第12章 猛毒の匂い

 夏休みが終わる頃、街中の大きなスクランブル交差点の手前で石塚に会った。
 石塚は素材の良さそうな細身の黒いシャツを着て細身のホワイトデニムを穿き、手にカバンを下げていた。予備校帰りの高校生にしては品が良く育ちの良さが滲み出ている石塚は、俺が声をかけるとデキスギタエガオを作ってみせ、それから周囲をさりげなく見渡した。
 俺達は揃って信号が変わるのを待ち、揃って交差点を渡った。その間にこれといって何も会話はなかったのだが、横断歩道を渡り終えてから石塚はもう一度周囲を見渡し、永司のことを訊いて来た。一緒じゃないのか?と。俺が、これから会うが、早く来すぎたのでどこかで時間を潰すつもりだと言うと、石塚は少し間を空けてからどこかで何か飲まないかと言った。そして俺達は、その交差点の目の前にある珈琲チェーン店に入った。
 都会特有の暑さから逃れ、俺は散々迷った挙句結局面倒臭くなって好きでもないアイス珈琲にし、石塚はカフェラテを購入して、一緒に店内のカウンター席の一番奥に並んで座った。一番奥の石塚の向こうに、一見健康そうに見える不健康な観葉植物のプランターと味気の無い壁が見える。
 最初はごく普通の世間話から始まった。夏休みに何をしたのか、最近は何をしているのか、共通の友人の話題や、映画部が中々面白い作品を作ったらしいなどという話題。石塚はこの夏は予備校通いで何もしていないと言っていたが、退屈な会話をする人間ではないのでそれなりに楽しかった。合間合間に石塚が何故かやけに俺の隣に座っている女性の二人連れの客を気にしていたが、それには気付かないふりをし、永司のことをそれとなく訊いてきたが、それには当たり障りのない返事を返した。
 予備校では砂上と同じクラスらしいので二人で砂上の話をし、それが終わった後になんとなく硬い沈黙が訪れた。
 店内の客は夏休みのせいか比較的年齢層が低い。先程俺達が渡ったスクランブル交差点が見える正面の大きな窓ガラスから、蒸し暑く埃に汚れた夏の町並みが見える。それを見るだけで暑くなるので、俺はアイス珈琲をだらだらと飲む。石塚は自分が購入したカフェラテにまだ手をつけていない。
 俺の隣に並んで座っていた二人連れの可愛い女の子ちゃんが鞄とトレーを持って席を立った。一方が一方に話しかけ、話しかけられた方のあまり上品じゃない笑い声と相槌が聞こえ、それから彼女等は店を出て行った。
「女という生き物が気持ち悪くてしょうがない。猛毒の匂いがする」
 会話が再開されるキッカケに相応しいとは思えない、かなり極端な意見を石塚は口にした。
「女の子ちゃんってのは可愛い生き物だと思うよぉ?」
「可愛くなんてないさ。アイツらって脳味噌のほとんどが男。男の話しかしねぇのな」
「しねぇなんて言葉遣いお前はすべきじゃないね」
「しないのだよ」
 石塚は面白がっておどけてそう言ってみせたが、その目は意識的に全然笑っていない。その目のままじっと注視され、俺はトンと石塚の額を突いた。
「その表情はどこの本棚から出してんの?」
「君用の本棚だ」
「どういう時に使うの?」
「意思を伝えたい時に」
 俺は少し笑う。それから手を差し出して話を促してやる。
「僕は、今後の人生で何が必要で何が不必要かまだ分からないから、とりあえず勉学に励んでいる。多くの人間はきっとそうだろう。だが女は違う。女という生き物は、何が必要なのか考えることもしないんだ。必要としているのは男の話題といつもはちきれんばかりの虚栄心を満たす何かのみだ。なんて醜い生き物だろうと思う」
 石塚の極端な意見を聞きながら、俺はあまり好きじゃないアイス珈琲の中の氷をストローでカラカラと回した。石塚が何を言いたいのかよく分からない。ただ女は馬鹿な生き物だと俺に伝えたいだけとは思えない。
「そうじゃない女の子ちゃんだって一杯いるだろ?」
「そりゃいる。いることはいるけど、数からすると馬鹿の方が圧倒的に多い。多くの人間はそれを知っているけれどあえて口にしないだけだ。何故なら女はとてつもなく五月蝿いから。まるでスーパーのお菓子コーナーで泣き叫ぶ子供のように五月蝿い」
 俺はまだカラカラさせている。
 石塚は、自分が頼んだ未だ手付かずのショートのカフェラテはもう他人のもの、みたいな顔をして喋り続けている。
