第13章 ブラックボックス

 夏休みが明けた。
 その日は学校が終わると永司と駅の地下街にある大きな本屋に行った。俺の目的はマイナー漫画家の新刊とマイナー雑誌とあとは何か暇潰しになるようなもので、永司の目的は俺が手にする雑誌やら書籍やらを後ろから覗いたりすることだろうと思う。多分。
 地下街のやけに奥まった場所にあるその本屋に行く途中でラーメンを喰い、CDを一枚買い、人ごみの中を二人でぷらぷらと歩いていると、人々が異様に気にしている一角があった。幾人かが振り向いて見ている。足を止めて見ている人は少ないが、なんというか多くの人間の視線を異様に集めている。
 そいつは、永司が単車に乗る時にたまにしているようなデザインの良い黒いゴーグルをしていた。ゴーグルをしているので目元が全く分からない。映えるような真っ赤なタンクトップに、ジーンズを穿き、足元はこれまた真っ赤なサンダル。胸の膨らみや顔や体の骨格からして確実に女であり、しかも俺と同じ位の身長で、その口元と雰囲気から察するに何故か超不機嫌に突っ立っており、通りすがる者全てをブン殴りそうな気配で溢れていた。
 そして、その女は。
 スキンヘッドだった。
 見事だ。ツルっと見事だ。鉄パイプでも持っていそうな異様な雰囲気だ。
 ゲフンゲフフンと咳払いすると、永司もまたゲフフンと返した。
 とても嫌な予感がするので、そのスキンヘッドに見つからないように俺達は無言で角を曲がった。
「アレってさぁ〜」
 俺がコソコソと呟くと、隣で永司が、多分ね、と答える。
 俺達は足早にそこから離れた。
 それから本屋に行く前に、俺はトイレに入った。奥まった場所にある本屋の更に奥まった場所にあるトイレだ。今日は早く本を買って早く帰っちまおうと思っていたのだが、トイレの横にある地上へ出る階段付近から声がした。ここの階段はあまり使われることがなく、しかもどうもあまり良い雰囲気ではない。
 チラっと覗いてみると、なんと岸辺がどっからどう見ても岸辺のお友達とは言えない連中に囲まれていた。岸辺は困っているようだった。囲んでいる連中の一人が岸辺に馴れ馴れしく肩を組み、手を差し出している。カツアゲだ。
 岸辺はこういう連中を引き寄せるオーラでも出しているんだろうか。馬鹿を誘うフェロモンでもあるんだろうか。そういう星に生まれついた男なんだろうか。何だか岸辺は、これからもあと300回くらいはカツアゲされるような気がしてならない。
「ハルマキハルコとおじょおっ!」
 とりあえず元気溌剌な声を出して登場してみる。その前に永司を呼ぼうかと思ったけど、面倒なことになると嫌だからそのまま登場してみた。両手を顔の横でひらひらひらひらっとさせて満面の笑みを浮かべている今の俺はさぞかし可愛いだろう。キラキラしているに違いない。
 相手は5人いた。岸辺を含めて6人は一瞬酷くアホっぽい顔をしたけれど、すぐに空気が変わる。
 5人のうち4人が何か喚いたが、この暴力の前の威嚇行動はあまり面白味がなくて好きじゃない。「ああ?」とか「ナンじゃゴルァ」とか「誰じゃオメーは」とか、そもそもそういう所からして駄目。センスが感じられない。センスなさすぎてちょっと笑える。でも実際に笑ったらかなり可哀想なので笑わないでいてやる。大声を出してアドレナリンを出してからじゃないときっと他人を殴れないのだろうから、まぁ好きにさせておいて岸辺にキラキラっと笑いかけた。
 その時、5人が突然口を閉ざした。岸辺も俺に声をかけようとし、何か言いかけたまま口をポカンと開けている。6人は俺の後ろを見つめている。
「西軍と東軍、どちらにつく?」
