第12章 僕の気持ちは彷徨ったまま・矛盾だらけの自分を抱えながら


 金曜日は朝から雨だった。
「深海君、放課後付き合ってくれないかな?」
 昼休みに雨音を聞きながら空を見上げていたら、隣で同じく空を見ていた岸辺にそう言われた。
「いいよぉ」
 俺がにっこり笑って頷くと岸辺はそのままどこかに行ってしまった。度の強い眼鏡の奥に見える瞳が珍しく濁って見えたので、俺は額を抑えて小さく溜め息を吐いた。
 放課後になっても雨は止まず、変わりにその強さを増していた。
 岸辺は教室に誰もいなくなるまで黙っていたので、俺も話し掛けなかった。クラスメートはそれぞれ迎えの車が来るまで待機していたが、30分もすると誰もいなくなった。こんな陰気な雨が降る日は、誰だって早く帰りたいんだ。
「深海君、付き合わせて悪かったね」
 岸辺が口を開いた。
「いいよ。家帰ってもどうせする事ないしさぁ」
 雨の音が聞こえる。
「僕、彼女に会ったよ」
「うん」
 岸辺の瞳が歪んだ。
 何があったのかは知らない。でも、それは岸辺にとって最悪な出来事だったのは確かだと思う。
 俺は岸辺がもう一度女に会いに行くと言った時、止めなかった。何を言っても無駄だと思ったからだ。岸辺の心は女への未練で一杯で、何も言えなかったんだ。
「僕は笑って今までありがとうと言いたかったんだ。でも、言えなかったよ深海君。僕はそんな格好良い事言えなかったし、言わせて貰えなかった。彼女は僕に呆れていた。僕が会いに行った事に呆れていたんだ。さよならの一言も本当は言っちゃいけないんだって、僕はあのまま消えなくちゃいけなかったんだって、そう言った」
「さよならくらい言ったって良いと思う」
「立つ鳥跡を濁さずって言うでしょう?って言われた。僕は立つ鳥なんかじゃないのに。僕は強引に彼女から突き落とされただけなのに。僕は飛べないのに、突き落とされた。なのに彼女はそう言うんだ。僕は、僕の心はまだ彼女の元にあるのに」
 岸辺は静かに言い、そして俺を睨んだ。
 まるで俺のせいで彼女との関係が駄目になったんだと言わんばかりの目で、俺を睨んだ。その瞳が歪んでいる。
 雨音と、少し風が吹く音が聞こえる。
 俺は岸辺の心が泣いている気がして、手を伸ばした。
「触らないでよ、深海君」
 岸辺が俺の手を払いのけた。
「深海君に触れられるのは好きだよ。落ち着くしね。でも、今日は触られたくないんだ。深海君に触られたら、僕はいつまでたっても飛べない」
 俺を睨みながらも、岸辺の心は泣く。自分で泣く事を選んだ岸辺。
 でもその瞳は歪んでいる。
「深海君は彼女の事どう思う?悪い女だと思う?酷い女だと思う?」
「悪い女とか酷い女とか、そんなんは分かんねぇよ。実際に会った事もないし、その女が何を考えてたのかも分からない。岸辺がそこまで惚れるんなら良い所もあるんだろうと思う。でも、俺は岸辺に辛い思いをさせるその女は嫌いだ」
「僕はそれでも好きなんだ」
「うん」
 岸辺の眼差しが強くなった。
「彼女と深海君は同じなんだ」
 俺を睨んだまま、口だけ笑って岸辺は言う。歪んだ瞳が揺れているのが見えた。
 挑発的な光が見え隠れする。
「何が?」
「悟ったような事しか言わないし、誰からも愛されている。でも深海君はいつも冷えた目で周りを見ていて皆を嘲笑っている。自分は特別だと思っている。凄いナルシストだよね。カッコイイいよ、まったく。実際特別なんだろうけどね」
 岸辺が俺を見て、また笑った。陰険な笑顔だった。
 どうして優しい岸辺がこんな事を言うのか分からない。俺を通してその女に向けている言葉なのだろうか?
