蒸し暑い雨の日、学校の帰りがけに俺はCDを求めて街をふらつき、結局何も買わずに駅で切符を買ったその時だった。傘を畳んでプラットホームに佇んでいると、ベンチの隅に小学生らしい子供が小さく俯いて座っていた。膝を立て腕で顔を覆っている為、泣いているように見えた。
この場所は、以前永司と来た時にも人が蹲っていた。あの時の相手はオヤジだったが。
「どうしたぁ〜?」
何か尋常ではない気配がしたので、俺は近付いて訊いてみた。小学校高学年らしきその子供は俯いたままだ。この年で迷子はないと思うけど。子供は少し汚れてはいるがサッパリとした良い身なりをしていたし、清潔そうに見えた。家出ではないと思う。
「気分悪いのかなぁ?」
子供の隣にしゃがんで顔を見ようとする。でも、その子供は顔を上げない。
泣いているのか?
いや、違うな。
何かを隠しているようだ……
せめて顔を上げて瞳を見せてくれればいいのだが、子供は押し黙ったまま動かない。こちらの声に反応もしない。
「聴こえてるぅ?」
反応がない。
俺はちょっと心配になった。この子供はさっきからピクリとも動かないのだ。眠っているわけでもなさそうなのに。
呼吸しているのかも分からない子供。気配すら虚ろだ。
もしかしたら病気なのか?
俺はその子供の髪を撫でてみた。耳の上で揃えられた真っ黒でサラサラな綺麗な髪だった。触ってみると俺の手に不思議に馴染む。意思があるように俺の手にまとわりついては、指の隙間から落ちて行く。
しかし、その髪はどこか異常な感じがした。
良く出来た人形の髪。作り物の髪。
そう思うと、この子供自体が怪しく思えてきた。まるで生気を感じない。
夕方の駅は人が多い。サラリーマンから学生、主婦。様々な人間がそれぞれの理由で、走ったり笑ったりしながら通り過ぎていく。俺とこの子供に見向きもせず。
俺はもう一度子供の髪を触る。
やはり意思や気持ちが伝わってこなかった。
「面白い力を持ってるんだね」
その声がこの子供から発せられた事がどうしても信じられず、俺は辺りを見渡した。
背筋に汗が流れ落ちる。全身に鳥肌が立ったのが分かる。
子供の声は聞き取れないほど掠れていて、何かが無理矢理子供に出させているようにも聞こえた。ホラー映画にあるよくある、霊に取り付かれた人間が発するような声だ。
俺は動けなくなった。
怖かった。
この子供が怖い。普通じゃない。オカシイ。この声を聞いただけで呪われそうだ。
でも、足が動かない。
俺の勘は何故働かなかった?俺は何故ここに来た?この場所は危険だと知っていた筈だ。それなのに、俺はこの子供に引き寄せられるように……
「お兄ちゃん、カタツムリ踏んだ事ある?」
子供が掠れた声で訊いてきた。
俺はこんな子供相手に震えていた。声は擦れていたがあどけなさが残る高い声で、口調も子供独特のモノだった。そして、俺はそれとその声から発せられるドス黒い悪意とのギャップが何より恐ろしかった。
「ねぇ、ある?」
子供は続ける。俯き、顔を腕で隠したまま、子供は続ける。