 女の声……しかもよく知った女の声だった。振り向くと見事なまでのスキンヘッドゴーグル女が仁王立ちしている。
「どっちにつくんだ」
 とてつもなく不機嫌な声だ。このまま国会議事堂に乗り込んで暴れまわりそうな雰囲気がある。
「ハルコは勿論西軍っ!」
 エヘっと笑いながらそう言うと、岸辺も察したらしく勿論西軍です!と答える。スキンヘッドゴーグルは5人の前に歩み寄り、もう一度訊ねた。
「おぬしらは、どっちにつくのか」
 誰かが正気に返り、勢い良く何かを言おうと口を開けて空気を吸い込んだが、その言葉を発する前にスキンヘッドゴーグルの前蹴りが飛んだ。
「おのれお主等、東軍の間者かぁああああ!!」
 言い終わる前に二発目の上段蹴りでもう一人ぶっ飛んだ。良い蹴りだった。蹴り倒した相手も最初にヤっとくべき中心格の男で、圧倒的な能力の前に他のザコは呆然としている。しかしいくらなんでも相手が5人じゃ分が悪いだろうし、向こうも女相手に一蹴じゃ流石に憐れなので、俺も参加した。男らしく一発喰らったら一発返すというルールを自分で決めて高校生らしい清々しい殴り合いをしようと思ったけど、最初の一発目で結構痛かったのでやっぱりそのルールは止めて元気に殴って蹴った。
「お前等、好きな戦国武将は誰だ」
 ある程度済ませるべきことを済ますとスキンヘッドゴーグルの暇潰しというか鬱憤晴らしが始まりそうな気配になったので、俺は岸辺を手招きして本屋に戻った。
 そして本屋で永司と合流し、欲しいものを買い、岸辺とバイナラし、永司の単車で家まで送ってもらった。

 8時くらいに飯を喰い、風呂に入って汗を流し、ぼんやりと考え事をしてから風呂からあがると居間にスキンヘッドゴーグルがいた。胡坐をかいてテレビを見ながら俺のパピコを食べている。
「鍵壊したんじゃねぇだろな」
 それは流石に大家さんに叱られるので、俺は口をヘの字にして玄関を覗いてみたが、玄関はどうやら無事だったようだ。しかしベッドの横の窓ガラスが開いているので窓から外を見てみると、排水のための配管が目に付いた。ここからよじ登ってきたのだろう。
 スキンヘッドゴーグルに目を戻すと、パピコを食べてテレビを見ているがどうもモジモジしている。ひっきりなしに体を揺すっている。
「おしっこしたいんだったらサッサと行けよ」
「さっき久々に自分のマンションに戻ったら部屋が枯れた朝顔で一杯になってた」
 俺はゲフンと咳をしてテレビに視線をやると、どうやら俺のDVDを勝手に観ているらしく、パリ、テキサスが流れていた。
「良い映画だろ、パリ、テキサス」
 そう言うと、スキンヘッドゴーグルは一時停止を押してから立ち上がり、トイレに行った。
 戻ってくると、俺はもう一度言う。
「良い映画だろ、パリ、テキサス」
「枯れた朝顔が一杯あったんだ。私の部屋に」
 俺がもう一度咳払いをしてパピコを食べようとしたら、思いっきり殴られた。マジで痛かったので殴り返したら喧嘩になった。それから腹が減ったので二人で冷やし中華を食って、俺はベッドに潜り込み、真田は来客用の布団を勝手に敷いてようやくゴーグルを外して寝そべった。
 横になりながら二人で様々な話をした。
 真田はやはり実家に帰っていたらしい。何をしていたかは言わなかったが、何か用事があって帰っていたみたいだった。真田の地元は避暑に訪れた都会人が多くいて向かいの山のキャンプ場は人で一杯だったと言う。真田は世のアウトドア気取りの親父連中を桜の木につく毛虫のように嫌っていて、やれ五月蝿いだのやれゴミを置いて行くだの、私有地に入るだの山を荒らすだの道具だけは一人前だのビールが飲みたいだけだの、とにかく俺にその鬱憤をぶち撒けた。どうやら子供の頃に観光客と一悶着起こしたことがあるらしく、その頃からかなり徹底的に嫌っているようだ。
