第8章 世界の共有


 頭痛が止まらない。
 石塚に心配をかけまいとしていた気合を入れていた分、今はそれがプツリと途切れ、一気に身体の自由が利かなくなった。水分を含んだ服が身体を奥底から冷やし、手足が震えて上手く動かない。だるい身体は鉛のように重く少し頭を動かしただけでグラグラと視界が揺れた。
 永司に連絡しようとポケットに入れておいた携帯を探す。
 冷たい指をポケットの中に入れてみた。
……ない。
 もう一度違うポケットを探す。
 やはりない。
 どうしてこんな時にと思いながら辺りを探すが、暗闇の中では何を触っているのかもよく分からなかった。石塚に抵抗した時に落としてしまったらしい携帯。この辺りにはあるはずなんだと思いながら震える手で探っていると、自分の額からぬるりと生暖かい感触が垂れてきた。
 指で触れてみて、それを口に持っていく。
 吐き気がするような鉄の味。
 振り下ろされた石が掠った時だ。
 自覚すると余計にガンガンと頭が痛んだ。
 自分の携帯を諦め、誰かに携帯を借りようと校内に戻ろうと立ち上がる。クラリと立ち眩みがしたが近くの木の幹を手で抑え、ゆっくりと校舎に向う。
 林を抜けると外灯で自分の姿が浮かび上がった。
 俺は泥と枯葉で薄汚く汚れており、ついでに頭から流れている血まで服にこびり付いていた。
 この格好を学校の教師や生徒に見られるのはまずかった。石塚は俺の上に乗っていたからここまで汚れてはいないはずだが、俺が行けば何があったのか絶対しつこく訊かれる。2人で出て行ったのは皆知っているし、それに石塚が俺の姿とこの血を見たら何て思うだろう。どれだけ自分を責めるだろう。
 俺は頭を抱えたまま裏口へ向った。
 最悪だ。
 重すぎる足を引き摺って閉まっている門を飛び越える。振動で頭痛が酷くなった気がした。
 公衆電話を探し、近くのコンビニへ向う。
 車が横切る度に俺の頭痛は酷さを増し、俺は何度も休憩しながら歩いて行った。
 コンビニに電話がなかったらどうしようと思ったが、ちゃんと緑色の公衆電話はあった。趣味の悪い緑色だが、今日はもっとイヤな色に見えた。
 俺は上着のポケットから小銭を探す。いつも煙草用に突っ込んである小銭を出し、受話器を上げた。
 震える手で小銭を入れ指を番号に持って行こうとした途端俺の震えはピタリと止み、それからあまりのバカさ加減に笑えてきた。
 俺は永司の携帯番号を知らないのだ。
 携帯に登録している番号を誰がわざわざ覚えるもんか。永司のも苅田のも砂上のも岸辺のも、俺は誰1人として覚えてはいない。
 ひとしきり笑った後で、今度はやたらと辛くなった。クソ寒い中雨に濡れて泥だらけで頭から血を流して、しかも身体がもう動かない。
…永司。
 永司はイライラしながら待っているだろう。遅くなったし、もしかしたら心配して俺の携帯を鳴らしているかもしれない。
 寒さに震えながらボンヤリしていると、タクシーが通った。
 そうだ、タクシーで帰ろう。マンションの下で永司を呼んで金を払ってもらえばいい。
 俺は道路脇まで行ってタクシーが通るのを待つ。
 遠くに車の上にカタツムリみたいなのを乗せたタクシーが見えた。個人タクシーだ。前に空車の赤い光も見える。 しかし俺が手を上げているのにも関わらずタクシーの運転手は通り過ぎてしまった。
 痛む頭を抑えながら俺は次のタクシーを待つ。
 今度は普通の会社のタクシーが来る。しかし空車の赤いランプが見えるにも関わらず、タクシーは通り過ぎていく。
 乗車拒否。
 多分、雨と泥と血で汚れた俺の姿だ。
 とてつもなく惨めな気分だった。
「…永司助けてよ」
 子供みたいに泣きたい。
 財布があればコンビニでタオルを買って、傘も買って、シャツだって買ってトイレで着替える事だってできるのに。
 今日は歯車が狂ってる。何をしても裏目裏目へと転がっていくようだ。
 俺は小銭を確かめて駅に向った。