「僕ね、カタツムリの殻が潰れるあの瞬間が大好きなんだ。足の裏から伝わるあの感触が堪らなく大好きなんだよ。僕カタツムリを見つけると、あの気持ち悪いの頑張って掴んで、道路に置いて、片足を乗せるの。どっちの足でも良いよ。その時の気分によって違うけどね、僕は本当はどっちでもいいんだよ。そんで、足乗っけて、ちょっとづつ、ちょっとづつ体重を掛けていくの。あんまり気持ち良くて、笑いそうになるのを抑えるのが大変なんだ。小さいカタツムリだって、潰す時はいい音するんだよ。でも、やっぱり大きなカタツムリの方が良いね。この前潰してやったカタツムリは大きくて、僕、あんまり気持ち良かったから、声を抑えるの大変だったよ。でも、潰そうと思って潰すのは少しつまらないよね。カタツムリは、雨の日に何気なく歩いていて、そんで、そこにカタツムリがいる事にも気付かずに歩いていて、そんで、足で、踵でも爪先でもいいけど、殻をペキって割るあの瞬間、あっカタツムリだ!って一瞬そう思って、ゾクゾクってするあの瞬間が本当は一番大好きなんだ。それから全神経を足に持って行って、ゆっくり、ギュウウッって踏み付けるの。ペキペキってのと、グチャってのとを、じっくり味わうの。これが出来るのは凄くラッキーな事なんだ。僕は普段からわざとカタツムリのいそうな場所を選んで歩いてるのに、今までに3回しか踏んだ事がないんだ。でも、このラッキーな事が起きると、僕は凄く幸せになって、眩暈が起こるんだ。それは最高の眩暈なんだよ」
子供の話は最悪だった。
小さく蹲り、腕で顔を覆ったまま子供は話を続ける。
雨の匂いが立ち込める駅の中で俺は頭痛を感じていた。纏わり付く湿気と熱気、それとこの子供から感じる悪意が俺を混乱させ吐き気が止まらない。
「ねぇお兄ちゃん、お兄ちゃんは素敵な人だね。カッコイイし、きっと皆から愛されてるでしょ?僕もね、皆から愛されてるよ。勉強は得意だし、僕はリトルリーグをやっているから運動神経も良いよ。顔も良い方だし、バレンタインデーには女子から沢山チョコを貰うんだ。でも、男子の友達だって一杯いるよ。僕は威張らないし、面倒見が良いからね。パパやママも僕の事が大好きなんだ。僕はパパやママの見ている所では、まだ赤ちゃんの弟に凄く優しくするし、飼っている犬の世話もちゃんとするんだ。それに、学校で飼っていたウサギを殺した次の日も皆と一緒に泣いたよ。ウサギの長い耳をナイフで切ってネコみたいにしてから何度も踏み付けて殺してやったけど、次の日には皆と一緒に泣いたんだ。だって僕だけ泣いてないと怪しいでしょ?ねぇ、お兄ちゃん、僕は誰からも愛されているんだ。お兄ちゃんと一緒だね」
多量の湿気を含んだ風と共に電車が来た。俺が乗ろうとしていた電車だった。
子供は笑っている。
「電車、乗らないの?お兄ちゃん」
擦れた声は楽しそうに揺れている。
電車のドアが開き、人が降りてくる。
俺は動けなかった。この子供の側を離れる事が出来ない。
怖い。足どころか、身体が動かない。
今までこんな事はなかった。どれほどピンチになろうが、ヤバそうな人間に絡まれようが、山で熊に遭った時だってこんなふうにはならなかった。この、小さく蹲る、腕で顔を覆い擦れた声を出す子供に会うまでは、こんなふうに何かに怯えた事はなかったんだ。
子供でも大人でも、自分がどれだけ極悪非道な人間なのかをやたらと自慢したがる輩がいる。その手の話はウンザリするほど陳腐で馬鹿馬鹿しい。
でもこの子供の話は、確実にそんな頭の悪い自己アピールとは違った。
それは、俺を根本から揺らす程の「圧倒的な悪意」、もしくは「それにとても良く似た、真っ黒で恐ろしい何か」だった。
「キミは……」
俺は言葉を続ける事が出来ない。
何を言えば良い?
何を聞けば良い?
何を与えてやれば良い?
