5月になった。
その日も午後から屋上で過ごす。緋澄と苅田、俺、それから岬杜。この4人が当たり前のように並んで柵にもたれていた。
今日はやけに空が遠く感じる。
そう思いつつ苅田の肩に頭を乗せた。
「深海ちゃん、眠いのか?」
「う〜ん、分かんなぁい」
足をばたつかせると、苅田が身体を反らし俺に膝枕をしてくれた。髪を撫でてくれる。思わず身体を伸ばすと、岬杜の足を蹴ってしまった。
「あ!ごめっ!!」
慌てて起きようとすると、岬杜は気にするなとでも言うように俺の足を持ち上げ、自分の伸ばした足の上に乗せてくれた。
俺は何だか気分が良くて、本当に寝てしまった。
そして熟睡に入ろうとした一歩手前で、良く知った気配に起こされた。
「…帰って来た」
俺の寝言のような呟きに4人揃って屋上のドアを見ると、
そこには久々に見る南暁生が立っていた。
「よぉ、久し振り」
ニヤニヤ笑いながら暁生が近付いてくる。
「よぉ暁生、痩せたんじゃねぇか?」
苅田もニヤニヤして言った。暁生もチラッと苅田を見て笑う。
「どこ行ってたのぉ?」
確かに細くなったなと思いつつ日焼けした顔を見て言った。
「砂漠」
「どうだったぁ?」
「ここに帰って来たくは無かったさ」
「だろうねぇ」
暁生はいつでも爆発しそうな男だった。
俺が高校に入るとすぐに喧嘩を売りに来て、殴っても殴っても俺に絡んで来た。そのうち俺とつるむようになった苅田にも喧嘩を売り、そしていつも殴られていた。緋澄の事は無視していた。暁生は緋澄には何も求めていない。ただ、俺と苅田には、強烈に「何か」を求めてきた。そして俺達は、必死で「それ」を与え続けた。もしくは、与えようとし続けた。仲が悪いわけじゃない。ただ、暁生が「何か」を求めるのだ。俺達が「それ」を与えないと、暁生が死んでしまう気がしていた。
暁生はたまに、突然消える事があった。「どっか遠くへ行きてぇ」その科白を口にした瞬間、本当にどこかへ行ってしまう。山、海、砂漠。海外国内関係なしに、本当にふらっとどこへでも行ってしまう。でも、必ず帰ってきた。何故かは分からない。「帰って来たくなかった」と言いつつ帰ってくる。俺達を、俺と苅田を求めて帰ってくるような気がした。
「深海、闘ろうぜ」
暁生が俺の前に立ち言う。今日の相手は俺のようだ。苅田と緋澄は無視している。岬杜も黙っていた。
日焼けした顔が俺を見る。暁生の瞳は暁生自身と同じで、いつも爆発しそうだった。苅田のように攻撃的で野性の肉食獣のような瞳ではなく、岬杜のように深いわけでもなく、緋澄のように流れてもいない。ただ真っ直ぐ、全身全霊を込めたような瞳で俺を見る。
『足りない』
暁生の瞳がそう言う。その瞳はいつもギリギリで、がむしゃらで、俺を悲しくさせる。
「砂漠、良かったぁ?」
「熱かった。でも、俺が求めているモノじゃなかった」
言うと、素早く蹴りが飛んだ。右手で充分止められたが、
俺より先に岬杜の手がそれを止めていた。
「深海、こいつ誰?」
「俺達と同じクラスの岬杜君。強いよぉ〜、きっと」
俺が笑って言うと、暁生がまじまじと岬杜を見た。岬杜は手を放さない。
「確かに強そうだ。でも、違う」
そうだろうよ。お前が求めているのはコイツじゃない。お前が求めるのは苅田と俺。
「岬杜ぃ、手ぇ放してやってぇ〜」
俺が立ち上がると、暁生がギラギラと目を輝かせた。
暁生は弱いわけじゃない。大抵の相手には楽勝できる力はあると思う。が、俺と苅田の相手ではなかった。それが分かっているから、暁生は俺達に挑んでくる。俺が蹴りを入れる度に笑い、殴る度に目を光らせる。
『足りない』
暁生の瞳がそう言う。
何が足りないんだ?お前は溢れているのに。刺激は一時凌ぎに過ぎない。お前の求めるモノはこんなんじゃないんだろう?