 頭がグルグルしている。
 自分でも分かるくらいフラフラしている。身体が変になってるみたいで、頭痛が止まらないし吐き気すらしてきた。寒すぎて氷河の中に飛び込んだみたいに身体が痛い。
 熱がある。
 そう思うとますます辛くなってきた。
 永司に言われた通り、ちゃんと風邪を治せば良かった。ドライヤーだって嫌がらずにちゃんと使って髪を乾かせば良かった。こんなふうに風邪をこじらせるなんて、俺は本当にバカだ。
「永司助けて」
 通りすがる人達が見ている。でも、もう構ってられない。
 重い足が更に重くなり俺はこのままここで倒れてしまいたくなった。
…永司。
 一杯永司に甘えたい。あの温かい身体に触れたい。 話を聞いてもらって、頭を撫でてもらうんだ。
「そうだ」
 俺は呟いて、また足を前へ動かす。
 そうだ。今日は永司に抱いてもらうんだった。セックスするんだ。ずっとしてなかった分、今日は一杯するんだ。だから、俺は帰らなくちゃいけない。
 駅までの道のりは遠かった。俺は歩きながら、永司が痺れを切らして校門まで迎えに来ていたらどうしようかと思ったが、やはり誰が残っているか分からない学校へは戻れなかった。


 どれだけ歩いただろうか。
 街の明かりが眩しくなり、やっと駅に近付いて来た。頭に手をやると血は止まったみたいだったし、汚れた服も雨が綺麗にしてくれたようだった。
 俺は小銭を確かめながら駅内に入って行く。
 震えているせいか視界がぼやけているせいか、切符を買うのにも時間がかかった。
 自動改札から入ってプラットフォームに向う。
 人はあまりいなくて、プラットフォームは閑散としていた。
 俺は電車を待つ間、ずっと突っ立って永司の事を考えた。
 この血とこの格好を見て、永司は何て言うだろう。何て思うだろう。石塚の事を恨んだらどうしよう。俺はどうやって説明しよう。石塚の事は怒ってほしくないし、俺は石塚のあのプライベートな話まで説明できない。でも永司は納得しないかもしれない。
 俺は何も言わず永司の胸の中で早く眠ってしまいたい。とにかく眠ってしまいたい。
 一度座り込んだらもう立ち上がれないような気がして、 俺は突っ立ったままボンヤリとしていた。
 ぐにゃりと視界が歪む。
 手で目を擦って倒れてしまわないように少しだけ身体を動かし、顔を上げた。
 しかしプラットフォームの端を見て、俺は自分で自分の愚かさを罵倒する。
 薄暗いプラットフォームの端は、まるで影を集めたように光を飲み込んでいた。
――姉ちゃん助けて」
 アッチは見ちゃいけなかったんだ。特に今のような状態では、絶対見ちゃいけなかったんだ。
 電車が到着する音が聞こえた。
 でも俺は視線を外せない。
 聞きなれたブレーキ音と共に電車が止まる。
 俺はこれに乗って永司の元へ帰り、そして永司とセックスするはずなんだ。
 でも俺の身体は俺の意思と正反対の方向へ歩き出した。
 プラットフォームの端へと。
…姉ちゃん母ちゃん永司、助けてお願い。
 電車のドアが閉まる音。
 プラットフォームの端っこには少し汚れた緑色のベンチがあった。
 電車が発車する音。
 重い空間と同じだけ重い身体はこのままズシズシと地中にのめり込んで行くようだった。


