5月の連休はバイト三昧だった。
連休のみのバイトは需要が多かったので、俺は考えに考えた末、アパートから電車で40分の場所にあるあまり聞いた事がない小さなテーマパークの「かぶりもの」のバイトを選んだ。夏は地獄だと聞くが、今の季節ならちょうど良いかなと思ったのだ。面接に行った時には「かぶりもの」のバイトの人気が高い事に驚いたが、なんて事はない。面接官に俺の必殺技「85兆円の笑顔」を出せば一発採用なのだ。
…しかし!バイトの初日に俺は浅はかだった自分を罵る事になる。
「かぶりもの」は5月の連休でも、朝の10時から夜の8時まで休憩無しで続く、11時間耐久サウナで我慢大会状態だったのだ。
勿論大きくてしっかりしたテーマパークだったら途中で休憩が入っただろう。だが、俺が楽したいが為に選んだこの小さなテーマパークは、バイトがのぼせて鼻血噴こうがぶっ倒れようがゲロ吐こうがお構い無しの、労働省の役人が知ったら自分の存在に虚脱感を抱いてしまいそうな程いい加減な所だった。それは、賞味期限が9ヶ月も前に切れている「かやくご飯の素」を平気で棚に並べている田舎のスーパーと同じ位最低だった。
自分の体力が限界に近付く前に、何とか水分補給だけでもしなくてはいけない。脱水症状が起きるとやっかいなんだ。だから皆で協力し合って水だけは隠れて飲んでいた。
とにかく「かぶりもの」係りのバイトは皆、生意気な子供の相手をしながら涙を流し、その妙にでかいネコやウサギの「かぶりもの」の中で自分と必死で葛藤しているのだ。まるで哲学者のように。いや哲学者ってか、だんだん厭世者みたいになるんだけど……。
俺はこのバイトでドラエモンもどき(!)の「かぶりもの」を任された。それは種類ある「かぶりもの」の中で最も頭がでかく、動きにくいモノだった。そしてそれは、何人もの人間が使っただけあって超ド級スーパーサイヤ人並に汗臭いのだ。ドラエモンもどきは真ん中から少しずれた場所に小さなポケットがあり、取って付けたような耳があり、目の上に変な眉毛まである、生産会社不明の完全にヤバそうな「かぶりもの」だった。
本当に世の中は面白いモンだと最初はそんな事を思っていたが、次第に暑さと臭さで吐き気までしてきた。
しかし地獄の耐久レースが終われば、その日のうちに給料が貰える。しかも金額がなかなか良かった。だから皆、涙を飲んでこの殺人的スケジュールのバイトを続けた。
勿論俺も。
「岬杜?深海だけど」
最後の休日、バイトが終わると俺は岬杜の携帯に電話をしてみた。番号は知っていたし登録もしていたが、今までかけた事もかかってきた事も無かった。
「どうした?」
「バイト終わって金入ったから、何か奢ってやる。来れるか?」
岬杜は行くと返事をしたので、俺は岬杜と待ち合わせ、その夜はずっと2人で遊んだ。
焼肉屋に行ってメシを奢ってやり、バッティングセンターで汗をかき、クラブで酒を飲み女をからかい、ゲーセンへ行き、帰りに屋台でラーメンを食べて朝まで楽しんだ。
俺はラーメンを啜りながら、「かぶりもの」のバイトの話をした。生意気なガキに後ろから蹴りを入れられた事や、1日3回あるパレードで、NHKのお兄さんがやるようなお友達ダンスを踊った事などを。岬杜は俺の話を楽しそうに聞き、「ドラエモンもどき」にくつくつ笑った。そらから「屋台でラーメンを食べるの初めてだ」と言い、「深海といると楽しい」とも言った。
始業式から一ヶ月で、俺達は本当に仲良くなったと思う。岬杜は気兼ね無しで付き合える本当に良い奴だった。俺の身体はたまに思い出したように警戒するのだが、俺はそれをなんとか隠した。
だから岬杜を俺のアパートへは入れさせない。コイツと遊ぶのは楽しいけれど、だから余計に密室で2人きりは絶対避けたかったんだ。
このままでいたかった。
その日はそのまま学校へ行った。午前中の授業は涎を垂らして爆睡し、昼メシを食べると岬杜と一緒に屋上へ行った。
屋上には緋澄がいて、俺達は3人で日向ぼっこをする。4月は例年よりずっと寒かったのに、5月に入ってからは夏日のような暑い日が続いていた。
煙草を取り出すと、岬杜が「くれ」と言うので新しいのを一本やる。
「なぁ、サクランボ取りに行こうかぁ〜」
見事な五月晴れを見上げながら、俺が言った。
花見をした公園の桜の一本が、サクランボを付けていたのを知っていたんだ。岬杜は行くと言い、緋澄は行かないと首を振る。
「深海、サクランボってサクランボの木になるの?」
緋澄が小さな声で聞いてくる。
「サクランボは桜の木になるよ。桜の赤ん坊なのぉ。でも全部の桜が赤ん坊産めるわけじゃないけどね」
緋澄が可愛くて、俺は頭を撫でてやった。
それから学校をフケて、俺と岬杜は公園に行った。花見の時のように俺のチャリのステップに岬杜が乗り、俺達は気持ち良く風を切る。
