第3章 本当の僕は・自己防衛本能


 学校は新生祭の準備で慌しく、放課後はいつも忙しい。
 いつの間にか緋澄と一緒に俺までもが着物を着る事になってしまっていたが、着物を持っていなかったし買うのも面倒だと言っていたら、なんと藍川が生地を調達して来て縫ってくれる事になっていた。藍川は何でもできる女だ。永司は俺が着物を着るのをとてもイヤがっていたが、そんな事俺に言われても知らん。女子が勝手に決めたんだ。
 その日も俺と秋佐田とその他数名がカラオケ用の舞台を作り、金槌でトンチントンチンと釘を打っていた。永司はやっぱり今日もモバイルと睨めっこだし、苅田と暁生は相変わらず手伝わないし、本当になんて協調性のないヤツラなんだろうと思いながら金槌を振り下ろす。
 そして一通り自分の仕事を片付けると、秋佐田に屋上に煙草吸いに行くと告げて教室を出た。
 階段を上がって屋上に出ると思わず身震いする。寒くて「ヘクシ」とクシャミをした。
 最近は日が暮れるのが早い。今日も太陽が沈みかけている。
 煙草を出して百円ライターで火を点けた。ライターの火を点したまま、 沈む太陽と重ねてみる。
「同じ色ぉ」
 呟いてはみたものの、いや、ちょっと違うなぁと首を傾げた。とりあえず煙草に火を点け、もう一度ライターの火を夕日と重ねる。やっぱ違う色。似てるけど。
 寒いなぁと思いながらもそのままぼんやり煙草を吹かしていると、屋上の鉄のドアが開いて真田と藤原が来た。真田はここに煙草を吸いに来るが、藤原が来るのは初めてだ。
「どしたのぉ?」
 太陽が沈みかけ薄暗くなった屋上に、色の白い藤原のニコニコした顔が浮かんでいる。
「真田さんに連れてこられた」
「善野の顔色が悪かったから、外の空気に触れさせようと思ってな」
 2人は同時に喋りながら俺の方に歩いてくる。
「外の空気に触れさせるのは良いけど、ここはちっと寒くないかぁ?」
 俺はかなり寒いぞ。
「少しならば大丈夫なのだ。な、善野」
 真田の言葉に藤原は笑って頷いた。
 それから少し3人で文化祭の話をした。今日で文化祭まであと10日を切った。機材は間に合うのか食料品は間に合うのか舞台製作は順調か。
 話していると、ふと藤原が真面目に言う。
「真田さんがこんなに真面目に働いてくれているのを、皆は知っているのだろうか」
「俺は知っている」
 俺は真面目に答える。だって藤原が真面目に訊いてきたから。
「私は知らないぞ」
 真田がトンチンカンに答える。自分の事なのに。
 全く信じられないような話だが、真田は暁生や苅田と違って新生祭の仕事をちゃんとしていた。自ら進んでは手伝わないが、砂上や入来が頼みごとをすると文句を言いながらもちゃんと自分の責任を果たした。この辺りが真田の不思議な所なのだ。
「僕は真田さんが皆に誤解されているのがイヤだよ」
「私は誤解なんぞされとらん」
「本当の真田さんは優しくて真面目な女の子なのに」
「私は意地悪が好きで善野以外には優しくない」
 真田がズボンのポケットから煙草を取り出し火を点けた。真田のライターの炎の色は、俺の百円ライターの炎よりも更に太陽と違う色だった。
「確かに真田を真面目だと言う人間は、藤原くらいしかいないかもしれないねぇ」
 藤原が不思議そうに俺を見る。
「そうかな。深海君は真田さんを真面目だとは思わないの?」
「分かんねぇよそんなん」
 俺が笑いながら答えると、藤原は少し複雑そうな顔をした。
 それから少し黙って真田と2人で煙草を吹かした。
 冷たい夕暮れだった。
「そう言えば善野以外にもう1人、私を真面目だと言った人間がいる」
 真田が思い出したようにニヤリと笑いながら呟いた。それを聞いて藤原が嬉しそうに訊く。
