第11章 イチゴの匂い・現実的な匂い・セックスの匂い


 9月最後の日に、俺は女を抱きに行った。
 永司とセックスするようになってからは一度も女を抱かなかったし、あの後もそんな気になれなかった。
 自分で処理する時には永司とのセックスを思い出した。永司の指を思い出し、熱い吐息を思い出し、肌の感触を思い出し、俺の名を呼ぶ声を思い出し、そして射精した。
 そして俺は自分を嘲笑う。
 俺は永司を求めているのに、永司も俺を求めているのに、それなのに俺は自分で突き放した。なんだかんだと訳の分からない言い訳をして、永司から逃げた。
 そして、今も逃げている。
 俺は何も考えたくなかった。だから女を抱こうと思った。

「葉子さん、先にシャワー浴びる?」
 久々のラブホテルは随分と煌びやかに見えた。必要以上に金を使ってコテコテに飾り付けてある部屋。ヤル気満々って感じで俺の趣味じゃないが、ホテル代を出してくれる女の趣味にケチを付ける訳にもいかない。
「いい?んじゃ先浴びちゃうわね」
 葉子さんはさっさと浴室に向かった。
 俺は自分の家のテレビよりもっと大きくて最新型の備え付けテレビを見ようと、リモコンを探す。ふかふかで糊の利いたベッドに座って枕元をチェックし、ティッシュの箱の上に コンドームが1個置いてあるのを見て思わず眉をしかめた。
 リモコンを見つけバラエティー番組を見る。つまらない番組だったので、テーブルの上に置いてあったホテル案内に目をやり、非常階段をチェックしたりして時間を潰す。葉子さんが出てきた気配がしたので、ごろんとベッドに寝そべって、やけに気に入らないコンドームを手に取る。
 それは別に普通のコンドームだ。ラブホテルの従業員が大量に買い込んであると思われる、苺の絵が描いてある普通のコンドームなのである。多分袋を開ければ苺の匂いがするはずだ。
 だが俺はこの時、この苺の匂いがするコンドームがたまらなく嫌だと思った。
 何度も使ってきたコンドーム。
 苺の匂いがするそれ。
「深海君?どうしたの?」
 葉子さんがバスローブを羽織って出てきた。
「何?スキンまじまじ見ちゃって」
 葉子さんは俺の持っているモノを見ながら笑って言う。
「葉子さん。俺、これ嫌なのぉ」
 俺は指で正方形のそれを挟み、ひらひらさせる。
「何か嫌な思い出でもあるわけ?」
「そんなんずぇんずぇんないだけどねぇ。でも、なんだかすっごい嫌」
「イチゴの匂い駄目?」
「苺好きだよぉ」
「じゃ、イチゴ食べたいとか?」
「別に食べたくないよぉ」
「もしかして、急に私とセックスしたくなくなっちゃった、とかかな?」
「そんなわけない。理由なんてないの。あえて言えば、信号の黄色の部分がどうしても気に入らないとか、気に入っていたはずのパイの実がある日突然見たくもなくなったとか、そんなんなの。とにかくこのコンドームは絶対嫌〜」
 本当に理由なんてないんだ。
 葉子さんは笑って、自分の財布からピンクで少し文字の入ったコンドームを出してくれた。それはきっと無味無臭。
 俺はシャワーを浴びてから、葉子さんとセックスした。
 葉子さんは去年の夏に知り合った。逆ナンだった。雨の日に街をふらふらしていたら「私とセックスしましょう」と、突然にこやかに声を掛けられた。それは「雨に濡れると風邪をひくわよ?」と言われるのと同じ位自然で、俺は葉子さんをすぐさま気に入ってしまった。それからは、俺が気が向いた時に葉子さんを誘った。俺が女といる時に電話されると迷惑だろうと言い、葉子さんは俺の携帯を一度も鳴らした事がない。だから彼女と会う時はいつも俺から連絡をする。そして葉子さんは必ず会ってくれた。セックスは完全なスポーツセックスで、俺はますます彼女が気に入った。
 葉子さんは年齢不詳だ。いつも格好良いスーツを着て、札束を沢山持っている。背が高くて髪が短くて美人で、会話も楽しくって笑顔も可愛くって、ついでに頭も良さそうだ。その瞳は優しいけれど、でも誰も必要としてなくて、常に人を注意深く観察しているような瞳だ。それは少し砂上に似ていた。
 俺は女とは長く続かない。少しでも「私は深海春樹の彼女なの」って顔されるのが大嫌いなんだ。でも別れ話が縺れるのも大っ嫌いなので、 いつもサバサバした感じの女としか付き合わなかった。
 その中でも葉子さんは特別だった。今日も半年振りに連絡したのに何も言わないで夕飯を奢ってくれて、馬鹿話に一緒に笑ってくれ、セックスしてくれる。
……葉子さんの乳房は出来たてのパンみたいだ。
 そう思いながら俺はその身体に触れる。それから俺は葉子さんの乳房を揉みクリトリスを刺激してその身体の反応を楽しんだ。
「葉子さん、スキンどこ?」
 互いに息が上がった所で、灯りを点けてさっき出して貰った無味無臭のコンドームを探す。
「深海君の枕の下よ」
 枕を持ち上げ、そこにあった袋を口で咥え片手で破いてピンクのゴムを出した。無味無臭なんかじゃなかった。ゴム臭い。
「現実的な匂い」
 俺が呟くと葉子さんは笑った。
 彼女の足を持ち上げて挿入する。彼女の中は暖かくて、緩やかに収縮していた。
「俺はこの中で眠りたい」
 それは本心だった。
「私も深海君の中で眠りたいわ」
 葉子さんも本当にそう思っているのが分かった。
 そして俺は葉子さんをイかせてから、自分も永司の名前を心で言いながら精を放った。
 コンドームに溜まっている精子を見て、何て現実的なんだろうと思った。
 現実的……。
 そこで唐突に我に返った。

