新生祭を目前に控えた10月の終わり、俺は偶然空き教室で机の上に座り黙って自分の手を見ている石塚の姿を見た。
俺は声を掛けずにそのまま通りすがろうかと思ったが、何となく石塚の表情が気になって同じくその空き教室に入ってみた。
「何やってんの〜?」
俺の足音に振り向いた石塚にニコリと笑いかけるが、石塚は何も答えない。
その瞳はいつものように冷えていた。
「青春してんの〜?」
俺はゆっくりと近付いて石塚の隣に同じように座った。
「青春ってなんだい?」
石塚は俺の方をチラリと見た後、また自分の手に視線を落とした。
「青春は青い春ですぅ。青いケツなのですぅ。ついでに青くて酸っぱいミカンやリンゴだし、青いお空だし、青い海だし、母ちゃんのおっぱいだし、そんな青い時代なのですぅ」
石塚は黙って聞いていたが、俺が口を閉じるとワンテンポ遅れてクスリと笑った。変な笑い方だったし変なタイミングだったが、元々石塚はこんな感じの奴だったので俺は気にしなかった。
石塚はまだ自分の手を見ていた。両手を広げて、ただじっと見詰めている。俺もその手を見てみたが、別に何の変哲もない普通の手だった。
石塚は賢い奴だった。どこでどう動けば良いのか、そしてどのタイミングで発言すると一番効果的なのか、全てを見通して行動している奴だった。人にも親切だし、勉強もできるし運動神経も良かった。「コイツに任せておけば良いだろう」と生徒からも教師からも誰からも信頼されていた。それは砂上に少し似ていたが、砂上はもっとアクが強い。それに比べて石塚はできすぎだと感じるほどだが、それがコイツの個性になっていた。
「青の時代だ」
石塚が呟く。
「ピカソ?」
「いや、ピカソは関係ない。青春の話」
石塚が机から降りて歩き出したので、俺もそれに続いた。
廊下で科学の教師とすれ違う。石塚が目礼をした。
そしてまた歩き出す。
「前から訊きたかったんだけれど、深海君はどうして岬杜君を選んだの?」
歩きながら、俺は無意識に振り返った。
…誰もいない。
なんだろう。どうして俺、今振り返ったんだろう。
石塚も俺につられて振り返ったが、また2人して何もなかったように歩き出した。
「永司を選んだって何がぁ?」
「付き合ってるんでしょ?」
「何で知ってるの?」
別に隠してはないが、こうズバリと訊かれるのは初めてだった。
「見ていれば分かるよ。で、どうして岬杜君を選んだの?」
「別に選んだわけじゃねぇよ」
選んだわけじゃない。
永司も俺も、互いを選んだわけじゃないんだと思う。
「人を好きになるってどんな感じ?」
「ゴチャゴチャした本棚みてーな感じ」
石塚の足がふと止まったので、今度は俺がそれにつられて同じように立ち止まる。
石塚と視線が絡んだ。
それはいつもの冷めた瞳ではなかった。
「岬杜君が君に夢中になっているのは、ハタから見ていてとても興味深い。しかし、僕も岬杜君がいなかったら君を好きになろうとしていたかもしれないな」
「石塚ぁ。お前人を好きになろうとして好きになるのかぁ?」
俺達はまた歩き出した。
廊下の窓から夕日が差し込み、視界を赤く染めていた。
新生祭まであと一週間を切った金曜日の放課後、俺は砂上に頼まれて買出しに行った。赤いマジックとコピー用紙を頼まれる。
永司が付いて来たのでチャリで2ケツしてコンビニまで行き、頼まれた物を買いレシートを貰って、それとは別会計で麦茶とスポーツドリンクのペットボトルを買った。
コンビニを出てビニールの袋をぶら下げ、寒い中チャリで学校に戻りながら俺はクシャミを連発した。風邪でも引いたのだろうか、妙にゾクゾクする。
「風邪引いた?」
「そうかもしれんかも。そんで大好きな永司君に風邪うつさないようにやっぱり当分Hはナシだなと思ってたトコだったり」
「汗かくと治るぞ」
「岬杜先生のぶっとい注射は痛いからなぁ」
後ろで永司が笑ってる。
俺はまた「ヘクシッ」とくしゃみをし、鼻を啜りながらそれでも元気良くペダルを漕ぐ。
「太陽はとっととサヨナラなのです〜」
夕日を見ながらいい加減な歌を口ずさみ、今日の夕飯は永司が好きなパスタにしようと考えていた。
「ただいまなのよん」
教室に戻り、砂上に頼まれたモノとレシートを渡す。
