俺は今までライ麦畑で子供達をつかまえてきた
深い深い崖に向かって子供達は走っていく
子供は走っている時に足元なんて見ないんだ
だから俺が崖に落ちないように見張ってないといけない
つかまえて、抱き締めたり、髪を撫でてやったり、
足りない者には与えてやり、溢れ出る者は宥めてやる

俺はライ麦畑のつかまえ役なんだ




第9章 俺のスピードは『太陽みたいなモノ』を求めてて


「深海ちゃん、岬杜と喧嘩したのか?」
 屋上で苅田にもたれかかってうつらうつらしていた。緋澄も俺と同じように、苅田にもたれかかって寝ている。暑いのだが、風があって気持ち良い日だった。
 足を伸ばしてブラブラさせていると、苅田が俺の髪を撫でてくる。
「岬杜、ここんところずっと登校してねぇじゃん」
「知らなぁ〜い」
 9月も半ばを過ぎているのに、永司は一度も俺の前に姿を現さなかった。海外にでも行ったのだろうか。
 その間俺はやたら突っかかって来る暁生の相手をしていた。暁生は最近ギラギラした目をもっとギラギラさせている。苅田にも絡んでいるようだった。
「お前永司の携帯番号知ってるんだろ?気になるんだったら掛けてみればぁ?」
 シャツの胸ポケットから煙草を取り出し、火を点けた。ライターを持つ手に、必要以上に力が入っている事を自覚しながら。
「勿論したよ。今が食べ頃かと思ってね」
 苅田はムカツク。でも、俺は苅田が憎めない。
「んでぇ?」
「訊きたいか?深海ちゃん」
 苅田はやっぱりムカツク。
「別に」
 俺は自分の声に小さく舌打ちをする。それは永司の前でしか出した事のない、低くて不機嫌な声だった。隣で寝ていた緋澄がちらりと俺を見る。
 メンソールの味がするバージニアを深く肺に送り込んだ。
「岬杜だけじゃなくて、深海ちゃんも重症なわけね」
 右眉を上げてからかうように苅田が言う。
「何それぇ?俺何か変な病気なわけ?」
 笑いながらも俺はイラつきが抑えられない。
 目を細めて空を見上げれば、霞んだ雲が形を変えて流れていくのが見えた。
「岬杜は俺の携帯から掛けても出ない。緋澄のから掛けると留守電になる。だから深海ちゃん、深海ちゃんの携帯貸して」
「俺のから掛けても無駄だろうよ」
「まさかぁ?愛する深海ちゃんからのコールだったらアイツ絶対出るよ」
「苅田俺の事煽ってるのか?」
「そんなつもりはないけどね」
 俺は苅田の目を見た。人を見下した普段と変わらないように見えるニヤついた瞳の中に、チラチラ見え隠れする挑発的な光。
「俺に嘘は通用しないのは知ってる筈だけどぉ?」
「そうだったな」
 空気が緊迫したのが分かった。だが俺は止められない。
 苛立ちが止まらない。
「お前等止めとけよ」
 反対側で苅田にもたれていた緋澄が言う。俺達に口出しするのは初めての事だった。緋澄は真剣にもう一度同じことを言う。
 俺はまだ半分も吸ってない煙草を揉み消し、携帯を出して苅田に渡した。
「永司は強いぞ。強姦したいなら相討ち覚悟でやるんだな」
「岬杜相手にレイプできるなんて思っちゃいないよ」
 俺が立ち上がると、苅田が手を掴んできた。
「どこ行くんだ」
「教室」
「すぐ済むから待ってろよ」
 苅田は異常に握力が強い。足掻いても無駄なので、俺はイライラしながら早くしろと顎をしゃくった。
 苅田が片手で携帯を掛ける。
「俺。苅田」
 苅田が俺を見てニヤリと笑う。
「切るなよ。ここに深海ちゃんがいる。 携帯貸してもらったんだ。お前俺の携帯じゃ出ないだろ?」
 永司が何か言っているようだ。苅田がクスクス笑っている。
「今日お前のマンション行くから待ってろよ」
 それだけ言うと苅田は携帯を切って俺に寄越した。
「俺の可愛い深海ちゃん、御協力感謝しますよ」
――ニヤついた苅田の言葉に俺の左足が反射的に動いた。
 苅田の側頭部を狙った俺の左足は苅田の右腕で防がれる。足がジンと痺れて、自分が本気でこの男に蹴りを入れた事を物語る。
「苅田、俺は人に馬鹿にされるのも見下されるのも平気だが、俺の事を何でも分かってるって態度されるのは大嫌いだ」
「俺は深海ちゃんの事馬鹿にしたり見下したりはしてないぜ。それに野生動物の気持ちなんぞはさっぱり分からんしな」
 苅田の目は真剣だった。
「俺に永司の話をするな」
 俺はそう吐き捨てて歩き出した。