 自分の村に訪れる身勝手な都会人の罵詈雑言を一方的に吐きまくると、今度は唐突に最近流行りだしたとあるバンドの悪口を言い出した。脈絡がなさすぎてしっちゃかめっちゃかだが、とにかく嫌いらしい。しかもそのバンド自体を嫌っているわけではなく、そのバンドの熱烈なファンが嫌いなようだ。しかし話を聞いているとそのバンドを極端に嫌っている人間も嫌っている。これはどうもクラスの女子の影響らしい。真田は夏休み前に大暴れしているし、今のクラスの子達とあまり上手くいっていないのだろうと思う。
 真田は不特定多数の人間についての文句をネチネチと俺に聞かせた後、ようやくすっきりしたようで口と目を閉じた。眠りにつこうとしている。
 俺は思う。いつの間に俺は真田とこんなに仲良くなったんだろうと。
 真田は扱い難い奴だから友達は少ない。なので俺はきっと今までも相当真田に近い位置にいたとは思う。二人で遊んだこともあるしこうやってくだらないことを話し合ったことだって何度もある。俺はいつの間にか真田の家の合鍵を持っているし、真田だってこうやって勝手に俺の家に侵入してきてくつろいでる。喧嘩だって必要以上にした。
 でも俺は、今日は今までよりもずっと真田を身近に感じた。こういう距離はどんな時に離れてどんな時に縮まるのだろう。今までだってかなり俺の近くにいたのに、今までだって真田の話は沢山聞いてきたのに、何の拍子でこうやってコイツを急激に身近に感じることができるようになったんだろう。
「お前、何しに長野に戻ってたの?」
 真田は返事をしない。狸寝入りとかじゃなく、キッチリハッキリ俺を無視する。
 もう少し何か訊いてみようかと思ったが、永司から電話がきたので少し永司とお喋りをした。真田が来ていると告げると、永司は、そうか、としか言わなかった。
 電話を切ると真田が目を開けて俺を見ていた。いつものように何か言われるかと思ったが、何も言われなかった。真田の目は随分と大人びて見えた。
「ところでお前、なんでスキンヘッドにしてるの?」
「出家したんだ」
「嘘だぁ〜」
「嘘だ」
 真田は真顔でそう言う。
「これといった理由はない。でも暑かったし。それにカッコイイだろ」
「カッコイイということにしておく」
 俺は返事をして、ベッドランプをつけ寝転んだまま日記を書く。真田はまた目を閉じる。
 俺が距離感について書き終えた時、真田は目を閉じたまま小さな声で永司に何か変わったことはないかと訊ねた。俺はずっと黙っていた。何も言いたくなかったし、何も訊かれたくなかった。でももうきっと真田は寝てしまっただろうと思えるくらいになってから、特にこれといったことはないと他人のような声で答えた。
 真田にとって永司とはどんな存在なのだろうかと思う。真田は俺よりも永司について分かっている部分があるような気がしてならないから、俺は酷く不安定になる。何をどこまで知っているんだろう。真田は永司に向かって私を利用するなと怒ったことがある。何を利用していたんだろう。永司はあの時……あの時期、あの期間、真田の能力を使って何をしていたんだろう。何故真田なんだろう。何故真田はそんなことを俺に訊ねるんだろう。
 その日、眠りにつく前に深淵の縁にいる永司の姿を見たような気がした。

 9月になっても残暑は厳しく、晴天が続いた。