結局俺のサマーソルトもどきが顎を掠めて、
暁生が軽い脳震盪を起こすまで相手をしてやった。
動けない暁生の身体を引っ張って苅田の所まで行く。暁生は殴られて落ち着いた後、必ず煙草を吸うのを知っているからだ。苅田がいる時は、苅田のラークを吸う。
「深海、お前息も上がってねぇの?嫌味な奴だな」
自由にならない身体で俺を見上げ、荒い呼吸で暁生が言う。
「暁生は入れ込みすぎなんだよぉ〜」
「俺は馬じゃねぇぞ」
暁生が笑った。元の場所に座ると、苅田が俺の髪を撫でてくれた。
空は、やっぱり遠かった。
土曜日に学校が終わると岬杜と一緒にCDを買いに行った。
俺はCDを買いに行くと、3時間以上は必ず店でうろつく。楽しいのだ。試聴できるものは一通り試聴する。気に入っているアーティストの新作が出ていないか全部チェックして、珍しいアルバムがどこかに紛れ込んでないか、棚を丹念に調べていく。
最初に「長くなるから付き合ってくれなくても良いよ」とは言っておいたのだが、「俺も暇だし」と言って岬杜は結局付いて来た。
店に着くと俺は岬杜の存在すらも忘れてしまう。でも気が付くと岬杜は俺の後ろにいて、俺が何を見ているのか時々覗き込んでいるようだった。
「んだよお前、自分の欲しいの探せよ」
「いや、俺は深海が聴く音楽に興味がある」
真面目な顔で言われるとこっちも照れるのだが、まぁ岬杜は気にしないでおこう。
俺はさんざん店の中をうろつき、質屋のオヤジが客の持ち込んだ骨董品をチェックするような厳しい眼差しでCDを点検していった。
結局アイリッシュ音楽とジャズのCDを買って、俺は上機嫌で店を出た。ちょっと疲れたが、欲しかったモノが見つかったし満足だった。
岬杜と一緒にマックで昼飯を食って、他愛もない話をしながら窓を見る。
「深海っていつも何考えてるの?」
岬杜が急に訊いてきた。
「何も考えてないよぉ。今日の夕飯何にしようかなとか……あ、今日は数学の授業中に道路の線路の事考えてぞぉ」
俺は今日の数学の時間、黒板に描かれる放物線をぼんやりと見ながら道路の線路の事を考えていたのを思い出した。
数学の受け持ちである藤沢は、俺が寝ているとチョークを投げてくる。そんなの漫画や小説の中だけだと思っていたのに、藤沢は実際に投げて来るんだ。貴様はいつ時代の人間なんだと半ば呆れつつも、最初は投げられるとちょっと感動した。心の中で「漫画だ漫画だ!」と騒いでニヤついたものだ。しかし何度もやられるとさすがに鬱陶しいので、
最近は数学の時間だけは頑張って起きている。
藤沢は年齢不詳のオヤジで髪が薄い。額から後頭部まで無くて、耳の上の辺りにお情け程度に髪がある。しかも左の髪だけ伸ばしていて、それを強引に右の耳の上まで持って来ている。だから右から風が吹くとペラっと髪が捲れて、落ち武者みたいになる。何故あそこまで、残り少なくなった儚い髪を酷使するのか良く分からん。
まぁとにかく、今日も授業中風が吹いて(良い天気だったので窓を開けていた)藤沢の髪が落ち武者になった。その時ヒョロヒョロと髪が舞って、藤沢が一生懸命黒板に描いていた放物線に重なり、俺は道路の線路を思い出した訳だ。
「道路の線路って何?」
「お前さぁ、道路にチョークで線路描いた事ある〜?」
「ない」
なさそうだなぁ、確かに。
「岬杜ってどんな子供だったの〜?」
「つまらない子供」
つまんなそうだなぁ、確かに。
「でも海外行ってたんだろ?何で帰って来たのぉ?」
「欠けていたから。いつも。そして、欠けたモノがそこには無かったから」
岬杜は少し微笑んで口を閉ざした。
欠けていたモノ
岬杜の強い瞳は雄弁にそれを語っていた。
俺は自分の身体の警戒を感じながら目を逸らす。コーラが無くなって氷だけになったカップをストローでガリガリ掻き回しながら、少しだけ頭痛を感じた。
「まぁいいけどぉ。あ、道路の線路の話ね」
俺は溶けた氷を取り出してテーブルの上に置くと、指にその水を含ませて線路を書いた。
「俺さぁ、小さい頃道路に白いチョークで線路描くの大好きだったのぉ。俺の家は引越しが多かったんだけど、何でか大体田舎が多くてさぁ、車もあんま通らないような道一杯あったのよ。そこで友達と道路に線路描くの。友達が途中で線路に飽きてどっか行っちゃっても、俺はもう取り憑かれたように線路描いてたの。でもさぁ、俺、何でか線路以外描けなくて、永遠と線路描いてたような気がする。電車も駅も描かないの。永遠に線路のみ。そんでもって終点も描けなくて、いつまでたっても終わんないの。いつまでたっても終点がない、道路の線路なの。今日の数学の時間はその事思い出して、俺ってば何であんなに線路描いてたんだろうって考えてた。そんで暁生の事思い出して、アイツも線路描いたら終点描かないタイプだろうなぁって思った。でも暁生が終点を描かないのと、俺が終点を描かないのは、何かどっかがちょっと違うんだろうなって……まぁそんな事考えてたよぉ」
岬杜はかなり真剣に俺の話を聞いていた。こんな話の何が面白いんだか、患者が医者の話を必死に聞くみたいな顔して俺の話を聞いていた。
「俺はいつもそんなコト考えてるよぉ。どーでも良い事ばかり。なんで人間は大事な心臓と首に毛が生えないんだろぉ〜?とか、なんで鏡は左右が逆になるのに上下は逆になんないんだろぉ〜?とかね」
岬杜はまだ真剣に俺を見ていた。
「あと、なんで岬杜はこんなくだらない俺の話を、アインシュタインの講義でも聞いているような真面目な顔で聞いてるんだろぉ〜?とかねぇ……」
俺が笑って言うと、岬杜はやっと我に返ったようだった。
「深海、今度道路の線路描きに行こう」
思わず絶句した俺を見て岬杜は笑った。なんだか本気で誘っているみたいだ。
岬杜、笑い事じゃないぞ!道路に線路描いている男子高校生なんてどこにいるんだ!!