「例えば女どもが何かに躓くとする。大抵は些細で馬鹿馬鹿しいことなんだけど、とにかくその躓きによって他の誰もしたことがないような大層な大怪我をしたんだと思い込む。いやそう信じたいからそう信じる。自分は特別だ、自分は特別に傷ついた。トラウマに…実際便利な言葉だよトラウマってのは…トラウマになった、誰よりも脆い心が…こんな時ばかり意気込んで脆い心の持ち主になるわけだが、その脆い心が痛む。だが女どもは何もしない。自分に有利な、もしくは自分の味方である適当な他者か言葉を探すだけだ。結果的に女どもの周りには効かないクスリばかり転がることになる。しかし、それに満足しているんだよ。いやむしろ自慢している。何かの勲章のようにね」
 俺は手にしたストローを放し、指先でカウンターを軽くトントンと叩きながら石塚の話を自分で整理していく。
「ねぇ石塚。お前の言う女どもって、具体的に言うと誰だよ?」
「君はクラスの女どもの会話を聞いたことがないのか?」
 そりゃある。確かにくだらない話をしている時もある。それは分かる。
 分かる部分があるので、俺は口を閉ざす。
「猛毒の匂いがする」
 石塚が吐き捨てるように呟いた。
 また沈黙がやってくる。
 夏という季節は街が出す騒音を2割増しくらい大きく聞こえさせる気がする。雑踏やクラクションも夏になるとやけに耳につく。子供の頃はこんなもの気にならなかった。俺が暮らした多くの地域は自然に囲まれており、夏は自然が活気付く音そのものだった。
 石塚は侮蔑的な視線を窓ガラスの外に向けている。
 侮蔑的な態度や表情を演出しているわけではなく、これは素の石塚のような気がした。
「君は岬杜君のどこが好きなの?」
 唐突に石塚が会話を再開させる。
「どこがって……なんで?」
「強い人間や完璧な人間は嫌いだ。後ろめたくなるんだ。僕は、いやきっとほとんどの男は岬杜君を見ていると大なり小なりの劣等感を持つものなんだよ。でも君は違う」
「違うかもしれない。でもお前も完璧な人間なんだろう?」
「まぁね。だが僕は彼に比べればやはり劣っている」
「誰もお前より永司の方が勝っているとは考えたりしないと思うぞ?」
 石塚は冷えた目でニヤリと笑った。冷たい顔だったが翳りのない表情だった。その上卑屈でもない。達観した上に意地の悪い表情、と言えば良いのか。
「1.まず世間の常識として僕の方が劣っている。2.将来的に間違いなく収入力が劣っている。3.そもそも家系からして同じ土俵には立てないほど劣っている。4.ルックス的にも勉学の成果的にも随分劣っている。5.友人関係からして劣っている」
「お前って意外と馬鹿だな」
 あまりに呆れたのでそれ以外に言いようがなかった。
 石塚はまだ冷えた目で笑っている。
「6.こういうことを口にする時点で、いや考えている時点で彼よりも劣っている。さてどれを選ぼうか。複数回答可であるならば全てにチェックをするけど?」
 自虐的な言葉を吐きながら、何故か石塚は俺を責めているように思えた。石塚が自分と永司を比較して劣等感を持つのは勝手だが、何故俺を責めなくちゃならないんだ。そこが分からん。
 大きく息を吐き出してから、俺は少しヤケクソ気味にアイスコーヒーを飲み干した。
「もう何でも良いけど、それがなんだよ」
「だから君は、そんな岬杜君のどこを好きになったの?」
「……」
――僕が彼のようだったら、君は僕を愛した?」
 思わず眉を顰めて石塚を凝視した。石塚は別に俺をからかっているわけではなく、真剣にそう訊ねている。
 期待はない。ないように見える。ただ、純粋にそれを知りたがっている。
「俺は永司が人より勝っている部分があるから好きになったわけじゃない。つか俺は勝っているとか劣っているとか思わない」
「じゃあどこが好きなの?」
「なんでそれに拘るんだ?」
「僕は岬杜君さえいなければ、君を好きになろうとしていたと思う」
 前にも同じことを言われた。半年ほど前にも、同じことを石塚に言われて。
 どうも暑さが拭えない。カップの蓋を開けて氷を口に入れ、それをガリガリと噛み砕いて俺は考える。
 空席だった俺の隣にまた女の子の二人連れが腰掛け、石塚がほとんど聞こえないほど小さく舌打ちしたのが分かった。
