第12章 渡れない河と登れない山の向こう側


 暖かで、不思議な夢を見た。
 俺は母ちゃんの手を握って坂を登っている。
 小さな俺は元気良く坂を登っていたが、 大きな空ばかりを見ていたので途中で首が痛くなった。
 だから今度は地面ばかりを見て歩いた。
 自分の青い靴と、母ちゃんの灰色の靴が地面を踏ん付けては離れ、踏ん付けてはまた離れを繰り返している。
 ザクザクジャリジャリと靴と小石が擦れる音がした。
 下を向いているのに飽きて真っ直ぐ前を見ると、さっきより更に急勾配な坂が目の前に広がっていた。
 永遠に続くような坂道だった。
「母ちゃん。おんぶ」
 母ちゃんは何も言わず、ただ俺の手を掴んで歩いて行く。
「母ちゃん。だっこ」
 母ちゃんが俺を見た。
「頑張りなさい」
「やだぁ。だってこの坂、終わんないもん」
 俺が文句を言うと母ちゃんはちょっと笑い、そして俺を抱き上げた。
 この坂は本当に終わらないような気がしたが、母ちゃんの背中は温かかった。
「春樹。いつか1人でここを歩いてみな」
 母ちゃんの声も暖かだった。

 夢が変わる。
 俺は姉ちゃんと一緒に、大きな檜の下に座っていた。
 木の根元にでっかい蟻さんがトコトコ歩いているのを見ながら、 スコップで土を掘り返している。
 日が暮れてきて寒くなったので、俺はスコップを置いて持って来ていたセーターを着た。
「セーター裏返しに着てる」
 姉ちゃんが笑って言う。
 見てみると毛糸がビョンビョンはみ出していて、本当に裏返しに着ていた。
「姉ちゃん。セーターは裏返しに着るとこんなふうになるけど、俺は裏返しになるとどうなるのぉ?」
 俺は自分でもよく分からない事を訊いてみる。
「春樹は裏返しになっても変わらないかもしれないわ。でも、私や母さんが裏返しになったら、貴方は私達をどう思うかしらね」
 姉ちゃんの言う事はちょっと分からない。
 俺は裏返しになったセーターを見ながらスコップを手にした。
「俺は姉ちゃんや母ちゃんが裏返しになっても、平気」
 姉ちゃんは何も言わず、檜の根元を掘り返している俺を見ているだけだった。

 夢が変わる。
 永司と一緒に公園のベンチに座っている。花見をした時の公園だった。
 俺のオンボロアパートはクーラーをかけても昼間は全然涼しくならないので、永司と二人で外に出たのだ。
 空にはギラギラと太陽が燃えており、俺は暑くて暑くて汗をかきながら自販機で買ったビールを飲んでいた。
 桜の木に蝉がとまって鳴き喚いている。
 公園の砂場で子供達が小山を作って遊んでいた。
「あの桜の木って、なんて種類なんだろ」
 俺が太陽に向って葉を広げている桜の木を見ながら何気なく呟くと、永司も同じように桜の木を見上げた。
「高砂じゃないのか?」
「高砂?」
 永司はコクリと頷く。
 俺はもう一度桜の木を見上げて、すでにちょっと温くなってしまっているビールを飲んだ。ビールの缶と同じ位、俺は汗をかいている。
 本当に暑い日だった。
「どこか涼しい場所に行こうか?」
 永司が俺の額の汗を服の袖で拭きながら訊いてくる。
「涼しい場所ってどこぉ?」
 暑くて暑くてベンチにバタンと倒れ込むと、夏の痛い程の日差しが目に飛び込んできた。
「俺の部屋」
「ヤダ。今日はセックスしたくない」
「別にセックスはしなくていいよ」
 永司は笑いながら俺の手を取り、立ち上がる。
 朝は雨が降っていたので永司は今日電車で来た。単車がないから俺のアパートまでチャリを取りに行こうと歩いていると、本当に暑くてぶっ倒れそうになった。ビールが全部汗になって出てきているみたいだ。
「タクシー拾おうか?」
 永司の言葉に首を振る。
 自転車置き場から自分のチャリを出して、後ろを指す。
「俺が前になるよ」
 永司がそう言ってサドルに座ったので、俺はステップに乗った。
 動き出した風景と共に、汗で濡れた身体を風が心地良く触れて行く。
「永司。なんか言え」
「何かって?」
「何でも良い。なんか言え」
 横断歩道を横切って女の子3人組を通り越し、ガタンガタンと踏み切りを越えて赤信号で止まる。自転車が止まると風も止まり、俺はまた暑くなる。
「何を話せば良いのか分からない」
「何でも良いって言ってんだろ」
「どうして話して欲しいの?」
「俺はお前の声が好きだ」
 信号が青に変わり、永司はまたペダルを漕ぎ出す。
 婆さんとサラリーマンを抜いて、突き当りを左に曲がった。
「俺の声は春樹の為だけにあるんだ」
 永司がポツリと言う。
「そうなん?」
「そうだよ。俺の声も俺の足も、手も腕も瞳も、全部春樹の為だけにある。俺の言葉は春樹の為だけに発せられ、春樹を褒め称え肯定する。俺は深海春樹のあらゆるものの為だけに生まれてきた」
 赤いポルシェが俺達を追い抜いて行く。
「今日の永司は詩人」
「本当の事を言っているだけだ」
 永司はクツクツ笑った。
 空には相変わらずギラギラと燃え続ける太陽があり 、高い上空に旅客機がノロノロと飛んでいた。
 俺は永司の肩に手を置き空を見上げながら、今日はコイツに抱かれるだろうなと思った。