「誰?何って言われたの?」
「だから、『真田は真面目だ』と言われたのだ。善野、お前はずっとこの私立か?」
「そうだよ」
「そうか。ならば学校の掃除の時間はなかったのだな」
「ないよ。この学校の掃除は業者に頼んであるから」
「ヒジキはあったろう?掃除の時間」
「あったよ。勿論」
 俺が転校した学校は全部公立学校ばかりだった。私立はここが初めてだ。
 突然掃除の話になって驚いたが、俺と藤原は黙って真田の話の続きを待った。
「私が通っていた学校にも掃除の時間があった。 ヒジキ、お前は学校の掃除を真面目にやったか?」
「真面目にはやってないと思う。いつも適当だった。箒で野球して、その罰で放課後もう一度掃除やらされたコトも何度かあるなぁ」
 学校の掃除ってそんなモンじゃなかろうか。
 でもワックス掛けとかは男子の仕事で、皆は嫌がってたけど俺はアレが楽しくていつも率先してやってた。
 真田は上に煙を吐き出し、藤原を見ながら話し出す。
「私は学校の掃除だけはちゃんとやったんだ。アレは誰かがやらないといけないモノだろう?ヒジキが箒で野球してる時も、誰かは床をちゃんと掃いている、雑巾で拭いている。そうしないと教室が汚くてしょうがないからだ。教師にも叱られるしな。でも、私はその『誰か』がソンをしているような気がしてしょうがなくてな。私だって掃除は大嫌いだから別に掃除しなくて遊んでいる奴に腹を立てるわけではないのだが、誰かがしなくてはならない掃除を黙々とやっている人間がソンをしているような気がして、だから私はその『誰か』のソンの分を減らしてやろうと思って掃除をしていた。そしたらある日教師に、『真田は真面目だ』と言われたんだ」
 真田はそこで皮肉めいた笑い方をした。
 俺は真田の話を聞きながら、暗くなっていく空を見た。
 真田もまた上を向いて煙草の煙を吐き出す。
 『誰か』がソンをしている気がしたから、真田は掃除をした。しかしその真田を見て、教師は「真田は真面目だ」と言い、それを思い出して真田は皮肉めいた笑い方をする。
「どうして損をしていると思ったの?」
 藤原が不思議そうに訊く。
「学校の掃除なんぞ真面目にやっても、誰も誉めてはくれぬ。人に掃除を強制させようとギャーギャー喚く風紀女や、私のように普段の行いが悪い者ならばその行為が一際目に付くだろうが、しかしいつも黙って黙々と掃除をしている者は誰の目にも付かない。せいぜい成績表の生活覧に丸が付くだけだろう」
「そんなコトないよ」
 藤原がちょっと悲しそうな顔をして言う。
「そんな事ある」
 真田がまた皮肉めいた笑い方をして言う。
「そんなコトないってば!その『誰か』が毎日黙々と掃除をしているのを、知っている人は一杯いるよ。そしてそれはその『誰か』の信頼に繋がる。大きな根強い信頼に繋がるものだと思う。ね、そうだよね深海君?そうだよね?」
 藤原があまりに必死に同意を求めてくるから、俺は何度も頷いてやった。普段の温厚な藤原からは想像できないほど、必死になって同意を求めてきたから。
「私は意地が悪いが善野は優しい。優しいからそんな言葉がでるんだ」
「そんなコトないよ。真田さんだって優しいよ。ね、深海君」
 俺はまた頷く。正直、真田が優しいかどうかなんて考えた事はなかったしコイツは実際意地の悪い部分があるが、それでも俺は頷いた。
 藤原は頷く俺を見てほっと肩の力を抜いた。
 真田はそんな俺達を見ながら、また藤原にかからないように煙草の煙を吐き出していた。
 10月後半に入ったこの季節、日が暮れると本当に寒くなる。
 藤原に煙が行かないように、俺と真田は煙草を吸う。藤原は真田の隣で大人しく座っていた。
 僅かな間だが、妙にシンとした沈黙があった。
