第2章 何の変哲もない些細な話


「永司、俺のチョーカー知らねぇ?」
 朝はいつもバタバタする。永司が登校時間ギリギリになるまで俺を起こさないからだ。
 俺が朝弱いのを知っている永司は、登校時間ギリギリまで俺を寝かせ、起こす時には熱いタオルを額に当ててくれる。姉ちゃんがこうやって起こしてくれたんだと随分前に言った事があるのだが、永司はその話を覚えていてくれたのだ。そして姉ちゃんと同じように俺を起こす。
「黒色の?茶色の?」
「茶色のヤツ」
「この部屋では一度も見てないよ」
 気に入っている茶色のチョーカーを久々に付けようと思ったのに見つからない。俺は自分のアパートにあるのだろうかと思いながら、大急ぎでシャワーを浴び身支度を整え永司と一緒にマンションを出た。
「今日の放課後、俺のアパート寄ってくれ」
「分かった」
 半ヘルを被り永司の単車のケツに乗ると、低いエンジン音が響く。
 そしてゆっくりと単車が動き出した。

「深海君、おはよー!」
 同じクラスの奴や、仲の良い奴等の声が聞えてくる。
「おは〜」
 俺も返事をしながら永司の単車で校門をくぐった。
 この学校には門に監守さんがいる。2人のオジサンで、1人はハゲ、もう1人は腹が出ている。俺はこの人達にも挨拶をする。監守さんの頭の上には監視カメラもあるけれど、これにもたまにニコリと笑って挨拶をする。別に意味はないのだが。
 単車を止めて教室に向かう時、ちょっとだけ俺の勘が動いた。たまにあるのだが、気になる視線を感じるのだ。振り向いても特定はできないような微妙な視線だから気にしないでおこうとは思うのだが、今日はなんとなく振り向いてしまった。
「深海君。おはよう」
 そこには俺の級友でこの学校の生徒会長でもある石塚正が立っていた。
「おう、石塚おはよ」
 俺は返事をしながら石塚を見る。石塚の瞳はいつも冷めているけれど、別に悪いヤツではないと思っていた。さっきの視線は何だったのだろうかと思いつつ、俺は永司と石塚と3人で教室へ入った。 俺は普段、他人の視線を気にしないようにしている。永司のようによっぽど強い視線ならば気になるが、その他のものは気にしない。例えそれが悪意に満ちた視線でも粘っこい性欲に関する視線でも、俺は普段なら気にしないし気にならない。人間は様々な感情を持っているものなのだから、その一つ一つに反応したらきりがないんだ。だから嫌な視線を感じても振り向いて確かめるコトは滅多にしないのだけれど、今日はちょっとだけ気になった。しかしそれ以上は何も感じなかったので、忘れる事にした。
 その日は何もない一日だった。
 俺は放課後新生祭の準備をし、永司も砂上に頼まれた裏方作業を少し手伝い、暁生と苅田は何もせずに着せ替え人形と化した緋澄を笑いながら見ていた。


 放課後、俺は永司の単車で久し振りに自分のアパートへ戻った。
 すぐに戻るからと言い残し、永司を下に待たせておいて階段を上る。紺色の肩掛け鞄の中から鍵を取り出してドアのノブを掴むと、また俺の勘が動いた。
 本日2回目の、何だか気になる感じ。
 どうしようか。
 俺はちょっと悩んでから、踊り場から顔を出して下の永司を呼んだ。
「永司!悪いけどちょっと来てくんねー?」
 永司が俺の声に頷き、階段を駆け足で上ってくる。
「どうした?」
「いや、何となく変な感じがしたから側にいて欲しくなった」
 言いながらもう一度ノブを掴む。一度大きく深呼吸してからゆっくりとドアを開けた。
…何も変わってない。
 けど。
 永司が俺を見て、手で「そこにいろ」と指図し、靴を脱いで部屋へ上がっていく。中の戸を開く音と、ベランダの戸を開く音、そしてトイレと浴室をチェックしている音が聞える。
「何も変わっていないと思う」
 戻って来た永司が言う。
 それから俺も部屋に入って綿密に部屋を調べた。
 確かに何も変わってはいない。
 気のせいだったか。
 しかし俺の茶色のチョーカーはどれだけ探しても見つからなかった。アレは本当に気に入っていたから残念だったけれど、ないものはしょうがないし、きっと忘れた頃に見つかるだろうと思って部屋を出た。