 夢が変わる。
 顔を腕で覆った、蹲る子供がいる。
 電車の音がするが、どこにも電車は通っていない。
通っていないどころか、ここはプラットフォームでも駅でもなく、ただ真っ暗な空間だった。
「お兄ちゃんはきっと僕に近い人間の感情を一生理解できない。だから余計考えてもらいたい。前にも言ったけれど僕はお兄ちゃんが好きだから、だから考えてもらいたいんだ。今日のお兄ちゃんを見て、僕はとてもお兄ちゃんに優しくしたくなった。しかし僕はある日突然お兄ちゃんを殺してしまいたくなるかもしれない。いい?これはとても大事な話だ。こんなふうにお兄ちゃんに優しくする事はもうないかもしれないから、ちゃんと聞いて。人には相反する2つの感情がある。それは2つともとても大事な感情だけれど、お兄ちゃんの世界には存在しないモノだ。だからお兄ちゃんは世界の共有についてもっと考えなくちゃいけない。これは僕が人間に発する初めての忠告だ。忘れたら駄目だよ」
掠れた声の子供が言葉を切り、そして夢も終わった。



 目が覚めると、川口さんが俺の手を握って隣に座っていた。
 俺は目を擦りながら身体を起こす。
「おはよ」
「おはよう」
「どの夢が一番面白かった?」
「セーターの夢ですね。深海君を裏返すって面白い発想だと思いました。私から見れば、君の表は裏かもしれないし、君が見ている私は裏なのかもしれないと」
 川口さんは俺を見て微笑む。
 俺の手を握っている川口さんからは、やはり何の感情も伝わってこなかった。その手に意識を集中しても、強く握ってみても爪を立ててみても。
 俺はふと、萩尾望都の「スター・レッド」を思い出した。火星人の主人公セイには視力がない。モノの見方は人間のそれとは違い、視点が固定されず消失点もない多数のベクトルによってモノをとらえる。
 川口さんが人間のように視力によってモノをとらえていないのなら、もし蝙蝠のように超音波でモノをとらえているのなら、もし透視力で俺とは全く違う世界を見ているのなら…それでも俺と川口さんは世界を共有できるのだろうか。
「俺は今、渡れない河と登れない山を想像したよ。ねぇ川口さん。最後の夢で子供がでてきたでしょ?アレは俺が駅で倒れた時に喋ってた子供なんだけどね、あの子、世界の共有の話をしてたじゃん?俺は川口さんと世界を共有できるのだろうかって思うよ。俺の人の感情を少しだけ読み取る力と川口さんの記憶を読み取る力って、似てるけど全然違うじゃん?俺にとって川口さんは、渡れない河の向こうにある登れない山の、更に向こう側にいる人みたいだ。そこには海があるのかもしれないしまだ山が続いているのかもしれない。崖になっていて、その下には像とか亀が大地を支えているのかもしれない。渡れない河と登れない山。その向こうに何があるのかは分からないけれど、俺は川口さんに出会ってよかったと思う」
「どうして?」
「昨日一日でいろんなコトを考えた」
「私も、この三日間でいろんな事を考えましたよ」
 川口さんの微笑みを見て、俺はやっぱりこの人の笑顔は好きだなと思った。
「さぁ深海君。約束通り君を解放しましょう」
 そう言って川口さんが立ち上がった時、玄関から物音がした。
 川口さんは表情を変えずにそのままリビングに歩いて行く。俺はガンガンとドアを蹴るその異常な激しさで、相手が永司だと分かった。