「お兄ちゃん、ウサギは鳴かないの知っているよね。声帯ってのが無いんだ。鳴きウサギはどうか知らないけれど、普通のウサギは声帯ってのが無いから鳴けない。でもね、鳴くんだよ。ちゃんと。知っていた?ウサギは死ぬ間際、物凄い悲鳴を上げるんだよ。声帯ってのが無いのにどこからあんな声が出てくるのか分からないけれど、それはこの世界の中で一番僕に安らぎを与えてくれる、本当に素晴らしい悲鳴なんだ。だから僕はウサギを踏み付け、何度も踏み付け、肋骨を砕き、それを内臓に突き刺し、最後には背骨が折れるまで踏み付ける。ウサギが血の泡を吹きながら痙攣し、その痙攣が終わるまで」
吐き気が止まらない。同時に、脳味噌を砕かれるような頭痛が俺を襲う。
いつの間にか電車は出発してしまっていた。
「お兄ちゃんはとても素敵だ。本当に素敵だと思うよ。僕はねお兄ちゃん、僕は自分を『理解』しているんだ。とても深い場所から『理解』しているんだよ。僕みたいな子はね、何か心の傷があるんだろうって大人は思うよね。もしくはただ単に、恐ろしい子だとか。親に愛されてないのだろうとか、とても小さな時に辛くて衝撃的な事があったのだろうとか、大人はそう思うみたいだね。トラウマって言う奴だ。そんな事しか、大人は考えられないんだ」
子供はここで少し言葉を区切り、続ける。
「だから、学校のウサギは殺されるんだね、お兄ちゃん。だから、ウサギは檻の中で耳を切られて、誰からも信用され愛されている子供に踏み付けられ、断末魔の悲鳴を上げながら死ぬんだよ」
その声は乾いていて、やたら高い場所、もしくはやたら低い場所から聞こえて来るような感じだった。徹底的に我々(人間とか、温かい血が流れているモノとか、命あるモノ)とは違う気がする。とにかくそんな声だった。
「お兄ちゃんは僕の事好き?
僕はお兄ちゃんが好きだな。だって僕の言ってる事分かるでしょう?」
「分かると思う」
自分の声がとても低く聞こえた。
この子供は俺を全く必要としない。
この子供は太陽が降り注ぐライ麦畑にはいない。
「お兄ちゃんは素敵だ。カッコイイよ。また会いたいな」
「いいよ」
即答した。
「僕達、気が合いそうだね」
今度は答えなかった。子供は腕の中で笑っているようだった。
次の電車がやって来るまで、もうその子供は何も言わなかった。
俺は次第に落ち着きを取り戻し、もう一度ゆっくりと子供の髪に触れてみた。
冷たい。
この子供にとって、俺は何なんだろう。
電車が来たので俺は立ち上がり、小さな声でさよならを言った。子供は黙ったままだった。もう笑いもせず、最初見つけた時のように小さく蹲っている。
頭が割れそうに痛い。
電車に乗って窓から子供を見てみると、彼はもうそこにはいなかった。
「母ちゃん、俺は今日何か酷く引っ掛かる子供に会った。その子供は俺を心底怯えさせ、圧倒した。俺はその子供の瞳どころか顔さえ見ていないのに、怖くて堪らなかった。でも彼の話を聞いているうちに怖くは無くなってきたんだけど、何だか酷く……。
上手く言えねぇけどさぁ、心に引っ掛かる」
俺が自分のアパートに戻ってから一番初めにした事は、冷蔵庫から麦茶を出して、それからお気に入りの「浜名湖」とデカイ文字が入ったコップに並々と麦茶を注いで、そんでそれを一気飲みしてから母ちゃんに電話をした事だ。
『何?そのガキが殺人でもしてそうなのかい?』
母ちゃんが真面目に聞いているのかどうかも俺には分からない。
「母ちゃん真面目に聞いてくれ!確かにその子供は学校の兎を殺しているみたいだ。でも、何かもっとヤバイ感じがするんだよ」
『みたいって何なの?』
「分かんねぇんだ。その子供の瞳どころか顔も見えなかった。髪を触っても全然…何か普通と違った。上手く言えねぇんだけど。でもノイローゼとか頭がオカシイとか、性格悪いとか歪んでるとか、そんなんじゃ全然ないんだ」
実際そんなんじゃないんだ。あの子供はなんだか徹底的に
「ブラックホールの中心にいるみたいな子供だった」
そう、そこには何があるのか見当もつかない程の闇。
「あの子供は自分をとても深い場所から『理解』していると言っていた」
『ならば理解しているんだろうよ。あんたと違ってね』
「どう言う意味だ?」
俺は自分を知っている。
『そう言う意味だよ、この馬鹿息子。まぁ気にするとこはないさ、良い勉強になったろう?』
「母ちゃんは分かってねぇよ。あの子供がどんだけ……」
『悪魔じみてたんだろ?』
悪魔?なんだかしっくりこない。
悪魔なんかじゃないような気がする。
もっと生々しいような感じ。でも、人間じゃないような感じ。
でも、これが悪魔じみてるってヤツなんだろうか?
