第5章 俺を憂鬱にさせる赤さ・流れてしまうモノ


 その日から、岬杜の強い視線をより重く感じるようになった。
 俺は考えるのを拒否し、学校では真面目に授業を受けた。午後からも自分の席にちゃんと座って、数学の藤沢にチョークを投げられる事もなく、優等生みたいに几帳面にノートをとった。
 ただ単に、深く考えたくなかったんだと思う。
 3日後、久々に授業をフケるとやっぱり岬杜がやって来た。強い視線と自分の身体の反応とで、岬杜が近付くとすぐ分かる。
 俺達はくだらない笑い話をしながら煙草をふかしていた。その日はやたらと身体が警戒を示し、俺は些かウンザリしていた。
 リラックスしようと空を見上げ、深呼吸する。
 黒い雲が覆い、湿った風が吹く嫌な空だった。
「深海は単純明快に見えるがなるほど深い海だな」
 岬杜が少し笑いながら言う。だがその笑顔は本当の笑顔じゃない。いつもの、ちょっと引っ掛かる笑顔。
「あらぁ、何それぇ〜?俺は母ちゃんにも姉ちゃんにもアンタは考えが浅すぎてそのうち脳味噌干上がっちまうぞ!って言われるんだぜぇ?まぁ俺もそう思うけど。だってよぉ俺ってば、めし=喰う、数学=寝る、オッパイ=揉む、だぜ?」
 えへへと笑う俺を見ながらやっぱり岬杜も少し笑う。相変わらず微妙に引っかかる笑顔と強い視線で俺を見ながら。
「深海は俺を見ながら可愛く笑う」
「あらま、俺の笑顔可愛い?良く言われるぜぇ近所のオバサンに」
「子供っぽい仕草も可愛い」
「カワイ子ちゃんだも〜ん」

「……しかし深海の身体は俺への警戒を怠らない」

 視線が絡むのを感じた。
…なるほど、だからあの笑い方か。気に入らねぇ。
「俺の身体は正直でね、そんな強い視線を感じてリラックスは出来なくてさぁ」
「警戒を上手く隠そうとしてたが」
「やだなぁ。上手く隠そうとしてたらしいが、バレバレだったぞ!ってか?参っちゃうなぁ。いやん」
 俺の身体はあからさまな警戒モードに突入した。岬杜は変わらない。強い視線は相変わらずで何を考えているのか読み取らせない。しかし俺は不機嫌オーラバリバリだった。俺は普段温厚で知られている。実際友達相手にこんなにピリピリした事はなかった。
「深海、空気が張りすぎてカマイタチが来そうだよ」
「雷が発生する可能性もあるぜぇ〜?」
 苛立ちが抑えられない。こんな事は今までなかった。
「強い視線と言うが俺は意識してない。それに初めてお前を見た時から今現在に至るまで、深海に悪意を持った覚えはない」
「お前さぁ、俺を初めて見たの去年の夏、2学期が始まった頃だろ?」
岬杜が少し驚いた顔をした。
「あの頃からお前の独特の視線はたまに感じてた。学校内でも街中でも、矢鱈と人ごみの中が多かったし、お前は気配を消していたから特定は出来なかったが。やはりお前だったのか」
 岬杜の瞳が少し揺れた。
「まぁ、どうでもいいけど。俺の身体が警戒を示すならそれまでだ。俺は自分の勘とか本能にやたら忠実でね。あ、次お前どーする?」
「フケる」
 授業の終わりの鐘が鳴る。
「そ。次体育だし、俺行くわ。そんじゃぁねぇ、岬杜くぅん。ぶぁいぶぁーい」
 俺はにこやかに手を振って屋上を出た。
 背中を刺す強い視線を感じながら、俺は無性にイラついていた。


