「ちょっと出かけてくる」
打ち上げの途中で石塚から連絡が入り、俺は永司に耳打ちをする。後夜祭からなだれ込んで来た級友が楽しそうに騒いでいる店の中は相当うるさかった。
「どこ行くの?」
「学校」
「何しに?」
「石塚と話がある」
永司がチラリと俺の目を覗き込む。
「俺も行く」
「すぐ戻るからお前はここで待ってろ」
「俺も行く。校門で待ってるから」
「大事な話なんだ」
「だから校門で待ってる」
永司は譲らない。別に付いて来させても良かったが、あの寒い中で待たせるのはやはり気が咎めた。それに今はまた雨が降り始めてきている。
「すぐ戻るから」
「行く」
永司は自分の上着を持って立ち上がった。俺はこれ以上何を言っても無駄だろうと思い、同じように立ち上がって皆に別れを告げる。もう帰るのかと不満そうな声が上がったが、体調の悪い俺にここは煩過ぎ微かに頭痛も始まっていたし、熱っぽい身体では酒は飲めない。それに気を使うのも億劫だったのだ。
財布を忘れた俺の分まで永司に金を払ってもらう。店を出ると永司とタクシーに乗り、学校まで戻った。
外は思った以上に寒く、冷気が頬を刺し小雨を氷の塊みたいに感じた。
校門で待つと言い張る永司を「先に家に戻って部屋を暖めておいて」と頼み、「終わったら携帯で呼ぶから迎えに来て」と続ける。石塚の話が短く済むか長くかかるか予想できない俺は、こんな寒い中永司をここで待たせるわけにはいかなかったのだ。永司はそれでも嫌がったが俺も負けじと説得し、暫くしてから永司は不満顔で帰って行った。
永司がしつこくここで待つと言い張ったのには理由があった。少し震えながら話している俺の身体を心配していたのだ。それにアイツは打ち上げの際俺が頭を抑えているのを見ていたから、頭痛の事も心配していたに違いない。
そしてもう1つ、姉ちゃんの言葉。
俺も気にはなっていたがコレはしょうがない。
震える身体を両手で抑えながら俺は校門をくぐった。
「待ってたよ」
「ん」
校庭には生徒会の役員が少しと教員達が最後の後片付けをしていた。
石塚は俺の姿を見つけると変なタイミングでニコリと笑い、教師や生徒会役員達に何かを告げてこっちに来た。
「場所を変えよう」
スタスタ歩きだす石塚の後を付いて行くと、校庭とは反対側の小さな林の中に入って行く。ここも一応校内なのだが整備はされておらず、木々や草花が好き勝手に多い茂っている場所だった。清潔に完備されている広い校内で唯一のんびりできるからだろうか、昼間はそれなりに趣きがあり生徒内でも人気の場所だ。
しかし月明かりもない雨の夜にはあまり立ち入りたくはない。
それでも石塚は林の中に入って行くので俺もそれに続く。木々の葉が雨を受け止め身体は濡れなくてすんだ。
「僕は、君と話がしたかった」
歩いていると急に石塚が立ち止まりポツリと呟いたので俺も足を止める。
ザクッと音がして石塚が振り向いた。
それは俺が初めて見る、石塚の表情だった。
「深海君は僕の話を聞いてくれるだろうか」
「聞く。俺はお前の話を聞く」
一度大きく頷くと、石塚はまた両手を広げてじっくりとそれを見た。
辺りには木々が生い茂り、雨を吸収している土の匂いと草の匂い、ポツポツと小雨が葉を鳴らしている音。
石塚が俺を見る。
悲しそうな瞳だった。
「僕には祖父がいた」
それは静かな声だった。
「厳格な祖父で、僕は幼い頃から叱られてばかりいた。例えば箸の持ち方、テストの点数、姿勢、言葉遣い、起床の時間から歯の磨き方、テレビを見る時間、服装、礼式、全ての事で祖父は僕を叱った。幼かった僕を平気で殴り、近くにある物で僕を叩いた。僕はいつも泣いていたが祖父はそれにも激怒し、更に怒りを爆発させた。父も母も祖父には何も言えなかったから、僕は毎日を泣いて過ごした」
石塚が足元のぬかるみをチラリと見て、一呼吸おく。