 帰りにスーパーに寄って今夜の夕食の買い物をする。
 永司は自炊が全くできないばかりか、掃除以外は何もできない。洗濯機の使い方も知らないし、資源ゴミの日なんて知っているわけもない。俺と一緒に暮らすまでは毎日家政婦を呼んでいたらしいのだ。メシは外食かデリバリーがほとんどで、本当の「生活」をした事がなかった。
「今日は何食う?」
「春樹が食べたいもの」
「お前は何が食べたいんだよ」
「春樹が食べたいもの」
「アホ」
「…春樹も食べたい」
 チラリと見ると、永司はクスクス笑っていた。冗談だったらしいが俺はちょっと気になる。
 気になるけどとにかく今はお買い物だと思って、野菜コーナーをうろつき、豚バラを買い、漬物とか果物も見て最後に俺の大好物の納豆を買った。永司は納豆が嫌いだが、俺は本当に納豆が好きなのだ。
 家に帰ると永司はまたモバイルを立ち上げてソレと睨めっこを始めたので、俺は夕飯の支度をした。
 永司は最近いつも仕事らしき事をしている。俺には分からないしあまり興味もない事なので立ち入らないが、永司は趣味でやっている株の他に自分の家の仕事の手伝いもしているらしかった。一度そのモバイルのディスプレーを見た事があるが、全くおもしろくなさそうなものだったので変に感心してしまった。あんなモノと睨めっこするなんて俺にはできない。
「あう、卵が切れてる」
 冷蔵庫の卵のストックが切れているのを発見し、ちょっと悩んだ。今日は納豆を買ってきた。俺は納豆が食べたい。でも、卵が入っていない納豆は納豆として認める事ができない。
「永司。俺ちょっと卵買いに行く」
「俺が行くよ」
 永司がモバイルを見ながら、それでも立ち上がろうとした。
「いいよ、すぐ済むから」
 鍋の火を消し鞄を持って玄関に向かい、最近は夜になるとめっきり冷え込むようになったのを思い出して上着を羽織って外に出た。
 外はやはり寒い。
 夜空を見上げると綺麗に月が出ていて、 それをぼんやり見ながらトコトコとコンビニへ向かった。
 丸くておっきなお月様。
 上を向いて歩いていると携帯が鳴った。ディスプレイに「砂上」と出てる。
「どした?」
 言いながら「ヘクシッ」とくしゃみをした。
『今、深海君のアパートの前をたまたま通ったんだけど』
「ん」
『深海君の部屋の前に誰かいたのね』
 俺の足が止まる。
「男?女?何人?」
『1人よ。男か女かはちゃんと見えなかったから分からないの。とにかくあまり良い雰囲気ではなかったし、どうも深海君の友達のようには見えなかったから気になったの』
「お前、今どこ?ちゃんと俺のアパートから離れた?相手に顔見られてねぇだろうな」
『それは大丈夫。今は駅前だから何も心配ないわよ』
 人ごみの中ならば確かに余計な心配はいらない。
 俺はとにかく自分のアパートにもう一度戻ろうと思った。砂上と駅前で待ち合わせをし、永司に連絡する。「砂上と偶然会ったから、ちょっと新生祭の打ち合わせする」と言って電話を切った。永司は「遅くなりそうだったら迎えに行く」と言っていたが、その間も仕事をしているらしくキーボードを叩く音が聞えていた。
 俺はとにかく地下鉄に乗り、砂上と待ち合わせをしている駅で降りる。改札を出たすぐの場所に砂上が立っていた。砂上と、男2人。
「砂上、そいつらツレ?」
「赤の他人」
 砂上が溜息を吐きながら言う。どうもしつこいナンパらしかった。
 男の1人と目が合う。
 文句あんのか的横柄な態度。
 どうしようかと思ったが、ここでこんなのとチマチマ揉めるのは時間の無駄だったので、俺は無視して砂上と歩きだした。後ろで「腰抜け」とか言ってるのが聞える。ムカチンとくるがとにかく自分のアパートへ行きたかった。
「岬杜君は?」
「家。この事アイツには言ってないから、お前もアイツには余計な事言うなよ」
「どうして?」
「どうしても」
 もし、今日の夕方俺達がアパートへ行ってなかったのならば、砂上の携帯を受けた時即座に永司に来てもらっただろう。しかし今日俺は永司と自分のアパートに行った。そして下で待っていた永司を呼んで、遠まわしにだが自分の勘が動いた事を告げた。ここで砂上が見て感じた事をわざわざ永司に言えば、アイツは絶対神経質になる。ただでさえ独占欲が強く俺を溺愛している永司の事だ。物凄く気にするだろう。
 少し歩くとコンビニがある。俺のアパートはここから見えるので、そこで砂上を待たせておいた。大丈夫だとは思うが、 念のため10分して俺が戻らなかったら永司に連絡してくれと頼んでおく。
 コンビニから出てサクサク歩きながら、相手は一体誰だろうと思った。目的が空き巣だったら俺の部屋は荒らされているだろうが、今日の夕方行った時は荒れていなかった。
 アパートの前に着いて、上を見る。当然だが俺の部屋には電気が点いていない。階段を上って部屋の前で一度深呼吸してから神経を集中させ、中に人の気配が無い事を確かめてから鞄から鍵を出してドアを開けた。
……何も変わってない。
 部屋の中は別に荒らされた様子もなくやっぱり何も変わってない。
 俺はとにかく部屋をチェックする。金目の物なんてこの部屋にはない。現金なんて勿論あるわけがないし、カードも持ち歩いているし、その他のモノは永司の家に置いてある。もしやと思って恐る恐る箪笥の中の下着類も見てみたが、無くなったモノはないし悪戯されたようにも見えなかった。
 自分の部屋に感じる違和感。
 ただ、その違和感に悪意は感じられない。性欲も。
 俺が分かるのはそこまでだった。
 それから俺はコンビニに戻り、寒い中外で待っていてくれた砂上に何事もなかったかのように声を掛ける。
「砂上、やっぱ何もなかったぁ。付き合わせちまってごめん〜」
 笑いながら言う俺の顔を砂上はじっと見ていた。
「部屋に侵入されていた形跡はなかったの?」
「ん、なかったよぉ。何かの集金か勧誘だったのかもしれないねぇ」
 俺はコンビニで熱い缶コーヒーを砂上に買ってやり、それを手渡す。
 それから2人で駅に向った。
 歩きながら、俺はあの部屋を引き払おうと思っていた。
 俺の部屋は確かに何も変わってはなかったし、そこにある違和感にも悪意がないのは分かった。しかし不法侵入の疑惑は拭えない。誰が何の為にそんな事をしているのかは分からないが、俺が引っ越せば問題は解決だろう。引っ越す時に大家さんにちょっとドアを変えるように注意すればいいだけの事だ。但し、すぐにあの部屋を引き払うと永司が何かあったのかと心配するかもしれない。だから来月あたりに引越ししよう。どうせ今だって永司の部屋に入り浸りなんだ。
 歩いて駅に着くと、まださっきの2人組がいた。可愛そうにいまだにナンパが成功していないのかと、俺はかなり同情してしまった。
「腰抜け」
 目が合うと、男2人組が俺を見てニヤニヤして言う。
 なんとまぁ意地の悪そうな顔。だから女も引っ掛けられないんだぞぉ。
「腰は抜けてません〜」
 俺はニッコリ笑って素早く拳を突き出し眉間を狙って寸止めしてみせた。
 男がピタリと絶句したのを見て砂上がクスクス笑っていた。