 学校が始まって5日目に暁生が帰って来て、俺に絡んできた。おかえりと言ったら、おかえりと言われると無性に腹が立つとか言って蹴りを入れてきたのだ。油断していたのでモロに腹に入って呼吸が止まった。こうなってしまっては反撃ができず、俺は暁生にされるがままの状態になった。久しぶりに顔が腫れたほど、俺は暁生にやられた。
 しかし翌日に同じように暁生と対面し、同じようにおかえりと言ってやり、同じように怒る暁生の蹴りをかわして今度は俺がかなり本気に暁生をタコ殴りにした。暁生相手にここまで本気になったことはなくて、太陽が照りつける学校の屋上に倒れこんだ暁生はようやく凶暴な瞳を引っ込めた。
 俺達がなんやかやと大騒ぎをしている中ずっと単語帳を捲っていた砂上に暁生はティッシュを貰い、それを細く千切り、倒れたまま器用に巻いて鼻に詰めている。鼻血はまだ止まらない。
「俺さ、今回メキシコに行って来たんだよ」
「メキシコのどこに」
「ユカタン半島」
 地理がそれほど得意ではない俺は、ユカタン半島がメキシコのどの辺りにあるのか知らない。
 それよりも、旅行から帰って来た暁生が、どこそこに行って来た、なんて自分から言うのは珍しい。俺は初めて聞いた。暁生はいつだって帰って来たくはなくて、でもいつも自分が本当に行きたい場所に行けなくて、それがどこかも分からなくて、そういう怒りで満ち満ちている状態で帰って来る。だから何をしたとかどんなことがあったとか、そういう所謂土産話みたいなことは一切口にしない。
「それで?」
「原住民に……なんか長老みたいな人にこれ貰った」
 くたばっている暁生がポケットに手を入れて何かを取り出し差し出してくるのでそれを覗き込むと、小さくて黒い石ころが手のひらに乗っていた。別になんてことはないが、ツルっとしていて光沢があって結構綺麗だった。どことなく川口さんの石――俺のチョーカーの石に似ていないでもない。
「それで?」
「いや、ただの自慢」
 単語帳を捲っていた砂上が興味を示して暁生の石をひったくり、興味津々といった目で暫くそれを眺めていたが、望んでいたもの、もしくは期待したものではなかったようですぐにそれを突き返して教室へ戻って行った。
 屋上は俺と暁生だけになった。空は青々としており、これ以上ないと思われるほど積極的な健康な青だった。俺と暁生が空を眺める時はいつもこうだ。暁生は積極的な空を運んでくるのかもしれない。
 この前、真田と随分親密になったんだ、と俺は言った。暁生は興味がなさそうに生返事をした。
 それから俺は暑い暑いと文句を言う暁生を引き摺って屋上と校舎を繋げる扉の影に入り、二人で寝転ぶ。
「世界の共有って何だと思う?」
 俺はそう訊ねる。暁生は暑いのか悩んでいるのか何度か寝返りをうち、手を伸ばして膝のあたりをボリボリと掻いた後に言う。
「例えば俺は、たまに自分が世界になっているような気分になる時がある」
「自分が世界に?」
「世界の一員とかじゃなくてさ、世界は俺の血肉なんだ。世界の動静とか鼓動とか眺めとか、風の音とか海鳴りとか地平線とか空の色、朝焼け、星空、全部、丸い地球とか空に浮かぶ美人な月とか全部、そういうのをひっくるめて俺は世界と同化してるような気分になる時がある。なんていうか、上手く言葉にはできねぇんだどさぁ」
「神様みてぇじゃん。暁生神!」
 俺は笑う。暁生もまんざらではないようで、そんなこと言われて内心嬉しくてしょうがないくせにあえて大したことねぇよ、なんて言いそうな笑みを浮かべた。多分暁生の脳味噌は今、俺は暁生神!俺は神!とかって言葉が渦巻いているはずだ。エスパーハルコには分かる。
「で?」
 俺が促すと暁生は、まだまだ嬉しくってしょうがないのを悟られるのがカッコワルイと思っている小学生みたいに、とにかく必死で表情を押し殺しながら続けた。
