第8章 沈んでいく太陽


 始業式の少し前に、苅田と暁生を誘って麻雀大会を開催した。
 緋澄はついて来たが出来ないから不参加。自慢じゃないが自慢だが(えへへ)、俺は麻雀が上手い。3時に俺の家に集合だったので、永司と一緒に昼飯を食った後、ハーレーで俺の家まで帰ろうとしていた。ニヤニヤしながら今日のルートと今月の生活費を考えていると、
「春樹、もしかして今日のは俺もやるのか?」
 と意味不明の言葉を永司が呟いた。やるのか?って何?麻雀?まぁ永司と麻雀したこと無かったけど、ここまで来て何を今更。
「んだよ突然。もしや麻雀苦手だったかぁ?大丈夫心配すんなよ。なんだったら通しサイン決めといてもいいぜぇ?ウシシ」
 俺がお気楽に答える。
「……いつも俺の代わりに誰呼んでた?」
「芳丘聡重。一年の時俺と同じクラスだった奴」
「そいつ呼んで」
「何で?」
 嫌な予感。
「……俺出来ない。ルールも知らない」
 何てこった!!お前そーゆー事はもっと早く言えよっ!!
 絶句する俺を見て永司は溜め息を吐いた。溜め息吐きたいのはこっちの方だと思いつつも訊いてみると、永司は麻雀牌にも触った事がないらしい。それでも一応4人でするものとは知っていたので、今日の俺達の会話を不思議に思っていたそうだ。
 大急ぎで芳丘に連絡しようと思ったが、ふと砂上が以前「私は麻雀ができるのよ!!」と自慢気に話していたのを思い出した。砂上だったら苅田も暁生も文句はないだろう。特に暁生。暁生は芳丘とあまり仲が良くないのだ。
 砂上に連絡すると、すぐ行くわと返事をしてきた。
 麻雀大会は予定から少し遅れて始まった。
 俺の狭い部屋に俺、永司、苅田、暁生、緋澄、砂上、それと何故か俺達と同じクラスで砂上の友達の藍川麻衣まで来て、7人。息苦しさに閉口してしまう。
「ってか、暑いんだよ。何でこんな狭い部屋に7人もいんだ!!」
 苅田がぶつぶつ文句を言い出した。確かに暑いしイライラする。これだけ人間がいてギャーギャー騒ぐと、後で大家さんに文句を言われるかもしれない。俺達はさんざん揉めた挙句、永司ん所へ行く事になった。それも永司のマンションには麻卓になる机がないので、わざわざ俺のアパートから一人用の小さなコタツを持って行って。
 7人もいるのでタクシーを3台呼んだ。コタツが入らないので揉めたが、苅田がコタツの足を外し、無理矢理押し込む。
 そして、やっとの事でマンションに到着した。
「最初から岬杜の家にすりゃ良かった」
 道路をチラっと見る俺を尻目に、  がやがや騒ぎながら3組に分かれた7人がタクシーから降りる。
「あっ!」
 最後尾のタクシーに乗っていた暁生が、突然真っ青な顔で道路に飛び出した。
 激しく鳴り響くクラクション。罵声。悲鳴。
 俺は暁生が飛び出して行った理由を知っていた。轢かれた黒猫の死体。
「暁生!!」
 苅田が強引に車を止めて暁生の元に走り寄る。残った俺達はそれをただじっと見ていた。こちらに背を向けている苅田が、少し驚いて振り向く。
「仔猫がいる」
 驚いて駆け寄ると、車に轢かれて内臓が飛び出ている親猫のすぐ側に、手のひらよりも更に小さな仔猫が血に染まり震えていた。真っ黒な仔猫だった。
 苅田が強引に止めたトラックの運転手がイライラクラクションを鳴らしたので、俺達は暁生を引きずり歩道まで戻った。暁生は轢かれた母猫を抱いて離さなかったので、仔猫は砂上の連れの藍川が抱いていた。
 それからは大忙しだった。砂上と苅田達は仔猫を動物病院に連れて行き、必要なモノを聞いて買い揃える。その間暁生と俺と永司は母猫の墓を作った。埋める場所を探し、少し大きめの公園まで歩いて行き、遊んでいた子供にスコップを借りて銀杏の木の下に猫を埋めた。
 暁生はこの母猫は仔猫をどこかに運ぶ途中だったんだと言う。俺もそう思う。何故あんな大通りに飛び出したのかは分からない。何かに追われていたのかもしれない。
「可哀想に」
 暁生は泣いていた。
 普段ギラギラする瞳で世の中を見ている暁生が、見ず知らずの猫を埋めながら泣いていた。
俺はそんな暁生が愛しかった。

