雷が次第に遠ざかって行くと共に、俺の中の嵐も同じように去って行った。
「家、帰ろっか」
永司が呟いた頃には、俺の涙は完全に乾いていた。
どれだけ泣いたのか良く分からない。それはほんの2.3分程度だった気もすれば、1時間近くだったような気もする。とにかくやたらと久々に泣いた俺は、ひどく眠たくなっていた。
それから2人で学校を出て、永司の単車に乗った。まだ少し雨が降っていたけど、今日は止みそうになかったからしょうがなかった。永司はタクシー呼ぼうかと聞いてきたが、俺は断った。永司の単車で帰りたかったから。俺のアパートの方向に向かい始めたので、服を引っ張って永司のマンションの方向を指す。永司は黙って方向を変えた。
マンションに着くと、まず濡れた服を全部脱がされ、真っ裸にされると浴室に放り込まれた。泣き疲れて体が重かったのでダラダラとシャワーを浴びていると、永司が入ってきて身体を洗ってくれた。永司の身体は、濡れたまま俺に付き合ってくれていたせいでかなり冷たくなっていたが、それでも「俺は大丈夫だから」と俺の身体を浴槽に入れて温めてくれる。
浴室から出ると、置いてあった白いバスローブを羽織ってキッチンへ向かった。冷蔵庫を勝手に開ける。思った通り、俺が求めてあったモノはそこにちゃんと納まっていた。そこは俺が毎日麦茶をストックしていたんだ。永司の冷蔵庫の中で、最も重要な場所。そしてその上には、俺がいつも飲んでいるキリンラガー。これは永司が気を利かせてストックして置いてくれたもの。ちょっと迷ったけど、俺はビールを取った。プルタブがパシッと音をたてた。
永司は浴室から出てくると、タオルを片手に持ってキッチンに来た。
「髪、乾かさないと」
俺はドライヤーを使わない。あの音もあの熱風も大嫌いだからだ。永司はそれを知っているから、シャワーを浴びた後はタオルで髪の水分を出来るだけ拭き取ってくれる。
「お前もビール飲む?」
「うん」
新しいビールを渡した。
「腹減った」
そう呟くと同時に俺の腹が鳴った。そう言えば今日は昼メシ喰ってない。朝も寝坊したから牛乳しか飲んでないんだったっけ。
結局俺達は近くの蕎麦屋からざるそばと山菜そばを頼み、そば好きのこんぺいとうに分けてやりながら蕎麦を平らげた。
腹が膨れると睡魔が再び目を覚まし、俺は永司のベッドで眠る事にした。いつもの、ベッド以外何一つ無い変な部屋まで連れて行かれ、電気を消される。そうすると、窓が無いこの部屋は本当に真っ暗になる。
「永司、脱げ」
永司が動くのを確認して、自分も裸になった。
「俺が寝てる間に勝手に抜くなよ」
「拷問だ」
永司は笑っていた。
その笑い声と直に伝わってくる温もりに安心して、俺は永司の腕の中で眠りについた。
永司は桜の木の下で、じっと足元を見詰めていた。
俺はそれが怖くて永司の意識を逸らそうと何度も話し掛けたが、永司はずっと足元を見ていた。俺は堪らなくなって桜の木の下に座り込んだ。ここには俺の……を………んだと、だからヤメテクレと叫んだら、やっと永司は俺を見た。
全てを見抜くような瞳だった。
そんな夢を見た。
目覚めるとそこは真っ暗で、俺はちょっとパニックになった。俺の目、付いてる?頭、大丈夫?もしかしてここ、あの世?あれ?あれ?っと思っていると、後ろで永司がクツクツ笑う声が聞こえてやっと俺は全てを思い出す。背中から回されていた腕に今頃になって気付いた。永司の身体は温かい。この身体はいいなぁと、何がいいのか自分でも分からない事を思いながら起き上がった。電気を点けさせる。
この部屋は本当に真っ暗になるので、急に明るくすると目に悪い。悪い所か本当に目が潰れそうになる。だから永司はいつも明るさを調整出来るランプを最弱にして、それから点ける。真っ暗な中手探りでやるし、俺は出来ないので永司にまかせる。ランプは最弱でも眩しいので俺は毛布を頭まで掛けて何とかやり過ごす。
どうしてこんな変な部屋で寝ているのか以前聞いた事がある。永司は音に敏感で、その中でも電子音が嫌いで、何と冷蔵庫のモーター音にも反応してしまうらしい。一回音が気になると寝れないので、完全防音を施してあるこの部屋で眠るのだそうだ。普段の生活には支障が無いのだが、たまに眠る時、または寝ている時に何かの音が気になるのは苦痛らしいのだ。そんな永司の話を思い出していると、ふと閃いた。
