俺のこと嫌い……」
――なわけねぇし。お前だって俺のこと嫌いだって」
「嫌い」
「殺す」
 笑いながら裸で抱き合って、暫くじっとそうしていた。肌の温もりを感じ、永司の心の動きを感じ、俺はまた急に泣きたくなる。俺がそうであるように、永司もまた極端に不安定なのだ。
 自分の力に感謝する。俺は他の人間とは違って、自分の愛する人間が暴力的になったり本当に優しくあろうと努力していたりするのを、こうして言葉抜きで感じることが出来るのだ。
「泣けてきた」
 そう呟くと永司が髪を撫でてくれる。
「本当に情緒不安定だね」
「お前と一緒だよ」
 永司は俺の肩に顔を埋めて黙り込む。
 だから今度は俺がその背中を撫でてやる。何故か分からないけれど、永司は俺に謝っているような気がした。何に対してなのか分からないけれど。
「本当は好きなんだ。狂うほど愛してる。知らないと思うけど」
 独り言のように永司が呟いた。
「残念ながら知ってた。何故なら俺はエスパーなんだ」
 頬を摺り寄せながら呟くように返事をする。
 それから唇で触れるだけのキスをする。唇に触れて鼻に触れて瞼に触れて、首に触れて指先に触れて髪に触れて、また唇に触れる。
 キスを深くしていく。永司の舌が入ってくる。それに応えながら永司の息遣いや鼓動やシーツが擦れる音、蠢き始めた独占欲に耳を澄ませる。
「……泣けてきた」
 唇を離され、そう言葉にしたら本当に涙が零れ落ちた。一度涙が出るともう抑え切れなくて、俺は身体を震わせてぽろぽろと泣いた。
 永司は黙って明かりを消し、それから本格的に俺の身体を愛撫しはじめた。永司の手が熱い。身体も熱い。この部屋は真っ暗で、永司は俺が好きでしょうがなくて、俺を独占したくてしょうがない。
「お前の独占欲とかも……全部良いと思う。全部好きだと思う。……俺はお前の持っているものが全部好きなんだと思う。お前のこと考えてると…泣けてきたり殺したくなったり辛くなったり落ち込んだりする。この前も泣いた。なぁ永司…永司…こういうのが恋っていうのなら、俺は生まれて初めて恋をしている。凄く激しく」
 永司は返事をしたが、それはわざと聞き取られまいとして呟いたようで何と言ったのかよく分からなかった。でも別に構わない。永司が嬉しいと感じていることは俺には分かるから。
 溢れ出る涙が耳元に落ちていく。乳首を指の腹で擦られペニスを握られると深い眠りから目覚めるように性欲が嵐のように襲ってきた。どんなことでもしたいという欲求が生まれる。どんなエロいことでもできそうな気がする。
 せがむようにキスをすると永司が俺を責め立てる。俺も永司のを握る。腰の奥が重くなり甘たるい快感に身を任せながら挿入されることを想像すると俺はすぐに射精した。
「春樹泣くな」
 言われてまだ泣いていることに気づく。でもまた涙が溢れ身体が震える。自分が何をどれだけ我慢していたのか分からないけれど、もうずっと泣きながらずっと永司とエロいことをしていたいような気分だった。
 出した精液を使って永司が後ろに触れてくる。ゆっくりと時間をかけて解し、指を入れてくる。喘ぎ声を上げながら身体を仰け反らせ、その快感を味わっていると次第に指が増えてくる。暗闇と密室の中で俺の声と永司の息遣いだけが纏わりついて興奮させる。
 汗ばむ身体を起こして永司に跨った。
「……たい」
 しゃくりあげながらそう告げる。
「なに?」
「入れたい」
「まだ」
「駄目、3秒以内」
 手探りで確認しながら永司のを持って自分の後ろに当てる。力を抜いて少し挿入し、最初の痛みが消えるのを待った。それからじわじわと腰を落として駆け上がる快感を楽しむ。ゆっくり挿入していくのが好きだ。身体で味わうみたいに飲み込むのが好きだ。
 全部入れてから顔を上げて口で呼吸をする。永司が待っていたかのように両手で乳首を弄び始め、俺は啜り泣きながら腰を動かしだす。
 次第に動きが激しくなり、熱くて気持ち良くてたまらなくて俺達は溺れていく。真夏の炎天下の下で夢中になってセックスしてるみたいだった。汗だくなセックスは酷く卑猥でやることなすこと全てが気持ち良い。息が詰まったり勝手に声が漏れたりしてアタマの中が白くなってくる。
 イキそうな所で永司が身体を起こし、俺が下になる。獣のように激しく攻められ断続的に襲ってくる快感に泣き声を上げた。抱えられた足をむしゃぶりつくように舐められ、身体が小刻みに震える。イキそうになるとまた体位を変えられ、容赦なく抉るような動きに俺は何か自分でも分からないことを喚き続けた。そして、散々ヤラれて俺は半ば意識を飛ばしながら二度目の射精をした。同時に永司も射精する。
 朦朧とした意識の中で、俺はその後も弄られヤレれまくった。
 死ぬかと思った。気持ち良くて。