 苅田に連絡すると、仔猫は別に外傷はなく元気らしい。雌猫だそうだ。体に付いていた血は母猫のものだったのだろう。永司のマンションの前で待ち合わせをして、俺達は戻った。
 母猫の血がこびりついていた暁生にシャワーを浴びせ、永司の服を着させて、腹が減ったと我儘を言う砂上にデリバリーを取る。そして皆でピザを食べビールを飲みながら仔猫を誰が引き取るかさんざん揉めた。
 緋澄は時々ふと仔猫に触れてはみるのの、その小ささと柔らかさに戸惑っている様子。仔猫が怖いのだろう。大体皆、緋澄には初めから何も期待などしていない。こいつにまかせたら猫が餓死しそうだ。砂上は動物は好きだが飼う気にはなれないと言い、苅田家は犬好きですでに大型犬を7頭飼っているので猫はパス。藍川は動物好きなのだが、親戚の家に居候しているらしいのでこれまた駄目。暁生も事情があって駄目らしい。俺は最初に「動物絶対禁止!」と大家にくどくど言われていた。そしてまわりまわって来たのはやはり永司だった。
「いいよ」
 低い声で俺に言う。
「お前猫好きかぁ?無理に引き取るのは良くない。お前も仔猫も互いに辛くなるだけだぞぉ?」
「大丈夫。でも動物飼った事ないから最初はちょっと失敗するかもしれない」
 俺と永司の会話を聞いて砂上が笑った。
「関係ないけど、私岬杜君の声初めて聞いたわ」
「私も」
 藍川も頷きながら言う。俺は、永司の声を聞いた事がある人間は、本当にとても少ないのだと実感した。学校の生徒に限定すれば、もしかしたらここにいるメンバーだけなのかもしれない。そしてその可能性はかなり高いとみた。
 次に揉めたのは仔猫の名前だった。緋澄がまた恐る恐る仔猫に触ろうとしたのだ。
 しかも、「ミケ」と小さく呼びながら……。
 爆笑の渦が巻き起こったのは言うまでもあるまい。この仔猫は黒猫だ。どこをどう見ても黒猫なのだ。どうせなら「タマ」のほうがましなのに、よりによって「ミケ」。俺達は不思議そうにしている緋澄を見ながら、腹が痛くなるまで笑った。永司までもがくつくつ笑っていた。
 それからこの仔猫の名前が決まるまでたっぷり2時間はかかったと思う。
 緋澄はさっきの失態を取り戻そうとしてかやたらと名前を並べていく。それも「ロク」とか「G」とか「セキ」とか、こんなに可愛い仔猫には似合わないモノばかりだった。思えば緋澄がこれほど人前で喋るのはかなり珍しい。普段は激しく人見知りする緋澄だが、砂上と苅田は仲が良いし、藍川は同じクラスで顔は知っている。藍川は短く清潔にカットされた髪型と同様に、顔はキツイがサッパリとした良い雰囲気を持つ女なので気にはならないのが良かったのだろう。
 砂上は生々しい名前、例えば「シキュウ」とか「ドグラ」とか「エロス」とか、これまたこの可愛らしい仔猫に不釣合いな名前ばかり挙げる。この女の脳味噌は理解出来ない。俺の母ちゃんに似たものを感じる。恐ろしい女だ。
 苅田は以前抱いた女の名前を並べていった。理由はいい女の名前をつければ、いい雌猫になるだろうから、だそうだ。勿論全部却下だ。この仔猫を抱きながら苅田が抱いた女の名前を呼ぶのはお断りだと暁生が喚いたからだ。
 俺と永司は何でも良かったので、名前は暁生と藍川が2人で決めていた。この2人はどうやら中学の時同じクラスだったらしい。あまり話した事はなかったみたいだが、暁生のギラギラした目を正面から受け物怖じもしていない。藍川は暁生の言葉に耳を貸しながら、頷いている。時折笑顔を見せ、自分の意見を言い、それでも暁生の意見を尊重しながら名前を決めていく。嫌味のない、しっかりとした女だ。
 良い女だ。
 俺は藍川を見てそう思った。
 決まった名前は「こんぺいとう」だった。