 上から飛行機の音がして、ふと3人で空を見る。
「深海君と真田さんって、怖い夢見る?」
 轟音を轟かせ空を突っ切っていく飛行機を見ながら、藤原が小さく訊いてくる。
「あるぞ。大嫌いな人間に殺意を抱く夢だ」
 真田が煙草を消しながら低い声で答えた。
「それは怖い夢?」
「怖い夢だ。私にとってはな」
 藤原は真田をじっと見詰め、それから俺を真正面から見た。
「深海君は?」
「あるよぉ。ちっこい頃は『追いかけられる夢』をよく見たなぁ」
 煙草を消しながら、幼い頃よく見た夢を思い出した。
 俺は幼い頃、何かとんでもないモノに追いかけられる夢を頻繁に見た。何かとんでもないモノとは、例えば鬼や天狗、ガメラやウルトラマン、熊や蜂やタコ、それからトイレの化け物や冷蔵庫や電車やテレビで見た駅伝の選手とか、もうありとあらゆるモノに追いかけられた。中でも一番怖かったのは、『見えないモノ』だ。見えないけど何かに追いかけられているのは確実で、とにかくどこに逃げれば良いのかどうすれば良いのかも分からなくて、その夢を見た時は悲鳴を上げながら目覚めたものだ。
「今はその『追いかけられる夢』を見る?」
「ん。たま〜にね」
 そう言えば最近も数学の藤沢に追われる夢を見た。 アレはそんなに切羽詰った感じじゃないけど。
「…僕は今でもしょっちゅう見るよ。『追いかけられる夢』」
 藤原はそこで言葉を切って、また真田を見た。
 藤原の瞳が少し揺れたのが見えた。
「僕は幼い頃からずっと怪物に追われている夢を見るんだ。怖い夢だよ本当に。泣いても叫んでも誰も助けてくれなくて、僕は苦しくてしょうがない。現実でも走るの苦手だから夢の中でもやっぱり苦手で、どれだけ足に力を入れても前に進まない。手まで使って泳ぐみたいに走るのだけれど、それでも速く走れなくて。どうしようもなくて、僕は子供みたいな気持ちになるんだ。分かる?子供みたいに感情が溢れてしまって、凄い喚き声を出して、涙で顔がグチャグチャになって、怖い、怖いってそれだけしか頭に浮かばなくて、抵抗する事すらできない」
 俺は藤原の気持ちが分かる。
 怖い夢を見て目覚めた時のあの感触の悪さと、異常に早くなっている鼓動は本当に辛いモノだ。ベットリした汗を体中にかいていて、その日一日がそれで全て決定されるような苦痛。俺は最近ほとんど見なくなったが、藤原はそんな夢をいまだに見ているのか。
 藤原は真田を真っ直ぐ見ている。
「でもね、僕が本当に怖いのは、その『追いかけられる夢』じゃなく、『追いかけられている時の自分』なんだ。僕はね……僕は、追われている時、必ず誰かを生贄にするんだ。例えば逃げている時に街中に入るでしょう?街には人が一杯いて、僕を追いかけている怪物は僕を追いかけているけれど、とりあえず目に付いた人間を食べてしまう。僕は怪物が誰かを食べている隙にまたコソコソと逃げ出す。その時僕は必ず思うんだ。『これで時間稼ぎができる』と」
 藤原の瞳が大きく揺れた。
「僕は毎回そんな事を思っているんだ。そして目覚めた時、どうしようもない気持ちになるよ。なんて言えばいいのか分からないけれど、本当にもうどうしようもない気持ち。そして泣けてくる。人を生贄にしてまで助かろうとする自分に、泣けてくる。僕はどうしよもない弱虫で、卑怯者で、なのに、だから、現実の世界では少しでも皆に優しくしようと……。本当の僕は優しくなんかな…」
――善野は優しい子だ!善野は良い子だ!善野は悪くない!!」
 真田が突然怒ったように叫んだ。
 そして俺を見る。
「ヒジキもそう思うだろう?善野は…」
――藤原は悪くない。藤原は優しい奴だ」
 俺も強い口調でそう言った。そして藤原の手を掴んだ。藤原に俺の力を少しでも分けてやりたいと思った。