 翌日目覚めた時には既に昼近くで、俺は明日はちゃんと学校に行こうと心に決めながら朝食兼昼食を作り、仕舞われていたデッキチェアとデッキテーブルをルーフバルコニーに出してもらってそこで飯を食った。
 永司はよく食べたしよく笑った。金平糖とまるぱんも外に出てきて、のんびりと毛繕いをしていた。
 俺はそこで、空前の暁生ブーム到来についてや、苅田の秘密基地なんかの話をした。今度二人で暁生に嫌がらせしようね、とか、秘密基地を二人で作ってみたいね、という他愛もない話。永司は当然のように秘密基地を作ったことがないと言っていたので、是非やってみたかった。
「そういえば」
 俺が作ったトマトジュースを飲んで、永司が何かを思い出すように遠くを見て目を細める。
「そういえば?」
「そういえば、祖父の家に使ってない蔵があってね。敷地の外れにある実際に蔵としては使ってないものだったんだが、綺麗に清掃されていたので小さかった頃はよくそこで本を読んだ。空気が冷えていて少し重くて、外部から遮断されていてとても好きな場所だったよ。多分様々なモノがそこで眠っていたんだろうと思うが、俺はそこで眠り続けているモノ達には興味がなくて……なんて言うかな、その場所が純粋に好きだった。光が差し込まないその場所自体が。ただ残念なことにそこで何か特別なことがあったわけじゃないんだ。本当にただそこで本を読むのが好きだっただけで」
 永司は視線を戻し小さな苦笑を浮かべて、つまらない話だね、と言った。だから俺はつまらなくないよ、と答えた。
「永司の逸話」
「逸話と呼べるほど興味深い部分はないね」
「興味深い部分があるかどうかを決めるのはお前じゃなくて俺」
 そう言うと、永司は何だか嬉しそうに笑う。俺はそれを見て、今まで黙っていたことを口にした。何も考えず、何も警戒せず。
「お前のそのお祖父さんに、この前会った」
「そうか」
 永司に変化はなかった。今の俺みたいに、凄く自然だった。冷蔵庫の牛乳腐りかけてるよって言われて、あれはヨーグルト作ってるんだよ、って答えたみたいに。
「お祖父さんの方から会いに来たんだ」
「あの人、お前に興味深々だったから」
「でも最初は拉致されかけたよ」
「それは悪かった。酷い目にあった?」
「いや、シナチクって人が面白かった」
「そうか」
 それでこの会話は終了した。永司が何も言わないことに対して俺は別に苛々したりはしなかった。思えば、俺は記憶の一部を失ってからこっち、ずっとケリをつけられないままでいて、それだけに意識を奪われ余裕を失くしていたのだ。
 そして俺は気づく。もしかしたら永司はケリを付けたのかもしれないことに。電話が繋がらなかったあの日に、自分だけ。
 俺は息を吐いて空を見上げる。
 ああ、空が眩しい。
「片付けよう。それからここで昨日採った栗を剥くぞ〜」
 俺は元気に立ち上がって、皿を重ねてキッチンへ持っていく。永司がテーブルを拭いて二人で食器を洗い、片付け、それから昨日採った栗を外のテーブルに置いて二人で皮を剥いた。
「あのさ、お前、俺に示せよ」
 永司は栗の皮剥きに夢中で、聞いてますという意味で一瞬だけ俺に視線を送った。
 俺達の足元では、まるぱんが栗の皮で遊んでいる。
「俺によく分かるように、考えとか、気持ちとか、状態とか、そういうのを何らかの方法で示せよ。俺には示せよ」
「うん」
「それからさ」
「うん」
「お前は俺の言う通りにしてりゃ良いんだよ。これ大事だから日記に書いとけ。11時に電話しろって言ったら電話して、毎日腹筋しろって言ったら毎日腹筋して、片足上げてフルート吹けって言ったら片足上げてフルート吹いて、何か言えって言ったら何か言え。とにかくお前は俺の言う通りにしろよ」
「うん」
「分かってんのか」
「うん」
「うん以外で何か言え」
「栗の皮剥きってこんなに大変なのだなあ」
「あ、関係ねぇけどこの前『毒キノコな彼女』の二番作った。聴いて?」
 俺は元気良く毒キノコな彼女の二番を歌いながら、空を見上げる。
 ああ、空が眩しい。


「お前は何もかもを知りたがっているだろう」
 どこかから二足歩行の痩せた獣の声がした。
「多分本当は、分からないことは全部知りたいんだと思う」
 俺はそう答えた。





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