 結局麻雀大会が始まったのは夜の10時を過ぎてからだった。
 永司は俺の後ろでずっと見ていた。物覚えが良い永司の事だ。どうせすぐ覚えるだろう。
 砂上の麻雀は堅くて計算高い。苅田はアカドラ大好き人間。暁生は即リー全ツッパなのだが、流れを味方にすると手がつけられないタイプだ。
 途中で苅田から上がった時、怒った苅田が俺の身長のコトで意地悪を言ってきた。俺は172あるから別に低いわけじゃない。なのにこのメンバーの男の中では一番低かった。緋澄は174で暁生は178ある。苅田はむっとしている俺に「おチビちゃん」とか、「牛乳飲めよー」とか「ちんちくりん」とかムカツク事ばかり言うので、砂上が出した当たり牌を見逃して、苅田で倍満あがってやった。ふん、馬鹿者め。
 ギャーギャー騒ぎながら俺達は、ビールを飲みながら翌朝まで勝負した。勿論俺の財布はかなり潤った。臨時収入に、思わずほくほくしてしまう。
 砂上と藍川が家に戻り、俺達4人が順番にシャワーを浴びる。
 永司が猫にエサをやって、4人で外に遊びに行った。

 それからは、わりと平穏な日常が続いた。
 猫に会いに、永司のマンションへ暁生が良く顔を出した。こんぺいとうは飼い主の永司よりも、ひたすら暁生に懐いていた。暁生もこんぺいとうをやたらと可愛がり、猫のトイレが少しでも汚れていると文句を言う。永司は暁生と喋らないのだが暁生はそんなの気にも止めず、永司の家を訪れては勝手に上がり込み、「こんぺいとー」と呼びながら部屋をうろつく。たまに、そこに砂上と藍川が混じって3人でこんぺいとうと遊んでは帰っていく。
 永司が少しずつ変わっていくのが分かった。
 相変らず俺以外との人間とは口を利かない。が、いつも俺しか見ていなかったその瞳に、時々ではあるが他のモノが映るようになった。例えばこんぺいとう。例えば暁生。例えば砂上。
――例えば苅田。


「岬杜ってイイ男だよな」
 屋上で空を見上げている時、ふと苅田が言った。珍しく緋澄も永司もいなくて、俺達2人で煙草を吸っていた時だった。
「美形だし、マジでそそられる」
「口説いてみればぁ?」
 しれっと言う俺に苅田は右眉を少し上げてニヤついた。
「深海ちゃんのもんに手出しは出来ないな」
「永司は俺のモノじゃねぇよ。ついでに俺も誰のモノじゃねぇよぉ」
 苅田はまだニヤついていた。気に入らない。俺は誰のモノにもならないと何度同じ事を言えばこいつは分かるんだ。
「深海ちゃん、最近女とセックスしてる?」
 何でわざわざ「女と」って言うんだ。感じの悪い奴め。
「最近じゃなくても俺はもとから淡白だから、  苅田みたくお猿さんみたいに年中サカってません〜」
 ウソだ。したくなったら永司とする。永司は俺が嫌だと言えば何もしないが、俺が誘えば最高に気持ちイイセックスをしてくれる。
「深海ちゃんは俺とセックスしたくない?」
「したくなったらそれ専用の携帯に連絡入れるよ」
「俺はもう1年待ってるんだぜ?」
「じゃ、あと99年待っててぇん」
「それは長い。ちょっと浮気したいから岬杜口説いていい?」
「俺に訊くな馬鹿者ぉ。でも永司はさせてくれないと思うよ」
 俺は笑った。
 永司は俺に惚れてんだ。俺しか見てないんだ。俺しか。

