新生祭2日目は雨だった。
朝はやっぱり眠くて眠くてしょうがなく、永司に髪を洗ってもらう。昨日女子に叱られたので、今日は早めに家を出ようとバタバタと用意をした。
雨だからか風邪をひいているからか分からないが、とにかく寒かったので厚着をして学校へ向う。今日の新生祭が終われば明日は休校だ。
「おはよ〜!」
今日も元気に皆に挨拶をし、藍川に着物を着せてもらう。
「粋に頼んまっす」
昨日と同じように長襦袢に腕を通しながら藍川にお願いする。藍川は笑って頷いていた。
昨日盛り上がったせいなのか、カラオケはすぐに始まった。しかし今日も参加者はウチの学校の生徒以外の者ばかりで、金持ちの男を逆ナンしに来たらしき女の子達が楽しそうに歌っていた。そして今日も俺は女の子ちゃん達や野郎共の相手をして一日を過ごした。
だらだらと風邪を長引かせていたせいか午後から体調が悪くなったが、俺はそれをなんとか隠し通した。永司だけがそんな俺の変化に気付いたが、何も言わなかったし俺も何も言わせなかった。
3時頃客足がパタリと途絶えた時だ。
クラスの連中が教室から離れ、一息吐いていた。
俺も他のクラスを覗きに行こうかと思ったが、そこで財布がない事に気がついた。
「お財布、ない」
「…え?」
永司が少し驚いた声を出す。でも俺も驚いていた。
「お財布がない」
「今日の朝ソファーの上で見たけど、持って来た記憶ある?」
「……ない。多分家だ」
今朝はバタバタしてたから、完全に忘れていた。
「財布を忘れるなんて、今日の俺はサザエさん」
気が抜けるともうどこにも行きたくなくなった。
仕切られた教室の片隅で、永司の隣に座って足をぶらぶらさせる。外は雨でまだ3時だというのにもう夕暮れのように暗い空を見上げ、今日の打ち上げはどこでやるのだろうかと思いながら窓を開ける。湿気が流れ込んで来るが冷たい空気が心地良く、俺は窓のすぐ下に並べられてある机の上に座った。
「寒くないのか?」
「いや、冷たくて気持ちいい」
永司は俺をじっと見詰め、そして俺の正面にしゃがむ。
「身体は?」
「大丈夫。それに今日一日だし」
確かに少し辛かったが、それは気力でなんとかなる程度だった。
永司は俺の額に手を置き、暫くしてからそしてその手を頬に下ろした。その瞳は相変わらず深くて何を考えているのか分からない。どれだけ抱き合っても、どれだけ口付けを交わしても…そして、例え桜の樹の下で深い海の底で俺達が1つになっても。
見詰め合っていると永司の親指が唇に触れゆっくりとなぞられる。目を閉じると、誰もいない仕切られた空間に染込むような永司の匂いがした。永司はその手を更に滑らせ俺の首筋を撫でていく。もう一方の手が着物の裾に入ってきた。
「いや〜ん」
俺は笑いながら永司の手を掴む。
「少しだけ」
永司は言いながら少し強引に俺の素肌に触れる。
「おいおいマスオさん」
「触るだけだから」
「そうゆう問題じゃないっしょ」
「一ヶ月禁止令?」
「違う。ここは教室よ〜」
「だから?」
永司は引かない。困った奴だと思いながら目を開け、永司の手を止める。
雨の匂いと永司の匂い、両方が俺を包む。
「教室ではイヤラシイ事はしないのぉ」
「…家でもできない」
永司の何気ない一言に俺はちょっとむっとする。
「この前手でしたろ?それに一ヶ月禁止令は冗談で言ったんだ。
お前が頑なに守ってるだけじゃん」
俺の言葉に今度は永司が反応する。悪い方へと。
「冗談で言った?俺が手を出せば嫌がるじゃねーか」
永司の声は低くてヒリヒリしていた。
「それでも強引にヤればいいだろ?お前強引にヤるの得意じゃん」
「強引にしかできねーわけか」
「嫌味な言い方するな」
「どっちがだ」
「文句あるの?」
「ありませんよ」
俺達はそこで互いに黙った。
永司は手を引かない。キツイ視線で俺を見ながら身体に触れてくる。
「止めろ」
俺は永司の腕を掴む自分の手に力を入れる。しかし永司は止めなかった。