「川口さん、早く」
 俺もリビングに行って川口さんを急かす。
 玄関からガチャガチャと鍵を抉じ開ける音がした。
 ピッキング――苅田が来てるんだ。
 三日間沈黙を続けていた俺の勘がここにきて急激に警鐘を打ち鳴らし始めた。
「川口さん早く!」
 川口さんがリビングのテーブルの上から鍵を取り俺の足元にしゃがんだ時、玄関のドアが勢い良く開いた。
「春樹ッ!!」
 永司の怒号と共に靴音。
 続いてリビングのドアを蹴り開ける音。
 ピンと張り詰めた空気。
 憔悴しきった顔の永司は俺を見て固まっていた。
 俺も川口さんも同じように永司を凝視していた。
 空気が凍りついたようだった。
 そこに苅田が現れ、俺の足元を見る。
 それにつられるように永司が俺の足元に視線を落とし、そこで凍りついた空気が音を立て一気に割れた。
 永司は何も言わず、ただ、俺の目の前で川口さんを渾身の力を込めて殴った。
「永司!」
 川口さんの身体が宙に浮き部屋の隅に叩きつけられる凄い音がした。
「苅田、永司を止めてくれ!」
「無理」
 苅田の冷たい言葉に歯軋りしながら俺は足枷の鍵を外す。永司が川口さんの左腹を蹴り、川口さんの肋骨が折れる鈍い音がした。
「永司やめろ!!」
 永司は俺の声など聞こえていないかのように、もう一度機械のように右足を上げる。
 足枷を外した俺は川口さんの身体の前に滑り込む。
 一瞬だけ永司と目が合った。
 永司の瞳は憎しみと狂気で一杯だった。
 本当に川口さんを殺しかねない瞳だった。
 永司の足がそのまま川口さんの左腹に落ちてくるのを見て、俺は身体を反転させ左腕でその足を止める。
――ッ!!」
 折れる!
 腕の骨が軋む音がし、左腕を支える右腕までもに衝撃が伝わった。俺はその力に抵抗するのを諦め、力を逃がすように部屋の隅に吹っ飛び壁に衝突する。腕は折れなかったが、全身で受けた衝撃に目が眩んだ。
「…ルキ」
 頭を振って見上げると、永司が震えながら俺を見ていた。
「永司。俺は大丈夫だし、この人には何もされてない」
 永司の蹴りを受けた左腕の感覚はなく、壁にぶち当たった背中が酷く痛んだ。
「どうして…コイツを庇う」
「今帰るトコだったんだ。今、お前の元に帰るトコだったんだ」
 永司は肩で息をしながら俺を見ていた。
 リビングには、永司の息遣いだけが響いているようだった。
「コイツに何された」
「何もされてないってば。お前が考えているようなコトは何ひとつされてないんだ」
「どうして連絡しなかった」
「それはごめん」
「俺は春樹がいなくなってからどれだけ…」
 永司が言いながら川口さんの髪を乱暴に掴む。
「やめろって!」
 さっきの衝撃で痺れている身体を動かし手を伸ばしたが、永司は俺に構わず川口さんの頭を壁にぶつける。
 イヤな音がした。
「永司やめろッ!!」
 間に入って止めようとしたが、永司は俺の手も俺の身体も払って川口さんを殴り続ける。
 何度か骨の砕ける音が聞こえた。
「永司!!」
 川口さんは血まみれだった。
 それは緑でも青でもなく人間の赤い血を頭と鼻と口から流し、それが殴られる度にビチャビチャと俺にかかった。
 このままじゃ――
「岬杜、そこまでだ」
俺が永司を殴る寸前に苅田の声がし、永司が倒れた。