 翌日、苅田は俺の目の前で永司の携帯に勝手に自分の番号を登録した。あとから見てみると、普段の番号とそれ専用の番号と両方入っていた。消してやろうかと思ったが、馬鹿馬鹿しくなってほっといた。
 永司が苅田になびくわけがない。永司は俺に惚れてんだ。

 苅田が永司に異常に興味を抱いているのを、俺は傍観しているだけだった。
 苅田が口を利かない永司を強引に引き寄せ耳元で何かを囁いても、むっとした永司を宥めるように愛嬌のある笑顔を浮かべても。
 そしてそのうち、永司が反応するようになり、少しずつ、言葉を返すようになっても。
 俺は傍観していた。
 でも灰色の雲が広がり少し強い風が吹く日、いつものように学校の屋上で昼寝していた俺は永司の笑い声で目が覚めた。クツクツと低く笑う永司。俺の知らない間に何があったのかは分からない。が、永司は楽しそうに笑っていた。
「永司?」
 自分の不安げな声が馬鹿馬鹿しかった。
「深海ちゃん、起きた?」
 いつもの如く苅田の手が伸びてきて俺の髪を撫でようとした時、
「触るな」
 低い声がした。同時に永司の手が俺の髪に触れようとする苅田の手を払い、そして俺の身体を抱き寄せる。
「あのねー岬杜。触るな!はナイっしょ?深海ちゃん自身『俺は誰のものでもない』って言ってることだしさ。野生動物は皆のものよ?」
 苅田のアホめ。
「春樹には触れるな。以上」
「以上って何だよ!お前何様!?」
「五月蝿い。黙れ」
「犯すぞテメー!俺はもともと深海ちゃんの保護者なんだよ!俺は深海ちゃんに何やっても許されるんだよ!!」
「俺は許さない」
「オメーの意見なんぞ聞いてねぇ!」
「五月蝿い。犯すぞ」
「アホ!俺がお前を犯すんだよ」
「無理」
「薬使ってでも犯してやる。泣かしてやる」
「ケダモノ」
「俺は龍だ。龍に抱いて貰えるんだ、ありがたく思えよ」
「お前はそんな神聖なモンじゃない」
 2人の会話はどことなく楽しげだった。
 永司は俺の背中を撫でながら苅田と喋っている。
 日差しが暑い。蝉が鳴いている。空気が湿気で重い。
 夏の空を見上げて、深呼吸するとぎゅっと目を閉じてみる。
 俺は2人の会話を聞きながら、自分の胸に黒い炎が燃えるのをじっと感じていた。
 それは明らかに嫉妬の炎だった。


「お前いつからあんなに苅田と仲良くなった?」
 永司のマンションに入ると、俺は我慢出来ず訊いた。
 永司は不思議そうな顔をして俺を見ている。
 靴を脱ぎながら言う。廊下を渡りキッチンに入ると、冷蔵庫から俺が持ち込んだお茶のペットボトルを出してコップに注いだ。
「もしかして嫉妬してくれるの?」
 後ろで永司が言った。
 嫉妬?そうだよ。苅田に嫉妬しているよ。お前は俺しか見てなかったのに。お前は俺にしか口を利かなかったのに。