「強引にヤればいいんだろ?」
「お前、ちょっとオカシイ」
「セックスもさせてもらえない触れてもいけないじゃオカシクなるのは当然だ」
「いい加減にしろ」
「俺はどうすればいいんだ?春樹が嫌がっても強引に押し倒せばいいのか?」
「できねーくせに」
「今ならできそうだ」
言いながら永司は本当に押し倒してきたので俺はそれに抵抗しながら身を捩った。裾から這い上がってくる永司の手に爪を立てて本気で拒絶する。
「永司、いい加減にしてくれ」
「黙れよ」
「誰に向って口利いてんだ」
「春樹様」
「ふざけるな。溜まってんなら便所で抜いて来いや」
激しくなってくる身体を弄る手に意識を集中させないよう、俺は永司から視線を逸らし窓の外の暗い空を見た。雨が落ちてくるのを見ながら静かに息を飲む。
「俺を見ろ」
「手ぇ離せ」
「俺を見てくれ」
「だから手を離せっつってんだろうが」
「黙って俺を見ろッ!!」
馬鹿馬鹿しい言い合いの末、永司が俺の髪を掴んで強く引っ張った。
こんな事は誰にもされた事がなかったし、ましてや永司にされるとは思わなかった俺は呆然とした。それは大きな怒りや悲しみではなく、不可解でもなく、雨が空から降るように俺の中にポツリと落ちてくる冷たい感情だった。そして永司から流れ込んで来る感情は、この冷たい感情を全部強引に引き千切ると思われる程激しくて俺の身体を硬直させる。
永司は俺を見ていたし、俺も永司を見ていた。
こんな時に限って互いの感情が読み取れるモノで、俺達は重い重い鉄の塊を互いの胸に押し当てているような気がした。
外からの雨の音がやけに大きく聞える。
「……ごめん」
永司がすっと手を引いたので、俺は身体の力を抜く。
コイツとこんなふうに言い合うなんて思いもよらなかった。でも、永司にこんな事をさせたのは俺自身だ。
「…ごめん」
永司はもう一度謝り、俺の髪を優しく撫でた。
「俺も、ごめん」
俺も謝りながら永司の髪を撫でる。
押し倒された身体を起こして着物の裾を直した。
「永司はどうして俺に手をださなくなった?」
俺は確かに嫌がるけれど、それでもヤろうと思えば永司の指先にちゃんと反応する。永司だってその事は知っている。この前手でやった時だって、ヤろうと思えばできたはずなんだ。
「春樹が嫌がるから」
「でも…」
「なんとなく手が出し難くなった。春樹は何故嫌がる?」
どうしてだっけ。
「俺もなんとなく嫌だと言っちまう。身体が何か逃げる。でもホントは嫌じゃない」
そう、本当は嫌じゃないけれど。
俺はぼんやり考えながら、自分が座っている机の足をカタンカタンと踵で蹴った。シンとした教室の外で誰かが笑っているのが聞える。
寒くなってきたので振り向いて窓を閉め、もう一度永司と向き合いカタンと踵で机を蹴る。
「…なぁ永司。今日の打ち上げ終わって家帰ったら、しようか?」
「セックス?」
「セックス」
自分で言ってみたらやけに笑えてきた。「しようか?」だって。うは。なんじゃそりゃ。
永司もちょこっと笑っている。
さっきまでの異常に険悪な空気がサクリと消えたので、俺達はクスクス笑いながら額をコツンと当てて指を絡めた。
そうだ。俺と永司はいつもこんなんだ。
「さっきはホントごめん。愛してるよ」
「ん、俺もごめん。永司大好き」
重い重い鉄の塊をそっと取り除くように、俺は永司の胸に手を当てる。
「よし、今日は永司君を喜ばすぞ!俺!!」
気合を入れて叫ぶと、永司がクツクツ笑う。
「別にもうすぐ一ヶ月経つし、待つよ」
「いや、それに俺は一ヶ月経とうが経つまいがいざとなればやっぱ嫌だって言っちまうかもしんねーし、大体今日はヤりたいの」
「嬉しいお言葉だな。できればこのまま春樹をtake outしたいくらいだ」
永司は口の端を上げてニヤリと笑う。
なんて古典的な台詞を言うんだ、永司!お前は古ぼけたスナックで女を口説いてるオヤジか!
……でもカッコイイぞ!!