 でも、岸辺の歪んだ瞳は明らかに俺を見ているように感じた。
「岸辺、俺は悟ってなんてない。皆の事も嘲笑ってないし、特別な人間でもない」
「落ち着いてるんだね。深海君は怒らないの?」
「怒らない」
「やっぱり僕を可哀想だと思うから?失恋もした事ないカッコイイ深海君は、僕に同情してくれるんだ。可哀想な岸辺を心の広い俺が慰めてあげよう、とか思ってるわけ?人から嫌われた事もない深海君が、失恋した僕の心を癒せるわけもないのにね」
 岸辺は笑いながら俺を挑発する。
 八つ当たりくらい何でもない。
 でも、落ち着いた時に岸辺が激しい自己嫌悪に陥るのは目に見えている。
 止めさせたかった。
「俺はね、岸辺。人に嫌われた事なら何度でもあるよ。小さい頃から引越しが多かった事は前に言ったよな?転校する度に友達も増えたが、俺を嫌う人間だっていたんだよ。何故俺を嫌うのか分からない。ただ、俺をとことん嫌うクラスメートだっていたんだ。それとね、俺は岸辺が今どんなに辛いのか分からない。でも簡単な気持ちで岸辺の話を聞いているわけじゃないからな」
「僕は深海君を嫌っていた子の気持ちが分かるな。僕も深海君大嫌いだもの」
 岸辺は笑うのを止めた。
「俺の事嫌いでもいいよ。俺は岸辺が好きだし、優しい友達だと思ってるから」
 急に岸辺が俺に突っかかって来たのは、確かに心のどこかで俺を嫌っていたのかもしれないと思った。失恋して、俺と向き合って会話し、その何かの拍子に爆発したのかもしれない。
 でも、俺は岸辺を良い奴だと思っている。
 相手の気持ちの問題じゃなくて、それは俺の純粋な気持ちだ。
「深海君は今、考えている。何故僕が急にこんな事を言い出したのかを考えている。深海君は僕が八つ当たりしていると思ってる。そしてそれを受け止めようと思ってる。何てカッコイイんだろう。そして、何てイヤな人間なんだろう。自分は特別じゃないと口では言いながら、いつだって僕達凡人を見下してる事実を認識出来ないんだね。僕達はいつだって君に見下ろされているんだ」
「俺は人を見下してなんかない。岸辺、話戻そう」
「話はズレてなんかないんだよ。深海君」
 ズレてなんかない?
 岸辺をフった女と俺の話が、ズレてないのか?
 岸辺はやはり真剣に俺を見ている。
 その向こうには、真っ暗な雨雲に覆われていた空があった。
「岸辺、何言ってんの?ちゃんと言ってくれ。俺は分からない」
「やっぱり分からないんだ。さっきから僕は自分の気持ちをちゃんと言ってるのにね。八つ当たりしてるとしか思ってなかったんでしょ?人を見下してるからそうなるんだ。僕の話をちゃんと聞いててよ!!」
「聞いてるよ。ちゃんと聞いてる」
「聞いてない。僕は、彼女と深海君は同じだって言ったでしょ?」
「俺はお前の女じゃない。お前を傷付ける事なんかしない」
「分かってないよ、深海君。僕は深海君が好きだったんだ。岬杜君と同じ意味で」
 俺の思考が止まった。
 岸辺が俺を好きだった?