「もしかして、ここってピアノ置く部屋?」
毛布から頭を出すと、まだ眩しい。目をシパシパさせて聞くと「そう」と返事が返ってきた。なるほどそうか。壁が厚くて窓が無くて広くて、分譲マンションなのに変な部屋があるもんだと思っていた謎が解けた。近くに音大があるからこんな部屋があってもおかしくない。
「もったいねぇなぁ〜。ピアノ置こうぜ。俺は出来ないけどお前は出来るだろ?」
楽器はギターしか出来ない俺だが、ピアノの音は好きだ。
「何で知ってるの?」
「金持ちはピアノかバイオリン習ってるって俺の固定観念。あと、お前の指はそんな感じだったから」
永司の指はそんな感じだ。しなやかで長くしかも格闘技を一通り習っただけあって力強い、なんとも形容し難い指をしている。
「小さい頃少し習っただけだからあまり弾けない」
「俺はリストが好きだ。リストの曲全部弾けるようになれ」
服を着ながら、そんなの無理だと笑う永司とリビンクに戻った。
テレビを付けてみると、俺の好きなNHKの渋い番組だった。
2人でソファーに座り、それを見る。
今まで随分寝たはずなのに、番組の途中でまた眠くなった。今はどれだけ寝ても寝たりない気がした。別に最近寝不足だったわけじゃない。それなのに本当に眠かったんだ。
俺は、今まで無理をしてきたんだろうか?
そんなつもりは無かった。俺はいつだって元気一杯で、のほほんと生きてきたつもりだ。まぁいいや、寝ちまおう……。
永司の膝に頭を乗せ、俺はまた目を閉じた。
筑紫さんが喋っている。
もうそんな時間だったんだと思いながら、うすボケた脳味噌のまま良く分からない政治の話を聞いていた。チラッと隣を見ると、永司は結構真面目にテレビを見ている。俺と違ってちゃんと分かってるんだろうなぁと思った。
「起きた?」
永司が髪にキスをしてきた。
「ん。でもまだ眠いかも」
リビングから続いているキッチンにのろのろ歩いて行って、冷蔵庫から麦茶を出す。コップに注いでリビングに戻ると、ソファーのすぐ横に開いて伏せられた本を発見した。いかにも、読んでる途中です状態。
そしてその本の題名は、サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」だった。
「永司、これ読んでるの?」
ハードカバーを指して聞いてみた。何故か胸が切なかった。
「読んだよ」
「読み返してるのか?」
永司は何気なく頷く。
「何回読み返した?」
永司が俺を見た。何で?と訊いてくる。
俺は何故か不意に、永司が何度もこの本を読み返したんだと確信した。
もしかしたら、あの日に別れてからすぐにこの本を買い求め、学校にも来ずにずっと読んでいたのかもしれない。この本を読んでも俺が戻って来るわけでもないのに、それでも読んでいたのかもしれない。あの何もない部屋でベッドに横たわりながら、このリビングでこのソファーに座りながら、何度も読んだのかもしれない。
胸が、張り裂けそうになった。
「どうした?」
永司が手を差し伸べてくる。
「永司は俺の事好きなんだなって思った」
「好きだよ」
永司は笑って言う。俺はその手を握ってソファーに座った。
「例えば麦茶。永司は麦茶飲まないだろ?水みたいだとか何とか言って。ビールだってあんま飲まないだろ?」
永司は困ったように笑う。
俺はまた胸が苦しくなった。
俺が来ない部屋で、俺の為に麦茶とビールをストックして「ライ麦畑でつかまえて」を読んでいた永司。
そして多分……
「永司煙草欲しい」
「あぁ、ちょっと待って」
立ち上がって隣の書斎へ入ると、すぐに戻って来る。
手には自分の分のセッタと、俺のバージニア・スリムを持って。
永司のストック。
麦茶。ビール。そしてバージニアも。
俺は新しい箱を開け、一本取り出すと火を点けた。ゆっくり一口目を吸い込んでから、それを永司の口元に持っていく。
永司の瞳が揺れた。
「何だ?お前いつも俺の煙草欲しがってたじゃん」
永司は以前、しょっちゅう俺の煙草を欲しがっていた。セックスするようになってからは自分のセッタを吸っていたが、それでもたまにくれと言う。俺はその度新しい煙草を1本出し、そのまま渡していた。永司が欲しいのは新しい1本じゃないのを分かっていたから。