俺達がクスクス笑っていると、客が入って来た。
それからは先程の静寂が嘘みたいに客が入りだした。
4時半にカラオケの優勝者が決定される。今日も優勝者は外部の女の子で、彼女に盛り沢山な賞品が贈られていた。
最後に俺が独断で「これから30分、このクラスは指名制になります」とマイクで言ったらこれが大受けで、女の子ちゃん達は笑いながら「はしたないわ」とか言いつつも緋澄や俺を指名してくれた。中には苅田や秋佐田を指名した人間もおり、苅田はここでやっと店の方に顔を出したりしていた。秋佐田のツレで見知らぬ顔の男がいたが、その子が以前話していた「ヤギシンジ」だと分かり、苅田がちょっかいをだして秋佐田に文句を言われていたりした。
永司もヒソヒソと指名されていたが、出てこない。俺も待ってみたがやはり出てこなかった。せっかく指名制にしてやったのにと思いながら、しょうがないから大声で「俺、深海春樹もこれから10分間客になりま〜す!ご指名は岬杜。出てきなさいッ!!」と叫んだら、女子の奇声と歓声と共にやっと永司が仕方なさそうに顔を出した。
「ご指名ありがとうございます」
満席だったのでカラオケの舞台に座っていた俺の隣に永司も苦笑しながら座る。最後の最後になってしまったが、これで楠田や砂上から頼まれていた永司誘き寄せ命令は任務完了だ。
「お前も女の子ちゃん達にサービスしてやれ」
「誠に申し訳ございませんが、俺が接待するのは春樹様だけでして」
永司は言いながら俺の手を取り、その甲に恭しくキスをした。
突然の出来事に静まり返る教室……と、呆然とする俺をよそに、1人楽しそうに笑っている苅田の声。
永司が俺の目を見つめたまま、また口の端を上げてニヤリと笑う。
ゾクゾクと湧き上がる欲情に思わず今の立場を忘れ、俺は引き寄せられるように永司とキスをした。
「いやー、今日は面白かったな。特に岬杜と深海ちゃんの『ショータイム』が最高だったぜ」
後片付けが終わりクラスの皆で打ち上げの打ち合わせをしていると、苅田がいかにも楽しそうに、しかもわざと大きな声で言う。
俺はあの後、どこからともなく飛んできた真田に頭を叩かれたのだ。ふと我に返ると教室内の人間全ての視線が俺達に集中し、その中で永司だけが平然としていた。ちょっと微笑しながら。
そう、永司は教室に出て来た時にはすでに俺とイチャつく予定だったのだ。「深海春樹は俺のモノ」と宣言したかったに違いない。だってそれっぽい目でチラリと教室を見渡したもん。俺はなんとも言えなくて、ただ「ありゃりゃ〜」とか口篭もりながらヘラヘラしているだけだった。
「苅田君、独り言は小さな声で言ってください。迷惑です。あと、最後くらいは皆のお手伝いをしてください。協調性のない子はお仕置きでございますよ」
「お仕置きしてくれよ深海ちゃん。キスね。キスのお仕置き」
なんて嫌な奴でしょう!とか思っていたら、永司が苅田の足をガシッと蹴ってくれた。
結局打ち上げは6時からする事になった。女子も来やすい場所を選び、何人参加できるのか確認をする。
それから教室を元に戻す作業が始まったのでそれを手伝い、藤原と一緒に机を運んだ。藤原に無理はさせたくなかったが、だからと言って妙に気を使うのも嫌だったので好きにさせておいた。
校内に後夜祭の放送が響く。
やらなければいけない事を全て終わらせ、生徒がゾクゾクと校庭に出て行く。教室に石塚が顔を出した。
「教室閉めるよ。できたら後夜祭に参加してください」
残っている教室内の生徒達に声をかけ、石塚が窓の施錠をチェックしていく。
「深海君は後夜祭参加する?」
藤原が教室を出る用意をしながら訊いてきた。
「う〜ん、まだ決めてない」
後夜祭には興味がなかったし、俺は少し身体を休めたかった。
俺は永司を呼んで藤原と一緒に教室を出る。石塚は最後まで残っていた。
俺と永司と藤原は廊下を歩きながら窓から校庭を見る。雨は小降りになったようで、傘を差している生徒はほとんどいなかった。校内に残っている生徒はまばらで、それらはほとんど校内の施錠を行っている生徒会の役員のようだった。
階段まで歩くと、ふと足が止まる。