『いるんだよ、たまにね。人間はいろんな奴がいるが、本当にたまーに、そうゆうのが生まれる。アンタも知っての通り良心の欠片とか、モラルとか、そんなん持ち合わせてない奴ならごまんといるが、もっと次元の違う人間だっているんだ』
「俺は、何も言えなかった」
『アンタが何を言ってもやっても、どうこうできる問題じゃないんだよ』
そうなんだろう。俺には何も出来ない。なにせあの子供は俺を求めてはいないのだから。いや、あの子供はきっと誰も求めてない。
求めているのは、偶然に踏み潰すカタツムリの感触、そしてウサギの悲鳴
――。
「分かった。俺何か動揺してたみたいだ」
それから俺は少し学校の事を話し、母ちゃんが生活に何か不都合がないか確認してきたので小遣いアップを要求し、速攻で却下され、お互いに憎まれ口を叩きながらも笑いながら電話を切った。
ベッドに寝そべると、思い出したくもないあの子供の事を考えてしまい、俺は溜め息を吐きながら目を閉じた。
いまだに頭痛と吐き気がしていた。
俺は小学生の頃カタツムリを踏んでしまった事がある。あの嫌な感触は忘れられない。普段カタツムリが好きだったから本当にショックだったんだ。
そして俺は、雪山で見るウサギも大好きなんだ。
俺はまだまだ何も知らない。
世の中のあらゆる事を、俺は全然分かってない。
あの子供は偶然に踏み潰すカタツムリの感触と、声帯がないはずのウサギが上げる断末魔の悲鳴を求めている。
でも、もしかしたらカタツムリやウサギの悲鳴じゃなくても良いのかもしれない。それはたまたまカタツムリとウサギの悲鳴なだけで、もっと『全然違うモノ』でも良いのかもしれない。
その夜、俺はベッドで小さくなって寝た。
次の日の午後、学校の屋上で緋澄と一緒に授業をフケた。
雨上がりの屋上はやたらと蒸し暑く、俺は汗を拭いつつ煙草を咥えた。どこか涼しい場所に移動したいのだが、次の授業は俺の大好きな体育で、しかもプールだ。泳ぎたい。1時間だけここで遊んでいよう。
今頃苅田は、古典の橘の尻を拝むのに忙しいのだろう。どうせニヤついているに決まっている。緋澄は緋澄で、俺に付き合ってこんな所にいなくてもいいのに何故か付いて来て、左隣で暑さにやられてぐったりしていた。暑さに骨抜かれてへたり込んでいる。
「緋澄ぃ〜、お前授業出れば良かったじゃん?」
隣でぐったりしている緋澄はセックスの最中みたいに額に汗を浮かべて口を少し開き、俺を誘っているように見えた。白い肌が汗で光り、長めの金髪が綺麗な顔に張り付いている。
学校の木に蝉が止まっていてうるさく鳴いていた。
運動場では3年のジャージを穿いた生徒が何やら怒鳴りながら走っている。
天を仰げば、青い空の向こうに入道雲があった。
そのどれもが酷く緋澄とミスマッチで、余計にこの色気を演出しているように見える。
暑さでムっとしている屋上が緋澄の酷く艶かしい色気とシンクロして、
俺はふいに眩暈を感じた。
「深海、俺に欲情してる?」
俺の目を覗き込みながら緋澄が小さく訊いてきた。その瞳は相変わらず流れていたが、それは開かれた唇と共に微かに潤み、俺をゆっくりと刺激している。身体の奥がジリっと熱くなって、思わず美しい顔に手を添え潤んだ唇に親指を押し当ててみた。
その唇は女よりも柔らかく、そして濡れている。
緋澄は汗ばんだ首筋を見せつけるように手に顔を擦りつけ、
口元に置いた俺の親指を軽く噛んだ。
芸術的とも思える程、緋澄潤は美しく淫靡に俺を誘う。
「お前に欲情してる。お前も俺に欲情してるだろう?」
「してる」
俺達はちょっとだけ笑った。
「俺、深海のこと好きになれば良かった」
緋澄が俺の身体にしがみ付いてくる。
俺は近くで感じる緋澄の甘い匂いと、女みたいな肌にクラクラしながら自分の身体の火照りを感じていた。
押し倒したい。