「ありがとう」
永司はそう言って煙草を口に挟み、俺の気持ちに応えた。
岸辺、俺は永司の想いに向き合おうと思う。
それから俺達は黙って筑紫さんとゲストの経済アナリストの会話を聞いていた。話は小難しくて俺にはやっぱり理解出来ない。
でも俺は、永司の肩にコツンと頭を乗せて筑紫さんの話を聞いていた。
俺達は2人でいる方が自然だと、しみじみそう思った。
珍しく煙草を根元まで吸った永司が吸殻を灰皿に置くと、静かに話し出した。
「俺は春樹を好きになって、初めて言葉の限界を知った。俺が春樹を好きだと思っても、それを言葉に表す事は出来ない。どれだけ言葉を尽くしても、それは俺の想いに近付かない。愛してると言っても、そんな言葉じゃ全然違う気がするんだ。もっと違う言葉で伝えたい。世界中の人間が今までさんざん使ってきた言葉じゃなくて、もっと新しい、俺だけが春樹に伝える事が出来る言葉を使いたい。恋愛小説家も、歴史の様々な詩人すら思い付かなかった言葉で伝えたい。そう思ってた。でもそんな言葉は何処を探しても無くて、誰かが言っていた言葉の限界ってのを思い知った。そしてそんなモノに頼らなくては想いを伝えられない自分が悔しかった。何をどれだけ言っても、そんなんじゃ全然足りない」
永司の手が俺の顔を撫でた。
すると永司の身体から俺を想う気持ちが伝わって来た。
今まで、永司といる時は無意識に力を止めてきた。癖になっていたんだ。永司がどれだけ俺を愛してくれているのかを認めないように。つかまらないように。
それが今になって急激に俺の中に流れ込んで、渦を巻いて巻き込んで行く。大きな渦だから、きっともう逃げられない。このまま永司と一緒に海の底まで巻き込まれて行くんだ。でも俺は平気な気がした。心地良いとも思った。
「伝わってる。お前の気持ちは伝わってる。分かるだろ?」
俺も永司の顔を撫でた。俺が好きな目、口元、頬、髪。
俺の力は本当に些細なモノだから、永司の想いを全部知る事は出来ない。でも、永司の声は聞こえてるんだ。俺に届いてる。
そう、俺は永司と向き合って生きていく。
それから俺達は少し黙った後、ごくごく自然にキスをした。
永司のキスはやっぱり優しくて、俺達は何度もキスをした。触れるだけのキス。舐めるようなキス。角度を変えて、そしてまたキスの雨。
舌が入って来て、俺は永司の背中にしがみつく。
優しく俺の身体を探り始める手。永司の愛撫は久し振り。
「寝室、行く?」
永司の声は低くてカッコイイ。
「う〜ん、どっちでも良い」
俺は永司に軽くキスされてから抱き上げられた。永司はすたすた寝室まで歩いていく。
重いドアを器用に開けて、さっきまで俺が爆睡していたベッドに下ろされた。
「お前さぁ、俺は女じゃないんだからお姫様抱っこすんなよ」
「春樹はお姫様じゃない。春樹様だ」
さっぱり意味が分からんのだが、真剣に言われたので困ってしまった。枕元のランプが消され、この部屋は真っ暗になる。
永司の手が動き始めて、俺を裸にする。俺も永司の服を脱がせてやった。
俺の身体中を永司の指が穏やかに撫でて行き、俺の息が上がってくる。
ゆっくりそしてしっとりと動く永司の指は、俺のずっとずっと奥の方から火をつけ身体中を燃えるように熱くする。
「どうしてだろう」
永司が小さく呟いた。
何が?と訊きたいのだが、その時俺は胸を責められていて自分の事で精一杯だった。指の腹でその突起を撫でられると身体が無意識の内に反ってしまう。そして反れば余計に敏感になる。下から上へ、際どい力加減で撫で上げられると喘ぎ声が漏れてしまう。
「何も見えないのに、俺は春樹をこんなに近くに感じる」
永司はまた呟く。
俺だってそうだと思った。この真っ暗な部屋で、永司をこんなに近くに感じる。身体の距離だけじゃなく、もっと違う永司を近くに感じる。
それから俺は、それこそ足の爪先から頭の先まで丹念に口付けられ、永司の官能的な愛撫を充分に味わった。
永司の口で一回目の精を放ってから、ローションをたっぷり塗られ丁寧に解された後ろに永司を迎え入れる。
久し振りでかなり痛かった。が、満足感の方が大きかった。
「入りたい」
永司が変な事を言った。
「入ってんじゃん」
圧迫感でクラクラしながらも、俺は笑った。