 久し振りに嫌な頭痛が始まった。
 頭を抱えて教室に戻ると、岸辺が話があると言うので放課後付き合うことになった。

 話は深刻だった。
 岸辺が付き合っていた年上の女は、どうやら最悪の女だったらしい。
 男で遊ぶのは良い。アバンチュールでもパワーゲームでも、そんな事は勝手にしてれば良いんだ。ただ、それをして良い相手か悪い相手か分からなければ、男で遊ぶ資格がない。相手の女は馬鹿な女なんだ。
 でも馬鹿な女に引っ掛かった岸辺を責められない。岸辺は真面目で優しい男だ。優しい両親に包まれるように育てられ、今まで恋もせずに生きてきた。それが初めての相手が年上で、しかも男を弄ぶのに長けている女。世の中にそんな女がいる事すら想像出来なかった岸辺は悪くないと思う。知らない事は悪くない。岸辺は人を傷付けたわけじゃなんだ。高校生だからって、純粋な男はごまんといるんだ。
 ただ、高すぎる授業料を払って勉強した。
 いろんな人間がいるんだと。
 いや、今学んでいる所なんだろう。
「そんな女こっちから『のし』付けて返しちまえ!!」
 俺は岸辺の髪を撫でてやりながら言った。岸辺の心はボロボロだった。昨日はさんざん泣いたのだろう。眼鏡の奥の瞼が腫れている。
 俺は岸辺をこんなふうに泣かせた、相手の女が憎かった。
「深海君だったらどうした?彼女が自分を騙していたら。彼女の家に行ったら知らない男の人がいて、彼女に『どちら様かしら?』って言われたら?」
「暴れる。そんで泣く。そんで忘れる」
 俺は岸辺の頭を抱いてやった。がんばれ岸辺。俺の力を分けてやる。
 岸辺は俺に身体を預けながら、ただじっとしていた。
 赤い夕日。
 岸辺、お前の心は今溢れているんだろう。 俺はその溢れる心を少し宥めてやる事しか出来ない。
「僕、もう一度彼女に会おうと思う」
 岸辺が小さな声で言った。
「何しに?」
「彼女に貸して貰ったCDがあるんだ。それ、返そうと思う」
 岸辺の瞳は未練で一杯に見えた。CD返すだけなら会わなくてもいいんだ。郵便受けやポストに入れれば……郵送したっていいんだ。もう会わなくてもいいのに。
 岸辺、お前は彼女に会って何を言う?優しいお前が何を言う事ができるんだ?
「最後くらいはカッコイイ男で終わりたい。笑って今までありがとうって言ってみたいよ」
 岸辺の瞳が余りにも悲しくて、俺は目を逸らした。
――彼女に嘘だったと言って欲しい
 眼鏡越しに見える岸辺の瞳はそう叫んでいた。
「岸辺…」
「会いに行くよ」
 優しい岸辺。
 真面目な岸辺。
 恋をしている岸辺。
 俺はお前を止められない。
「ちょっと落ち着いてから……会いに行けばいいと思う」
「そうする」
 岸辺の髪を撫でてやりながら、俺はこの優しい友達が、相手の女に会う事で今以上に傷つくだろう事を確信した。
 でも、俺には止められない。
 人が人を想う気持ちは、俺には止められない。
 俺が永司の涙を止められなかったように。


 苅田は永司のマンションに行ったのだろうか?
 アパートに戻ると俺は悔しいほどその事ばかりを考えた。
 しかし次の日学校へ行くと、苅田は平然と話し掛けてきた。俺も何事も無かったように笑って応えた。
 苅田の目を見て俺は安心した。何事も無かったに違いないと。