 砂上とは駅で別れた。
 付き合わせて悪かったともう一度言うと、砂上は笑って首を振る。手を上げて改札に向おうとした時、後ろから砂上に「何があるのか分からないのだから、岬杜君にはちゃんと言っておきなさいよ」と言われたが、俺は適当に返事をしておいた。でも永司に言うつもりはない。別に何かあったわけじゃないんだ。俺の勘がただあの部屋に違和感を感じるだけで、ヤバイとかニゲロとかは感じない。だったら神経質の永司に言う必要はないだろう。


 プラットフォームで電車を待っていると、 端のベンチの更に奥に誰かが座っているのが見えた。
 俺は軽く舌打ちする。
…見たくなかった。気付きたくなかった。
 今ここに永司はいない。人はまばらだ。 俺はもう帰りたいし、ハッキリ言って関わりたくもない。
 電車がゆっくりと到着し、ガタンと聞きなれた音がして扉が開く。電車の中から数人のサラリーマンとOLが降り、それから俺の側に立っていたオバサンと化粧の濃い女が乗り込んでいく。
 俺も乗り込もうと足を動かした。いや、動かそうとした。
 薄暗いプラットフォームと違い電車の中はいつだって明るいから、それはまるで別の世界のようにも見える。俺は車内の明るさや広告や吊り輪、スポーツ新聞を読んでいるオッサンなどを見ながら一人で突っ立っていた。皆家に帰るんだ。それぞれの家に、この電車に乗って帰るんだ。
 目の前で電車の扉が閉まり、電車がまたゆっくりと動き出す。
 遠ざかって行く電車を見て俺は一度溜息を吐き、重い足取りでプラットフォームの端に向った。