「12歳の誕生日を迎えた日、僕が自分の部屋で小説を読んでいるとノックもせずに祖父が入って来た。祖父は階下で何度も僕を読んだらしいが、僕はその頃推理小説が大好きでね、その時も江戸川乱歩を夢中で読んでいたから祖父の声に気付かなかったんだ。深海君は推理小説を読んだ事あるかい?」
「あるよ」
「あれ、面白いね。僕はもう読んでないけれど」
雨が葉を伝って石塚の頬に落ちる。
「祖父は僕が読んでいた小説を取り上げそれをゴミ箱へ捨てた。僕は祖父の声に気が付かなかった事を何度も詫び、それから宿題も予習も復習も全て終わらせたんだと訴えたが、祖父は僕の部屋の本棚を一瞥し、参考書や辞書類、学校で使う物以外は全て処分してしまった。夕食では僕が読んでいた推理小説の事で母を叱り、母が泣くまでずっと僕の躾について叱責を続けた。父はその日、僕の誕生日だからと仕事を早く切り上げてくれていたし、母は僕の為に慣れない手料理を作ってくれていた。しかし僕の誕生日はいつもと何ひとつ変わらなかった。僕は俯いて涙を流し、母の作ってくれた料理をゴクリゴクリと無理矢理喉に押し込めるだけだった。何も味を感じない、感じる事ができない僕は、何度も胸の中で母に謝った」
葉を伝う雨が、もう一度石塚の頬に落ちる。
俺はそれを見ながら黙って聞くしかなかった。
「そして僕は決心する。完璧な人間になろうと。祖父に何も言われないように、全てを完璧にこなそうと。その為に僕は自分の中に本棚を作った」
「本棚?」
「そう、本棚。君はいつか、人を好きになるのはゴチャゴチャした本棚のみたいな感じだと言っていたね。それは君の本棚だろ?僕も本棚を作ったんだ」
俺は自分の中に本棚を持っているのだろうか。
分からない。
「俺は本棚を作ったわけじゃねぇよ」
「元からあったの?」
元からあった?
いや、俺は「ゴチャゴチャした本棚みてーな感じ」と言っただけ。そんな感じなんだ。
「上手く言えない」
正直に答えると、石塚は静かに微笑する。
「君の本棚を見てみたいと思うよ。僕と違ってきっと色々なモノが並べられているのだろうからね。 僕が想像もつかないモノまでありそうだ」
「僕と違って?お前の本棚にだって俺とは違う色々なモンがあるだろう」
「…ないよ」
石塚の瞳が揺れる。
闇夜に浮かぶ石塚の表情は水辺に映る人形のようなのに、
その瞳だけが感情を抱え込んでいた。
「僕の本棚には生きていく上で必要なモノしか置いていないんだ。あとは祖父に捨てられてしまったし、僕も置かなかった。モノが多いと整理が大変だからね。僕はこの小さな本棚をいつも整理しているんだ。いつどこで何を言えば良いのか、何をすれば良いのか、どんな表情をすれば良いのか、全ては本棚に収めてある。笑った方が良いと判断した時は本棚の中から笑う為の本を取り出す。そして笑い、それが終われば本を本棚に戻す。悲しむ時も人と話をする時も一人の時も、いつも同じように本棚から本を取り出し、それが終われば元に戻す。その繰り返しだった。本棚の本を僕は上手く使いこなし、どんどん完璧になっていった。
何でもそつなくこなせるようになっていく自分を僕は冷静に判断する。自分の力を、つまり自分の本棚を完全に整理し使い分ける事ができる僕は、きっと非常に稀な存在なんだと思うようになった。しかし完璧になればなるほど僕は自分を失っていった。まるで機械のような感じだ。自分の本棚を使いこなしていくにつれ、どんどん自分の身体が機械になっていくような気がした。
ある日の朝、目が覚めると僕は自分の両手を見てふと違和感を覚える。もしかしてこの手は偽物なんじゃないだろうかと思ったんだ。動かしてみると、やはり自分の手は機械のように動いた。本棚によって機械のように動く手を僕は見つめる事しかできない。
そして高校2年、僕は君と出会う。君に出会って僕は考えるようになる。機械にはできて人間にはできる事と、人間にはできて機械にはできない事。
この手は何ができて何ができないのだろうと僕は考えるようになる」
石塚はここで言葉を切り、一呼吸置いてからまた話し出す。