自分の教室の方を思わず振り向く。
誰もいない。視線も感じない。
しかし俺はまるで猫みたいに誰もいない廊下を見ていた。
「春樹?」
永司の声。
何だろうこの感じ。
最近感じていた不思議な違和感とは明らかに違う何かに対し小さく鳴り響く俺の勘。
「俺、忘れモン。お前等先に行ってて」
「待ってる」
「いや、先に行ってろ」
俺は言い残して教室に戻った。
誰もいない廊下を早足で歩く。
自分の足音と呼吸音、校庭から聞える後夜祭のBGM、生徒達の笑い声。教室の扉に手をかけると、それら雑音がピタリと止んだ気がした。
いいのか。この扉を開けてもいいのか。永司がいなくても大丈夫か。
一瞬躊躇ったが、俺は教室の扉を開ける。
中にいるのは石塚。
「動くな」
俺の言葉に石塚は少し驚き、俺の顔を見た後微笑する。いつもの変なタイミングではなく、湧き出てくるような微笑だった。
「素晴らしい。君は本当に素晴らしい」
石塚の手に握られていた小さく透明な瓶に俺は目を落とし、もう一度言う。
「動くなよ石塚」
俺はゆっくりと近付く。猫みたいに足音を立てず、石塚の視線を逸らさず、そして自分の緊張感を隠して近付く。
石塚は俺を見ながらずっと微笑していた。
「渡せ」
「渡せない。学校の物だからね」
「何をしようとしていた」
石塚がまたにっこりと微笑する。
「君は本当に素晴らしい。感動すら覚える。君の不思議な能力は一体何をどこまで見通せるんだい?」
何も見通す事などできない。
が、俺の勘は石塚の手に握られている小さな瓶に反応している。
「とにかくそれを寄越せ。嫌なら力ずくで貰う」
「君はコレが何だか知っているのか?」
「知らない」
「正直だね。しかしコレは渡せない。コレがなくなったら問題になるんだ。誰かに持ち出されたりすると困るのは教師だし」
「石塚。この教室にはまだ少しだけ『人が口にする物』が残っている。封の切られてないペットボトルや今日使わなかった食材、食器類」
石塚が他人事のように頷き、そしてまた微笑む。
「僕は馬鹿じゃない」
「知っている。でも俺は見過ごす事はできない」
「君の能力は素晴らしいが、そんな事にまでイチイチ反応していたらキリがないんじゃない?僕は何もしない。何をするつもりでもないのに」
俺はそれでもゆっくりと手を伸ばす。
石塚の瞳は嘘を吐いていない。だが俺の勘が反応した以上はこのまま放っておくわけにもいかなかった。石塚の手にそっと触れ、強く握っているその瓶を掴む。
「深海君。僕を信用できないのならば、これから一緒にコレを戻しに行こう」
石塚は静かに言いながら俺の手を振り解いた。
確かにこれ以上しつこくしたくなかったし石塚は何もしないだろうとは思ったが、しかし……どうしたものか。別にこの瓶の中身が何であってもかまわない。それが何であろうが石塚はソレで他人に危害を与えるつもりがないのは分かった。でも、だったら何故「そんなモノ」を持っているのか、そして「そんなモノ」を持って1人で教室に突っ立っていたのか。
「行こう」
黙っている俺を見て、石塚が歩き出す。俺もそれに続き2人で教室を出ると石塚が2つの扉に鍵を閉めた。
廊下の端に永司が立ってこっちを見ていた。俺を待っていたんだろう。藤原の姿はなかったのでアイツは後夜祭に行ったらしい。
2人で黙って歩き階段まで行くと、俺は永司に「屋上」とだけ言い、また石塚と2人で歩き出す。永司は黙って頷いた。
「岬杜君ってどんな人なの?」
別棟に向かう渡り廊下を歩きながら石塚が訊いてくる。
「普通の奴」
「そうなの?」
「そう」
「ふうん。僕は、彼は僕の同類なんだと思っていた」
同類ってなんだろう。
石塚は自分の手を見ながら歩いている。俺はコイツの手には何があるのだろうかと思いながら、同じように石塚の手を見ながら歩いて行った。
生物室と科学室の間にある準備室で石塚が立ち止まる。ポケットから鍵束を出して扉を開け、中に入って行った。
「入れば?確認したいでしょ?」
中から石塚の声がしたが、俺は入らなかった。入ればあの瓶が何であったのか分かるだろう。しかし俺は入らなかった。石塚はあの瓶を元の棚に戻したに違いない。