「お前、誰かを好きになったことないんだな」
「なろうとしたのに岬杜君が現れたから」
「なろうとするってのは、もう恋じゃないだろ」
「そんなこと君には分からないと思うよ。君は僕じゃないのだから、僕がどういう想いで君を好きになろうかとしたかなんて分からない」
 よく分からない。でも恋に落ちる手順みたいなものはひとつじゃない。石塚はそうやって「好きになろう」と決心しないと恋ができないのかもしれない。
 石塚は冷えた笑みを浮かべたままユウコウテキナエガオを見せる。
「僕は砂上さんがとても好きだ。彼女は明るい人だし美しいし非常に聡明だしね」
「砂上は……まぁ可愛いよな。かなり可愛い。おっぱいおっきいし」
 砂上が暁生をブン殴っていたりブーツの踵で踏みにじっている所なんかをチラチラと思い出しながらそう言うと、石塚が屈託なく笑う。俺はそれを見て、コイツはこんなふうにも笑えるんだと少し思う。
「でも砂上さんを見ていると、自分は彼女に恋をしないし彼女も自分に恋をしないということがよく分かる。僕たちは恋に落ちないことが確信できる。彼女が誰かに恋をすること自体ありうるのかどうか甚だ怪しいものだけれどね」
「お前は恋愛に興味持っているんだ」
 えらく遠回りな話だなと笑ってみせたら、石塚はようやく『他人のモノのよう』になっていたカフェラテに手をつけた。俺のアイスコーヒーはさっきやけくそ気味に飲み干してしまったのでもうない。しょうがないのでまた氷をガリガリする。
「恋愛に興味がある。それは確かにあるかもしれない。でも僕が最も興味を持っているのはやはり君なんだよ深海君。君は砂上さんと岬杜君のことを、どこまで理解しているの?」
 俺は手を翳して間を置きその唐突な質問に対し自分を落ち着かせる。ここから恋愛についての話に発展するだろうと思い込んでいただけに、その質問は完全に不意打ちだった。
 砂上のことは分かっていると思うので問題はない。
 だが永司は。
 半年前とは違い、今の俺は永司を理解しているかどうか……まさにそれは最も他人に触れて欲しくない急所であることは自覚している。
 永司を一番理解しているのは俺でなくてはならないし、そうであって欲しいし、そうであるはずなんだけれども。
 分かってる、このことになると俺は少し混乱する。まずは落ち着こう、そして何か返事をしよう。
 しかしいくら待てども言葉なんて浮かんでこなかった。気の利いた返事をする必要なんて全然なくて何でも良いのだと分かっているにも関わらず、俺は石塚の向こうに見える観葉植物みたいに不健康な沈黙を続けた。
 自分という人間は様々な顔を持ち、その時の気分や状況で様々な自分になる。それでも根底に流れる深海春樹の根っこみたいな部分は必ずある。それと同じように永司にもその根っこの部分がある。俺はそれを……。
 永司の過去を知っているのか。永司の好きな食べ物や嫌いな音の種類なんかは? 永司の思考パターンや主義や思想は? いや、それらはデータだ。データは確かに根っこを作る源にはなっているが、きっと俺が一番知りたいのはそこじゃない。そのデータが血肉を作っているとすれば、俺が知りたいのは血肉の奥にあるもの。いや背後にあるもの。
 なんだろう。
 泣きたくなってきた。
 遠くからパトカーのサイレンが聞こえる。音が重複しているので何台かいるようだ。音は近付き、目の前の交差点を通り過ぎていった。間を置いて三台通っていく。多くの人々がそれを目で追っているのが見える。
「砂上喜代は特殊な人間だ。彼女は――
 石塚が何か言っているけれど、俺にはその言葉を上手く頭に留めることができなかった。だから石塚の声は言葉として把握できず、俺はただ馬鹿みたいに自分の胸の痛みを感じていた。
 急激に海に行きたくなった。海へ行って海に潜ってそのまま深海まで潜り続けたい。
「恋愛するってどんな気持ち?」
 上の空だった俺の様子に気付き、石塚が笑みを浮かべ呟くようにそう訊ねる。前にも同じようなことをコイツに訊かれたことがある。俺は石塚を見て、何か返事をしようとする。しかし海の底に沈む貝みたいな俺の口からは何も出てこなかった。
 きっと俺は変な顔をしているんだろう。なんだか泣きたい気分だから。
 石塚が俺を眺めながら目を細め、慈しみを感じさせる視線を寄越した。