「岬杜君を初めて見た時は驚いたよ。彼はいつも無表情で全てがパーフェクトで、僕は同類を見つけたんだと思った。広い世界で僕と彼だけが未来から来た何も感じないアンドロイド、世界は僕と岬杜君とそれ以外の人間から成り立っているのだろうと思った程だ」
「永司は人間だし、お前も人間だよ」
石塚の瞳が何かを呟く。
「僕の祖父は今年の10月初めに死んだ。葬式にゾロゾロと人が集まってきたが、誰も悲しんではいなかった。しかし僕だけは悲しんだ。何故なら僕は、自分の本棚から悲しむ本を取り出したからだ。父や母を含め人々は僕を優しい子だと思ったに違いない。僕はそれを望んでいたからそれはそれで良いのだけれど、家に帰って自分の部屋へ戻っても祖父が死んだ事について何も感じなかった。悲しむ本は本棚に戻し、誰もいない何もない状態では僕は何をすれば良いのか分からなかった。どんな表情をすれば良いのか、何を思えば良いのか、どんな独り言を呟けば良いのか、何も分からなかった。あれほど僕を叱りったり殴ったりしていた祖父が死んでもだ。
僕は次の日いつもと同じように学校へ行き、今度は岬杜君が君を愛している事を知った。世界で唯一の仲間を失ったのに、僕はその時も何も感じなかった。まるで普通の人間のように微笑みながら君を見ている岬杜君を見て、『僕はここで唯一の仲間を失ったんだと落胆するべきなのだろうか』なんて考えたほどさ。そう、僕は祖父が死んでも世界で唯一の仲間を失っても何も感じなかった。何も変わらなかった。
まるで12歳の誕生日みたいに、いつもと何ひとつ変わらなかった」
石塚は話を終え、ふうと小さく息を吐いた。
黙って聞いていた俺を仮面のような顔で見て、それを引き伸ばすように微笑む。
「その微笑も本棚から出してんの?」
「そう。この微笑は本棚の上から2段目右から3番目にある本だ」
「じゃ、その6番目にある本出して」
俺の言葉に石塚は声を上げて笑った。
心底楽しそうな声だったが、変なタイミングだったし目が笑ってなかった。
俺は石塚の瞳の違いに気付く。
コイツは一体どんなふうに生きてきたのだろうか。
冷たい北風が吹き、俺はゾクリと身震いした。
「僕は人間だろうかと思う」
「お前は人間だ」
俺は言いながら石塚の手に触れる。
「君の手に何があるのか知らないけれど、僕は君と話したり君に触れてもらったりする度に自分が人間だった事を思い出す」
「嫌か?」
「嫌ではないよ」
石塚が俺の手を握る。
それは空から落ちてくる雨のように冷たくて俺の体温を奪っていく。
「僕は今日、全てを壊してしまう事を想像した」
「全てって?」
「僕のしてきた事、全部。今まで時と場合に応じ何事にも臨機応変に対応してきた事、全部。僕が不特定の人間を大量に殺害し、警察が僕の仕業だと見破り、家裁で裁かれ特別少年院に送られ、そしてマスコミはこぞって僕と僕の家族や家系にスポットを浴びせ『17歳の少年狂気の犯行、その生い立ちの光と影』とかって特集を組む。しかし僕は最後まで犯行理由を公表しない。なぜなら理由なんてないからだ。僕は全てを壊してみたくなったという理由で全てを壊した。僕がそんな事を考えていると、君が現れた」
石塚はあの時、そんな事を考えていたのか。
「俺もそんなようなコト考えた事あるぜ」
「嘘だ」
「ホント」
本当だった。
「北杜夫の小説だか随筆だかを読んでいた時、不思議な話があった。コメツキムシの話だったと思うが『ある17歳がいて、コメツキムシがはねるのを見て急に教師を殺害せんと意図する』って話はどうだと北杜夫が編集者に言う。それはたった2行の文章だったが、俺はそれが忘れられなかった。北杜夫がコメツキムシを苛めながら考えた事を、俺も同じようにコメツキムシを苛めながら考えてみた事があるんだ」
滑稽で不条理。