「オッサン」
 プラットフォームの端っこは暖房も届かないから冷え冷えしている。どこからか風が入ってきて俺の身体が小さく震えた。どうしてこんなに寒い日に、こんなに寒い場所で座っているのだろうか。座らなくてはならないのだろうか。
「オッサン」
 俺はもう一度呼びかける。
 オッサンは50代半ばの脂ぎった感じがするオッサンだった。別にどこにでもいるような、中肉中背の身体に灰色のスーツ、茶色の鞄、疲れた顔。
「オッサンってばぁ」
 オッサンが顔を上げて俺を見た。
 途端にキーンと響くような頭痛が始まり、自然に俺の身体が逃げようとする。
 オッサンがニヤリと笑った。疲れた顔だったのに、その目と歪んだ口元だけがまるで別人のように見えた。
「お前、いくつだ?」
 オッサンが訊いて来る。
「16」
 俺は小さく答える。このオッサンが意外にも普通に話しかけてきたので、俺は額を抑えながらオッサンの前にしゃがみ込んだ。
 真正面から瞳を見る。
 何か強いモノで強引に歪ませたような瞳だった。
「16か。若いな」
 オッサンは俺を見ながら両手を組んだ。
「オッサン、寒くないのぉ?」
 俺は額を抑えつつ、にこやかに話かける。
「寒くはないさ。お前は寒いのか?」
「寒いよぉ。オッサンだってホントは寒いだろ?そんな地べたに座ってると風邪引くよ。どうせ座るんならベンチに座ったら?」
 俺はオッサンの瞳を見ながら、そっとその手首を掴んだ。
 キンキンと響く頭痛。
 それでも俺はにこやかな笑みを崩さずオッサンの手を握った。
――そっちは…
「お前、勉強はできるか?」
 胸の中で『そっちは崖』だと言おうとした時、オッサンがそれを遮った。
「勉強?駄目。俺、勉強好きじゃないのぉ」
 俺はニコニコしながら答える。
「勉強しとかねーと、大人になってから大変だぞ」
「ん。大人は皆そう言うねぇ」
 オッサンが俺を見ながら口元を歪ませた。
 本格的に刺さるような頭痛が始まる。
「お前にはまだ分からないだろうがな、大人になると『勝ち組』と『負け組』ってのにハッキリ分かれるんだ。いいか、『人生に勝ち負けなんてない』なんて言う奴なんか絶対信用するなよ。そんな奴は自分は謙虚だと勘違いしてる『勝ち組』の奴か、『負け組』の言い訳なんだ。それにそんな奴等に限って大体『俺は人とモノの考え方が違う』なんて勝手にいい気になってる奴ばかりだしな。大体な、実際に『勝ち組』と『負け組』はあるんだ。男は、皆社会の中で地位を決められるんだ。それは望んでいなくても、勝手に決められる。どこに行ってもついてくるもんなんだ。本当だぞ?お前が教師になろうが大学の教授になろうがどこかの工場に就職しようが自分の店を持とうが、どこにいようが自分が何を考え何をしようが人は肩書にとらわれる。結婚する時も、した後も、身内や親戚から頼んでもいないのに評価される。大学はどこをでたのか。車は何に乗っているのかそのスーツはどこのブランドか、ゴルフの成績はどうか子供は何人でどこの学校に通い奥さんはどんなか。人はそれぞれ勝手に他人を評価する。その中で嫉妬や妬みに負けず、ただひたすらに図々しく、そしてがむしゃらに突っ走った奴だけが本当の『勝ち組』になる。運も何もない。人を蹴落とし、のし上がった奴だけが世の中を見下ろせる」
 俺はオッサンの手を握ったまま話を聞いていた。オッサンの声はその内容と違い、かなり淡々としている。
「子供の時から勉強してないと、大人になった時に自然と『負け組』になっちまう。皆それを知っているから、自分の子供には勉強しろと口うるさく言うんだ」
「負け組じゃ駄目なの?」
 俺は額を抑えたまま訊く。
「どうして世の中には『勝ち組』と『負け組』があると思う?俺はな、それは人間の性だと思うんだ。人から常に見下ろされて生きるのはとても辛いモノだ。何故なら人間は皆、常に人を見下していたい生き物だからさ。『負け組』の中にも階層が沢山あって、皆で皆を軽蔑し合う。バカみたいだろ?でも、そんなモンだ。お前だって嫌いな奴は軽蔑するだろ?『俺とお前じゃレベルが違うんだ』とかって思うだろ?『他人には興味がない』なんて言ってる奴だって、口にしないだけで思ってる事は皆同じさ。だから、少しでも人に見下されないようにしないと駄目なんだ。人にバカにされて、軽蔑されて、顎で使われて、罵られて、陰口叩かれて…そんなふうに生きていくのは、お前が思っているよりずっとずっと辛い」