「つまりさ、そういう時の俺と同じ状態になる人間がいて、俺がそいつを好きだと思えたら、世界を共有してるんじゃねぇかなと思った。今」
「嫌いな奴じゃ駄目なんだ」
「そりゃ駄目だろ。よく分かんねーけど!」
 説明するのが面倒になったようで、暁生は投げ遣りにそう答える。でも気分的にはなんとなく分かる気がした。同じ能力を持っていても同じ感覚を持っていても、嫌いな人間同士じゃ世界は共有できない。
「俺は暁生が世界なら、俺が誰かと暁生を共有できたら世界を共有できることにもなるんじゃないかと思った。今」
「俺を共有しようなんぞ1000万年早ぇぜ。それに俺が世界になっている時は、何ていうか多分お前が思ってるのとちょっと違う。もっと俯瞰的なんだ。俺は世界でありながら、鳥みたいに世界を俯瞰してる」
 その感じは分からない。
 俺が鳥のように世界を俯瞰している暁生を想像している間に、暁生は暑さにうなされながらも眠ってしまった。
 空の高い場所を鳶が飛んでいた。

 日が暮れてから雨が降った。
 放課後に暁生にゲームをしようと誘うと、側にいた砂上と藍川も一緒に遊びたいというので皆で俺の部屋に行った。永司は用事があるので来れないらしい。
 4人でできるゲームソフトは何だろうなぁと考えながら歩いていると、雨に濡れたアパートの階段で滑って転んで、ただでさえ昨日暁生にボコられてまだ身体中が痛いのに、更にしこたま膝と肘とてのひらを擦り剥いて俺は大層可哀想な子になった。
 永司ぃ〜永司ぃ〜かぁちゃ〜んかぁちゃーーんと、びーびー喚きながら暁生におぶってもらって家に到着すると、砂上が突然急用ができて帰るとか言い出して実際帰ってしまい、その直後暁生までもが真田に呼び出されたから帰るとか言い出し、あっと言う間に……俺の手当てもしないうちに、二人は帰ってしまった。
 俺は4人で楽しく遊べるために何をしようかと考え、挙句の果てに怪我までしたのになんてこった。
 藍川だけが俺の手当てをしようと動いてくれている。なんて良い奴だろうと感動した。汚れたてのひらを太陽に…じゃなくて流水で洗い、とても丁寧に消毒してくれる。それから皮が擦り剥けて血が出ている箇所に絆創膏を貼ってくれた。手首に近い部分にひとつと、指に近い部分にひとつ。
 手当てをしてもらっている最中に、当然だけど藍川の手が何度も触れる。別に読もうと思って読んだわけじゃないけれど、気を抜いていたのか力を止めてなくて藍川の感情が流れてきた。
 それは何かに対してとてもがっかりしている、残念に感じているといった感情だった。何かに対してとても期待していたのに、当てが外れて気が抜けたような。それは皆と遊べなくて残念だとかそんな軽いものじゃなくて、もう少し心の痛む気落ちだった。
「どしたの?」
 訊ねたのは藍川だ。俺がその手を凝視していたので不思議に思ったのだろう。
 あえて訊くかはぐらかすか悩んだけれど、俺は結局藍川に、なんか残念なことでもあったのかと尋ねた。
 藍川はキョトンとしていたけれど俺の手に視線を遣り、その次に俺の顔を見て、何かを考えるかのように視線を上げて空を漂わせてから何かを納得し、漸く笑みを浮かべた。
「私ね、暁生君が好きなの」
 随分とあっさり藍川は打ち明けた。藍川はどことなくピリピリしている暁生にも気怖じしない数少ない女だ。暁生どころか苅田の威圧感にもそれほどのまれない。砂上のような華やかさはないし自己アピールもしないので大人しい感じはするが、なかなか大した子だ。しかし、暁生に惚れているとは…全く気付かなかった。そんな素振りは見せたことがない。
「暁生かぁ」
「うん、暁生君」