 しかし藤原から伝わってくる感情は、俺には理解できないものだった。
 俺は自分のこの些細な力が歯痒い。こんな時、何をどうすれば良いのだろうか。
 また、さっきと同じように妙にシンとした沈黙があった。
 太陽はもう沈みかけており、冷たい風が吹くこの屋上は濃い陰影に包まれていた。
 藤原が小さく身震いする。
 俺が藤原の少し小さな身体を抱いてやる。
「藤原。俺、お前の夢の中に行けたらって思う。そしたら俺がお前を追いかける怪物を退治してやるのに。できるなら、怪物に『あ〜んぱ〜んち!』ってやって退治して、藤原の夢を良い夢にしてやるんだ。水着の女がわんさか出てきて皆で餅つきする夢とかさぁ、風の谷のナウシカが乗っていたメーベで空を飛ぶとかさぁ、あとはディズニー映画のアラジンに出てきたジーニーと友達になる夢とかさぁ、あとはあとは…」
「私だってできるなら善野を苦しめる怪物に正義の鉄拳とついでに怪物の頭をサッカーボールキックして、怪物をギッチョンギチョンにしてその体を細かく切り刻んでアルコール漬けにして、それからそれから…」
 俺と真田の言葉に藤原がクスクスと笑い出した。腕の中にいる藤原が楽しそうに笑っているのを見て、俺はほっとする。こいつだけは、いつも笑っていて欲しいんだ。
 腕の中の藤原を見ながら俺が「ヘクシッ」とクシャミをすると、藤原も同じく「クシュン」とクシャミをした。
「善野、寒いか?」
 真田が訊くと、藤原はもう一度「クシュン」とクシャミをし、指で「ちょっとだけ」の仕草をする。
 それから俺は腕の中に藤原を抱いたまま、夢とは関係ない馬鹿話を少しだけした。
 日が完全に落ちた頃、真田が「自分は煙草をもう1本吸うからお前は先に教室へ帰れ」と言うと、藤原は軽く頷いて真田の言葉に従い教室に戻って行った。
 藤原がいなくなると、この屋上は更に冷気が増したように寒くなった。俺は羽織っていたジャケットのボタンを掛け、もう一度「ヘクシ」とくしゃみをする。
 真田が2本目の煙草に火を点けるのを見ながら沈んでしまった夕日を見ていると、妙に重々しい気分になった。
 藤原は…詳しくは知らないが、とにかく身体が弱い奴だった。体育の授業はほとんど見学だし、学校の行事も身体を動かさなくてはならないモノは不参加だった。でも藤原はいつもにこにこしながら俺達を見ていて、見学してでも他の級友達と一緒にいたがった。今回のようにいつも裏方な役回りの藤原だが、俺はいつも縁の下で皆を支えている藤原が大好きだった。
 いつか、級友が「藤原の身体は爆弾を抱えている」と言っていた気がする。俺はよくは知らないし藤原も自分からは話したがらないから訊かないが、アイツは常に自分の身体と闘っているのかもしれない。

 「真田が真面目に働いているのを皆は知っているのだろうか」と心配する藤原と「陰で働いているのを知っている人は一杯いると、そしてそれはその『誰か』の信頼に繋がる」と必死に言っていた藤原。
 常に自分の身体と闘っている藤原と、生贄を差し出してまで怪物から逃げる、辛い辛い夢を見る藤原。

 太陽が沈んでしまった薄暗い空を見ながら、ぼんやりと藤原の夢を想像する。
 それはどれほど辛い夢だろうか。目覚めた時、どれほどの自己嫌悪に陥るだろうか。それはただの夢だが、藤原にとってはただの夢ではないのかもしれない。
 俺が小さく溜息を吐いた時、隣で煙草を吸っていた真田がかなり強く俺の足を蹴った。
「んだよ」
「善野は優しい奴だからなッ!!」
 真田がクソみてーにデカイ声を出した。
 俺の溜息を聞いて何を考えたのか、かなり怒っている真田の様子に俺も本気で頭にキた。