 次の日から、俺達は全く会話をしなくなった。俺は岬杜の視線が堪らなくて、屋上へ煙草を吸いに行くのも嫌だった。教室でも岬杜の方を絶対見ず、近寄る事もしなかった。
 一週間経った土曜日、その日もずっと視線を感じていた。
「深海君、今日君の家に遊びに行ってもいいかな?」
 放課後のHRに岸辺が訊いて来た。俺はその時いつもの視線に頭痛を感じ、尚且つ自分のイラツキを抑えるので精一杯だった。だが岸辺の誘いを断る理由はない。それに気分転換もしたかった。
「いいよん。裏ビデオ視聴会でもいいぜぇ」
 疲れた時に飲むビタミン剤の瓶を手の中で転がしながら俺はニコニコ顔で言った。
「あ、いーな岸辺君、深海君を一人占め。私も行きたいなー」
 隣の席の砂上喜代が割り込む。砂上はこの学校の女子の中で一番俺と気が合う女だ。身体の肉付きのバランスが良く、ベリーショートの髪型がとても良く似合う。可愛くて利発そうに見えるが、実際その通り。金持ちの娘にしてはえらくサバサバした性格で、俺はかなり気に入ってた。
「砂上さぁ、いいんだけど俺ん家アパートだぜぇ?最初に言っておくけど、お前が考えてるよりずぅ〜っと小さくて汚い部屋だからな」
「小さいとか綺麗とかで人を判断する人間と思われてるなんて…喜代ショーック!!」
 砂上が両手で顔を挟み、大袈裟に騒ぐ。
「分かった!分かったから騒ぐな〜!」
「行って良いかしら?」
「来い来い。一緒に裏ビデオ見るかぁ?」
 砂上がイヤーンとか何とか言いつつ俺を見た。が、その目線は俺を飛び越え窓側でピタリと止まった。すぐに俺に視線を戻した砂上はいつもの砂上だが…その目は勘の鋭い女性特有の、腹に堪える目だった。
 一瞬で俺のビタミン剤を持つ手が自然に動き、砂上と岸辺が目を見開いた瞬間それが窓際に一直線に飛んだ。
「うわあぁっ!!」
「何だ何だ!!」
 俺と奴の間の人間が悲鳴を上げる。
「あ、ごめぇ〜ん」
 俺がえへへと笑いながらゆっくりと見上げると、予想通り岬杜がその瓶を掴んでいた。
「いや〜ん、岬杜君、すんまそ!」
 文句を言う級友に「怒んないでぇ〜」「俺を捨てないでぇ〜」と言いつつ一人一人顔を覗き込み謝る。ブツブツと言いながらも許してくれる級友にニコニコ笑顔で返し、俺はゆっくり岬杜の側に寄った。
「岬杜君許してちょ〜。ちこっと手が滑ったんだぁ」
「凄いコントロールだな。俺の眉間に一直線だ」
「ありゃ、危なかったねぇ。いい加減俺もイライラしてたんだぁ」
 笑いながら言う俺に、岬杜は真っ直ぐ俺を見て答えた。
「今度カルシウムの錠剤買ってやるよ」
「うん、ありがとぉ!でもストレスの原因がなくならないとね!!」
 瓶を受け取ると俺はすたすたと自分の席に戻った。

 放課後、岸辺が「家庭教師が帰り次第家へ行くよ」と言うので俺は砂上と2人で帰った。
 俺が住んでいるアパートは学校から自転車で20分程度の場所にある。その建物は、マンションでもコーポでもハイツでもなく、アパートと言う名に相応しい立派なポンコツアパートだ。
 この学校に自転車で通う生徒は少ない。皆送り迎えして貰っている。砂上もそうかと思いきや、違うらしい。砂上の家は結構な金持ちらしいが、砂上はかなり自由に日々を生活している。兄が二人に妹が一人いて、親は意外にしっかりしている砂上を「誰にも迷惑をかけない」との契約付きで自由にしているらしい。
 アパートに着き、砂上を家へ上げると、
「なんだー結構綺麗じゃん。私は漫画とかに出てくる、腐ったような木で出来た昭和初期的建築物かと思ったわ」
 等とぶつぶつ言っている。俺がちょっと笑って部屋に通すと、一言
「深海君の部屋だわこりゃ」
 と、訳の分からん事を呟いて目を輝かした。砂上はきっと、砂上なりに俺の部屋を感じているのだろう。このモノで溢れ返った部屋を。
 俺は服や食べ物には金を使わないが、CDや書籍類(その内漫画7割)にはかなり金を使う。この部屋にはそれ以外にゲームやスノーボード、スキー板、ギターにパソコン、麻雀牌、それとプラモデル、それらが6帖の部屋にびっしり詰まっている。10帖の方はベッドとテレビ、ミニコンポと小さなコタツが置いてある。
 キラキラ目を輝かしている砂上を見ていると、ふと今日の昼授業を抜け出して買いに行ったCDを学校に忘れてしまった事に気が付いた。明日も学校はある。俺だって勿論行くつもりだ。しかーし!俺は一瞬でも「聴きたいな」と思ったら止まらないのだ。「聴きたい」の感情が「わざわざメンドクサイ」「明日でも聴ける」の感情に余裕の1ラウンドKO勝ちを収めるのだ。
「ごめ、ちょっと出かけてくる。勝手にあちこち触ってもかまわねーから」
 と砂上に言い残すと、俺は超特急でまた学校へ戻った。