「深海ちゃん、それなんだ?」
砂上の隣で今日も何もせず遊んでいた苅田が、ビニール袋を指して訊いてくる。
「差し入れなの。俺ってば気が利く良い子なの。んでもこれはちゃんと働いてる皆への差し入れだから、苅田ちゃんと暁生ちゃんの分はナイナイなのぉ」
にっこり笑って答える俺に苅田と暁生は不平を漏らしていたが、不平を訴えたいのはコッチの方だと思う。
廊下に出てカラオケ大会の舞台を制作している奴等とドリンクの回し飲みをしていると、廊下の天上隅っこに監視カメラがあるのが見えた。今まであんなのなかったのにと思っていると、砂上が来て説明してくれる。あのカメラは新生祭当日専用なのだそうだ。一般人が来るし何か揉め事が起きるかもしれないから、その時の為にわざわざ設置したらしい。
当日用と言っていたが、今は試運転なのか作動しているようだった。
砂上の説明を聞きながら、俺はこの学校の金の使い方に妙に感心してしまった。
「そう言えば深海君、岬杜君にはちゃんと言ったの?」
砂上がチラリと俺を見て訊いてくる。
「なにを?」
「不審人物の話」
「アレはもう気にしなくていいよぉ」
「言ったの言ってないの?」
砂上が真剣に訊いてくる。こんな時のコイツの口の利き方はちょっとだけ母ちゃんに似ているので、俺は正直に「まだ言ってない」と白状してしまった。
砂上は俺の返答を聞いても何も言わなかったが、その目は「ちゃんと言っておきなさい」と俺に釘を刺していた。
その日家に帰ってから永司と一緒にパスタを食べ、風呂に入ってダラダラしていると、どうやら本当に風邪を引いたらしく身体がなかなか温まらなかった。ゾクゾクする身体を浴槽に沈めながらぼんやりとしていると、長風呂を心配したのかドアの外で永司の声がした。
ドア越しに聞えるその声は、浴室のエコーが加わってまるで永司の声ではないようだ。
「今出るトコ」
これ以上風呂に入っていても身体は温まらないようだったし永司も心配するだろうから、俺は答えて浴室を出る。外で待っていた永司に身体を拭いてもらい、ついでに髪も乾かしてもらった。
やっぱ寒い。
永司は空調の音すら気になるから、寝室は寝る時エアコンを切る。でもその分眠る寸前までガンガンに暖めているので、俺はリビングには戻らずそのまま寝室へ向う。
「まだ髪濡れてる」
永司がタオルを持って付いて来る。
「俺、今日はもう寝る」
時計を見るとまだ10時前だった。
しかし俺は寒い。そして布団の中でぬくぬくしたい。
「春樹。もしかして寒い?」
「ちょっと」
布団の中に潜り込んで小さくなっていると永司も入ってきた。
「あのさ永司。前から訊きたかったんだけど、お前って俺と一緒に寝ててちゃんと眠れてる?」
「なにが?」
永司が抱き締めてきた。
温かい。
「俺、ガーガー鼾かいたりギリギリ歯軋りとかしてない?」
「してない。気にしないでいい」
気になる。ずっと気になってた。
「俺は寝相悪いから、よく寝ながらゴロゴロ動くだろ?もしかしてお前、その度に目ぇ覚ましてるんじゃない?」
「気にしなくてもいいってば」
「だって気になるんだってば」
永司がクスリと笑いながら、俺の身体をギュウギュウと抱き締める。
ホント、こいつの身体は温かい。
「俺、昔母ちゃんによく『歯軋り五月蝿い!』って頭叩かれたよ」
「歯軋りしたら顎抑える。鼾が煩かったら鼻摘む。それでも起きない春樹って凄いと思う」
「…やっぱお前起きてるんじゃん」
永司はクスクス笑いながら俺の髪を撫でた。
「永司ぃ、お前熟睡できないだろ?」
この身体は温かい。できるならば毎日一緒にいて、毎日同じベッドで眠りたい。だが、この温かな身体に俺は無理をさせているのならば……。
薄暗闇の中で永司と目が合った。
永司が小さく俺の額にキスをする。
「本当に気にしないでくれ。俺は夜中に目が覚める度に嬉しくなるくらいなんだから」
「どして?」
「春樹が横にいるから。春樹の寝息が聞えるから。春樹の体温を感じる事ができるから。だから、春樹は何も気にしなくてもいいんだ。俺の側にいてくれればそれでいい」
永司は言いながら何度も俺にキスをした。俺もそれを受け止め、同じように返してやる。
「人を好きになるってどんな感じ?」