「テメーに言われなくても、んなコト重々承知の上なんだよ!」
 勝手に人の溜息の理由想像しやがって。
 俺も真田の足を蹴っ飛ばしてやった。
「馬鹿ヒジキ。お前はホーミングとイチャついてりゃそれでいいのか。肝心な時に役に立たないなんてお前の力は何の為にあるんだ!」
 真田がもう一度俺の足を蹴る。
「俺だって好きでこんな力持ってるわけじゃねーんだ!八つ当たりするんじゃねー!!」
俺ももう一度真田の足を蹴る。真田の言葉に本当に頭にキていた。
 人が気にしてる事言いやがって、俺だって藤原のあの辛そうな瞳をどうにかしてやりたかったのに。
「クソヒジキ」
「クソ真田」
 俺達はもう一度づつ互いの足を蹴った。
 それからまた、妙にシンとした沈黙があった。
 人はどうして、自分ではどうしようもない事があると人のせいにしたくなるんだろう。俺も真田も、どうして藤原にもっと気の利いた事を言ってやれなかったんだろう。
 柵に凭れて目を閉じてみる。
「なぁヒジキ。自己防衛本能って知ってるか?」
「言葉は知ってる。でも詳しくは知らねぇ」
「そうか。私も知らぬが…」
 真田が何を言いたかったのかちょっとだけ分かった。
「俺は藤原が好きだぜ?」
「そうか。ならば一日一度で良いから、善野に触ってやってくれぬか?ヒジキのその手で」
 真田は煙草を吐き出しながら俺を見た。
 滅多に見る事ができない、真田の優しい瞳だった。
「ん、分かった。そうする」
 俺はふと、真田がこんなに真剣に人に頼み事をするのを初めて聞いた気がした。コイツは人に命令する事はあっても、こんな風に他人に頼みはしない奴だ。
「真田は本当に藤原には優しいんだなぁ」
 俺の言葉に真田は苦笑する。
「私は善野だけには優しいんだ。善野は私にイロイロな事を教えてくれたからな。他人の事や考え方を、バカな私に1つづつゆっくりと教えてくれた。アイツは私がこの学校に入ってからの初めての友達で、生まれて初めての親友なんだ。この学校に来てアイツと出会っていなければ、私は暁生とも今みたいに仲良くなれなかったに違いない。つまり、暁生と私を繋いでいれたのも善野なんだ」
 真田はそう言って煙草を揉み消した。
 すでに辺りは真っ暗で、俺と真田は立ち上がって屋上の扉に向う。
「藤原のおかげで真田は暁生と仲良くれたのかぁ。んじゃ、暁生にとっても藤原は恩人だなぁ」
「なぜだ?」
「だって暁生、『お前と岬杜くらい、俺と真田も仲が良いんだぜ』って自慢気に言ってたもん」
「そうか」
 真田が鉄のドアを開けながら嬉しそうに笑った。
 俺は、真田と暁生はきっと本当に仲が良いんだろうなぁと感じる。
 階段を下りて踊り場のドアを開く。
 トントンと2段飛ばしで嬉しそうに降りていく真田が、急に振り返って俺を見た。
「そう言えば、自己防衛本能。…アレはお前にも当てはまるぞ」
 何だろうか。
 真田の低くてしゃがれた声が突然俺の中に入り込んで来る。
「何が?」
「ホーミングの話だ。お前は自分の自己防衛本能を大切にしろ。そして岬杜永司の本能を受け止めろ」
 俺の足が止まった。
 なんだかとてつもなく大事な話のように聞えた。
「何の話だよ」
 真田はそれ以上何も言わないまま俺を見ていた。


 その夜、俺はソファーに座ってぼんやりとテレビを見ながら、真田の言葉について考えていた。あの時真田は何を言いたかったのか。俺の自己防衛本能、永司の本能とは何を指しているのか。

 キッチンに目をやると、炊飯器からホクホクと湯気が上がっている。今日は手の込んだモノを作りたくないから、味噌汁と野菜炒めとオニギリしか作らない。
 永司と一緒に生活するようになってからも変わらない食生活。