公園に着くと熟したサクランボは全部採られていて、後はまだ酸っぱそうなモノしか残ってなかった。まだ少し時期が早かった事もある。
高い場所に少し熟したモノが見える。俺は岬杜に肩車してもらって上の方にある、熟したサクランボを採った。いつもよりも高い位置から空を見上げ、俺は気分上々だった。
採ったモノを公園の水場で洗って食べる。真っ赤なモノばかり選んで取ったので、甘くて美味しい。ベンチに座って、岬杜と半分づつで食べる。
「本当に桜の木になってるんだ」
岬杜がサクランボを見ながら言った。
「何だぁ?急に」
「いや、見たこと無かったから」
そういえば花見もした事がなかったって言っていたな。
「なんて種類の桜なんだろうなぁ。山形産なんかなぁ」
普通の種類、ソメイヨシノとかシダレザクラとか山桜とかだったらサクランボはならないしな。ホント、何て種類だろう。
それともこれがセイヨウミザクラなんだろうか。俺は桜の種類には疎い。
公園には近所のオバサン達と、小さな子供がウロウロしていた。その中の一人が近付いて来たので俺はサクランボを分けてやった。
子供は嬉しそうに食べ、母親の所に駆け戻り、報告をしている。
サクランボは美味しい。記憶にある細々とした断片的なイメージが浮かぶ。例えば、昔隣に住んでいたサクランボ好きな友達の顔とか、双子とか、種飲み込んでた事とか。
俺は小さい頃、サクランボの種を飲み込んでいた。何故だか分からないのだが、母ちゃんにどれだけ言われても吐き出す事が出来なかったんだ。それがある日、種を飲み込む事が出来なくなった。その時とても不思議な感じがした。自分の中の何かが、少しだけ変わってしまった気がして。
ボーっとしていると、隣からいつもの強い視線を感じた。
きっと岬杜が俺を見ているんだ。じっと、強い思いを込めて。
「なぁ、岬杜。一発逆転負けの可能性がある人生9回裏フルベース・フルカウントの場面で、お前がピッチャーだったら何投げる?」
俺は岬杜の方を見ずにそう訊いた。
我ながら唐突で、しかも変な質問だった。
「……俺は、深海がバッターだったら真ん中ストレートだと思う。それ以外は分からない」
少し間を置いてから、岬杜は真面目に答えた。だから俺も真面目に言った。
「俺はね、手榴弾を投げるかもしれない。核弾頭を投げるかもしれない。もしかしたら数学の教科書を投げるかもしれない。普通の野球ボールで、スライダーを投げるかも。でも、キャッチャーに投げずに、レフトに向かって投げたり、空に向かって投げたり、もしくはどこにも投げないかもしれない。お前と一緒で、ど真ん中ストレートを、真正面からちゃんと投げるのかもしれない。でもさぁ、本当は自分の投げたモノを、誰にも打ったり捕ったりしてほしくないと思ったりするんだぁ」
「……誰にも?」
岬杜の瞳を見るのが嫌だったから、目の前の桜を見ながら話を進める。
「うん、誰にも。言いたい事分かる?」
「分かると思う」
きっと岬杜はまた、俺の話をアインシュタインの講義を聴くみたいな顔で聞いてるんだ。
「俺は普段そう思ってる。でも、これが俺の『本当に本当の気持ち』なのかどうかなんて分からない。『本当に本当の気持ち』は、誰かにホームランを打ってほしいのかもしれないし、一塁側の観客席に座っている女の弁当で捕ってほしいのかもしれないし、ちゃんとキャッチャーに受け止めてほしいのかもしれない。『本当に本当の気持ち』なんてないのかもしれない、とも思う。俺達は、少なくとも俺は、小説や漫画やドラマに出てくる人物のように理路整然とした考え方なんてしないし出来ない。でも岬杜は違う気がする」
そこで俺はやっと岬杜を見た。
思った通り岬杜は、俺の話をこれ以上なく真剣に聴いている。その瞳はいつもよりももっと深くて、俺はそこに潜ってみたくなる。
「俺だって、理路整然としたモノの考え方なんてしないし出来ないよ」
「でも、俺と違って逃げようなんて思わないだろ?」
「深海だって逃げないさ」
「俺は逃げないかもしれないが、投げないかもしれないんだ」
岬杜の手が動いて、俺の髪に触れた。俺の髪に触れたのは初めてだったと思う。
そこから岬杜の心が流れてくる気がしたので自分の力を止めようと思い、そこで初めて俺は気が付いた。今までずっと無意識に力を止めていた事を。クセになっていたんだろう。
それから俺達は何でもない事を少し会話し、それぞれの家に戻った。
アパートに帰る途中、コンビニに寄って夕飯の弁当を買った。家に帰ってレンジで温め、ビールを飲む。
俺は自分が寡黙だなんて、蟻さんの足の先ほども思った事はない。でも、岬杜といるといつものようにふざけたりしないで、真剣に自分について話したくなる。
ビールを飲みながら、俺の事を岬杜には分かって欲しいと思っているのだろうかと、自分に質問してみた。
だが、答えは沈黙の形でしか返って来なかった。