 藍川は照れたように笑ってみせた。可愛かった。
「暁生はまぁ、良い奴だよ。昨日タコ殴りにされたけど」
「暁生君はね、深海君が大好きなの。だから深海君に自分のもどかしさを身体を使って叫ぶの。暁生君は深海君と喧嘩して漸くもどかしさとその怒りを沈静化できるの。深海君や苅田君みたいな人じゃないと暁生君を沈静化できないの」
「真田じゃ駄目なのかな」
「駄目だと思う。真田さんは暁生君が好きすぎてそのもどかしさと怒りに共感しちゃうから。同じ立場じゃ駄目なんだよ。真田さんと喧嘩したら兄弟喧嘩でしょ? 深海君や苅田君相手だと、子供が大人にくってかかってガツンとゲンコツもらうような感じ。その違いなんだよ」
 俺は笑った。藍川の分析は凄い。この子はよく人を見ている。
「そんな子供な暁生のどこが好きなの?」
 そう訊くと、藍川は嬉しそうに笑みを浮かべた。
 好きな人について語るのは、楽しいものなんだ。嬉しいものなんだ。最近それを忘れていたなと、そう藍川の可愛い笑みを見て感じた。
「暁生君には人間関係のしがらみや拘りがないの。誰が誰と仲良くなろうが誰がどんな家柄だろうがご両親がどんなお仕事に携わっていらっしゃろうが、それから誰が何を口走ろうが暁生君には関係ない。暁生君の目には友達以外の人間なんて畑に埋まってる人参や薩摩芋と同じなのよ。いつだって暁生君の世界は自分中心に回っているから、妥協も迎合もしない。する必要もない。そういうことは…妥協も迎合もする必要のない世界を持っている人は、とても珍しいのよ」
「アイツの場合、ただの我が侭なような?」
「違うわよ。ただの我が侭な人間は山のようにいるわ。私達の学校にもね。甘やかされて育って、自分だけは特別だと勘違いして我が侭でも許されると思っている人達は掃いて捨てるほどいるの。でも彼等や彼女等は所詮そこまでで、自分の我が侭が通じないことは当然あって、衝突して、反省したり自分の言い分が通用しない相手を逆恨みしたりする。その程度なの。でも暁生君は違うのよ。彼は、反省したり誰かを恨んだりすることなんてしない。そもそも彼は、何をしても許される人格を持っている。持って生まれたものが全く違うの。深海君だって暁生君が何かとんでもないことをしでかしても、結局許しちゃうでしょ?」
 それはそうだ。俺は暁生にはやけに甘い部分を持っている。
 藍川は絆創膏の紙くずを集めて、それをゴミ箱に捨てた。紅茶でも淹れようかと来客用のティーカップと紅茶を出すと、藍川がそれを引き継いで手際良く用意をしてくれた。なんと気の利く良い子であろうか。真田と砂上はこんなことしてくれない。
「私はね、人間の汚い部分にとても目がいくタイプなの。浅はかで無責任な会話や、嫌味な言葉や、他人を蔑視した物言いや、そういうことがひとつひとつ気になる性質なのね。耳についちゃうの。例え私とは関係ない話でも、私は関わっていない会話でも、外食している時の隣のテーブルの話題でも、そういう言葉だけは切り取ったように無意識に耳につくのね。呪いみたいに。だから他人との距離を……自分の心を適切な位置に保てない」
 深海君はそういうの上手いよねと、藍川はお湯を沸かしながらそう言う。何が?と訊ねると、そういうことを、会話を、上手く受け流すことをお湯を沸かすくらい簡単にできちゃうでしょう?と、藍川は言う。
 そうだと思う。基本的には上手く聞き流すことができると思う。体調が悪い時なんかはどうしてもイラつくことがあるけど…少し前にあったけど、それも年に一度もない。そういう会話は全て自分とは関係ないし、それは全て街の騒音のようなものに変換できる。でもそれは恐らく多くの人間ができることだ。