泣かせてみたい。
喘ぎ声を聞いてみたい。
緋澄の身体から発せられる熱は俺を興奮させる。
「緋澄は俺を好きになったとしても、きっと何も変わらない。お前の流れを止める事なんて出来ない。お前は…」
「言わないでよ」
緋澄の濡れた唇が近付いてきた。
「止めろよ。制御出来なくなる」
「いいよ。セックスしようよ」
顔を叛けた俺の首筋に、緋澄が柔らかな舌を這わせてきた。それは柔らかくて熱くて、ねっとりと生々しく俺の身体に吸い付く。
永司とは全然違う。
永司の舌はもっと、もっと
魂に官能的。
どこかで蝉が鳴いていた。
俺の下半身がその音に反応するかのように疼いてくる。
「緋澄ぃ、どうしたんだぁ〜?」
俺は自分の疼きをはぐらかすかのように、普段通りの声を出した。
「別にどうもしてない。深海に欲情して、それが止められないだけ」
緋澄はいつも小さな声で喋る。普段無口な緋澄は、大きな声の出し方を忘れてしまっているような気がした。
こいつを大声で喚かしてみたい。
そう思ってしまう。
緋澄は俺の首筋から鎖骨まで舐めて行き、右手で身体を弄っていた。
「俺相手にそこまで欲情するなよ馬鹿者」
「なんで?俺じゃ駄目?」
「駄目」
下半身に伸びて来た緋澄の手を俺の左手で掴まえて押さえ込み、右手で綺麗な金髪を撫でてやる。汗ばんだ身体を、反応しないように刺激しないように抱き返してやる。女のように細い身体だった。そして女よりも色気がある身体だった。
「なんでセックスしてくれないの?深海は男抱けない?」
流れる瞳で俺を見る。でもコイツは俺を通して、俺じゃ与えられない何かを求めている。
「緋澄とならセックスできると思うよ」
「ならしてよ。最近してないんだ。したい」
「駄目」
俺は緋澄の金色の髪にキスをしてやった。
緋澄は左の目の上に傷がある。それは普段金髪に隠れて全然目立たないのだが、こうやって近くで見たりすれば良く分かる。刃物で切ったような傷だ。何故この傷が出来たのかは知らない。
その傷を親指でそっと撫でてみた。
緋澄が一瞬何か辛そうな瞳をする。俺はその瞳に映ったモノを素早く読み取り、もう一度緋澄の綺麗な髪を撫でてやった。
蝉が鳴いている。
入道雲が遠くで俺達を見詰めている。
緋澄は俺の腕に身体を預け、辛そうに目を閉じた。
全身で泣いているようにも見えた。
「俺は深海になりたかった」
緋澄は俺を誘った理由を、小さな声でぽつりと言った。
その夜、自分でパスタを茹でてペペロンチーノを作った。金に困ると俺はいつもこれを作る。パスタとニンニク、タカノツメ、オリーブオイル、塩コショウで作れるから簡単だし、安上がりだからだ。
母ちゃんから仕送りして貰っている金は多くはない。困るほどでもないので良いのだが、高校生は何かと金がいるんだ。今まで本当に金が無くなれば日払いのバイトをして何とかしてきたが、趣味に金を費やすので食費はかけたくない。いざとなったら1日素うどんだけでも平気なんだけど。
テレビを付け野球のナイターを見た。巨人が負けている。相手は中日で、投手王国の名に相応しく強力な中継ぎ陣で巨人を押さえ込んでいた。
テレビを付けっ放しで狭いベランダに出て、三日月を見ながらパスタを食べ、
ビールを飲んだ。
良い夜だった。月光を優しく感じる。
俺は月を見ると姉ちゃんを思い出す。俺の姉ちゃんは月みたいな人間だ。暗闇を仄かに照らす。でもそれは酷く曖昧で俺には掴みきれない。俺もよくそう言われるが、姉ちゃんに比べればまだマシだと思う。俺の姉ちゃんはもっと掴めない。緋澄よりも無口で、永司より深い瞳を持っている。
……永司。
俺は月を見ながら永司を想った。
永司はあれから学校に来ていない。それは俺を憂鬱にさせていた。
何をしているんだろう。今、何を考えているんだろう。