 嘘だ。今まで岸辺の瞳からそんな気持ちを感じた事は無かった。岸辺の度のキツイ眼鏡の奥からは、そんな気持ち出ていなかったんだ。
 それに今も……。
 岸辺の瞳からは挑戦的な苛立ちしか見えない。
「お前は俺の力を良く知っている筈だろ?お前は俺を好きじゃない。お前の瞳はそんな事言ってない」
「また人を見下してる。君は最悪な人間だね」
 岸辺は俺の視線を逸らさなかった。
 挑戦的な光が消え、物凄く冷静になった瞳に俺の方が動揺した。
「見下してないって言ってるだろ」
「見下してるから分からない。見下してるから気付かなかった。深海君は僕みたいな凡人の気持ちはたいした事ないと思っているから、ずっと僕を重要視してなかったから、僕は君への想いを隠し通す事が出来た。僕みたいな人間は臆病だから、自分の気持ちを押し殺す事に長けている。それでも君が僕をちゃんと見れば分かった筈なんだ。僕と同じ視線で、僕の心を覗き込んでくれれば分かった筈なんだよ。でも、君は気付かなかった。僕の友達みたいな顔してて、一度も僕の事を真剣に見てくれなかった。僕の心は君を求めていたのに、君は岬杜君ばかり気にしていた。何でも分かってるって顔して、君は僕を見下し、何も気付いてはくれなかった。僕は君が好きだったのに、君は気付かなかった!!」
 俺は黙った。
 岸辺が隠してきた心を解放し、それが瞳に浮かんでは涙になって流れ落ちた。
 岸辺の気持ちは本当だったんだ。
 それが今、心にしみる程分かる。
 岸辺は心を隠す事ができるんだ。それは自分の気持ちよりも、人の気持ちを優先させる岸辺の性格から来ているモノなんだろう。
 心を隠すのは難しい。
 岸辺はどんな思いで自分の心を押し殺してきたんだろう。
 俺を好きだったと言った時、あの時に浮かんだ挑戦的で苛ついた瞳の理由が悲しかった。
 俺は見抜けなかった。
 ウソだと思った。
 岸辺はあの時、どんな気持ちで俺の言葉を聞いたのか。
 ―君は最悪な人間だね―
 岸辺の声は震えていた。
 俺は本当に最悪だ。
「僕は隠していたけれど、本当は気付いて欲しかった」
 岸辺は静かに言った。
「彼女は君に似ていたんだ。飄々としていて、優しくって、誰にも捕まえられない蝶々みたいな人なんだ。だから僕は彼女に夢中になった。夢中になって彼女を追いかけた。そうすれば、彼女に、君に、少しでも近付けるような気がして。もし彼女を捕まえる事が出来たなら、君を忘れようと思った。一生の秘密にしようと思った。でも、彼女は僕を翻弄してどこかに行ってしまった。僕を突き落として」
 岸辺が手で顔を覆う。
 雨風が強くなり、窓を強く叩く音がする。
「彼女を好きだった。もし君に出会わなくても、きっと好きになっていたと思う。素敵な人だったんだ。僕に沢山の事を教えてくれた。でも、駄目だった。僕は彼女を捕まえる事が出来なかった。そして君も、何も気付いてはくれなかった。僕の気持ちは彷徨ったままだ。誰の元にもいけない」
 岸辺の涙は止まらない。どんどん溢れてきて頬から顎につたい、そして床に落ちる。
「君は僕を辛い目に合わす彼女が嫌いだと言う。君は僕をいつだって守ってると思ってる。僕を宥めたり慰めたりしようとしている。僕の想いと対等に向き合ってくれない君が、一番僕を苦しめたのに」
 岸辺は言葉を切った。
 俺はもう何も言えなかった。
 岸辺の言葉は俺の心を突き破る。
 胸が、引き裂かれるかと思った。
「彼女が僕にした事なんて、君が岬杜君にした事と同じなんだ。君は岬杜君を翻弄し、突き落とした。僕はどっちみちこうなる運命だったんだ。でも、君は僕が君を好きだって言っても相手にしてくれなかっただろうがね」
 岸辺が俺と永司の関係をどこまで知っているのか分からない。それでも屋上以外ではほとんど会話しなかった俺達を、深く注意しながら見ていたんだと思った。
 岸辺の視線を感じた事はない。
 きっと心を抑え込むように、ごく自然に、目立たないように俺を見ていたんだ。
「僕は君が好きだったよ、深海君」
 岸辺は立ち上がって出て行った。
 激しい雨が窓を叩き付けていた。

 俺は岸辺が出て行っても動けなかった。
 岸辺は俺を完全に打ちのめした。
 俺は今まで、自分は誰かを見下したり馬鹿にしたり軽んじたりはしていないと思っていた。人はそれぞれ自分の心を背負って、懸命に生きていると頭では思っていたんだ。人から見ればその問題はたいした事じゃないにしても、本人にはとても大きな問題だったりする事も頭では分かっていた。
 でも俺は岸辺を、岸辺の気持ちを、岸辺の想いを見下していたのか?