 でも、藍川のような人間は、もしかすると。
 例えばそれは、理屈ではないのかもしれない。杉花粉に反応してしまう人間がいるように、蕎麦にアレルギーを持つ人間がいるように、またはどうしても牛乳が飲めない人間がいるように、藍川はそれに反応してしまう体質なのかもしれない。
 それは結構、しんどいことなんじゃないかと思った。他人が聞けば、無視しなよ、聞き流せば良いじゃん、神経質すぎる、なんて言われて終わってしまう可能性が高い。
 藍川は紅茶を淹れてテーブルまで持って来てくれた。俺は来客用の女の子ちゃん的な砂糖を台所の端っこからもぞもぞと取り出して、藍川にやる。
「でも暁生君にはそんなもの関係ないじゃない。私を取り巻いている様々なものから暁生君は先天的に解放されていて、奔放に生きている。暁生君には裏も表もない。足のつま先から頭のてっぺんまで、暁生君はいつだって生き生きと、濃厚に、ひたすら南暁生なの。私は人を真っ直ぐ見るようにしているけれど、暁生君を見ている時が一番幸せ。真っ直ぐ暁生君を見ている時が、一番幸せ」
 藍川は紅茶に砂糖を入れながら、優しい笑みを浮かべる。
 それから暫く俺達は暁生の話をした。暁生がどれだけ勝手で我が侭で動物が好きで怒りっぽくてじゃがいもが好きな愛すべき馬鹿だって話だ。暁生はネタにするには最適な男だったし、それに藍川も俺も暁生が大好きだ。藍川とサシでここまで語り合うのは初めてだったが、俺達は大いに盛り上がった。

 その夜、藍川を駅まで送り届けた時、俺は実に良い気分だった。
 藍川は財布を出して切符を買っていて、俺は近くの大きな柱の下に立っていた。それほど遅い時間でもないので駅の構内の中にも割りと人はいたが、ガラの悪い酔っ払いの姿はまだなかった。
 切符を買った藍川が俺のいる大きな柱の下に近寄って来る。
「今度は暁生と一緒にゲームしような」
 そう言うと、藍川は笑みを浮かべた。
 それから一度だけ改札口の方に視線を遣り、目を細めて自分の中で何かを確認してから俺と向き合って目を合わせた。
 何か言おうとしている。だが何も言わない。
 藍川は俺を見据えてもう一度何かを確認し、その後何かを決意してから口を開けた。
「暁生君と砂上さんは、似ている部分があるのよ」
 俺はなんだかよく分からなくて首を傾げる。似ているか?
「全く違うタイプだけれど……それはもう本当に根本からまるで違うのに、結果的にはとても似ているの。暁生君が先天的に解放されているとしたら、砂上さんは先天的に独立している。砂上さんには何も通用しないの。恐らく通常の人間が恐れ慄くものも、彼女には通用しない。ありとあらゆる煩わしいものを切り捨てた超然とした世界がそこにある。彼女の世界には人を飲み込んでしまう穴がないの。切り立った崖も纏わり付く蔓も雑草も、それを刈る機械も、傷んだ服も荒廃も腐敗も、疲れも幸運の電車もない。そういうもの全てを必要としない世界を持っているのよ」
 藍川はそこで言葉を切って俺に考える時間を与えた。
 俺はその間に藍川の言葉の意味をひとつずつ咀嚼していく。開放されている人間と独立している人間。
 藍川はまだ真っ直ぐに俺を見つめている。
「永司は……岬杜は藍川から見るとどんなタイプなの?」
 そう訊ねると、藍川は少しだけ肩の力を抜いた。そのことを切り出すタイミングを待っていたのかもしれない。
「岬杜君は誰にも何も見せないから、私にはよく分からない。どういう世界を持っているのかすら私には見えないし、予想もできない。ただ……ただ、そこに何があるのか見極めることができるのは深海君だけだと思う」