「確か机に入れっぱなし…」
 廊下を走って教室に入った途端、俺はいつもの窓際の席に岬杜の姿を見つけた。一瞬引いた足が、岬杜が何か紙切れを見ながら携帯で話しているのを知ると、今のうちだと言わんばかりに大急ぎで自分の机に向かい、CDを見つけ出すとそのまま大急ぎで教室を出ようとした。
「深海」
 思わず振り向くと、携帯を切った岬杜がじっと俺を見ている。いつもの視線で。
「俺さぁ、最近お前の方見ないようにしてるの知ってる?」
 奴が窓際に腰掛け俺が教室のドアを開けている今、身体は警戒するが心配の必要はない。少し落ち着いて俺はそう切り出した。
「知ってる」
「そ。俺ね、お前がどんなふうに俺以外の人間を見るのか知らないけど、結構お前の視線気になんのよ。前にも言ったけどお前の視線って独特でさ。俺ってやたら変に勘鋭いし、気になり始めると余計神経尖っちゃって凄い悪循環なの。お前が元々そーゆう目で人を見るんだったらかなり失礼なんだけど、ちこっと俺の方見るの止めてくれるかな?一年間このままだったら俺かなりきついんだわ。ごめんな」
 俺は一気に捲くし立てた。俺は元々人前でイライラするタイプじゃない。嫌な事があっても自分の中で上手く浄化できる。なのにコイツの視線を感じるとどうしても上手く自分をコントロール出来なくなっていた。
 一週間前までは友達だったんだが……。
 分かってる。俺自身にも責任はあるのだ。
 が、自分と岬杜だけが嫌な思いをするだけならまだしも、そのうちクラスメートに八つ当たりしてしまう可能性だってあるのだ。俺はそれが嫌だったし、怖かった。
「…分かった」
 岬杜は少し黙った後、俺を真っ直ぐ見詰めながら頷いた。
「あぁ、良かった分かってくれてぇ。俺の神経が落ち着いたらこっちから話し掛けるよ。そしたらまた一緒に屋上で煙草吸おうなぁ」
 俺がそう言うと岬杜が悲しそうに笑って頷く。
「じゃぁなぁ〜岬杜くぅん、ぶぁいぶわぁ〜い!」
 何だか見ていられなくて俺は走って校門まで行き、チャリに乗って大急ぎでまた家まで戻った。息が弾む。
 夕日が空を赤く染めている。それはやたらと俺を憂鬱にさせる赤さだった。
 俺はとてもやるせなかった。

家に戻ると砂上が俺の部屋でテレビを見ていた。
「おっ帰りー」
 砂上が元気に言う。俺はせっかく取りに戻ったCDをもう聴く気にはなれなかったので、砂上と学校の話をしながら岸辺を待った。
 それから間もなく岸辺が来て、3人でどーでもいい事を喋り、笑い、デリバリーのピザを注文して食べた。岸辺はウーロン茶、俺と砂上はビールを飲みながらくつろいでいると、突然岸辺が重い口調で俺に話し掛けてきた。
「で、何で今日岬杜君に瓶投げつけたの?」
「えへへ、手が滑ったのよ」
 岸辺は俺の答えに困惑した表情を浮かべた。
「深海君、岸部君心配してんだから真面目に答えてやりなよ」
 砂上が珍しく真面目に呟いた。しかし俺はなんと答えれば良いのだ?視線が気になるし、何だか苛つくからとでも言えば良いのか?
「深海君は知らないだろうけど、岬杜君は僕や砂上さんの家よりもっともっと大きい会社の…何て言えばいいのかな。岬杜グループってのの……」
 岸辺があまりにもボソボソ言うので、俺はこの優しい友人が愛しくなった。
「岸辺、心配サンキュな。でも俺は別に岬杜と喧嘩してるわけじゃないし、喧嘩ふっかけてるわけでもないぞ。実は今日の夕方その事で岬杜とちょっと喋ったんだけど、分かってくれた。だからもう大丈夫だぜぃ」
 俺がにっこり笑うと岸辺がほぅっと息を吐いた。
「何?もう和解済みなの?僕、実は滅茶苦茶心配していたんだよー、もー」
 脱力する岸辺を横目に砂上が笑う。
「でも深海君凄いね。岬杜君にモノ投げちゃうなんて。皆岬杜君には話し掛けないし近寄ろうともしないのにね」
「あれ?あいつ友達いないの?何で?カッコイイのにぃ」
「今まであんまり学校来なかったみたい。海外の方にしょっちゅう行ってたみたいだし。でも今年からは随分真面目に来てるわね。学校では絶対口を利かないから友達はいないみたいだけど、女子からの人気は緋澄君をも凌ぐわ」
 俺は思わず砂上を見た。砂上はテレビを見ているが、意識は確実に俺を向いていた。
「私、岬杜君が学校の子と話してるの初めて見た」
 砂上の科白に、俺は少しの頭痛と大きな胸の痛みを同時に感じた。