 その後永司から連絡が来たので、俺達は別れた。
 店内から外に出ると、夏の気だるい空気が身体を包んだ。

 その次の日、サトルの母親が遊びに来た。
 仕事が休みだったからと、豚バラ肉と大根の煮物を作って持って来てくれ、ついでにサトルはイチの家にお泊りだからと二人でビールを飲んだ。
「山を越えるとまたそこに山があるわけよ!」
 サトルの母親は自分の人生についてそう語る。熱く語る。
 当然だがこの人はこの人で歴史がある。
 サトルの母親は高校には行っておらず、中学を卒業してすぐにサトルの姉を産んだらしい。相手は当時通っていた中学の教師だったそうで、彼女が惚れ込んだのだそうだ。認知はしないくせにこれからも付き合っても良いぜなんてほざくので、彼女はあっさりとその男と別れて娘を産んだ。小さい男さ、認知すらできないなんて、と彼女は言った。その後彼女は働きにでた。ある日彼女の母親が詐欺にあい、その支払いを巡って元々子供を産むことに反対していた父親から勘当された。彼女は家を出て、娘と二人きりの生活が始まった。
 最初の数年間はまだまともに暮らせていたらしい。だが娘が小学校にあがった時に彼女は事故にあった。ひき逃げだった。仕事を休まなくてはならなくなり、生活が成り立たなくなって彼女は借金を背負った。身体を直して職場に復帰した月、店の中で給料をまるごと盗まれた。彼女はその犯人探しにやっきになり、同僚と殴り合いの喧嘩をした後にクビになった。
 その後数年間はかなり厳しい状態であったという。店のオーナーがある日突然蒸発しただの、借金取りがやって来ただの、ロクがことがなかったと彼女は捲くし立てた。毎日金のことばかりを考え、毎日娘と自分が食べるだけで精一杯だったと。
 それでもある日、サトルの父親と出会った。サトルの父親はその時既に五十に手が届くかという年齢だったらしいが、実直な人間であったし彼女を盲愛した。一緒に暮らしはじめ、生活はある程度安定してきた。ただ、どうしても彼女は彼を愛せなかった。金蔓と言えばそうなるのかもしれない。だが彼はそれを承知で彼女と彼女の娘を養い、彼女等を愛し、共に暮らした。
 本当に良い人だったと彼女は言う。そして愛はなくとも情はあったとも言った。
 しかし彼は一緒に生活を始めて二年で死んだ。交通事故だった。
 娘の父親は私が一方的に愛して、一方的に別れてやった。息子の父親は私を一方的に愛して、一方的にこの世から消えてしまった。
 彼女はそう言う。
 彼が死ぬ間際、サトルを身篭っていることを彼女は知った。産むつもりだった。そして、彼と結婚するつもりでもあった。
 家族は三人になった。彼女はまたがむしゃらに働きだした。生きていくことが好きだった。生きていることに悲観的になるつもりはなかった。それからも恋をした。多くのトラブルがあった。
 懸命に生きていた。しかし気がついてみると娘は自分が一番嫌っているタイプの女に成長しており、息子は他人の子のような顔をするようになっていた。
「いつからだろうね。一日が終わる度に、くたびれたって思うようになったのは」
 彼女は頬杖を突きビールの缶を持って少し振った。どうやら空らしい。
 俺は立ち上がって台所に行き、冷蔵庫からビールを取り出し、それから冷凍枝豆を出して水で解凍して居間に戻る。
 ビールを手渡すと、彼女はすぐさまプルタブを開けて飲みだした。彼女が持って来てくれた豚バラと大根の煮物はもうほとんどなくなってしまっている。
「くたびれることに慣れると、ババァになっていくんだ」
 彼女は枝豆をつまんで口に入れてから、他人事のような口調で言った。それから怖いねー、と続けた。
「貴方は良いババァになると思う。この煮物うまいし」
「ていうかアンタから見ると私はもうババァなんだろうなー」
「豚バラの煮物うまうまっ」
「ささやかなフォローくらいしようよ! そんなことありませんよとか言う優しさ持とうよ青年!」
 一通り自分の人生を語り、俺が彼女の人生をそれなりに知ることができた時点で彼女は満足したらしく、馬鹿なことを言いながら俺達はビールを空けて枝豆や煮物を喰うだけ喰った。途中でキャベツも刻んだし、ベーコンも焼いた。何本かのビールを空にし、彼女は良い感じに酔っ払い、別れた男達の名前を叫びながら俺の部屋にあったピコピコハンマーでそこらじゅうを叩いていた。