そんな事はいくらでも転がっているし、いくらでも想像する。通りすがりの車が窓から煙草を投げ捨てたのを見て、俺はその男を死刑にする。スーパーでレジのオバサンがあまりにも無愛想で横柄だったので、俺は国会に爆弾を仕掛ける。それら馬鹿馬鹿しく自分勝手な想像は、その日の自分の気分や体調、その他モロモロの条件によって突然頭を過ぎったり浮かんだりしながらそのまま消えていく。
「君の話は僕のと少し違う」
「そうか?んじゃさぁ、ラッシュアワーの駅で電車を待ってるのね。暗い線路の奥から電車がやって来るじゃん?俺はそれを見ると『アレは電車じゃなくてモグラ』と想像する。でかいモグラが…漫画みたいに丸いサングラスをしたモグラがやって来て、駅にいる人達をガツガツ食べちゃうのよ。それが終わると俺を背中に乗せて走って行く。俺だけは食べないの。なぜってそのモグラは俺のペットだから」
「それも僕のと少し違う」
「違うと言えば違うかもしんねーけど、同じと言えば同じなんじゃねーの?」
「全然違うよ深海君」
石塚は俺の言葉に首を振る。
「僕の想像した事は、もっと破壊的なんだ」
もっと破壊的。
それは他人にも自分にも世の中にもって事なのだろうか。
俺は唸りながら首を傾げた。
「でも、お前の想像も浮かんではすぐ消えて行くモノじゃないの?」
「まだ分からない。僕はずっとこんな想像をして生きて行くのかもしれないし、明日には忘れているのかもしれない」
石塚が口を閉じたので俺も黙った。
ポツポツと降り続ける雨が服に染込み、肩が冷えてくる。縛り付けるような冷気が足先を痛めつけ、首元から同じように冷気が入り込んで全身の体温を一気に下げた。暗闇にひっそりと浮かぶ石塚を見ながら、頭痛が酷くなって行くのを感じる。
俺が石塚の冷たい手とそれを握っている自分の手に意識を集中した時、ズキズキと痛むこめかみに、一粒の雨が落ちた。
「なぁ石塚」
静かに声を出す。
「なんだい?」
石塚も静かに訊く。
「俺ね、お前の話を聞いててちょっと疑問に思った事があるのよ」
「なに?」
「お前の本棚、全部いっぺんにひっくり返すとするだろ?」
「うん」
「そんで、お前はまた散らかった本を元の本棚に戻すだろ?」
「うん」
「そしたらさ、戻した時の本の並びや順番は、ひっくり返す前と同じだと思う?」
「……え?」
北風が吹き、林の木々達がザワっと音を立てた。
「もう一度本棚に並び直した本は、今ある本と同じモノだと思う?」
石塚は握っていた俺の手をゆっくりと握りなおした。
俺の体温がそこからどんどん熱を取られて行くようだった。
「――深海君。君はとても面白い事を考える」
石塚は俺と同じようにゾクリと身体を震わせ、そして俯いた。
どこかから車のクラクションが聞える。
顔を上げた石塚は作られた笑顔を俺に見せる。
「全部いっぺんにひっくり返すのは怖いよ」
「じゃ、少しだけ」
俺が寒さに震えながら言うと、石塚が息を吐きながら目を閉じる。
キンキンと嫌な頭痛が本格的に始まった。
雨が降っている音。
もう一度、ポトリと俺のこめかみに雨が落ちた。
唐突に、石塚が腹を抱えて笑い出す。何かよっぽど可笑しな話を聞いた時みたいに笑い、それからゲラゲラと下品に笑い出した。俺の手を離し、俺の肩を叩いて笑い続ける石塚の瞳がゆらゆらと揺れる。
「馬鹿みてーだ」
石塚は笑いながらしゃがみ込む。立っていられないほどおかしいのか、腹を抱えて笑い転げている。
「馬鹿みてー」
石塚は同じ事を笑いながら言い、自分の足をバシバシ叩いていた。
そして今度もまた唐突に、ピタリと笑うのを止める。電池が切れた時計のように、石塚の時が止まってしまったように感じた。
そして止まった時間のまま、その口だけが動き出す。
「あのクソジジイがやっとくたばったけど俺はあのクソジジイと同じだけ世の中の人間が嫌いなんだ。愚鈍で何をやらせても何一つ満足にできない人間なんて生きる資格がないのにそんな奴に限ってのうのうとのさばってやがる」
俺はボソボソと呟く石塚を見ながら自分の激しくなる頭痛と闘っていた。
これは何かの予兆だ。
だがしかし、石塚をここで止めたらいけない気がした。