 この、高校生が2人で暮らすにはあまりにももったいない広々としたマンションと永司の優雅な生活は少なからず俺に影響を与えたが、それでもその生活に相応しい夕飯を作ろうとは思わない。だって作るのは俺だもの、作れるわけもない。永司は俺がメシを作ってやるだけで喜ぶし、当然だがその内容に文句を言った事も不満気な表情を浮かべた事もなかった。だからこの貧乏人的夕飯時だけがこの生活から妙に浮いていたが、それはそれでほっとできる時間だった。
 ピーピーとご飯が炊き上がった音がする。
 俺はのそのそ立ち上がってキッチンに立ち、今まで考えていた事をサクリと切り替えて、水をチョロチョロ出し鼻歌を歌いながらこんぶと明太子のおにぎりを作った。
 出来上がった夕飯を見て満足し、永司を呼ぶ。いただきますを言ってからおにぎりに手を伸ばした永司は、今日もやっぱり喜んで食べてくれた。
「永司は俺が作るおにぎりが好き〜?」
 パクパクこんぶおにぎりを食べている永司に聞いてみる。帰ってくる答えは分かっているのだけれど。
「勿論。世界中で一番美味しい」
 うんうんやっぱりね。
「俺も自分で作ったおにぎり大好物なの。1人暮らし始めた頃さぁ、炊飯器で2合分のでっかいオニギリ作って食べた事もあるんだ。真ん中に具を入れたんだけど、その具が出てくるまで時間かかるし途中でおにぎり崩れてきちゃうし大変だったけど、面白かった〜」
「今度俺にも作ってよ」
 永司が楽しそうに笑う。
「いいよ。でも食べるのコツがいるの」
「俺もそれ作ってみたい。一緒に作ろう。そして一緒に食べよう」
 俺は明太子おにぎりを頬張りながらコクコク頷いた。
 それはいつもと変わらない平和な夜だった。


 それなのに、その日の夢は最悪だった。
 藤原と真田の影響がモロに出たのか、俺は『追いかけられる夢』を見たのだ。
 そして、よりによって俺を『追っている』のは永司だった。
 なぜだか分からない。
 そうゆう設定だったのだから。







 俺は永司に追われ、永司に異常に怯えていた。暗闇の中を必死に走り回り、息を切らして森の中に駆け込む。鬱蒼と生い茂る木々で身体を傷つけ、それでも俺は走って逃げていく。恐怖で足がガクガクしているのが分かった。
 永司が俺の名を呼んだ。
 俺は恐ろしくて木の陰に隠れ息を呑む。暗闇の中でただ身を竦めていると、 永司の気配がした。
 木々の間から見える永司の姿。
 俺はどうしてもそれが永司だとは思えなかった。
 暗い永司の影が近付き、俺に手を伸ばす。
 その手に俺は悲鳴を上げた。







「春樹」
――…あっ」
 目が覚めれば本物の永司が目の前にいる。
 俺は汗だくになっている自分の身体に気付き、息を切らしながら重い身体を起こす。
「うなされてたみたいだけど」
 永司が俺の手を握った。本物の永司の手だと思った。
「変な夢見た。すんごい変な夢」
「どんな?」
「お前に追いかけられる夢」
 俺は何も考えずに普通に答えたが、永司はそこでピタリと固まった。
「…永司?」
 永司は何も答えなかったがその深い瞳が少し揺れたのが見え、俺の手を握っている永司の手から感情が流れてきた。
 俺の力は他人の感情がほんの少し読み取れるだけの些細なモノだ。この力は随分と曖昧で、他人の言葉にならないうっすらとした感情の他は何も読み取れないけれど、俺はこの力はいらないと思っていた。他人に力を分けてやれるのは良い。 しかし、他人の嘘や感情まで分かるこの力はいらない。
 普段はそう思っていた。
 しかし俺はその時強烈に、永司が今何を考えているのかその全てを知りたいと思った。







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