だったら俺は、今まで何をしてきたんだろう。自分のこの小さな力を使って、今まで何をしてきたんだろう。人の気持ちが全部分かるなんて思っちゃいない。それでも少しだけ、ほんの少しだけは分かるんだと思っていた。でもそれは違ったのか?俺は今まで何を見ていたんだ?俺は今まで何をしてきたんだ?
 俺の心は霧がかかったようにボンヤリとしていた。
 自分の小さな力が重く圧し掛かってくる。
 もう嫌だ。
 なまじ人の気持ちが読めるからこんな事になったんだ。こんな曖昧で中途半端な力を使って、隠そうとする人の気持ちまでを全て読み取らなくちゃいけないのか?全身全霊を込めて、いつも人の心に気を使っていなくちゃいけないのか?
だったらもう嫌だ。
 ライ麦畑のつかまえ役なんて、もう辞めたい。
「疲れた」
 もうウンザリだ。
 混乱する俺の頭。
 自分の席から窓を見た。真っ黒な空から雨が降る。真っ黒な空に風が舞う。
 ――でも、俺は強い。
 きっと明日になればいつもの自分に戻る。岸辺に謝って、許してもらって、いつもの自分になるんだ。ライ麦畑のつかまえ役に。俺はいつもそうやって生きてきたんだから。
 でももしかしたら……。
 俺は「本当の」つかまえ役じゃないのかもしれない。  そんな資格は元々無かったのかもしれない。
 だったら、俺が今までしてきた事はなんだったんだろう。
「疲れた」
 本当に明日になればいつもの自分に戻るのだろうか。  いつもの自分ってどんな自分なんだろうか。
 混乱する俺の心。

 五里霧中だ。

 俺はこれからどこに行けばいいんだろう。
 ポケットにあった携帯を取った。
 岸辺の女がした事は、俺が永司にした事と同じ……か。
 俺は携帯のボタンを押す。でも、回線が繋がる前に切る。そしてまたリダイヤルボタンを押す。繋がる前に切る。何度も繰り返した。
 涙が出そうだった。
 永司の声が聞きたい。
 俺の話を聞いて欲しい。
 永司にだけは聞いて欲しい。
 身体が震えて来たので両腕で押さえつけた。足も震えたので椅子の上に乗せて小さく蹲った。涙が出そうだったので、強く目を閉じた。
 永司の声が聞きたい。
 俺の言い訳を聞いて欲しい。
 雨の音を聞きながら、俺は携帯を握り締めた。
 コールは2回で繋がった。
 どうして俺はこんなに自分勝手なんだろう。
 涙が出そうだ。
 永司は何も言わなかったから、俺も何も言えなかった。きつく目を閉じたまま、携帯を耳に押し当てていた。
 身体が震えるのが嫌で唇を噛む。
『春樹?』
 低い永司の声に頭が真っ白になった。
 俺の事を好きでいてくれてる?まだ愛してくれてる?