 翌日から一週間程岬杜は学校を休んだ。俺が久し振りに屋上に煙草を吸いに行くと、苅田と緋澄がすでに座り込んでいた。
「おぅ、俺様の可愛い深海ちゃんはこっち来い」
 苅田が隣をバシバシ叩く。
「はぁーい。苅田さん、今日も御指名ありがとうございますぅ。指名料はいつも通り1時間3万円ですので先払いよろしくねっ!」
「良し良し、払ってやるからココ乗れ」
 苅田が俺を掴んで膝の上に乗せようとする。
「いやだん、苅田さん。そこに乗るのはハッスルタイムの時だけよぉ」
 俺は笑いつつ苅田の隣に座った。
「深海ちゃん今日は一段と可愛いぜ」
 苅田が俺の髪をくしゃくしゃにしながら言う。
「苅田ぁ、俺ってば確かに可愛い子チャンだけど、一人占めしようとは思はないでねぇ」
「えっ?お前俺様のモンじゃないの?」
「あら、とんだ間違い大きな勘違い!俺は俺を愛する皆様の共有財産よぉ〜。苅田ってば俺を溺愛しすぎると独占禁止法に引っかかっちゃうんだからっ」
「馬鹿め、俺のモノは俺のモノ、皆のモノは俺のモノだ」
「いやん、苅田のジャイアニズム爆発ねっ」
 馬鹿話をしながら俺は大きく背伸びをした。空が青く不思議な色をしている。青空とは可笑しな物で、自分の気分によって見え方が違う。自分の気分が良い時は大きく果てしなく見え、少し心に引っ掛かるモノがあれば、何とも遠く突き放されたように見える。だったら、今見えるこの不思議な感覚は一体なんだろう。
 ぼんやり空を見ながら、俺と苅田は女の話に花を咲かせた。緋澄は無口だし、どんな事柄にも滅多に興味を示さないのを知っているので、俺と苅田だけで話を進めていく。
 苅田はどうやら砂上に興味があるようだった。確かに砂上は良い女だ。が、少しアクの強い所がある。ってか、砂上の瞳の奥は少し怖い時があるんだ。まぁ普通は分からないだろうが。
「顔も良いし身体も良いしなぁ。一回抱いてみてぇよ」
「苅田ぁ、砂上は性格もいいんだぞぉ」
「そりゃ皆のオアシス、深海ちゃんの前では良いかもしれんがな、この前俺がアイツを口説いた時、アイツ何て言ったと思う?『まぁ苅田君喜代の事好きなの?嬉しい!だったら私はジャイアンに唯一愛されているジャイ子って事ね。喜代は漫画は書いた事ないけれど、今度4コマ漫画くらいは挑戦してみるわ!お兄ちゃん応援してね。それとジャイ子は近親相姦には興味ないからそこんとこヨロシク!!』だってよ。顔も身体も良いけど、あの性格はいただけねぇ」
 俺は思わず爆笑した。砂上はやっぱり砂上だ。あの女をその気にさせる男はそうそういないに決まってる。
 俺が変に納得していると、苅田ははぁっと溜め息を吐いてラークを取り出した。
「そう言えば岬杜今日も休みだな」
 突然に話題転換に俺が首を傾げて見せると、苅田はラークに火を点けながら言った。
「岬杜とお前っていつも何話てんの?」
「あらやだ苅田ってばジェラシーめらめら火事状態?消火器消火器119番!」
「ばーか」
「でも心配御無用よぉ、俺は誰の物でもないわっ」
 『にかっ』と笑う俺を苅田も微笑ながら見る。
「可愛い深海ちゃんにかかったらどんな奴でもイチコロだな。岬杜ですらもその笑顔で虜にしたのか。罪な男だ」
「あはん、罪な男だなんて最高の誉め言葉ありやんすぅ〜!」
 俺が足をバタバタさせ喜ぶと苅田もクスクス笑い出した。
「お前岬杜と二人の時もそんな感じ?」
「そだよ?」
「想像出来ねぇ」
 苅田がニヤニヤして言う。苅田のニヤニヤ顔は本当にこっちまでニヤニヤしてしまうほどのニヤけた顔なのだ。
「何がぁ?」
「岬杜ってどんな顔してお前見てるの?」
「別に普通だよ?時々俺の85兆円の笑顔につられて笑う程度かなぁ」
 苅田は「へぇ」っと言いながら、右眉を大きく上げた。
「岬杜って授業中当てられた事ないの気付いてた?」
「うっそぉ?知らんかった。羨ましい…」
「本当さ。学校側に何か言ってあるみたいだ。ま、アイツん家くらいの権力を持つとウチみたいな私立学校では相当融通が利くからな。誰とも口を利かない岬杜は有名だったんぜ?俺は昔アイツと同じクラスになった事あるけど、ホント一言も喋んなかった。俺がアイツの喋ってるのを見るのは、お前といる時だけだ」
 苅田の話を聞きながら、俺は空の色がまた少し変わるのを感じた。
「例えば俺が一人で、ここで煙草吸ってるだろ?たまたまアイツも来たとするだろ?まぁ俺は普通に話し掛けるじゃん?でもアイツ絶対口開かないんだぜ。俺が何言っても、頷くか首を振るかだけ。俺も別にアイツの事嫌いじゃないし平気だけど、徹底してるよ。マジで」