 なんだろう。なんで嫉妬なんてしているんだろう。
 こんな自分嫌いだ。

 溜め息を吐いて、俺は額を抑える。
「頭痛?」
 永司が心配そうに訊いてくる。
 俺はズルイ。分かっているんだ。俺はズルイ。こんな時にだけ嫉妬する俺は卑怯。
 永司の事ちゃんと考えなくちゃいけない。こんなに愛してくれる永司の事、いつまでも放っておけない。ちゃんと応えてやりたい。真剣に受け止めてやりたい。
 本当はいつもそう思っていたんだ。
 でも、お前の気持ちを抹殺してきた。

「お前、俺の言う事何でも聞くよな?」
 お茶を一気に飲み、流しにコップを置く。
「聞く」
「俺が訊いた事ちゃんと答える?」
「答える」
 永司はじっと俺を見ていた。
 永司。その深い瞳に沈んじまいたい。本当にそう思うんだ。

「お前って淡白なん?」
「違う」
「いつも俺に合わせてるの?」
「そう」
 永司は淡々と答えた。高校生では珍しい程淡白な俺は普段でもあまりセックスしない。永司とするようになってからも週3回もすればいい方。1晩1回すれば満足だし、それ以上は永司が求めても拒否してきた。
「俺としない時は女とやってんの?」
「春樹以外とはしてない」
「俺の事いつから好きだった?」
「去年の春から」
 知らなかった。永司の視線に気付いたのは去年の夏過ぎ頃からだったから、まぁその辺りからなんだろうと今まで勝手に思っていた。
「詳しく言え」
 永司の気持ちに応えてやりたい。それなのにお前の気持ちから逃げようとする自分。
 永司は1度小さく溜め息を吐いて話し始めた。
「俺は昔から、自分には何かが欠けている気がしていた。それが何なのか分からなかったが、とても大事なモノが欠けていると思っていた。いつもそれを探していた気がする。自分の中の何かなのか、それともただの物体なのか、人なのか、何も分からないまま俺はいつも欠けているそれを求めていた」
 『欠けていた』その科白は以前聞いたことがある。
 永司は淡々と続ける。
「高校1年の春に初めて春樹を見た。春樹は学校の端にある桜を見ていた。美しかった。凄く綺麗だった。桜が春樹を歓迎しているようにも、一体化しているようにも見えた。そんな春樹を見た瞬間、俺は分かった。俺に欠けているものは春樹だ。俺には春樹欠けている。不思議な生き物のような春樹を見てその美しさに目を奪われながらも、俺は春樹を見つけた事に浮かれていた。同時に、俺がずっと探していたモノを、力ずくでも手に入れようとしている自分を冷静に自覚していた。それから俺はイギリスへ呼び戻されたが、その間も俺は春樹が忘れられなかった。春樹の事をいつも考えた。どれだけ遠くにいても、欠けたものを、春樹を、ずっと探している自分が辛かった。多分俺は一生春樹を求めるだろう。どれだけ遠くにいても、絶対諦める事なんて出来ない。4ヶ月後日本へ戻ると、毎日学校へ行き春樹を見詰め続けた。俺は春樹を求め続けた」
「なんですぐ近寄って来なかった?」
「クラスも違う。屋上へ行ってる事も住んでる場所も、何も知らなかった」
「調べなかったのか?」
「春樹の事は春樹の口から聞きたかった」
「もしかしてお前、2年のクラス編成根回ししたのか?」
「した」
 永司は即答した。
「俺に近付きたかった?」