『どうした?』
 永司の優しい声。
「俺、お前に謝らなくちゃいけないんだ」
 俺の声は震えていた。
『何?どうしたんだ?今どこ?』
「分からない。永司、俺今どこにいるんだろう。俺は今までこんな事なかったのに。自分のあるべき場所くらい分かっていたのに。でも今自分が何者で、どこにいるのかさえ分からないんだ。そう思ったら急激に永司の声が聞きたくなった。俺、永司に電話するのズルイね。俺は自分が最悪の人間だって、今日初めて知った。でも永司の声聞きたかった。俺の言い訳聞いてよ」
 言葉が上手く出ない。話をきちんと出来ない。
 感情が止められなくて、俺は馬鹿みたいに頭を掻き毟った。
『どこにいるか教えて。迎えに行く。話聞くからどこにいるのか教えて』
「永司は人の話ちゃんと聞ける。凄い。でも俺は人の話聞けない。ちゃんと聞いてよって言われたのに、聞けなかった。ねぇ、俺の言い訳聞いて欲しい」
『聞く。聞くからどこにいるのかちゃんと言って』
「分からないんだ。どこにいるのか、どこへ行けばいいのかも」
『落ち着いてくれ春樹。どこにいる?頼むから教えて!』
「こんな事なかった。今までこんな事なかったんだ。俺、もう嫌なんだ」
 自分の声が小さくなったのが分かった。
 他人に弱音を吐くのは初めてだったと思う。
 でも言わずにはいられなかった。永司に言わなくては自分が保てないと思って。
 外は凄い雨と風で、教室の窓を揺らしていた。
 続いて学校の鐘が鳴る。
『学校?すぐ行くから待ってて』
「来ないでくれ。お前が来たら俺は逃げたくなる。そしたらまたお前を傷付ける。もう嫌なんだ。だから来ないでくれ!お願いだからっ!!」
 さんざん傷付けて、自分が保てないからって電話して、ここで永司が来たら俺は甘えてしまう。そして傷が癒えたらまた永司の気持ちから逃げてしまうのは分かっているんだ。
 もう、永司を突き落とす事は出来ない。
『分かった、行かない。行かないから』
 俺の携帯が電池切れの音を出した。
 電話、切りたくない。どうして昨日充電しとかなかったんだろう。
 この電話が切れたら、俺はもう駄目だ。
「永司、携帯切れそうだから、俺の言い訳だけ聞いて。俺、お前に謝んないといけない。俺はお前を突き落としたから。そんなつもり無かったんだけど、俺はお前を突き落としたから。でもね、 俺は――
 そこで俺の携帯は切れた。
 遠くの空が光った。
「俺の言い訳ちゃんと言えなかった……」
 それはこの世界で唯一の、最も重要な事だったんだ。
 俺は俺の言い訳を永司に聞いて貰いたかった。俺が何故永司を好きで何故永司から逃げたのか、今なら上手く言えそうだったんだ。
 それは、俺にとっても永司にとっても、とても大事だったのに。
 なのに俺は言えなかった。
 激しい嵐がやってくる。この俺の中に。
 でも俺はその嵐を防げない。
 防ぐ唯一の方法が、もう切れてしまった。
 嵐が俺を飲み込んでしまう。風が俺をさらってしまう。雨が俺を腐敗させてしまう。稲妻が俺を焦がしてしまう。
 俺は奥歯を噛み締めて、それに耐えなくちゃいけない。
 身体を自分の腕で抱き締めて、小さくなって、耐えなくちゃいけない。
 俺は何度も岸辺に謝った。
 岸辺の苛立ちを含んだ挑戦的な瞳を思い出しては、岸辺に謝った。俺はあの時、真剣に岸辺の瞳を見なければいけなかったんだ。挑むように俺を見詰めて来る岸辺の心を、眼差しを、もっともっと真剣に受け止めなくちゃいけなかったんだ。なのに俺は八つ当たりしてると思った。岸辺の心を軽んじていた。岸辺の言う通りだったんだ。
 岸辺はどんな思いで俺を見ていたんだろう。俺の事を好きだと言ってくれた岸辺は、いつもどんな目で俺を見ていたんだろう。
 俺にとって岸辺はぞんざいな友人だったわけじゃない。岸辺は高校に入学して、浮いた存在だった俺に初めて声を掛けてくれた人間だった。優しくて、真面目で、俺は岸辺を大事に思っていた。だから俺は岸辺を泣かした女を憎いと思った。それなのに俺は、…そう思っていた自分自身が…岸辺を泣かせてしまったんだ。