 暁生や藍川が相変らずこんぺいとうに会いに永司のマンションを訪れているようだったが、永司の話は聞こえて来なかった。どうせ暁生達には何も話さないのだろう。
 暁生はあんなにギラギラしているのに、こんぺいとうにはやたらと優しい男だ。いや、暁生は動物には優しいのかもしれない。
 だが俺にはこのところしょっちゅう突っかかって来た。
「深海、闘ろうぜ」
 暁生は殺気を漲らせて俺を誘う。
 俺は暁生と2人で屋上に行って、汗だくになってその身体を痛めつける。
 暁生は夏休みに一人でスウェーデンに行ってからまだ日も浅いのに、その身体は既に燃料が一杯で、しかもそれが不完全燃焼しているみたいだった。
 苅田に相手をしてもらえば良いのに、暁生は俺の所にばかり来た。
『足りない』
 暁生の瞳が言う。
 最近分かった事がある。
 暁生は何故俺と苅田に絡んで来るのか。
 以前は、暁生は一直線に突っ走る男で、自分を上手くコントロール出来ないんだと思っていた。だから自分の溢れてくる力を苅田に奪って貰おうとしているんだと、そしていつも激しく波立っている暁生の心を、俺が宥めてやっていると思っていた。
 でも最近は、暁生は自分で必死にもがいている事に気付いた。
 暁生は自分で何とかしようとしている。俺と苅田はその中で、ほんの少しだけ暁生を手伝っているにすぎない。
 暁生は俺達にただ甘えているわけじゃないんだ。
 暁生だって自分で自分と向き合ってるんだ。
 俺は暁生を蹴りつけながら、このギラギラしている男を尊敬した。