「俺は深海が描いた線路の上に、電車を描くよ。駅も。人も。イヌもネコも」
「線路の上に人や犬や猫はいないの!危ないっしょ?」
「じゃあ電車と駅を描く」
俺は呆れながら岬杜を見た。やっぱり本気らしい。
いくら子供の頃つまらない生活をしていたからって、高校生にもなって道路に線路描くことはないだろうよ。大体岬杜は格好良い。俺と喋ってない時は滅茶苦茶無愛想で無口で冷たい感じなのに、女子の隠れファンどころか大っぴらファンだって一杯いるんだ。この学校じゃ凄い人気あるんだっ。俺と違って無愛想なのに!影でクールビューティーとか何とか言われていて、いけないお姉さん達の妄想に使われまくってるんだ!緋澄といい勝負なんだ!!
そんな男が道路に線路描いてたら……。
でも想像したら笑えて来た。
「お前電車描くんだったら気合い入れろよぉ」
「気合い?電車に?」
「そうだよ。お前電車描くって何描くつもりなんだぁ?」
俺が話しに乗ってきたので、岬杜は明らかに嬉しそうだった。
この世の中に岬杜の笑顔を知っている人間は滅多にいないと思う。周りの女子から言わせるとそれほどコイツの笑顔は貴重らしいのだ。大体俺は、コイツが俺以外の人間と話をしているのを見た事がない気がする。でも、俺には良く喋るし、良く笑いかけてくる。どこか引っ掛かった笑い方の時もあるが、たま〜に自然な笑顔もある。
優しい笑顔なんだからそんなに出し惜しみする事ないのに、と俺は思っていた。
「岬杜、電車描くのは気合いがいるんだぞぉ?まずこだまから勉強しろ。しらさぎでもいいけど。最後にはデゴイチ描けるようになれ」
岬杜は笑って「勉強しとく」と言った。
それから俺達はマックを出て駅に向かった。
夕方の駅は混雑していて酸素が薄い。子供の時から大概を田舎で育ってきた俺は、この酸素が薄い状態が嫌いだ。今では少しは慣れたのだが、こっちに来た当初は本当にウンザリしたものだ。
プッラットホームに着くと、ふと一番端っこのベンチのそのまた向こう側に誰かが座り込んでいるのが見えた。
「どうしよう……」
そこに黒い影が見えた気がした。嫌な気配。
「何が?どうした?」
佇んでいる俺を見て、岬杜が心配そうに訊いてきた。岬杜のカッコイイ顔が近付いて来て、俺をまじまじと見詰める。
「岬杜、俺ちょっと自信ないから付いて来て」
俺は岬杜の服の裾を引っ張って、プラットホームの端に向かった。
もし一人だけだったら、俺の勘が行くなと告げたかもしれない。でも、岬杜がいてくれる。苅田じゃ駄目だ。緋澄でも暁生でも駄目だ。
でも、岬杜がいるなら何とかなるかもしれない、そう思った。
プラットホームの端っこは、人がいない。
ベンチの横に座っているのは、40代後半でどんぐり眼の太ったオヤジだった。
よれよれの灰色のスーツを着たオヤジはどんよりと虚ろな瞳で線路を見ている。口元から強いアルコールの匂いがし、地べたに座り込んでなにやら呟いていた。俺はその口から、人を憎む言葉を聞いた気がした。
「オジサン、どしたぁ〜?」
俺が声を掛けると、岬杜が俺の腕を引いた。分かってる。構うなと言いたいんだ。
腕を放さない岬杜の手を強く握って大丈夫だと伝え、俺はゆっくり近付いた。
「身体大丈夫かぁ?」
オヤジには俺の言葉が届かない。
側まで寄ってゆっくりしゃがんだ。オヤジが濁った目で俺を睨む。
嫌な瞳だった。
人に裏切られ、自分に疲れ、もう何も残ってない瞳。リストラ?女に裏切られた?それとももっと違う理由?