『僕の想いと対等に向き合ってくれない君が、一番僕を苦しめたのに』

 身体が震えてくる。
 俺は自分の中の嵐が過ぎ去るまで、ただじっと息を殺してなくちゃいけない。
何度も何度も岸辺に謝りながら。そして岸辺の言う、俺が見下していた全ての人達に謝り ながら。俺が突き落してしまった永司に謝りながら。
 ふと心の中に、5月の連休でバイトした時の事が浮かんだ。
 それからどれくらい時間が過ぎたか分からない。
 でも、嵐は過ぎ去ってくれなかった。


「春樹!!」
 息を殺して小さく蹲っていた俺を現実に戻したのは、永司の叫び声だった。
「ど…して」
 振り返ると、土砂降りの雨でぐっしょり濡れた永司が教室の入り口に立っている。
 雨の中を単車で来たのか、服のまま川に落ちたような濡れ方だった。髪も、服も、身体も、水分をたっぷり含んでいる。
「どうして来た?俺来るなって言ったのに。お前だって行かないからって言ったのに。どうして来たんだ!!」
 この嵐の中に単車で学校まで来た永司は、激しく渦巻く俺の心をさらに混乱させる。
 会いたかった。
 でも、会いたくなかった。
 俺の言葉を無視して永司が走り寄って来る。俺を抱き締める。
「春樹どうしたんだ?何があった?大丈夫か?」
 しゃがみ込み、俺と同じ視線になって顔を覗き込んできた。肩で息をしている永司を見て、俺はまた涙が出そうになった。
 永司の髪から雫が落ちる。
「俺はお前に言い訳を聞いて欲しかったんだ」
 永司に抱き締められても俺の嵐は止まらない。
「聞くよ。何でも聞く。どうした?」
 俺は永司の瞳を見て、どうしようもなく心が溢れた。
 俺が愛して止まないその深い瞳。
「俺はお前が好きだった。そして今も大好きだ。でも逃げた。捕まるわけにはいかなかった。俺にはほんの少しだけ不思議な力があって、俺を求める者にそれを与えなくちゃいけないから。でもお前はそんな俺を混乱させる。俺は酷く不安定になる。何かを考えるのが辛くなる。そうすると俺は俺を求める人間にそれを与えられなくなる。だから逃げた。そう思ってた。でも本当は違うんだ。俺はそんな理由でお前から逃げたんじゃない。俺は自分を完璧な人間だと思ってたんだ。思い上がってたんだ。でも永司がいると俺は完璧じゃなくなっちまう。普通の、どこにでもいる高校生になっちまう。お前は俺の理想だった。お前にどれだけ触れても、お前はいつでも強かった。お前が泣いた時だって、お前は強かったんだ。お前の中にいる子供は、崖に走っていったりしない。お前の方が完璧なんだ。強くて、誰にも頼らないお前は俺の理想だったんだ。だから逃げた。自分だけが完璧な人間だと思っていたのに、違ったから嫌だった。岸辺は、俺が自分の事を特別だと思っていると言った。俺は否定した。でも俺は、自分は特別だと思ってたんだ。それに気付かなかっただけで、本当はそう思ってたんだ」
 自分の言っている事が滅茶苦茶だという自覚はあった。
 だが俺は今の今まで自分さえ分からなかった「永司から逃げた理由」を、きちんと順序立てて話す事など出来ないんだ。
「どうしよう。永司に言い訳聞いて欲しいのに、上手く話せない」
 身体がガクガク震えた。
「ちゃんと話せてるよ。全部聞くから全部話して」
 遠くで雷鳴が聞こえた。
「岸辺は、俺がいつも冷えた目で周りを見ていて皆を嘲笑っていると言った。自分は特別だと思っていて凄いナルシストだとも言った。そんなつもりなかったんだ。本当だよ。人を見下してるつもりなんてなかったんだ。でも俺は実際岸辺を見下していて、岸辺が俺に八つ当たりしていると思ったんだ。岸辺がちゃんと聞いてって言ったのに、岸辺の言う事ちゃんと聞いてなかった。俺はいつだって自分の声が相手に届いているのかそればかり気にして、相手の声が自分に、本当に届いているのかなんて気にしてなかった。それなのに岸辺の心を宥めようなんて事思ってた。分かってなかったんだ。何も分かってなかったんだ。八つ当たりしてるとしか思ってないから分からないんだって、人を見下してるから気付かないんだって、だからそうなんだって、なんてイヤな人間だろうって、そう言われた。俺はそんなつもりなかったけど、人を見下したり嘲笑ったりしてるつもりなかったんだけど、実際はそうだった。永司、俺は本当にそんな事するつもりなかったんだ。本当なんだ」