『俺は一体ここで何をしているのだろう』と。



 葉子さんと寝た後、俺は自分がどこにいるのか分からなくなった。それは砂漠で迷った挙句、満天の夜空を見上げてもあるべき筈の場所に北極星が無かった時のような気分だった。
 俺には初めての経験だった。

 そして葉子さんと寝てから一週間が経った10月の初め、 俺は苅田の「それ専用」携帯を鳴らした。
「苅田?俺だけど」
 自分の声は思ったより冷静だった。
 低い声だったと思う。
『俺の家に来るか?それとも俺がお前の家に行くか?』
「俺が行く」
 何度か訪れた事がある苅田の家は、俺のアパートから地下鉄で4つ目の駅にある。大きくて立派な和風の玄関には、いつから待っていたのか苅田が立っていて俺を迎えてくれた。短くなった何本ものラークが、その足元に落ちていた。
 促されて入った部屋は離れの広い洋間だった。苅田とは仲が良かったから何度もこの部屋には訪れた事はある。でも、区切られた寝室には入った事が無かった。「ここに入れるのは俺に抱かれに来た人間だけだ」と苅田が言ったから。
 苅田は迎えてくれてからずっと無言だった。部屋に着いても黙って俺を見ていた。そして、俺も黙っていた。
 苅田が寝室のドアを開けた。俺は目を閉じ、1つ深呼吸をする。別に緊張していたわけじゃない。ただそうしたかったんだ。
 俺は一体ここで何をしているのだろう。
 分からない。
 分からないけど、今は苅田に抱かれたい。
 俺が目を開け寝室に入ると、腕を組んで待っていた苅田に突然抱き締められ、抱えられてベッドまで連れて行かれた。
 広いベッドは、ラブホテルではなく永司の部屋を思い出させた。
 ベッドに下ろされると肉食獣のような瞳の苅田の顔が近付いてきて、俺の首筋にキスをし、少しだけ力を込めて噛み付かれた。それは普段苅田がからかってするような仕方ではなく、セックスに手馴れたバイセクシャルであるコイツの、ゾクゾクするような本気の愛撫の始まりだった。
 首筋から耳元までじっくり舐め上げられ、いったん離した後、ふっと俺の瞳を覗き込んでから今度はゆっくりと唇にキス。ねっとりと味わうように唇を舐められてから舌が入ってくる。
 それは俺が初めて味わう、眩暈がするような性的なキスだった。
 苅田の手が俺のシャツの裾から入り、身体に直に触れて来て這い上がってくる。深い角度で口付けられたまま、俺は翻弄された。 苅田の艶かしい指が胸の突起を摘むと、その快感に思わず目を閉じる。
 苅田の愛撫は凄かった。
 まるで俺の身体の快感を物凄いスピードで掘り起こしていくようにコトが進んで行く。
 それは永司のように魂に官能的なモノではなく、純粋に肉体に訴えるようなモノ。
――んっ」
 激しくなっていく愛撫に思わず声が漏れると、苅田は口を離して俺の髪をかきあげた。視線を感じながらも息を吸い込もうとしたら、また激しく口を吸われる。さっきよりももっと深くて激しいキスが始まって、酸欠状態に呻き声を上げた。
 苅田は俺が喘ぐ度に愛撫を激しくしていき、俺はとろとろになって裸に剥かれた。
 苅田の唇がようやく離れ、それが顎に向かい首に落ち胸に到着した頃、いつの間にか服を脱いだ苅田が力を込めて俺を抱き締めた。
 永司よりも大きくて永司よりももっとガッシリしていて永司よりも淫靡、そんな身体。その身体から激しさが伝わってくる。
 生々しいセックスの匂いがした。
「苅田、電気消して」
 目を閉じていても、枕元に点いていた灯りが嫌だった。
「俺は深海の顔を見ていたい」
 どいつもこいつも同じ事を言う。
 俺は少し笑った。
「俺は明るいの駄目だから、頼む」
 俺がもう一度頼むと、苅田はまた俺の髪をかきあげた。
「分かった。でも俺の頼みも聞いて欲しい」
「何?」
 俺の額に、小さくキスが落ちる。
「……春樹、俺の名前呼んでくれ」
 その声に目を開けた。
 そこには、今まで見た事が無かった苅田の瞳があった。深くて俺には読めない。
「龍司」

 自分の口から発せられた言葉に途方もない違和感を抱き、俺は呆然とした。
 龍司?
 永司じゃなくて、龍司?
 何で龍司なのか。
 何で永司ではなく龍司とセックスしたかったのか。
 何で俺は苅田に『春樹』と呼ばれたのか。
 俺が呼ばせた?
 俺が誘って俺が苅田の寝室に自ら入って俺が苅田の愛撫に感じたから?