 おそらく、そこで俺はとても沈痛な面持ちをしてしまった。だってそれは分かっていることで、それは俺がしなくてはならないこともよく分かっていて、俺が一番永司を理解しなくちゃいけないことで、一番理解したいのも俺で、でも結局いつもそんな俺よりも他の誰かの方が永司をよく分かってて。
 ふいに襲った心の痛みに俺は息を止める。その痛みは音を立てない大きな機械のように淡々と冷徹に俺の心を潰していく。
 そんな自分を見られるのが嫌で目を逸らしたが、藍川は視線を外してはくれなかった。そして俺を真っ向から凝視したまま、注意深く言葉を探した。
「岬杜君の世界はきっと誰にも見えないんだと思う。どうやっても壊せない箱みたいに、それは断固として開かれることはないんだと思う。まるでブラックボックスみたいに。だから私達はその外部しか知らないし、内部を見ることはできないの。でもその内部の世界のどこかは、深海君が持っている世界のどこかと繋がっているのよ。深い海の底がブラックボックスの奈落と繋がっているの。私はそう思う」
 電車の発車を知らせる音が聞こえた。
 俺は落ち着いて考えようと必死になっているけれど、きっとまだ動揺している。足元に視線を落としたまま自分の汚れた靴を見ていた。
「俺は……俺はちゃんと永司を理解できてない。多分真田の方が理解できてる」
「真田さんは違うんだよ」
 即座にそう断言したその言葉に、俺は思わず顔をあげた。
 目が合う。
 藍川の瞳にはとても力があった。そして、それを見て俺は漸く砂上が自分の側に藍川を置く理由を知った気がした。
「違う……って?」
「真田さんは増幅する人なの。ここからは私の予想だけど、岬杜君は真田さんのその能力を知っていて、ブラックボックスのどこかから真田さんのその増幅器の部分のみに一方的にアクセスしているんだと思う。だから真田さんは、何が起こっているのかとか、岬杜君のブラックボックスの中身とかは、全く分からないの」
 今度は違う意味で動揺する。
 分からなかった部分が僅かだが見えてくる。あの頃の真田の体調、永司の変化、俺の変化。真田は確かに自分を利用するなとか何とか言っていたわけで。
「なんで色々知ってるんだ?」
「私ね、実は結構前から真田さんに口説かれてるのよ。だから真田さんのことは色々知ってるの。彼女、私には色々なことをお話してくれるのよ。だから深海君達のこともそれなりに知っているつもり」
 藍川はそこでようやく笑った。マジで?と訊ねると、本当だよ、と答えられた。
 全くこの藍川には色々と驚かされる。
 何だかちょっと落ち着いてきた。
「何もかもを全て正確に理解できているのは岬杜君だけだと思うよ。最近の深海君の様子が気になったから、それを言いたかったの。私は少し離れて深海君たちを見ているから、そういった視点から何か助言できれば良いなぁってずっと思っててね」
「何もかもを全て正確に理解できているのは永司だけ」
「そう、今は岬杜君だけ。でも深海君は、何もかもを正確に理解する必要なんてないんだよ。私はね……私は、深海君は深い海に沈みこむように静かに耳を澄ましていれば良いんだと思う」
「深い海に沈み込むように」
「そう、深い海に沈みこむように」
 俺は頷き、有難うと言った。
 藍川は頷き、照れたように小さく笑った。
 それから二人で歩き出す。
 藍川が改札に切符を通す時に、暁生に告る時は俺が全身全霊を込めて祈願の舞を踊るから是非教えてくれと声をかけたら、
「暁生君は鳥なのよ。私は彼を見つめる者」
 と、藍川は何かとても楽しそうに目を細めてそう言い、俺に手を振って帰って行った。





back  novel  next