暫くベランダでビールを飲んだ俺は、部屋に入って2本目のビールを飲み、ナイターがおわってから以前永司が持ち込んだバーボンを飲み、ニュースを見ながらをその瓶を空けた後
――永司に電話をした。
呼び出し音が鳴っている。自分が緊張しているのを自覚して、
苦笑しながらまたベランダに出た。
コール3回で永司が出た。
「よう」
『うん』
そのまま永司は何も言わないので、俺も黙った。
俺は月を見る。
「月、綺麗だ」
『……うん』
俺はまた残酷な事をしているのだろうか。俺をあんなに好きでいてくれた永司を突き放して、音沙汰無しだからって自分から電話してみるなんて。
「巨人負けたんだ」
『知ってる。テレビ付けてた』
永司は別に野球なんて好きじゃなかった。でも俺が野球好きで、なかでも巨人が好きなのを知ってから試合は欠かさずチェックしていた。そして次の日、俺と試合の話をするんだ。
俺は胸が熱くなって、また月を見た。
『どうした?何かあった?』
永司は心配そうに訊いて来る。俺が好きだった、低くて落ち着いた声。
俺は今でも永司の事好きだ。
でも俺は、誰かに捕まったら駄目なんだ。
「別に何もない。学校、いつ来るんだ?」
永司は黙った。電話の向こうでガサっと音がして続いてまた物音がする。
『まだ分からない。決めてないしまだ決めれない。……あぁ、本当に月が綺麗だな』
「だろ?上弦の月だ」
俺達は同じ月を見上げているんだ。
アルコールが身体を廻っている。それはまるで俺の中にドクドクと、茶色の液体がそのまま廻っているみたいだった。そしてその茶色の液体は、心に爆弾を運んでくる。口から入った液体は、爆弾を運びながら身体中を駆け巡り、最後の最後に俺の心に到着する。爆弾が到着した瞬間、それは小さく爆発してしまう。それは小さな小さな爆発なんだけど、自分で自分を止められなくする効果があったりする。だから本当はもう、この電話を切らなくちゃいけない。だってもう茶色い液体が心に到着しそうだから。
見上げれば上弦の月。
永司は黙っていた。だから俺も黙ってしまう。
巡り巡って来た液体が終点に到着。
続いて小さな爆発。
「永司、俺の名前呼んで」
無性に永司の声で俺を呼んで欲しくなった。
これもやはり残酷な事なんだろうか。俺は嫌な奴だろうか。永司の心をまた傷付けただろうか。でも俺は永司に名を呼んで欲しかった。いつもいつも呼んでくれたんだ。俺が大好きな低い声で、優しく熱く悲しく何度も何度も。それを、今、どうしても聞きたい。
俺は、俺を止められない。
『……春樹』
永司の声はセックスの度に耳元で囁かれた、俺を熱くさせる声だった。
俺はその場にしゃがみ込み、思わず電話を切った。
そしてそのままベッドに潜り込み、俺の名を囁く永司を想像した。すると永司は、息をするより簡単に俺の身体に火をつけた。肌の熱さや息遣い、低い声や俺の隅々まで探るような愛撫。俺の記憶にある全ての永司は、俺を愛し、慈しんでいる。アルコールのせいでなかなか訪れないエクスタシーに呻き声を上げながら、俺は何度も永司を呼んだ。自分でやっても気持ち良くない。永司にやって貰いたい。触って欲しい。俺の中の中まで、もっともっと来て欲しい。快感がやっと全身を包み、永司の名を呼びながら伸ばした手が空を切った。手を伸ばせばいつでも届いたんだ。だから俺は、何度も永司の名を呼びながら、何度も手を伸ばした。
射精が終わった時も、俺は手を伸ばしたままだった。俺にとって大事なのは、「そこ」に永司がいない事。茶色い液体は自分で飲んだ。そして、自分には今永司がいないのを確認している。手を伸ばして確認している。
自分で突き放して自分で求めている。
この世で唯一俺の心を揺さ振り、不安定にする永司。
なんて矛盾だらけの自分。
でも、俺は永司が好きだ。
どんな夢かは覚えてないが、とにかく永司と桜の木が出てくる。
そんな夢を見た。