石塚は黙ったまましゃがんでいる。
雨が激しくなってきて、俺達の身体を濡らし始めていた。
「気持ち悪い」
石塚の低い声が聞こえ俺は驚いて同じようにしゃがみ込む。しかしそこで見たものは、瞳孔を開ききり土を凝視しているその異常な瞳と、苦痛も何もない表情で自分の口に指を突っ込んでいる石塚の顔だった。
腹から湧き上がる嗚咽と嘔吐。
石塚の胃の物が土の上にビシャビシャと撒き散る。
「石塚…」
背中をさすろうと手を伸ばした瞬間その手を捕まれ、俺は息を飲んで硬直した。石塚の瞳が闇の中でギラギラと暴力の輝きを放ち、俺の手を掴むその力は明らかに常軌を逸している。
「――石塚、待て」
その手から感情が流れ込んできて、俺は全身を震わせた。どんな強い力も歪ませるような感情は確かに気持ち悪く、俺も吐き気を感じ空いている手で口を抑える。
「岬杜はどんなふうにお前を抱くんだよ」
石塚の左手が俺の身体に触れる。
「お前、どんなふうに鳴くんだよ」
上着の裾を持ち上げられ、そこから冷気と氷より冷たい手が忍び込んできた。
「石塚、本を元に戻せ」
「俺に命令するな」
石塚の口元から涎がつうっと落ちている。
俺はそれを見ながら腕に力を込めて手を振り解こうとする。
寒いのか熱いのか分からない自分の身体と、キンキンと危険を告げる俺の勘。
「抵抗するなッ」
顔を殴られ思わず力が抜けると俺はその場に押し倒された。土の匂いと泥の匂い草の匂い。一気に水分を含んだ服がベタリと背中に張り付く。
「石塚、本…」
「男の身体ってイイらしいな。岬杜はお前の身体に夢中になってたりして」
俺の体の上に乗った石塚が顔を歪ませて笑っている。
理性がない人間の顔を、俺は初めて見た。
「俺はずっとお前を抱いてみたいと思っていたよ」
冷たい手が俺の素肌に触れ、足のない虫のように這い上がってくる。身体を撫で回すその手に俺はまた吐き気を覚えた。
「お前、毎晩岬杜に突っ込まれてるんだろ?」
「テメーいい加減にしろよ」
「岬杜ってどんなセックスするんだよ」
「俺の声、聞こえねーのか」
「岬杜より俺のほうが上手かったら、お前、俺のセックス奴隷な。俺の性欲を満たす為だけのセックス奴隷な。毎晩抱いてやるぞ。俺はお前を毎晩抱いてやる。学校で可愛い顔して笑ってるお前も、俺に抱かれてケツ振って喜ぶように仕込んでやる。お前は俺のモノになるんだっ。聞いてんのかよ!お前は俺専属のセックス奴隷になるんだッ!!」
「――バカが!」
全身の力を込めて抵抗する俺を見て石塚が子供のように笑う。まるで動物を虐待し喜んでいるような顔だった。
冷たい手が俺のベルトに触れる。
…俺も石塚もこのままじゃマジやばい。
空いている手で素早く石塚の目を叩く。
しかし石塚は驚いた様子も見せず余計ゲラゲラ笑った。
…コイツ完全にヤバイ!
俺がもう一度、今度は頚動脈に狙いを定め右手を上げると
石塚が怒り狂ったような声を上げた。
「俺は抵抗するなと言っているだろうがあああッ!!」
石塚の怒号が雨の林の中に響き、俺の頭にガンガン響く。石塚の手にはいつの間にか拳大の石が握られており俺の顔面に向ってそれは振り下ろされる。
「――ッ!!」
手で弾いたものの、何度もそれが繰り返された。
腕が持たなくなる、そう感じた俺は大きく振り上げられた石塚の手を見て同じく手を上げた。
「――イ…ッ」
避けたものの頭に石が掠ったのを感じながら俺は確実に掴んだ石塚の首を一気に締める。
ドクドクと音がする心臓と乱れた呼吸、雨の音、土の匂いと草の匂い、知らない間に口に入ったらしい砂利の味。
俺はそれらを感じながら首を締める。
石塚の顔が苦痛に歪み俺の手に爪を立てた。
「石塚。この手を離してほしければ俺の目を見ろ」
力を緩めず俺は低く声を出す。
上がった呼吸を整える余裕もなく、そして首を締める力を加減する余裕もなかった。
石塚が俺を見る。
「ゆっくり本を本棚に戻せ」
石塚が両手を首元に持っていったので俺は捕まれていた左手を動かした。動く。多少しびれてはいるものの、動く。