「なに?急に」
「今日石塚に訊かれたんだ」
永司の手が俺の服の裾から入ってくる。ゆっくりと熱い手のひらで脇腹を撫で上げられ、思わず目を閉じる。
「春樹はなんて答えた?」
熱い指先が脇腹から背中に回り、ツツと背筋を伝って行く。
「ゴチャゴチャした本棚みてぇな感じって答えた」
永司が俺の首に顔を埋め、そこから舌での愛撫を始める。
俺の身体がピクリと反応した。
「ゴチャゴチャした本棚?」
「そう。ゴチャゴチャしてて、そんで何か一杯あるの」
「なにが?」
「なんか自分でも分かんない感情が。永司は?」
指先が胸に来て、そっとそれを摘まれる。
「俺の本棚には春樹に関するモノしかない。でも確かにゴチャゴチャしてるな」
永司はそう囁いて俺の唇を貪る。片手で胸を触られ、もう一方の手が背中を辿る。俺の身体が久々の愛撫を喜んでいるように感じた。今までセックスを嫌がっていたのが嘘のようだった。
熱い手が下半身に伸びる。
「ちょ…待てよ」
ああ、でもやっぱ嫌みたいだ。自分の身体が分かんねー。
永司はそれでも強引に下半身に手を伸ばす。
「待てって」
身体が緊張する。
落ち着こう、何も緊張する事なんかないんだと言い聞かせても、どうしても身体が言う事をきかない。永司とは何度もセックスしてきたのに、今更バカみてーだと思った。
「何にもしない。触るだけ」
耳元で永司の低い声がする。
その声にまた俺の身体は反応する。
「触るだけだから」
永司の囁きが妙に心地良く身体に響く。
すかさず永司が俺のパジャマと下着を剥ぎ取って勃起している部分に触れてくる。俺もそれにつられて永司の性器に手を伸ばした。
互いを互いに触れ合い、ねっとりと絡みつくような口付けを交わす。コクリと永司の唾液を飲んで、そしてまた唾液の交換。
「気持ち良い?」
長い指が身体を撫で回し、俺はその動きに合わせて息を吐く。永司の性器を手で擦りながら、訊いてみた。
「気持ちイイよ」
永司の低い声。
「どのくらい?」
「春樹と同じくらい」
嬉しい。
でも俺、もうイきそう……。
久々に出した精子が永司の精子と混ざり合い、俺の手を濡らした。
新生祭前日まで、何事もなく平和な日々が続いた。
俺は相変わらずクシャミを連発し永司を心配させたけれど、それでも風邪をこじらせることなく毎日学校へ行き、そして放課後は新生祭の準備をした。苅田と暁生は最後まで皆の手伝いをせず、緋澄は最後まで女生徒達の着せ替え人形だった。
そして全ての準備が整った新生祭前日の夜、俺の携帯が鳴る。
着信音は最小にしてあるはずなのに、呼び出し音がやけに大きく聞えた。
ディスプレイは「響湖」。
「姉ちゃん?」
姉ちゃんが電話してくるなんて珍しい。
『久し振りね。元気?』
電話の声は姉ちゃんの本当の声とは違って聞える。
「元気一杯夢一杯。どしたの?」
『貴方の声が聞きたかっただけ』
姉ちゃんは静かにそう言う。
「母ちゃんは?」
『いるわよ』
「母ちゃん元気?」
『貴方と同じくらい元気』
姉ちゃんと話していると、永司がやって来て俺の隣に座った。俺はゴロリと横になって永司に膝枕してもらう。どうして姉ちゃんが突然電話して来たのだろうと不思議に思いながらも、学校の話や明日の新生祭の話をした。
姉ちゃんはいつも俺の話の聞き役だ。小さな頃からずっと、俺が学校から帰ってくると姉ちゃんは俺に話をさせた。今日はどんな授業をしたのか、どんな出来事があったのか、誰とどんな事をして遊んだのか。姉ちゃんはいつも事細かくそれらの話を聞きたがった。そして俺の話に耳を傾け、そのくだらない話に笑ってくれた。俺は姉ちゃんに話を聞いてもらうのが大好きで、学校から帰るとまず姉ちゃんを探した。姉ちゃんは永司と同じく、いつも俺の味方なんだ。
「俺、明日は着物着るんだよ〜。クラスの女子がわざわざ縫ってくれたの。今度写真送るから楽しみにしててねぇ」
俺は明日が楽しみだった。
姉ちゃんが少し黙る。
「姉ちゃん、聞いてる?」
電波が悪いのかと思って身体を起こす。携帯の回線がジリジリと雑音を出し、それが頭にへばりつくような奇妙な感じがした。
『春樹。文化祭が終わったら寄り道せずに早く家に帰りなさいね』
唐突に姉ちゃんの低い声が聞えた。