 俺達は呆然と見詰め合っていた。
 何故か苅田も俺を呆然と見ていたから。
 俺達は互いに何かを求め、名前を呼び合った事で互いに求めているそれが微妙にずれている事実に、身体も心も止まってしまったように感じた。
 そのズレはあまりにも微妙でとてつもなく小さいモノだから、俺達はその正体がハッキリ分からない。多分一生分からないのだと思う。そして俺達自身分からないのだから、きっと誰にも分からない。でもそのズレはその小ささに反比例して、全てのあらゆる物体よりも重いモノだと思った。
 苅田が俺に何を求めたのか分からない。そして俺も苅田に何を求めたのか分からない。
 しかし、俺は一気に身体の熱が冷めていくのを感じた。そして苅田が俺の身体の変化に気付いたのも分かった。
「深海ちゃん」
 ふいに苅田が笑った。
「苅田ぁ〜」
 俺も笑った。
「俺は深海ちゃんを抱きたかった。ずっと抱きたかった」
 苅田は笑って言う。優しい瞳だった。
「俺も今日は本気で苅田に抱かれに来たんだよ?」
「ああ。深海ちゃんは不思議だ。俺、セックス途中で止めたの初めてだぜ」
「えへへ、最高気持ち良かったのにぃ〜。苅田ってばテクありすぎ。今度教えて?」
「いや、淡白のお前には無理。俺みたく性欲魔人にならんとな」
 苅田はいつものニヒリストの顔に戻っていた。俺の上から横にずれると、サイドボードからラークを取り出し火を点ける。
 俺の身体はもう快感を求めてはいなかったのだが、動くのが億劫だったのでそのまま横になっていた。苅田がそんな俺を見て、剥ぎ取った俺の服からバージニアを出してくれ火も点けてくれる。
 2人で横になって煙草を吸うのは普段となんら変わりなかった。ただ、俺達が裸な事以外は。
「なぁ苅田、俺にもし永司がいなくてお前にもアイツがいなかったら、俺達って恋愛したと思うかぁ?」
「思わねぇな」
 俺の問いに苅田は即答した。
「俺もそう思う。セックスはしたかもしれない。でも、きっと苅田とは恋愛してないなぁ」
 何でかな。自分でも不思議だった。
 俺は苅田が好きだ。本気で抱かれても良いと思った。ってか、抱かれたいと思ったんだ。
「俺は深海ちゃんが岬杜に取られても平気だったし、むしろ岬杜応援してたしな」
「きっと俺達はそうゆうふうにできてるんだ」
「イヤなふうにできてるもんだ。俺はこんなに深海ちゃんを愛してるのに」
 苅田が短くなった煙草を消し、続いて俺も消した。
「お前の愛は永司の愛と全然違うぞ」
 俺の言葉に苅田は笑った。
「深海ちゃん、岬杜の気持ち良く分かってるじゃねぇか」
 苅田が右眉を上げてからかって来る。
「分かってるよ〜。分かりすぎるくらい」
「重いか?」
「重いよ」
「素直な深海ちゃんは可愛いな」
「素直じゃない時は可愛くないわけぇ〜?」
「いや、両方可愛い。深海ちゃんなら何でも可愛いよ」
「嘘ばっかり。この前煽ってきたくせに」
 苅田が髪にキスしてきた。
 それから俺は裸のままで苅田に抱き締められて寝た。うとうとしかけた時に
「重いと思うほど潤に愛して貰いたいもんだ」
 と呟く苅田の声が聞こえた。
 苅田の身体からはもう、セックスの匂いはしなかった。

 次の日の朝、順番にシャワーを浴びてから苅田の母親が用意してくれた朝食を2人で食べた。ご飯に俺の好物の甘い卵焼き、味噌汁にほうれん草の御浸し、アジに納豆に茄子の漬物。苅田の母親の気取らない性格がそのまま朝食に出ていて、俺は何だか幸せな気分だった。
 苅田の母親は俺をとても気に入ってくれていた。この家に遊びに来る度に俺を可愛がってくれる。地元の名士だと名高い父親も、俺を見る度にまるで仔猫をあやすように俺の頭を撫でた。苅田の兄は苅田と似ていない。大学生のこの人だけが、この家族で唯一無口な人間だった。一見冷たそうに見えるのだが、それでもその瞳は大人の落ち着きと苅田の母親ゆずりの優しさがあり、俺はこの人も気に入っていた。
「深海君、また遊びにいらしてね」
 苅田の母親に見送られ、俺達は学校へ向かった。
 その日は穏やかな1日だった。







back  next