 やっぱりそうだったんだ。岬杜は俺としか会話しない。
「ふぅ〜ん。そうなんだぁ。苅田がそんなんじゃ、緋澄と岬杜が二人の時はどんなだろ?あっ、想像するだけで『シーン』って音が聞こえそうだぁ」
 俺と苅田が緋澄を見ると、興味無さそうな視線が返ってきた。
「想像通り」
 緋澄が呟くと、俺達は爆笑した。あまりにもその情景がありありと想像出来てしまう。
「一時間ずっと黙ったままなのか?」
 苅田の問に緋澄は頷いただけだった。
「な、何か怖い〜」
 俺達はまた笑った。
 そのうち授業が終わる鐘が鳴り、苅田が「古典はぜってぇー休めねぇ!」と気合いを入れて出て行った。古典を受け持つ、いつも短めのスカートを穿く橘を目の保養にするらしい。
「緋澄どうするのぉ?」
 俺が訊くと、緋澄は黙って首を振った。「出ない」の意味だ。俺も出ないつもりだったので足をぶらぶらさせながらごろりと横になった。
「何話そっか?」
 緋澄は苅田といる時でさえほとんど口を利かない無口な男だ。だが俺と2人だけの時は少しだけしゃべる。「何か話していてくれ」と言う。だから俺は最初に訊くのだ。
「深海がさっき空を見ながら思った事」
 緋澄が小さな声で言った。俺は少し黙った後、空を見ながらさっき感じた事を話した。
 空はいつも同じに見える。
 空はいつも違って見える。
 自分の気持ちによって、身近に感じたり遠くに感じたりする。
 空に吸い込まれてみたら、俺は一体どこに行くのか。
 誰の所に行くのだろうか。
 緋澄はずっと黙っていた。いつもの事だ。俺の独り言を聞いているのか聞いていないのかも分からない顔をして。
 隣で微かに物音がしたと同時に、緋澄がごろりと横になった。右手が伸びてきて、俺の手に触れる。俺達は同じ態勢で空を見る。しかし緋澄のその瞳には何も映っていない。俺の独り言が続く。
 空がずっと赤かったら人間はどんなふうに進化したのだろう。
 空には鳥がいるのに魚がいない。海には魚はいるが鳥がいないのは何故だろう。
 空はどこが何が空なのだろう。
 空も海も同じ青色なのに、何故あんなに徹底的に『何か』が違うのだろう。
「深海は深い海」
 珍しく緋澄が呟いた。
「深海は空でも海でもない、深い海」
「俺、そんな深い事言ってないぞぉ」
 緋澄が手に力を込めた。
「深海は自分を『感じる』事が出来ないんだな」
 緋澄がこっちを見たので、俺も思わず緋澄を見た。コイツとずっと見詰め合っていると、何だか不思議な気分になってくる。
 緋澄は美形だ。母親がノルウェーの人なんだと聞いたことがある。絵に描いたような顔立ちで、中性的で美しく、色も白い。肩までかかる長めの髪は綺麗な金髪で、瞳は薄い灰色。光の加減で少し青く見える。身長も俺より高くてスレンダー。男でも女でも、誰でもこの男を好きになってしまうような、不思議な魅力の持ち主だった。
 俺的には岬杜の次に、この緋澄に見惚れてしまう。でもこの二人には決定的に違う点があった。瞳だ。岬杜の瞳が全てを射貫く、苅田並に圧倒的な強いモノを持っているとすれば、緋澄の瞳は全てを流し去る、全てが流れ去る、何も映っていないようなそんな瞳だった。俺は、実際コイツの瞳には何も映っていないだろうと思っている。コイツは何も感じない。感じる事が出来ない。全ての物事は緋澄の心をすり抜けてしまう。自分の感情さえも、流れていってしまう。緋澄から読み取れる感情はいつも、感情とは呼べない虚ろなモノばかりだった。だからコイツは何も映さない。時々その流れる瞳に俺が映るが、それは幻のように弱々しい。苅田が映っている時もあるが、それは苅田が強引に映しているように見えた。
 しかし今の緋澄には、流れてはいたがかなりしっかりと俺が映っていた。俺にはそれが不思議だった。
 緋澄の手が俺の顔に触れた。そのままじっと見ていると、今度はその手が肩に降り背中にまわり、俺はゆっくり抱き締められた。
「その科白、深海は深い海だっての、他の奴からも言われたぁ」
 俺がぼんやりそう言うと、緋澄は黙って俺の身体を抱き締めた。
「岬杜だろ」
「何で分かんの?」
 緋澄は黙って俺の身体を抱き続ける。
 流れ続ける緋澄の瞳を見詰めて、俺は目を閉じた。そして目を閉じたまま笑った。緋澄も少し笑っているのが聞こえた。
 俺を求めている。だから俺も緋澄を抱き締めてやった。抱き締めて、背中を撫でて、笑顔で髪にキスしてやった。