「なんで?打ち上げとか行きたい」
新生祭が終わったらクラスの男子で打ち上げをやる予定だ。
『早く家に帰りなさい』
姉ちゃんは理由を言わない。言わないけれど、その声は姉ちゃんの声ではないような不思議な声で俺は怖くなる。
「ん。できるだけ早く帰るようにはする」
俺はとりあえずそう答えた。そう答えなければならない気がしたから。
永司が俺の髪を撫でながら俺を見ていた。
『近付いてはいけない場所には近付かないようにしなさい』
姉ちゃんはそう言って電話を切った。
俺は突然掛かってきて、そして突然切れてしまった自分の携帯を見ながら頭を抱えた。
イヤな予感がする。
「春樹?」
永司が覗き込んでくる。俺は永司の膝の上に向かい合って座り、その広い胸に耳を当てた。
心臓の音がする。
「お姉さん、何だって?」
「寄り道せずに早く家に帰るように、だってさぁ」
コツンと額を合わせ、ハァと大袈裟に溜息を吐いた。
「どうして?」
「知らねぇ。俺、高校生にもなって寄り道しないで〜なんて言われると思わなかったよぉ」
永司が不思議そうな顔をしているが、俺だって不思議だった。姉ちゃんは俺のやる事に滅多に口を挟まない。
暫く永司と向き合って額を合わせていると、不意に嫌な事を思い出した。
アレは、いつの事だったろうか。
俺がまだ小学生だった頃。それも低学年の頃。
「俺ね、むか〜し変態らしき男に誘拐されそうになったの」
永司が俺の言葉に目を見張る。
「なにそれ」
「詳しくは分かんない。もう覚えてないんだ。でも、ちっこい頃学校で遠足があって、その日の朝姉ちゃんに『今日は寄り道せずに早く帰ってきなさい』って言われたの」
そうだ。今みたいに、姉ちゃんは低い声でそう言った。
「それで?」
「それで、俺はその言いつけを守って早く家に帰ろうとしたんだけれど、途中で変なオッサンに会った。もうあんま覚えてないけど、とにかく変なオッサン。公園を横切ろうとしたらそのオッサンに声を掛けられて…なんて言われたんだろう。『足触らせて』か『腕を触らせて』か、どっちか。俺はその頃何も分からないガキだったから、『いいよ』って言って、身体触らせた。オッサンは黙って俺の身体触ってたけどだんだん様子が変になってきて。
俺はぼーっとそれ見てたんだけど、何か頭痛くなってきたから『もう帰る』って言ったら、オッサンが俺の身体を担いで近くに止めてあった車に乗せようとした。俺はとにかく頭が痛くて『帰りたい』ってずっと言ってた。車に乗せられるとオッサンが『何でも買ってあげるからどこか遠くに行こう』ってそればっか言うのね。俺はもう頭痛くてそれどころじゃなかったからずっと目を閉じて額抑えてたら、車が動く寸前に母ちゃんの声がして。ビックリして目を開けたら、鬼みたいな顔した母ちゃんが凄い勢いで走って来て、オッサンを車から引き摺り出して…。
俺がそれを見てたら姉ちゃんが怖い顔してやって来て、俺を車から担ぎ出して大急ぎで家に連れ戻そうとするの。そしたら途中でオッサンの悲鳴みたいのが聞えて、俺はそれを聞いた途端ゲロ吐いちゃって。姉ちゃんの服を汚したらいけないって思うんだけど、オッサンの悲鳴みたいなのがどうしても我慢できなかった。姉ちゃんは俺を道端に下ろして両手で俺の耳を抑えてくれたけど、なかなかオッサンの悲鳴は終わらなくて怖くなった。
母ちゃんがあのオッサンに何をしたのか分からないけど、とにかく空にカラスや鳶が一杯飛んでて。…あ、それが一番印象的だな。一番鮮明に覚えてる。姉ちゃんに耳抑えられながらも聞えてくるオッサンの悲鳴と、空を飛んでたたくさんの鳥。とにかく酷い頭痛と、それに比例するみたいに飛んでた鳥達」
あの時、どうして母ちゃんはあの公園に来たのだろうか。そしてあの日の朝、どうして姉ちゃんは俺に「早く帰って来い」と言ったのだろうか。
永司の胸に顔を埋めて話をしていると、ゾクゾクと寒気がしてきた。
「無事で良かった」
低い声が聞えた。顔を上げると永司と目が合う。
永司の瞳は俺を怯えさせるものを含み、俺はもう一度寒気を感じた。
「永司なんか怒ってる?」
「怒ってない」
永司は言いながら俺を抱き締めた。
永司から伝わる感情は、はやり少し怖かった。