身体を起こし、石塚との視線を逸らさないように少しづつ手を緩めていく。
「俺の目を見ろよ。逸らすなよ」
コクリと頷いたのを見て、手を離した。
途端に石塚が咽る。
苦しそうに呼吸をしている石塚の瞳に、もう暴力の色はなかった。
「本は戻したか?」
「戻し…ッ…た」
呼吸を上手く整える事ができない石塚は俯き途切れ途切れに答える。
「俺の目を見て答えろ。戻したのか?」
「…戻した」
ゴクリと唾液を嚥下しながら答える石塚の瞳に嘘はない。
俺は全身の力を抜いてようやく口に入っている砂利を吐き出した。背中にへばりついている服に意識が向き、一息吐いたことで寒さがまた襲ってくる。
雨が激しくなっていた。
石塚は辛そうに涙を浮かべて胃のモノを吐き出し、何度も首を振って息を整えていた。
暫くそれを繰り返す。
「どれだけ謝っても謝りきれない」
石塚が肩で息をしながら小さく呟き、そしてまた辛そうに胃のモノを吐いた。
「謝る事なんて何もない。俺がやれと言った事をお前はやっただけだ」
「僕は君に酷い事をし、酷い事を言った」
「この事に関しお前は後悔するな。お前が後悔するとお前をそそのかした俺も後悔しなくちゃなんねぇだろうが」
砂利を吐き出しながら笑って言う俺を見て、石塚は目を細めて首を振る。唇を噛み締め何度も首を振っている石塚は疲れきったサラリーマンのようだった。
「石塚よぉ、今、どんな感じ?」
頭がクラクラし立ち上がる事ができなかった俺は、
枯葉と砂利と土の上に座ったまま訊いてみる。
「どうすれば良いのか分からない」
「本は元と同じ場所?同じ本?」
「今は何も考えたくない。僕の中にあんな感情があるなんて知らなかったし、どうしてあんな事をしてしまったのかも分からないんだ。怖いし、何も考えたくない」
「人間の感情なんてそんなモンだろ?お前は自分の本棚に頼りすぎたよ。今日はその『返し』がきただけさ」
「返し?」
「そう、返し。反動。お前の本棚の奥にはもう一個何かがあって、お前はそれをギュウギュウと隠していたけど、今日は本をゴソリと抜いた弾みで奥にあったそれがポトリと落ちたんじゃねぇかと思う」
校舎の方から石塚の名を呼ぶ女の声が聞こえた。
石塚は黙って俺を見たまま動かない。
俺も動かなかった。
「僕はこれからどうやって生きていこう」
「好きに生きればいいんじゃねーの?」
「本棚に頼らずに?」
「それも好きにしろよ。お前は賢いから自分で答えを出せるだろうよ」
校舎からもうもう一度女の声。
「僕は深海君に何を言えば良いのかさえ分からない」
「何も言わんでいいさ。それよりお前、もう戻った方がいいぞ。きっと皆心配してる」
「君も…」
「俺は裏の塀を越えて帰るよ」
俺は心配するなと手を上げ、ニッコリと笑ってやった。石塚は何か言いたげな表情で俺を見下ろしていたけれど、やがて足を動かし戻ろうとする。
石塚の後ろ姿を見て、俺は最後に声を掛けた。
「石塚。自分の手、見てみ」
石塚が振り向き、自分の両手を広げて視線を落とす。暗くて俺からは見えないが、きっと雨や泥で汚れているに違いない。
「人間の手だろ?自分の両手を見て違和感を覚える事も、全てを壊す想像をする事も、俺に話を聞いてもらいたいと言った事も、考えてみれば全部人間くさい事じゃねぇか」
石塚は黙って自分の両手を見つめ、クスリと笑った。
冷めた表情だったが、目は確かに笑っていた。
「確かにこれは人間の手だ」
石塚は呟いた後、俺を見つめた。
「深海君は僕とは違う。しかし、僕とも岬杜君とも違う完璧さを持っている。君には『返し』がないの?」
「あったよ。そしてこれからもあるだろう」
石塚は俺を見つめたまま何かを言おうとしたが、結局何も言わず静かに去って行った。
石塚の足音と雨の音。
「深海君。今日は本当にありがとう。そしてごめんなさい。僕は今日の事を忘れない」
小さくなっていく足音に紛れ、石塚の声が聞こえた。