「近付きたかった。春樹の声を聞きたかった。春樹に触れたかった」
「お前異常だと思わない?」
 どうしてだろう。なんでこんな事言っているんだろう。俺は永司の気持ちを受け入れたいと思っているのに、それが出来ない。
「思う。自分でも異常だと思う。苅田が春樹にべたつくだけで頭がおかしくなりそうだった。でも抑えた。俺は自分の気持ちを抑え続けた。気が狂いそうだったけど、俺は抑え続けたんだ」
「切れたけどな」
「どれだけ抱いても気持ちは届かないものなんだな。あんなに強く抱き締めたのに、春樹は俺の気持ちをいつも抹殺してきた。何で俺を側に置いてくれるんだ?」
 永司の瞳が揺れた。
 本当に、どうしてお前の気持ちと向き合わないんだろう。
「辛い?」
「辛いよ」
「お前こそ何で俺の側にいるんだよ。辛いんだろ?」
「辛いよ。春樹の笑顔見る度に辛くて堪らなくなる。でもいつも側にいたいんだ。春樹に拒否されないんだったら、いつでも側にいたい。俺はいつでも春樹を求めてる。自分が分からなくなる程春樹だけを求めてるんだ。出口のない迷路みたいだよ。何をやっても春樹には近付けない。近付けないんだ。だから身体だけでも側にいたい。少しでも側にいたい」
「俺の事好き?」
「好きだ」
「どのくらい?」
 永司、ごめん。
 俺は苦しくなる。お前の気持ちが俺を苦しめ、そして俺を混乱させる。
「気が狂いそうなくらい好きだ」
「それだけ?」
 ここで永司は初めて黙った。
「どうし…」
「それだけ?」
 俺は強引に言わせる。お前から逃れる為に。
 永司はそれを分かっているから黙る。
「それだけ?」
「強力なウィルスに冒されたんじゃないかと思うくらい好きだ。世界中が灰色に見えるくらい好きだ。その瞳もその腕もその足も、その細胞まで独占したいくらい好きだ。春樹に全てを捧げたいくらい好きだ。俺の身体も、俺の財産も、俺の魂も、全て捧げたいくらい好きだ」
「それだけ?」
「世の中を全て春樹の為に作り変えたいくらい好きだ」
「それだけ?」
 永司の瞳が揺れている。
 どうしてこんな事になったんだろう。俺は、永司と一緒にいるのが楽しかったのに。
 それなのに、今はこんなにお前から逃げたくなっている。
「春樹を抱いた後、愛しいくて堪らなくなる。春樹がイク時、このままどこかにさらって誰もいない場所に閉じ込めようといつも思ってしまう。春樹が俺の腕の中で寝ている時、俺が何度も自分で処理してるの知ってた?春樹の身体汚さないように気を付けながら、俺は春樹に口付けて何度でも抜いてる。一人の時だってそうだ。春樹の事考えてヤってる。春樹の名前呼んだだけでイク。春樹の俺を呼ぶ声思い出しただけで何度だって欲情する。そしてまた春樹の名前呼びながらイクんだ。俺が捕まえたんだ。誰にも捕まらなかった春樹を、俺が捕まえたんだ。好きなんだよ。分かってよ。応えてよ。言葉なんかじゃ全然足りないんだよ!俺が春樹を想う気持ちは、言葉なんか無意味になる程なんだよ!!」
 お前から逃れる為に言わせた言葉。
「俺には……」
「知ってる」
「俺にはお前の気持ちは」
「分かってるから言わないでくれ」
「俺には余りにも」
「春樹が言わせたんだろ?俺は言いたくなかったのに。分かってるから言わないでく…」