 オッサンの瞳が悲しそうに揺れた。
 このオッサンは、一体どんな人生を送ってきたのだろうか。
 俺はオッサンの手首を強く握り締めた。
「オッサン、ここは寒いだろ?」
「寒くはないさ」
「ウソ。ここは寒いよぉ。今度来る電車で家帰ろ?」
 オッサンの瞳がまた歪んだ。強い力で強引に捻じ曲げているように見えるその瞳に、俺の頭痛が酷くなる。
「俺は最近部長に昇進したんだ」
「ん?良かったじゃん」
「良かったよ」
 風が吹く。線路の向こうから、濁った風が吹く。
 そしてここにある見えない穴からも、腐臭がする。
 オッサンが目を閉じた。
「俺の女房は良い女なんだ。優しくて、細やかな部分にまでよく気が付く、できた女房だ。俺にはもったいないくらいの女だ。その女房が、同じ社宅に住んでいる俺の同僚の奥さんと喧嘩をした。向こうの奥さんは、何か俺の事で変な噂を立てたらしい。どんな噂かは知らねぇよ。多分変な性癖があるとか、コネを使って昇進したとか、そんな程度のモンだと思うがな。そんなの無視しときゃいいのに、俺の女房はそれが許せなかった。女房は俺が普段どれだけ懸命に働いているのか一番良く知っているし、それを誇りにしている。わけの分からねぇ噂を立てられた事を知った女房はカンカンに怒ってな、相手の家に乗り込んで相当激しい罵り合いになったそうだ」
 オッサンの手から伝わる感情に、俺も目を閉じた。
 苦しくて、辛くて、でも淡々とした不思議な感情だった。
「その時な、俺の女房は俺の同僚の奥さんに何かとんでもなく失礼な事を言ったらしい。何を言ったのか訊いても女房は泣くばかりで答えないが、同僚の態度を見ると、その同僚の会社での仕事振り…か、地位の事なんだろうと思う。俺は部長に昇進したが、同期で入ったソイツはまだ課長にもなれてないんだ。女房はその事について何かを言ったのだろう。その同僚に嫌味を言われたからな」
 オッサンが自嘲めいた笑い方をする。
「……普段は温厚で優しい女房だが、何を思ってそんな事を口走ったのかって思う」
 オッサンの苦笑と共に微かな溜息が聞えた。
 このオッサンは、人は皆他人を見下すモンだと言いながら、自分の奥さんはそんなんじゃないと思っていたんだ。
「くだらない話だろ?」
 目を開けるとオッサンと目が合った。
「くだらなくないよ」
 俺は答える。
「そうか。お前にはくだらなくないか。でも、本当に些細な話さ。どこにでも転がっていそうな、何の変哲もない些細な話さ」
 些細な話なんだろうか。
 本当にそれは、些細な話なのだろうか。
 このオッサンにとって、オッサンの奥さんにとって、オッサンのその同僚やその奥さんにとって、その話は些細なモノなのだろうか。
「もうすぐ電車が来る」
 オッサンが呟いた。
 俺はオッサンの手首を持って軽く引っ張ったが、オッサンは首を振った。だが俺は引かない。ここはいちゃいけない場所。オッサンがここにいること自体間違っているんだ。
 動かないオッサンの両手を持ち、俺はその両足を軽く踏んで思いっきり引っ張る。
「んしょ!」
 掛け声と共に力を入れると、ようやくオッサンが立ち上がった。
「俺はまだここに…」
「帰ろう。オッサンの奥さんが待っている家へ。優しくて、細やかな部分にまでよく気が付く、できた奥さんが待っている家へ。ここと違って暖かい家へ」
「暖かくないかもしれない」
「暖かいよ。オッサンの奥さんはオッサンの為に夕飯を作って、お風呂も用意して、部屋を暖めてるんだもん」
 俺は言いながらニコリと笑ってみる。
 オッサンが黙ったので、その手を握ったままプラットフォームまで歩いて行った。
 すぐに電車が来たのでそれに乗り込む。
 電車の中は暖房が効いていて、明るくて、人の匂いがして、今まで俺とオッサンが話していたプラットフォームの端っことは別世界のようだった。
 電車の中では、俺もオッサンも一言も話さなかった。
 俺が下りる駅まで来たので、そっと手を離す。このオッサンの手から伝わってくるのは、最後まで重々しい疲労だけだった。
 電車が止まり、降りようとした時にオッサンと目が合った。
 それはやっぱり、強い力によって強引に歪められた、捩れた瞳だった。
「本当のオッサンは真っ直ぐな人だ」
 俺の言葉に、オッサンは辛そうに笑った。