石塚が出てくる。いつもの冷えた瞳をしていた。
扉に鍵を掛け、俺達はまた歩き出す。
後夜祭が本格的に始まったようで、校庭から賑やかな歓声が聞えてきた。
「岬杜君はどんなふうに君を愛す?」
歩きながら石塚が訊いてくる。コイツは何故永司に拘るのだろうか。
「全身全霊を込めて俺を愛すよ」
「彼は笑ったり泣いたり怒ったりする?」
「する。くだらない事で嫉妬したり喜んだり、苅田みてーにすぐ欲情したりな」
「意外だ」
「そうか?お前、アイツをどんな奴だと思ってたんだよ」
「僕のように、完璧な人間だと思っていた」
俺は思わず石塚を凝視する。
完璧な人間は泣いたり怒ったり嫉妬したりしないと思っているのだろうか。
石塚は俺を見て自分の両手を広げ、俺にその手を突き出した。
「この手には何があるのだろうと思うよ。何ができ、何ができないのか。そして、岬杜君と深海君は何ができて何ができないのだろうかと」
「それは人によって違うだろ」
「そう。人によって違う。岬杜君は彼の頭脳と権力で大抵の事ができる。人を生かすも殺すも、彼の手によれば簡単にできる」
「人を生かすも殺すも?そんな事はできねぇよ」
「君は彼の家系をよく知らないだろう?彼の家がどれほどの財産を持ち、彼の一族の下でどれほど多くの人間が働いているのか知らないのだろう?彼の一言で多くの家庭を崩壊させる事だってできるんだよ。多くの人間が彼の一言によって突然路頭に迷う事だってありえる。意味分かる?」
石塚は淡々と言葉を吐く。
俺達は誰もいない廊下の真ん中で向き合っていた。
「意味は分かる」
「そう。僕はね、彼は自分の力を理解しそれをコントロールできている稀な人間だと思っている。そして僕も彼と同じように自分の力を理解しそれをコントロールできる稀な人間だと思っている。僕の家系は彼のそれと比べるとたいした事はないけれど、それでも結構大きな会社を幾つも持っている。そこで完璧に生きていく為には僕自身が完璧でないといけない」
「完璧完璧ってさぁ、ソレ、どんなよ?」
俺も随分長い事、自分は完璧な人間だと思っていた。しかしその完璧さは石塚の言う完璧さとは違っている。
石塚は自分の両手を見ながら黙っていた。
「……岬杜君は僕と同類だと思っていたけれど、彼もやはり人間だった」
「当たり前だ。そして、お前だって人間だ」
俺は言いながら石塚の両手に触れる。
石塚の冷めた瞳が揺れた。
「君に触れられると、僕はそれを思い出す」
「んじゃ、存分に思い出してくれ」
俺が笑うと石塚も笑った。
悲しい笑顔だった。
『生徒会長の石塚正君。至急後夜祭実行本部までお戻りください』
校内アナウンスが鳴る。
「深海君。君に聞いてもらいたい事がある」
石塚の瞳はまだ悲しそうだった。
「いいよ」
「今日の後夜祭が終わったら少しだけ付き合って欲しいんだ」
俺は頷く。
石塚は歩き出す。
2人でまた廊下を歩き、階段まで行くと俺は手を挙げた。
「お前の仕事が終わったら携帯に電話して。俺の番号知ってるか?」
「知っている。君は後夜祭には参加しないの?」
「しない。屋上で煙草吸ってくる」
「生徒会長の前で堂々と喫煙して来るなんて言わないでくれよ」
石塚が苦笑したので俺もつられて苦笑した。
俺は階段を上り、石塚は階段を下りる。
階段を上りきる寸前で俺は振り向いて訊いてみる。
「石塚は教室で何をしていた?」
階段を下りきる寸前の石塚が振り向いて答える。
「想像していただけさ。実行はしない。僕は馬鹿じゃないからね」
何の想像をしていたのかは訊かなかった。
屋上は雨は降っているのか止んでいるのか分からない程度だったので、気にせずいつもの場所へ向う。
永司の他に暁生と真田が来ていた。
「よう、ベロベロホモップルの片割れ」
暁生が言いながら手を出してくるので、俺のバージニアを一本やる。
「なんだよその不味い缶ジュースみたいなネーミングは?」
「だってお前等教室でベロベロしてたじゃねーか」
ベロベロって言うなよ…と思いつつもちょっと笑えた。