 俺のハイキックが暁生の左側頭部に命中し、暁生は倒れた。
 倒れた暁生の横に座って煙草を出す。ライターが無かったので暁生のポケットを勝手に探ってライターを取り出し、火を点ける。
 空は神様が自棄をおこして塗りたくったように青くて、 太陽は狂ったように俺達を照り付けていた。
「深海」
 ぼんやりとした目で、暁生が俺を呼ぶ。
 俺は暁生の髪を撫でてやった。暁生が落ち着くまでそうしてやる。夏の日差しが俺達を突き刺すのを感じながら。
「深海は誰よりも深い海を持っている」
 暁生がゆっくり話し出す。いつもと違う、落ち着いた不思議な瞳をしていた。
 こんなふうにコイツが俺に話し掛けて来る事は滅多にない。いつもは、ギラギラした目で俺を見て殴り合いを誘ってくるか、そうじゃない時は苅田と一緒に凶暴な目をしてゲラゲラ笑っているかだ。暁生がこんな落ち着いた目をするのは、こんぺいとうと一緒にいる時に少し見えるだけだった。
「俺の母親は優しい人で、小さい頃からいつも俺の味方だった。深海とは全然違う優しさだ。藍川とも違う。もう、必死で優しいんだよ。全身全霊で優しいんだ。そんな人間から、どうして俺みたいのが生まれたのか分かんねぇって父親はいつも言ってる。俺は優しくないのか、深海?」
 暁生はそう俺に訊いてきたが、自分が優しいのかそうじゃないのかなんて、きっとあまり気にしてないんだと思った。ただちょっと訊いてみたいだけなんだ。
「暁生は優しいよぉ、それは俺が保証してやる。でもお前の父親もそれは知ってると思う」
「……うん」
 落ち着いた暁生に俺のバージニアをやった。
 2人で馬鹿みたいに青い空を見る。遠くに絵で描いたような白い雲が浮かんでいた。ゴミみたいな飛行機も飛んでいる。
 俺と暁生の気持ちなんて、この空の中では片腹痛くなるような些細な事なんだろうと思った。俺達はいつもこんなに足掻いているのに。
「暁生は何を求めてるんだ?」
 俺はふと尋ねてみた。この、いつも溢れている男は何を求めているんだろう?
「分かんねぇ。でも、人を殺して太陽のせいだって言った人間の事を最近良く考えるんだ」
「カミュの『異邦人』の事か?」
「知らねぇ。ただその言葉しか知らねぇんだ。でもその事良く考える」
 暁生は「異邦人」の主人公ムルソーとは全然違うと思う。
「深海は自分のスピードって感じた事あるか?俺はいっつも感じてる。俺のスピードは普通の人間より少し早くて、身体が全然追いつかねぇんだ。だから俺はいつも全力疾走してる。早く追いつかねぇとイヤなんだ。納得出来ねぇんだ。俺のスピードは『太陽みたいなモノ』を求めてて、俺が見た事もない場所や風景を探してる。だから俺はそこに行かなくちゃ駄目なんだ。俺の知らない砂漠や、山や、海を探して駆け巡る。でも、そこは俺が…俺のスピードが求めるモノじゃねぇんだ。だから俺は必死になっちまう。早く身体が追いつかねぇと、俺はバラバラになる。でも俺の母親は俺を心配するんだ。俺が説明すると『分かったわ』って口では言うけど、俺を心配してる。だから俺はこんな場所でお前に相手をしてもらわなくちゃいけねぇんだ。そうじゃねぇと俺は駄目になる。もっともっと、俺と俺のスピードが見たい風景を探さなくちゃいけねぇのに。こんな狭い学校なんかじゃ、『全然足りない』んだよ。……あー、上手く言えねぇな」
 それは俺が初めて聞く、「ギラギラしている暁生の理由」そして「足りないと叫ぶ暁生の瞳の理由」だった。
 暁生の母親は、暁生の味方だと言う。暁生の説明を聞いて分かったとも言う。でも、心配するのはあたりまえなんだ。暁生は母親がいなければ、今頃どこかで野垂れ死にしているに違いない。きっと暁生の中の燃料は、燃え尽きるまで身体を酷使するんだ。
「暁生は太陽みたいなモノを求めてるのか」
「でも俺は太陽みたいなモノのせいにして人を殺したりはしないぜ?」
「分かってるよ、そんな事」
 俺は笑った。でも、俺は不安だった。こいつの母親の心配が分かる。
 暁生は太陽みたいなモノのせいで人を殺したりはしない。いや、どんな理由があるにしろ、人を殺したりはしない奴だ。
 だが俺は、太陽みたいなモノのせいで暁生が死んでしまうかもしれないと思った。
 母親はそれを止めているんだ、きっと。それこそ全身全霊で。
 暁生の母親は理解している。暁生とギラギラしている暁生の苛立ちを。
「深海は誰よりも深い海を持っている」
 会話がループした。
「俺はそんな凄いもの持ってないぜぇ?」
 俺は煙草を揉み消しながら言った。
 いい加減マジで暑い。座っているだけでじっとりと汗が出てくる。俺達はキツイ太陽の光を全身に浴びて、太陽みたいなモノについて話している。
 ふと視線を感じ暁生を見ると、俺は思わずその瞳に吸い込まれた。今にも心が溢れそうな瞳だった。だから俺は暁生を、その身体を抱き締めた。
「深海、暑い」
「うん、暑いなぁ」
 暁生の瞳は明らかに俺を求めていた。
だから抱いてやる。髪を撫で、背中を撫でて、抱いてやる。
俺は暁生が好きだった。このギラギラした男が死ぬのは嫌だ。
でも、俺は暁生を止められない。時々暁生の燻っている燃料を燃えさせる手伝いをしたり、宥めてやったり、こうして抱き締めてやる事しか俺には出来ないんだ。
「俺、どっか遠くに行きてぇ」
 暁生からは男の匂いがした。
「うん。そうだなぁ」
 本当は行かせたくない。暁生がある日突然どこか遠くで、誰も知らない場所でいなくなってしまいそうだから。
「深海。俺は自分と自分のスピードが求める太陽みたいなモノは、この世界にはないのかもしれねぇと思う」
「分かんないだろ?まだお前が見た事もない景色は沢山あると思うぞ?」
「そうじゃねぇんだよ、深海。飄々としていたお前を岬杜が捕まえ、お前の隣に当たり前のようにいるのを見て、俺はそれに気付いた」
「暁生、永司は…」
「聞けよ。俺はな、その時やっと気付いたんだ。俺はゲイでもバイでもねぇ。チンチン勃つのは女が相手の時だけだ。だからお前の事もそーゆう気はなかったし、これからも勿論ない。でもな深海、俺は岬杜がお前をつかまえたと分かった時、何か途方も無く大事なモンが無くなっちまった気がしたんだ。俺はそこでやっと気付いたんだ。俺が求めている風景はこの世にはないモノなのかもしれねぇと」
 少しだけ風が吹いた。
 暁生は俺を見て言う。
「俺はずっと、お前の海の底を見たかった」
 その瞬間、俺は何故か永司を、俺が好きだった永司の瞳を思い出した。
 それから俺と暁生は手を繋いで空を見た。
 暁生と2人で見上げた空は、やっぱりウンザリする程青かった。







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