 身体がまた震えてきた。
 俺は自分の口から何故こんなに言葉が溢れてくるのか分からない。でも永司には聞いて欲しかったんだ。
 俺の中の嵐が俺を混乱させ、永司の温もりが俺を溢れさせる。
「岸辺は俺は人を見下してるってさんざん言われたのに、ちゃんと話を聞いてくれって叫んだのに、アイツの声を俺は聞いてなかった。岸辺が挑戦的な瞳で俺に挑んで来た時、アイツがどんな気持ちだったか考えると泣けてくるんだ。アレは岸辺の賭けだった。俺を試していた。俺は最悪な人間だと言われた。俺もそう思う。俺は最悪なんだ。もうどうしたらいいのか分からない。俺はさっき、バイトで『ドラエモンもどき』のかぶりものを着た事を思い出したよ。真ん中よりずれた所に小さなよれよれのポケットがあって、目の上にギザギザの眉毛があって、生産会社不明のインチキなドラエモン。あれは俺なんだ。俺そのものなんだ。何でもできるフリをしていて、本当は何も出来ない。何も出来ないどころか、岸辺を苦しめてしまったんだ。俺が一番アイツを苦しめたんだ。どうしよう永司。どうしたらいいんだろう。俺が今までしてきた事が全部崩れてしまいそうなんだ。それでこんな時に限って図々しい俺は、どうしてもどうしても永司に会いたくなって、俺の言い訳聞いて欲しくなって、どうしても聞いて欲しくなって……」
 永司はずっと黙って俺の滅茶苦茶な話を聞いていた。
 時折激しく震えが襲ってくる俺の身体をぎゅっと抱き締めてくれたり、背中を擦ってくれたりしながら、俺をその深い瞳で包んでくれた。
 青白い閃光が走り、続いて腹に響く低い轟きが聞こえた。
 嵐はもう目の前まで来ている。
「永司、俺言ってる事滅茶苦茶だけど、許して欲しい。本当に上手く言えないんだ」
 俺は永司の腕を掴んだ。子供がそうするように。
「分かってる。分かってるから全部言って。俺は大丈夫だから」
「俺は永司に一杯謝らなくちゃいけないんだ。そして他の皆にも。岸辺を辛い目に合わせた女を嫌いだと言ったら、俺が岸辺を一番苦しめたと言われた。そうなんだ。俺は謝らなくちゃいけない。岸辺は彼女と俺は同じだと言った。俺も永司を翻弄し突き落したんだと。でも俺、突き落とそうとしたわけじゃないんだ。そんな事しようなんて思ってなかったんだ。でも俺は最悪な人間だから、いつも、そんなつもりないのに人を傷付ける。俺は永司に謝らないといけない。俺は自分勝手だから、すぐ永司に酷い事してしまう。永司が優しいのを良い事に、一杯お前を翻弄して。お前を傷付けたくないのに。お前の事大好きなのに。ごめんね永司。ごめんね。ごめん。本当にごめん」
「春樹は悪くない」
「違うんだ。俺が悪いんだ。俺は皆に謝らなくっちゃいけない。前に苅田に言ったんだ。俺の事何でも分かってるって態度されるのは大嫌いだって。なのに俺は、皆にそんな態度取ってた。俺は何でも分かってるって態度取ってた。岸辺の気持ちに、対等に向き合う事もしなかったのに!!」
 頭を抱えて震える俺の身体を、突然永司が抱き上げた。
 窓際に連れて行かれて、永司の机の上に下ろされる。
 窓の外は激しい雨と風だった。
 時折空が光り、地響きがするような雷鳴が聞こえる。
「俺は分かってたつもりだったんだ。皆ギリギリの今日を生きてるって。でも永司、信じてよ。俺は本当に人を見下したり嘲笑ったり……そ…な事……」
 言いたい事がありすぎて、でも話がループして、俺は叫びたくなった。
 心がどんどん溢れてきて、俺を苦しめる。
 苦しくて空を見ていたら、また泣きそうになった。涙が零れないように、堅く目を閉じる。
「春樹目を開けて」
「嫌だ」
「俺を見て」
「駄目なんだ」
「何故?」
「泣きたくなる」
「泣けばいい」
「駄目だ」
「何で?」
「だって俺は……」
 だって俺は……何だろう?