「川口さん大丈夫?病院へ…」
――大丈夫。私はこれくらいされてもしょうがない事をしましたから。それより深海君。最後まで迷惑かけてごめんね」
 川口さんは顔中から血を流し、鼻が折れているせいか口の中が切れているせいか酷く聞き取り難い声を出しながら俺に手を伸ばす。俺は永司の身体を抱きながら川口さんの血でベトベトの手を取った。それは最後まで、何も伝わらない冷たい手だった。
 それから川口さんは血まみれの身体を動かし、寝室へと向って行く。
 扉に手をかけ、振り返ってボロボロの顔で俺を見つめた。
「本当にごめんね深海君。私は自分の故郷へ帰ります。さようなら。ありがとう。君に会えて良かった。君と話せて良かった。私は少しでも君を知る事ができて本当に良かった。それとね、もう時間がないから詳しくは言えないけれど、私は岬杜君の記憶を見ました。深海君。岬杜君も渡れない河と登れない山の向こう側にいる人ですよ」
 川口さんはそう言い、寝室に続く扉をバタンを閉じた。
 世界がそのまま扉を閉めたような音だった。
「深海ちゃん。アイツって頭イカれてる人?」
「俺も分かんねぇ」
 俺は呟きながら永司の頭を腕に抱き込む。
 本当に疲れきっている顔だった。
「苅田。このコトって警察沙汰になってる?」
「知らねーな。俺はただ岬杜に深海ちゃんを探せって言われて、今朝になって急にピッキングの用意して付いて来いって言われただけ」
「お前にも迷惑かけた。ゴメン」
「キス一回で勘弁してやるぜ」
 苅田が笑いながら永司を担ぎ上げた。
「お前、永司のあの剣幕見た後でよくそんな冗談言えるなぁ」
 俺は呆れながら苅田と一緒に玄関に向う。
「深海ちゃん。アイツ放っておいていいのか?」
「いいよ」
 川口さんにはもう会えないだろうと思った。
「おいおいマジかよ。この三日間何があったか知らねーけど、 そりゃいくらなんでも変じゃねー?」
「変かもねぇ」
 俺が玄関から廊下に出てドアを閉めた時、中から微かな音がした。それは真田の声のような独特なモノで、耳から入って来るというより身体の中に入って来るような音だった。その音が段々大きくなり、次第に金属音や空気の振動と混じって美しい音楽のように聞こえた。
「苅田、聞こえる?」
「何が?」
 苅田には聞こえていない。
 でも苅田に担がれている永司には聞こえているようだった。その証拠に永司の指が音に合わせて少しだけ動いている。
「行こ」
 俺は苅田と歩きだした。
 真実は足りない毛布だ。俺が今あの部屋に入って川口さんの正体を突き止めようとしても、俺の目で見えるモノが真実だとは限らない。
それに、きっとあの扉は開かないだろう。


 マンションの下には永司の単車が置いてあった。
「どうしてここが分かった?それに俺の母ちゃんが来てると思ったけど」
 俺はてっきり母ちゃん自ら乗り込んで来るかと思っていたんだ。
「なんか知らねーけど、鳥の後を岬杜が走ってたぜ」
 セリが来ている。
 俺が空を見ると、確かにセリが飛んでいた。
「セリ!」
 呼ぶとちゃんと来る。このセリが何代目のセリかは知らないが、この一族は皆異様に賢い。
「一杯飛んだろ?迷惑かけてゴメンな」
 俺がそう言うとセリはまた飛び去って行った。
 それから苅田に携帯を借りて母ちゃんに連絡。母ちゃんはいつもと変わらないような態度で俺に接し、「岬杜君を今度紹介してね。母ちゃん彼の声にフォーリン・ラヴ」などと脱力この上ない発言までかましてくれたので、俺は薄情な母ちゃんに文句を言って携帯を切った。
「深海ちゃんの家族ってどんなよ?」
「こんなんです〜」
 いつもと同じように喋りながら俺と苅田は永司の単車を移動させ、タクシーを呼んで永司のマンションへ向った。永司はずっと気を失ったままだったので、俺は苅田からこの三日間の話を聞く。
 俺が消えた日の夜中、苅田の携帯に永司から連絡が来た。春樹を全力で探せ、と。
 苅田は苅田で俺を探してくれた。苅田だけでなく、暁生も真田も砂上も緋澄も、皆で俺を探してくれた。
 永司は石塚にかなりキツク当たったらしいが、とにかく日が開けてからの早朝に、学校の裏校庭で俺の携帯が発見される。同時刻、苅田のツレがコンビニで俺の姿を見たとの情報。その日の昼、俺がずぶ濡れになって駅に向っているのを暁生のツレが目撃。
 しかしここからパタリと情報が途絶える。
 どこをどう探しても何の情報も出てこず永司が俺の母ちゃんに連絡を取り、そして鳥達が動いたらしい。
「永司って、寝てないんだろうね」
「当然だろ」
 マンションに到着し永司をベッドに下ろしてからリビングに戻ると、苅田が俺の身体を抱き締め髪にキスをした。
「深海ちゃん、俺も寝てねーんだぜ」
「うそ〜ん?」
「マジ。俺の可愛い深海ちゃんが心配だった」
 ニヤニヤ笑いながら俺を抱き締める苅田は、確かにちこっと顔色が悪かった。
「心配かけてゴメンねぇ。んでも俺、大事な永司を殺人犯にしたくないから浮気できないの〜」
「確かに今日の岬杜はヤバかった。あの変な男よりもヤバかった」
 苅田が笑いながら俺の髪を撫でる。
 永司が起きてからどう説明するか、苅田がストッパーとしていた方が良いのかそれともいない方が良いのか、色々考えてみたが結局俺は永司と2人で話をする事に決めた。最後に迷惑をかけたと礼を言うと、苅田は何度も俺の身体を抱き締め髪にキスをし帰って行く。
 それから俺は寝室に戻り永司の頭を抱いてやった。
 この三日間どんなに苦しい思いをさせてしまっただろうと思うと胸が痛み、永司の身体を離せなかった。







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