 駅から永司のマンションまで歩いて帰った。
 マンションを出たのが7時ちょっと前で今が9時ちょっと前。2時間で随分と疲れてしまった。おまけに久々の頭痛がする。
 あのオッサンには何の悪意もなく、そこにあるのは疲労の蓄積だけだった。なのにこの頭痛は今もどんどん酷くなる。あの場所が駄目だったのだろうか、それともただ風邪を引いただけなのだろうか。
「ただいまぁ」
 鍵でドアを開けて部屋に入る。
「おかえり」
 永司の声とカタカタとキーボードを叩く音。
 俺は暖かなリビングでフウと息を吐きながらそのままキッチンに入り、そこでやっと卵の事を思い出した。あーあと思い額を抑えながら鍋を見る。冷えた味噌汁。
…食いたくねぇな。
 できればこのままベッドで眠りたい。でも永司の夕飯どうしよう。
 キンキンと響く頭を抑えていると、物音がして永司が来た。
「どうした?頭痛?」
「んー」
 後ろからふっと永司の匂いがした。
「何かあったのか?」
「何もないよぉ」
 永司が俺の目を覗き込んでいる。
「本当?」
「ホント」
 額を抑えている俺の手に優しく大きな手が触れた。
「今日はもう寝ちゃえば?」
「お前のメシ…」
「いいよ」
 永司が言いながら俺の身体を抱き上げ、そのまま寝室へ行く。
 ベッドの中で横たわり額を抑えたまま目を閉じると、永司が俺の髪を撫で、身体を撫で、そして瞼にキスをした。
「寝るまで側にいてくれ」
 俺は言いながら永司の腕をぎゅっと掴む。
 永司の身体は良い。温かくて優しくて、いつも俺の味方だ。
 今も、優しい。
「永司」
 俺は少し目を開けて見る。永司の瞳は良い。いつも強くて深くて優しくて、俺を魅了する。
…でも、その奥に微かに見え隠れする強烈な性欲。
「お前は優しいなぁ」
 俺の言葉に永司はクスリと笑った。
「世界中でただ1人、春樹にだけ優しいんだよ」
 俺も永司の言葉にクスリと笑った。
 目を閉じ、永司の胸に顔を埋めてみる。
 なんとなく、俺の頭に駅で会ったオッサンの瞳が浮かんだ。
 アレは真っ直ぐな瞳を『自分』で歪まそうとしている瞳だ。
 もう一度目を閉じ、永司の心臓の音を聞く。
 この頭痛を心配し俺の身体を優しく抱き込みながらも、この身体を欲している永司の瞳。
 矛盾するオッサンの言葉の数々。

――人の中には一体どれだけの感情があるのだろうか。


 ぼんやりと考えながら俺は眠りに落ちた。







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