 俺はライ麦畑のつかまえ役だから?
 だから泣いちゃいけないのか?
 俺の瞼に永司がゆっくりキスをした。久々のキスは相変わらず優しくて、それにつられるように目を開けた。
 永司の後ろに、暗い空を割って稲光が見え、同時に物凄い轟音が響いた。
 近くに雷が落ちたんだ。
 それはどこに?
 俺の中に?
 俺の嵐の中には、いつの間にか永司がいた。
 永司は嵐の中に身を投じ、それでも俺と共にいた。
 逃げも隠れもしない強い永司は、俺が愛した永司そのものだった。
 涙が出る。
 俺はいつからこんなに意地を張っていたんだろう。
 自分の涙がこんなに熱いのを忘れてしまうほどに。
「春樹は悪くないと思う」
 永司が呟いた。
 俺にゆっくりキスしながら。

「春樹だってギリギリの今日を生きているんだから」

 ふいに永司の後ろで光る稲妻を美しく感じた。
 キスされた口から嗚咽が漏れ、俺は記憶にないほど激しく泣き始めた。
 止まらなかった。
 そうだ。俺だって永司だって、岸辺だって暁生だって緋澄だって苅田だって誰だって、  そうなんだ。
 俺達は毎日、ギリギリの今日を生きている。
 矛盾だらけの自分を抱えながら、必死になって生きている。


 永司は泣きじゃくる俺の背中をずっと抱いていてくれた。
 俺の涙をキスで受け止め、俺の髪を撫で、優しく唇を塞いだ。
 永司の背中の向こうでは時折稲妻が走り、その度に永司の背中にしがみ付く。それでも俺は泣きながら空を見た。
 永司も途中で俺の隣に来て、一緒に空を見た。
「綺麗だろ?」
 俺の頬にキスしながら永司は言う。
 永司は一体どこまで俺を理解しているんだろう。ふとそう思った。
 俺はいつでも空を見上げて来た。どんな空でも、ただ見上げているのが好きだった。どんな状態であっても、空を見上げて生きてきた。
 そしてこれからも多分、そうやって生きていく。
 永司は俺をこの窓際まで抱えて来てくれた。俺が空を見上げるのを知っていて。
「綺麗だ」
 俺はしゃくりあげながらそう答えた。
「春樹には力がある。それは些細だと言うが、とても重要で、大切なモノだ。春樹は今まで必死でそれを使ってきた。何も間違ってなんてない。悪くもない。お前は頑張ってきた。自分をコントロールし、いつだって他人の為に神経を削っていた。人を見下したりなんてしてなかった。いつも春樹だけを見ていた俺が言うんだ、本当さ」
 永司はずっと俺の涙を拭ってくれていた。
「でも、俺は岸辺に悪い事した。それにそんなつもりなかったけど、やっぱり人を見下してた」
「そんな事ないってば。それに岸辺に悪かったと思えば、それを正し、謝ればいい」
 岸辺は許してくれるだろうか。
「駄目。謝って済むような事じゃない。俺は岸辺の心を――
「春樹は聖人聖者じゃないんだ。でも、ドラエモンもどきでもないぞ」
 永司が俺の頭を撫でた。本当に、小さな子供にそうするような仕方で。
「永司は俺の事許す?」
「許すも許さないもないんだけどな」
「まだ俺の事好きでいてくれてる?」
「好きだよ。春樹は俺の唯一の征服者だ」







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