永司が視線で「大丈夫か」と訊いてきたので、俺は軽く頷いて自分の分の煙草を出した。4人で濡れた柵に持たれて煙草を吸っていると、苅田と緋澄が来る。
これでいつもの屋上メンバーが揃った。
そして、
「ちょっと貴方達、なにしてんのよ」
聞き慣れた声と共にもう1人の客が屋上へやってくる。
「お前がここに来るなんてめっずらしい〜」
「もう疲れて疲れて。この2日間の慌しさでお肌が荒れちゃったわよ」
砂上がブツブツ言いながら近付いてくる。
メンバーが7人揃ってしまった。
「お前、後夜祭は?」
「後夜祭までやってらんないわ。そんな事していたらか弱い喜代は倒れちゃうのよ。それより苅田君と南君、貴方達結局最後まで何もしなかったわね」
砂上が「メッ!」と言いながら2人を軽く睨む。
「ふははは!ワラワはちゃんと手伝ったぞ。喜代、私以外の人間に刑罰を与えよ!淫行罪のホーミングとヒジキを特に罰せよ!!」
真田が鼻高々に笑い、俺のほっぺを人差し指でプニプニと突付いてくる。
「深海君と岬杜君のパフォーマンスは個人的には面白かったわ」
砂上は俺を見てニッコリと笑った。
俺は別にパフォーマンスとしてキスしたわけではないんだが。
皆でくだらない話をしながら煙草を吸い、遠くの街明かりをぼんやりと見る。雲に覆われた夜空がどんよりとその明かりを吸収しているようだった。眼下ではグランドで赤々と炎が燃え、盛大に後夜祭が行われていた。これが終わったらクラスでの打ち上げ、それが終わったら明日は休校だ。
薄暗闇の中を生徒が笑い声を上げながら歩いて行く。煙草を揺らしながらそれを見ていると、俺達7人だけ別世界にいるようだった。
新生祭は終わろうとしている。石塚は今、生徒会長として忙しくしているだろう。
俺は大きく溜息を吐き永司に凭れかかった。
いつか今日を思い出す日は来るのだろうか。大人になって、働いて、年をとって、生活に追われて、それでも今日のこの何気ない一日を思い出す日はあるのだろうか。この7人で学校の屋上で煙草をふかしながら後夜祭を楽しんでいる人間をぼんやりと見ていた、この日この時を。
そして石塚と話したあの廊下と石塚の両手を、思い出す日は来るのだろうか。
一瞬だけ雨が完全に止んだ。
夜空には凄いスピードで動いている雲がある。
石塚の事を考えていた俺は、もう一度大きく溜息を吐いて永司の胸に耳を当てる。厚い服の上からは心臓の音は聞えないが、それでも永司の温もりは感じられる。
「寒い?」
訊かれて、初めて自分が少し震えているのに気がついた。
永司が自分の上着を俺にかけてくれる。
夜空を見上げて煙草を吸っていた暁生が口を開いた。
「真田、アレ歌って」
「イヤ」
真田が素っ気なく答える。
「んだよ、歌えよ。俺が頼むといつも歌ってくれるじゃねーか」
「イヤだ。私が歌を聞かすのは、暁生と善野だけだ」
「あら、そんなこと言わないでよ。私も聴きたいわ。何の歌?」
砂上が興味ありげに訊く。
「曲名は知らない。私の祖父が教えてくれた曲だ」
「真田歌って。俺、お前の声好きだ」
後夜祭のBGMが静かにかかっているが、俺も真田の歌が聴きたいと思った。真田の声は低く掠れていて俺は大好きだ。そして、その真田が謡う曲にも興味があった。
「真田、歌えよ。俺も聴いてみてー」
苅田も言う。
「真田歌って」
珍しく緋澄までもがせがんだ。
真田はフンと息を吐いてから、しょうがなさそうに謡いだす。
真田の歌を聴きながら俺達7人全員で夜空を見上げた。
流れては姿を変えていく雲の隙間に月が見えた。
真田は原曲よりも1オクターブ低く少しアップテンポで歌う。その声はやはり低く掠れているが、俺が聴いたどのアーティストよりも美しく力強かった。今日のカラオケで優勝した女の子など足元にも及ばない程だ。
皆と一緒に夜空に見え隠れする月を見ながら、俺は真田の声に自分と同じ不思議な能力をハッキリ感じた。その声は俺達6人の中に入り込み根を下ろす。複雑に入り組んでいる人の中に入り込み、そこで静かに歌を謡う。
それは本当に人間の喉と口から発せられるモノなのだろうかと感じるほどに。
真田の歌は、滝廉太郎の荒城の月だった。