 翌日にやっと岬杜は登校して来た。その日は1日視線を感じなかったのにもかかわらず、俺は何故かまだイライラし、その分異常にハイテンションだった。午後からは苅田を誘って屋上に行き、ずっと甘えまくった。
 強い風が吹いている。
「深海ちゃん、やっと俺様に抱かれる気になったのか?」
「いやん、うんこ付くからケツは貸せないよぉ〜。でも苅田に甘えたい今の俺は、ほろ苦い青春の一ページを満喫してるのぉ」
 頭を撫でてもらいながら俺は苅田にしがみついた。
 俺は苅田といる時はとても安心出来た。それは苅田が俺を必要としない種類の人間だからだと思う。
 それと、「俺の中の岬杜」に唯一対抗できる圧倒的な人物だったから。
「深海ちゃん、恋愛した事ある?」
 ふと真面目に訊かれたので、少し笑ってしまった。苅田が恋愛なんて言葉を使うだけで、笑えてしまうんだ。
「恋愛って何?」
 クスクス笑いながら答えると、苅田は「深海ちゃんはいつも掴めない」と呟きながら俺をぎゅっと抱き締めた。
 強い風が吹いている。
「あー深海ちゃん犯してーなーっ」
 苅田が首筋にキスをしてくる。だが俺は平気。
「ウソ吐きはルパンの始まりっ」
「本気だぜ?強姦して俺のモノにしてぇ」
「苅田みたいな危険な人間が本気でそんな事思ってるのなら、俺の正直な身体はとっくにそれなりの反応をしてるよぉ〜?」
 笑って言う俺を見ながら、苅田は苦笑していた。
「それなりの反応ね」
 苅田の言葉に嫌な含みがあったので閉口したが、苅田はそれ以上何も言わなかった。
 強い風がいつまでも吹いていた。


 それから岬杜は学校に顔を出しても俺の方は絶対見ようとしなかった。俺は俺で一安心だったし、神経過敏だった部分もようやく落ち着きを見せ、話し掛けてもいいかなぁと思いつつも結局2ヶ月間近く話し掛けないままで終わった。
 岬杜の事自体、あまり考えたくはなかった。最初はあの視線が気になったけれど、岬杜の事は気に入っていた。花見の時も楽しかったし、一緒に一晩中遊んだ時も楽しかった。屋上でぼんやりしている時も自然と側にいてくれた。
 いつも…あの深い瞳で俺を見ていた。
 その瞳で見詰められるのは好きだった。強い視線の理由も、本当は分かっていた。
――考えたくない。


終業式になった。







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