「久し振りだね、お兄ちゃん」

 彼の声に俺は息を止める。
 彼は何も変わっていなかった。俺を脅かすその掠れた声も独特の口調も、何も生命を感じない存在感も、そして座っている場所から蹲り両腕で顔を隠しているその体勢まで以前会った時と同じだった。
「熱があるの?大丈夫?」
 子供は少し笑っているようだった。
「俺、今日はもう帰りたい」
「帰っていいよ。でもきっと帰れないよ」
 俺は姉ちゃんの言葉を思い出していた。
『近付いてはいけない場所には近付かないようにしなさい』
 姉ちゃんはこう言った。俺はついさっきまで、これは学校の裏の林だと思っていた。薄暗くて湿気で一杯だったあの林。
 でも本当は違ったのだ。姉ちゃんが言いたかったのはソレじゃない。
 コレだったのだ。
「お兄ちゃん、座れば?」
 子供は掠れた声で言う。
「座っちまったらもう立てなくなる」
「前みたいに僕の髪を触ってよ」
「俺はもう帰りたい」
「少しだけ話をしようよ」
 自分の呼吸と子供の聞き取り難い掠れた声だけが耳に入ってくる。俺の身体には襲い来る吐き気と強烈な頭痛しかないようだった。
「お前、どうしてこんな時間にここにいる?家は?」
「もうすぐ帰るよ。迎えを待っているんだ」
「嘘つけ」
「本当だよ」
 こんな時間に…多分もう12時近いこんな時間に何故こんな子供が。
「家出じゃねぇだろうな」
「まさか。僕は自分の家が大好きだよ。ママとパパとまだ赤ちゃんの弟がいるんだ」
 駅の中にベタリと纏わり付くような湿気が入って来た。11月の乾燥した時期には珍しい程の湿気だった。
「お兄ちゃんは今まで何年生きてきたの?」
 無視したいが、俺はこの子供の質問を無視できない。
 この子供の存在を無視できないのと同じように。
「16年」
「世界は広がった?」
「世界は広がっていると思う。けれどよく分からない」
 子供の声を聞くも自分で言葉を発するのも同じように頭が痛むので、俺はそれをなんとかしたくてこめかみに手を置き指で疼く場所を押した。
 神経が悲鳴を上げているようだった。
「僕の世界はどんどん狭くなる。時間が経つにつれ、僕の世界は小さくなっていくようだ。誰もいない世界で仲間を求め歩き、そして仲間を喰らい、僕は1人になった。いや、最初から1人だったけれどね。僕はもう仲間を求めてはいないけれど、僕の世界は小さくなっていくようだ」
「何言っんのか分かんねぇ」
「分からなくても良いよ。お兄ちゃんに聞いてもらいたいだけだから」
「俺は今日何も聞きたくない」
 こんな子供は無視して、永司の元に帰りたかった。頭痛と吐き気と熱、それだけでも俺の身体は限界なのに、その上この子供のわけの分からん話なんて聞きたくもない。
「お兄ちゃんは今日、とても正直だ」
 腕で顔を隠しているが、子供は笑っているようだった。
 俺は大きく息をしながらここから離れようと試みる。しかしどうしても足が動かない。まったく正常に動かない頭に子供の言葉がへばりつき、それが俺を苦しめた。
「ねぇお兄ちゃん。お兄ちゃんの世界は僕のとは違う。他人とは同じ世界を共有できないから人は他人に惹かれる。僕がお兄ちゃんに惹かれるように。でもねお兄ちゃん。僕とお兄ちゃんの世界が共有できたら、それは世界が広がったのだろうか。それともやはり狭くなったのだろうか」
「広がったんじゃないか」
「そうかな。2つのモノが一緒になっても、それが強烈な力で混ざり合えば小さくなるんじゃないだろうか。例えば、柔らかくてフワフワしている2つの物体を両手に持って、それを合わせてみる。最初はゆっくり、でも少しづつ力を込めながら。するとどうだろう。最初のフワフワしている物体よりもずっと小さな物体ができあがった」
 子供の話を聞きながらこのままここでぶっ倒れてしまいたかった。でもそれはどうしても駄目だと俺の勘がしつこく警鐘を鳴らす。
 自分の身体が微妙に揺れているのを感じながら俺は子供を見ていた。
「俺、そんな難しい事分からない。学校のセンセに訊けば?」
「彼等は何も分からないよ」
「学校のセンセが分からない話が俺に分かるはずがない。それに俺はもう帰りたい」
「僕はもう少しお兄ちゃんと話がしたい。今日はお兄ちゃんの嫌がる話をするつもりはないから、もう少しだけ話をしよう」
 俺が嫌がる話はしない…確かに今日のこの子供の言葉には悪意がなかった。でも存在そのものから溢れ出る悪意が俺を苦しめる。
 目を閉じた途端に意識を失いそうだった。
 また熱が上がってきたみたいだ。
「ねぇお兄ちゃん。他人と世界を共有したいと思わない?例えば、好きな人と」
 俺はもう答えてやる力も残っていない。
 子供の話は前回のように悪意に満ちてはいなかったが、それでもその掠れた声は頭をグラグラ揺するように響くし、それに身体の感覚が薄れてきている。
「好きな人と世界を共有したいと思うでしょう?セックスしたいと思うように、その人の世界を知りたいと思うでしょう?そして自分の世界を知ってもらいたいと思うでしょう?」
 掠れた声はもういつもの子供の声ではないようだった。マントルよりも深い場所と、太陽よりも高い場所から同時に降ってくるような声。
 俺は子供がその年齢にそぐわない単語を発している事に気付きもせず、ただ額を抑えて聞いているだけだった。
「ねぇお兄ちゃん。セックスとは何だろうと考えた事はある?人は何故愛する者と身体を繋げようとするのか考えた事がある?それはお兄ちゃんにとってはたいした問題じゃないかもしれないけれど、少しでも考えた事はある?そんなの人によって違うとかそんなありきたりな事じゃなく、お兄ちゃんは自分の中でちゃんと考えた事がある?お兄ちゃんはきっと僕に近い人間の感情を一生理解できない。だから余計考えてもらいたい。前にも言ったけれど僕はお兄ちゃんが好きだから、だから考えてもらいたいんだ。今日のお兄ちゃんを見て、僕はとてもお兄ちゃんに優しくしたくなった。しかし僕はある日突然お兄ちゃんを殺してしまいたくなるかもしれない。いい?これはとても大事な話だ。こんなふうにお兄ちゃんに優しくする事はもうないかもしれないから、ちゃんと聞いて。人には相反する2つの感情がある。それは2つともとても大事な感情だけれど、お兄ちゃんの世界には存在しないモノだ。だからお兄ちゃんは世界の共有についてもっと考えなくちゃいけない。これは僕が人間に発する初めての忠告だ。忘れたら駄目だよ」


子供の意味不明な話が終わった途端、俺は意識を失った。







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