「死ね」
オヤジは腹の底から捻り出すような声で言った。この男の全てが、この一言に詰まっているように聞こえた。
「死ねよ」
オヤジはもう一度言った。俺を通して誰を見ているんだろう。
「死んでくれ」
3度目の科白は自嘲じみていて、悲しかった。
人を傷付ける言葉はムカツク。でも、自分自身を傷付ける言葉は何よりも悲しい。このオヤジは「死んでくれ」と俺に言いながら、その言葉を自分に向けていた。
優しいんだと思う。優しいから人を憎みきれない。そしてその優しさを自分の弱さと勘違いして、また自分を追い込んでいくんだ。アルコールで逃げているつもりでも、逃げられないから苦しんでいる。足掻いている。人を憎みつつも必死で足掻いている人間の、どこが弱いんだ。まだ足掻く力があるのに、まだ苦しむ力が残っているのに。
「人の心の中には子供がいる」
俺は、じっくり話すのもこの男に触れるのも無理だと思った。
短期決戦に出た俺の言葉で、オヤジの意識が俺に向いたのが分かった。俺を通した誰かではなく、俺の瞳を見ていた。
但し黒い感情がたらふく篭った瞳で俺を見ている。
そしてその目を見た瞬間、頭の中に釘が刺さったような頭痛が始まった。
俺は堪らなくなって開いている手で岬杜の足を引っ張り、俺の背中の左側に密着させた。ここで引けない。オヤジの意識が俺に向けられたんだ。
「人は誰でも、どんなに年を取っていても心の中に子供がいる。アンタは座ってるけど、アンタの中の子供は走っている」
オヤジは黙っていた。
「俺はガキでまだ何にも知らない。何にも知らないんだ。俺にできる事はほんの少ししかないし、誰かに声を掛けようにも言葉すらあまり知らない。学校の成績だって悪い。でも俺はアンタの中の子供に、そっちは崖だと言いたいんだ」
オヤジの瞳にほんの少しだけ俺の声が届いているのが見えた。
頭痛が吐き気に変わっていく。
「確かに俺には関係ないんだ。でも誰だって、夏のムンムンする日にマヨネーズが机の上にあれば冷蔵庫までそれを持って行くだろう?バターだったら尚更だ。それと同じ位アンタはその場所にいたらいけないんだ。俺が言いたいのはそれだけ。アンタはベンチに座らなくちゃいけない」
釘が刺さるような頭痛から、割れるような頭痛に変わった。
岬杜の足を掴む。
だがオヤジは俺を見ていた。誰かを憎む言葉を口にしながらも。
「その場所に座ってちゃいけない。その場所は崖に近い。ベンチに座ってよ。そうすれば少しだけ太陽が見える」
俺はそれだけ言うと立ち上がり、岬杜と共にその場所から元の人ごみの中に帰った。すぐに電車はやって来たのでそれに乗り込む。
動き出した電車の中から見えたのは、ベンチの横から立ち上がったオヤジだった。
こめかみに手を置き目を閉じながら良かったと呟く。頭痛は治まりそうになかったが、まぁ良かった事は良かったんだ。
「あの場所は何だったんだ?」
岬杜が訊いてきた。
「あそこは人がいちゃいけない場所なんだ。あの場所には穴があって、その奥には闇しかない。俺が最も苦手な場所だ。本能的に逃げたくなるんだ。今日もやばかった」
岬杜は俺の話を黙って聞いていた。
こんな話をしても普通は誰も信じないし、霊感が強いのかとかそんなふうにしか取られないから説明するだけ無駄になるのだが、でも岬杜には話しても良いなぁと思った。
それから俺は、少し自分の力を説明した。人の嘘が分かる事と、今日のように「人がいてはいけない場所」が分かる事。
岬杜は真剣に話を聞いていた。そして俺の身体を心配してくれた。俺は頭痛が止まらなかったので、顔色が悪かったらしい。大丈夫だからと言って電車から降り、空を見上げて深呼吸した。
俺の頭痛は薬が効かない。
アパートに帰ると母ちゃんに電話をする。別に話は無かったが、それを言うと電話を切られるので米を送れと頼んだ。あと、小遣いアップの要求。小遣いアップは無視されたが、米は送ってやると言ってくれた。あとは他愛もない事を話し、電話を切る。
頭痛は少し治まっていた。
「俺、やっぱマザコンの気があるんかなぁ」
ちょっと呟いてからベッドに潜り込んだ。