一瞬永司のキツイ視線を感じたがすぐに腰を使われ、俺は快楽の波に呑まれていく。
永司のリズムは俺のリズム。永司のセックスは俺のセックス。舌を絡めながら俺達は身体を揺らす。それは俺を熱くする。手も足も背中も、身体中を熱くする。
挿入され、揺らされたまま首筋と胸を責められた。
「ぁ……んん…」
気持ちイイ。止めたくない。このままでいたい。
長いセックスだったと思う。
俺が永司の名前を叫びながらイクと、少しだけ遅れて永司も俺の中に精を吐いた。
荒い呼吸を整えようと深呼吸しようとした途端、
まだ俺の中に入っている永司が再び目を覚ます。
「――えっ?!」
再び永司の身体が動き出した。
俺は一晩で2度セックスはしない。永司は挿れる前、必ず口で一回抜いてくれるからそれで充分だし、もともと俺は淡白だからそれ以上はキツイ。俺が嫌がるのを知っているからいつもは永司もしてこなかった。
「ちょっ…ちょっと待て」
永司は止めない。強い視線を感じた。
無理矢理引きずり出される快感は、苦痛に近い。
それでも敏感になっている俺の中は、永司のリズムに乗ってうねり始めた。
「――ぁっ、永司……永司っ」
辛くなって背中に爪を立てた。それでも永司はお構いなしに俺を責めたてる。
3度目の絶頂ははなかなか訪れない。
俺は悶え苦しみながら永司にしがみ付いた。酸素がまるで足りてない。
止めろと言いたくても永司は何か強い意思を持って俺を抱いているようだったし、それに俺の口からは喘ぎ声か呻き声か区別出来ないモノしか出てこなかった。
何度も苦しくなって永司の背中に爪を立てる。
そして俺の身体はとてつもなく巨大な竜巻にさらわれ、巻き上げられ、海と陸しか見えないような遥か上空から叩き落とされた。巻き上げられる時も、叩き落される時も、それはかなり唐突で急速だったから俺の身体は悲鳴を上げた。
身体が悲鳴を上げたのか、それとも実際俺が悲鳴を上げたのか良く分からなかったが、とにかくそこでやっと永司は俺の身体を解放してくれた。
「春樹はどうして……を……たんだ?」
もう息をするのがやっとの状態だったから、永司が何かを言ったのに反応出来なかった。訊き返す事すら思いつかない状態だったのだ。
全身で息をして何とか落ち着こうとしか考えられなかった。
「ライ麦畑でつかまえて」
同じく荒い息を弾ませて永司が言ったのが分かった。
「俺はお前の……が何処にいるのか分からなかったから、手が付けられなかった」
何を言ってるのか分からない。
今は考える事すら出来ないから、俺はただその独り言を聞いていた。
「でも、さっきやっと分かった。もっと早く気付けば良かった」
永司、何言ってるんだ。
回らない頭でぼんやりしていると、また強い視線を感じて俺は血の気が引くのを感じた。この疲れた身体のどこに力が残っていたのか、一瞬で身体を捩り逃げ出そうとするのを永司の腕で掴まれ戻される。
すかさず新たな愛撫が始まった。
「い…いい加減にしろっ」
力を振絞って抵抗する。だが敏感になりすぎている俺の身体が永司の愛撫に勝てるわけがなかった。もう止めろと叫んでも喚いても永司は止めない。
挿入された時はもうこの苦しい快感から逃げたい一心だった。
「……もう止め…てっ。頼むからっ」
どれだけ頼んでも止めてくれない。
「んぁっ」
逃げ出そうとする俺の身体をしっかり抱きかかえ、俺に口付けてくる。もうどれがどっちの呼吸か分からなくなる。
俺が初めて味わう程の強烈なセックスは、やたらと激しくて苦しくて、怖いくらいの快感だった。身体がガクガクして、喘ぎ続けた声も枯れて、ただずっと永司の激しさに揺さ振られていた。
永司は強引に俺の身体に新たな火を焚き付け、激しく燃やす。ごうごうと火は燃え上がり、爆発してしまうような勢いで広がって行く。俺を燃やす火はそのうち巨大な炎となり、火炎と火の粉をはらんだ竜巻、「火災旋風」となって全てを消し去ってしまう。
俺の意思、俺の心、俺の身体、俺の魂を巻き込んで。
水の音がする。
海の中の音も。
俺の意識が飛んだんだ。いつ飛んだのかも分からなかった。
苦しい。
永司は俺を抱き締めている。
暗闇の中で、俺達は漂っている。
水に溶ける。
永司も溶ける。俺も溶ける。
怖いな。嫌だな。
永司が俺の中に入ってきた。じわりじわりと溶けながら。
――来ないでくれ!