 深夜になり彼女が帰る時、握手握手と手を差し出してくるので俺は手を持ってニコヤカに握手をする。彼女は生きることが好きだと言ったが、なるほどその手は確かに力強い良い手だった。
 彼女がニヤニヤしながら手を離さないので、しょうがなしに手を引いて玄関まで連れて行く。俺達はもう随分と親しくなっていて、お互いに軽口を叩きながら外に出た。
 ドアを開けると、丁度サトルの姉が階段を上ってきた所だった。
 目が合う。あからさまに顔を顰めるサトルの姉を見て、その母親もまた嫌悪感を示す。
「おかえりー」
 明るくそう声をかけるが彼女の目は笑っていなかった。娘は何か言いたげに繋がれた俺と彼女の手に視線をやり、もう一度強く顔を顰めた。世の中に存在する全ての憎むべきものが俺の手と自分の母親の手に詰まっているかのような表情だった。
 俺の手を握る彼女の手にやけに力が入っている。彼女の手から伝わる感情は、確かに娘に嫌われても仕方のないような、精一杯柔らかい言い方をしても「とても誉められたものではない」感情だった。石塚が女という生き物を嫌う理由が少し分かるような気がする。なんでこんな所でこんなに無意味な意地を張るんだろう。
 サトルの姉は人はこれ以上不愉快な顔を作れないだろうと思えるほどの表情をしたまま、鞄から鍵を出して自分の家に入って行った。
 彼女はそれを見届けた後に鼻で笑い、ようやく手を離す。
「これから多分あの子と喧嘩しちゃうわ。ちょっと煩いかもしれないけど、まぁ我慢してよ」
「何で喧嘩すんの?」
「そうなっちゃうんだよ。我慢できないんだ。理由なんてもうどうでも良くて、我慢ができないんだ」
 彼女は吐き捨てるようにそう口にする。
「サトルのお姉さんも我慢できない」
「そう、あの子も我慢できない。分かり合う為の喧嘩じゃなくてさ、もうこういう憎しみの喧嘩しかできない。どうせあの子は最初は何も言わないよ。でも絶対途中でキレるね。自分がどれだけ繊細かを延々と捲くし立てて突然泣き出す。目に見えるさ」
 彼女はそう言って、また鼻で笑う。それから壊れた洗濯機の上に手を突いて、あーあと声に出して溜息を吐いた。うんざりしているようにも見えたけれど、どちらかと言うとこれから始まる喧嘩に自分が負けるわけがないという自信みたいなものを感じた。
 彼女がじゃあと手を上げるので、俺もその背中におやすみなさいと声をかけた。

 家に入って日記を書き、歯を磨きベッドに潜って永司と電話をしていると、隣で喧嘩が始まった。あまり気にしないことする。
 永司との会話が珍しく弾まなかったので、お前は何か自分について語れと言うと、更に会話は激減した。永司は自分のことについて語るのがヘタだ。ヘタというか、あまり語らない。母親はどんな人かと訊ねても、無口な人だったと一言で終わってしまう。父親はどんな人かと訊ねても、苅田の父親と腐れ縁らしいの一言で終えてしまう。
 子供の頃の印象に残る事件とか、その時何を思ったのかとか。そんなんじゃなくても、もっと普通のことでも――好きだった玩具とか嫌いだった動物とか昆虫とか、自分の椅子の色とか本棚の中に入っていた本とか、そんなんでも良いのに。そういうことでも俺は嬉しいのに。
 そう言うと、少し嬉しそうに笑った。
 それから明日遊ぶ約束をして電話を切り、まだ続いている隣の家の喧嘩の騒音をぼんやりと耳にしながら俺は目を閉じる。そうしていると、あの人は…サトルのお姉さんは、自分の気持ちは小さな声でしか言えない人のような気がした。人を責める言葉や言い訳や自己を正当化する弱者としてのアピールは大声で言えても、本当に人に伝えるべき自分の気持ちは小さな声でしか言えないんじゃないだろうかと。

 眠りにつく寸前に水に沈むような感覚があった。
「お前は何もかもを理解したがっているだろう」
 二足歩行の痩せた獣の声がした。
 世界はどこにも所属しない空間に迷い込んでいる。
「してないよ。それほど身の程知らずじゃないし、それ程強欲でもない」
 俺はそう言う。





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