――重すぎるんだ」

「知ってるって言ってんだろッ!!」
 永司の深い瞳。俺が沈んでしまいたかった瞳。深くて、いつも俺を見ていた瞳。俺が大好きだった強くて静かで溢れそうだった瞳。その瞳から
「永司、泣くな」
「春樹が若い鷹の話をした時、餓死して死んでしまった鷹の話をした時、俺は怖かった。春樹はいつも掴めないと苅田が呟いていたのを思い出した。やっぱり春樹の心は誰も掴めないんだな」
「お前はあの若い鷹に似ているんだよ。永司、お前の瞳はあの誇り高い鷹の目にそっくりなんだ。深くて、強い。本当はいつだってお前の瞳が愛しかったよ。本当は強い視線も好きだったんだよ。本当に好きだった」
 永司泣くな。そんなに泣かないでくれ。
「春樹は野生動物だ。どれだけ優しくしても決して心を開かない。俺は捕まえたのに。俺は捕まえたのに、春樹は逃げてしまう。何をしても逃げてしまう。誇り高い死を選ぶわけではなく、生きて、逃げる時をただじっと待っている。逃げる時には捕まえた者を深く傷付けて、心臓を抉って逃げていく、残酷な野生動物だ」
 ぼろぼろ涙を流す永司を、俺はじっと見詰めていた。
「永司、お前が正直に答えてくれたから、俺も正直に言う。分かってると思うけど、俺にはほんの少しだけ不思議な力がある。人が求めるモノを与えたり、溢れてしまう心を宥めたりする力だ。俺は昔からその力を使ってきた。崖に走って行こうとする人間を捕まえて、抱いてやる。俺の力を分けてやったり、宥めてやったりして、元の世界へ返してやる。そんなイメージだよ。俺は自分の力を気に入っている。俺は強いんだ。精神的に、とてもタフなんだ。人に力を分けてやっても、俺の生命力はどんどん溢れてくる。枯渇知らずなんだ。人の波立つ心に触れても、俺はそれを受け止め、宥めてやれる。俺はそんな自分が好きだった。誰よりも強くて、完璧なんだ。完璧だったんだよ永司、お前と会うまでは。お前は俺の心を揺らしたんだ。完璧だった俺の心を揺さ振るんだ。俺は不安定な自分が一番嫌いなのに、お前と一緒にいると足元がぐらつくんだ。お前の気持ちが俺の心に影響するんだ。俺は不安定だと駄目なんだよ永司。俺が駄目なんだよ!!」
 自分で何を言っているのか良く分からなくなってくる。
 永司は泣いていた。声を上げずに、ひたすら涙を流している。
 俺は親指で涙を拭ってやっても、髪を撫でてやっても、抱き締めてやっても、その涙は止まらなかった。
「何故俺を側に置いてた?」
「分かんねぇ。お前は時々俺を酷く不安定にする。でも、俺はお前を気に入ってたんだと思う。その低い声や深い瞳は最高に好きだった。頼むから泣かないでくれ、永司」
「もう側にはいられないのか?」
「側にいたいか?永司」
「側にいられるなら何だってする」
「じゃあ泣くな。俺を抱け。強姦して、滅茶苦茶に傷付けてみろよ。野生動物は傷付けて動けなくすればいいだろ?そうやって俺を繋げとけよ」
 永司。
 俺は本当に最低だな。
 他の人間には優しくするのに、お前だけには最後まで
「残酷だな春樹。出来るわけないのに」
 そう――残酷だ。
「お前最初は強姦したじゃん」
「もう出来ない。したくない!!」
「お前それでも現役高校生かよ?本当はヤりたいくせに」
 でも残酷にしないと俺もお前も駄目なような気がして。
「犯したいよ。春樹が狂うまで犯し続けたい」
 俺は限界だった。

 俺は永司が好きだったんだ
 そうだ、好きだったんだ
 今はっきり分かったよ
 永司
 初めて会った時から、お前に惹かれていた
 俺の心を掴んで放さないお前に惹かれていた
 でも……俺はお前を拒否してしまう
 お前から逃げたくなる
 心を隠したくなる

――自分が、良く分かんねぇよ

「残酷な春樹。それでも俺はお前に惚れてる」
 永司の声は擦れていた。
「サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』読んだ事あるか?俺はライ麦畑のつかまえ役なんだ。だから俺が誰かに捕まったら、子供達が崖に落ちてしまうんだ」
「春樹はいろんな顔を持つんだな」
「そうだよ。そしてそれは全部俺なんだ。分かるだろう?」
「分かるよ。俺は全ての春樹を愛してるから。深海春樹の魂を愛してるから」


 俺は永司の部屋を出た。永司は止めなかった。  マンションを出ると夕暮れに蝙蝠達が舞っていた。
 赤い太陽。沈んでいく太陽。
――永司

 永司が最後まで泣いていたのを思い出し、俺は空を見上げた。







back  next