俺は叫ぶ。来て欲しくなかった。お前だって分かってたくせに。
『分かってたよ』
永司は笑う。そしてまた俺の中に入って来る。じわりじわりと。
――何で来たんだ。俺は嫌だったのに!
『春樹こそ何故隠したんだ。アレは隠しちゃいけないモノなんだ。なのにお前は………の下に埋めて隠した』
永司は溶けながら俺を抱き締める。
俺達は1つになった。
そしてゆっくりと沈んで行く。どこまでも沈んで行く。
――駄目なんだ永司
『何故?』
――だってこの箱の中には俺の……が
『春樹、つかまえた』
「永司」
俺はベッドの上で抱き締められていた。
真っ暗な部屋だから、目を開けていてもそこには何も見えない。でも永司がいる。
俺の身体は汗ばんでいて、精子で腹が汚れているのが分かった。いつ射精し、どれくらい気を失っていたのだろう。
「永司」
とにかく、俺達は溶けたんだ。俺のずっとずっと深い場所、俺の中にある深い深い海の底で1つになった。そこは意識の底。記憶の底。心の底。全ての俺の底。
「分かってる」
永司が言う。
俺は永司を理解する。永司の根元まで、理解する。
「俺はライ麦畑のつかまえ役なんだ」
「うん」
永司が優しく俺の髪を撫でてくれた。
永司は俺を理解する。俺の根元まで、理解する。
急激に眠たくなってきた。どうして今日はこんなに眠いんだろう。
「だから俺は隠した」
「知ってる」
髪を撫でる手が頬に下りてきて、親指で唇をなぞられる。
目を閉じたらこのまま眠ってしまう。だからその前に言わないと。
「隠さなきゃいけないと思ったんだ。だって俺は――」
「もういいから」
暗闇の中でキスをされる。
もう駄目。寝てしまう。
「でも永司は分かってくたんだな。……本当は俺だって」
「うん」
意識が薄れていく。
本当は俺だって、俺の中の子供をつかまえてほしかったんだ
『分かってるって言ってるだろう?』
永司が笑った気がした。
翌朝目を覚ました永司は、
足がふらつく俺を抱えて浴室に連れて行き身体を綺麗に洗ってくれた。
新しいバスローブを着させてくれ、髪をタオルで拭いてくれる。それからキッチンで麦茶を出してくれて広いバルコニーでそれを飲んだ。
朝日がやっと顔を出した時刻。
ライ麦畑のつかまえ役、続けよう。
永司の横顔を見て、俺は強くそう思った。
昨日はもう無理だ……と言うか、俺にはそんな資格無いんじゃないかって思った。でも今、この朝日を見ていると、新たに俺の中に力が湧いてくる。
『これから沢山学びなさい。自分の事も、他人の事も。そして強くなりなさい』
母ちゃんは俺にそう言った。
俺はまだまだ何も知らない。きっとどれだけ学んでも、何も分からないのかもしれない。でもライ麦畑のつかまえ役になる資格なんて誰が発行してくれるかも分からないのに、そんなん待っていられないんだ。
俺は何時だって矛盾だらけで、自分の事すら理解出来てない。
でも、頑張ってみようと思う。
今日、岸辺に謝ろう。ちゃんと会って、今の自分で岸辺と向き合おう。
「そう言えば、この前デゴイチ描く練習した」
昨日とはうって変わった清んだ青空を見ていると、突然永司がとんでもない事を言った。デゴイチが何なのか良く分からなくて、ちゃんと調べたんだと言う。永司が一人でデゴイチの資料を見ながらそれを模写しているのを想像して、俺は爆笑した。
「お前、それどんな顔して練習したんだぁ〜?」
「カッコイイ顔」
腹を抱えて笑う俺を横目に、永司は平然と言う。
朝日が照らす永司は、本当にカッコ良かった。
この世のどんな生物よりカッコイイんだろうと心底思った。
「俺達、最強の恋人になろうぜ」
俺の言葉に永司は左の口端を上げ、俺が大好きな帝王のような顔で応える。
外は俺が大好きな朝の匂いと雨上がりの匂いがした。雀が忙しそうに囀り、新聞配達のバイクの音がする。一日が始まるんだ。
光る太陽。昇る太陽。
――永司
手を握り見詰め合いキスをし、俺達は空を見上げる。
end