第10章 私の天使


 暖かで不思議な夢を見た。
 俺は母ちゃんの腕に抱かれている。
 視界全体が妙に眩しくて、目をパチクリさせながらぼやけている母ちゃんの顔を見ていた。
 空の向こうに何かを忘れてきたような気がして、俺はそれに手を伸ばす。何を忘れてきたのだろうか。それは俺にとってとても大事なモノだったような気がするのに。
「春樹」
 母ちゃんの声は優しく悲しい。こんな母ちゃんの声は初めて聞く。
「貴方には幸せになってもらいたい」
 母ちゃんはそう言って俺に頬を寄せた。
 俺はその温もりを感じながら目を閉じる。
 俺は空に何か大事なモノを忘れてきたが、母ちゃんは大地で何か大事なモノを無くしてしまったのではないかと思った。

 夢が変わる。
 俺は紅葉を見ながら夕暮れの中を歩いていた。
 隣には小学生の時の同級生がいる。
 俺達は学校で習った歌を口ずさみながら農道を歩いていた。
「深海君バイバイ」
 道の分岐地点で同級生が手を上げる。俺も笑って手を上げた。
 そして俺は1人で歩き出す。
 夕焼けを見ながら、今見えるこの空の色は一体何色なのだろうかと考える。俺には赤と紺とオレンジが混ざって、それを神様が微妙に手を加えたような色に見える。でも本当の空の色など誰も説明できない。
 紅葉を見ながら歩いていると、何の根拠もなく自分が不自然な存在のような気になった。例えばこの空と紅葉の中に絶対あってはいけないモノのような、そんな感じ。
 声をあげる。
 言葉だけが浮かんでは消え、俺は自分が怖くなる。
「春樹」
 夕暮れを見ていると姉ちゃんが迎えに来てくれた。

 夢が変わる。
 岸辺と一緒にマックでコーラを飲んでいた。
「深海君は世界から愛されているね」
 岸辺の言葉が浮かんで落ちた。

 夢が変わる。
 俺は永司と海辺を歩いている。
 打ち寄せては戻り、打ち寄せては戻り、岩に当たって飛沫をあげている波。水平線に沈んでいく太陽と、人の少ない海岸。
 俺は続いている岩をトントンと渡り、大きな岩まで行って永司を呼んだ。海の中に浮かんでいる小島のようなその岩の隙間に、青いカニを見つけたからだ。
 永司が同じように続いている岩をトントンと渡って来る。
 俺がカニを指すと、永司は楽しそうに微笑んだ。
 一生懸命隠れているカニを2人で見ていると、永司がそっと手を繋いできた。妙におずおずと、それでもちょっとだけ力を込める永司の手に、俺は新鮮さと共に性欲を覚える。
「明日はどこに行きたい?」
 低い声に身体が震えた。
「春樹?」
 不思議そうに俺を見るその瞳は何を考えているのか分からないけれど、繋いだ手からはいつも感情が溢れている。
 人は、人を完全に知る事が可能なのだろうか。
 見詰め合っているとキスをしたくなった。
 そしてキスをすると今度はセックスをしたくなった。
 身体はいつも正直だ。
「好きだよ」
永司の低い声にまた欲情し身体が震える。



 目が覚める。
 白い天井を見て、自分の今の状態を思い出した。
 よくこんな状態でここまで熟睡できるもんだと自分で自分の神経の図太さに呆れながら、俺は大きく背伸びをして身体を起こす。そばに置いておいたペットボトルの水を飲み、目を擦ってテレビをつけた。画面の左上に7時50分と出ている。それを見ながら立ち上がって身体に異変がないかチェックしたが、今日も何かをされた形跡はなかった。
 廊下に出て洗面所に向う。そこに置いてある使い捨て歯ブラシと新しい下着と服を見て、俺が寝た後に男がここに来た事が分かった。そりゃ俺は熟睡したけれど、それでもこの廊下に気配を感じたら起きるくらいの神経は使っていたつもりだったので少し驚いた。 あの男は気配を消せるのだろうか。
 パジャマを脱いで歯ブラシを持ち浴室に入り、シャワーのコックを捻る。足枷のせいで浴室のドアがちゃんと閉まらないが寒くはなかった。熱いシャワーを浴びながら永司の事を考える。永司はちゃんと寝ただろうか。
「寝てないだろうなぁ」
 呟いてみて、声が出せる事に気が付いた。良かった。これで男とあの面倒臭いやりとりをしなくてもいい。アレは異常に苛つくんだ。
 浴室を出て置いてある服を着て、そのサイズがピッタリなのに苦笑しながらリビングに向う。
「おはよう」
 男はキッチンで料理をしていたが、俺に気が付き振り返って笑顔で言う。
「もうすぐできるよ」
 足の鎖がギリギリ届く場所まで行き、俺はその場にペタンと座る。座ってしまうとソファーでテレビが見えないが、それでもそこで大人しく座りニュースを聞いていた。
 アジの匂いがする。朝食は和食のようだ。
 テレビから聞こえてくるニュースは普段と何も変わらなかった。芸能人の結婚離婚恋人発覚、スポーツニュースに株価の動き世界情勢、それにどこそこで火事があって放火の疑いがあるとかどこそこで殺人があっただとか。
 胡座をかいてそれらのニュースを聞いていると、男がトレーを運んで来た。
「お待たせ」
 言葉と共にトレーが滑って来る。別に乱暴に滑らせたわけではないけれど、お茶と味噌汁がこぼれそうになった。
 トレーの中はご飯と味噌汁、漬物、アジの開き、湯飲みに入っている熱いお茶。
「食べたくなかったら首を振って。コンビニでパンを買ってくるよ」
「いや、これでいい」
「あ、声出るようになったんだね」
俺が答えると、男は優しい微笑みを見せる。
「うん。いただきます」
 俺はトレーをベッドのある部屋まで持っていかず、そのまま床に胡座をかいたまま食べだした。男がそんな俺を見て、ソファーの上にある白いクッションを寄越してくれる。
「アンタのメシは?」
「私はいいよ」
 男もソファーから自分のクッションを取って、床に俺と向き合って座っていた。俺は男が自分を観察しているのを感じながら、せっせと昨日のお粥と同じくとても美味しい朝飯を食べる。
「メシ食いながらでもいい?」
 野沢菜に箸を伸ばして訊いてみる。
「どうぞ」
 男が答えた。
 俺は野沢菜の歯ごたえに満足しながら言う。
「…で、アンタ誰?」

 人を判断する時に一番気をつけなくてはならないのは、自分がどこまでクールでいられるかだと思う。ひとつの回答に惑わされたらそこで終わり。相手の表面は自分の表面だと思い、その表面をひとつひとつ違う角度から見て、そこからまた別の表面を覗く。
 人を判断する時。
【コイツは自分にとって敵か味方か】
 そんな両極端な判断をしなくてはならない時は、どんな時よりも慎重にならなくてはいけない。

「私は川口智也と申します」
 男はにっこりと微笑んで答えた。
「アンタ誘拐犯?」
「違います」
「俺は人質?」
「違います」
 川口は真っ直ぐ俺を見ている。
「そう。ならこの足枷はなに?」
「申し訳ありませんが、深海君を今自由にするわけにはいかないのです」
 俺は川口の瞳を見ながらポリポリと野沢菜を食べていた。
「アンタの目的は?」
「私の目的は平和の糸口を探す事」
 川口の答えは、子供向けアニメのヒーローみたいだった。
「本当の目的は?」
 川口は黙ったまま微笑している。
 俺はトレーに視線を落とし、この辺りでは珍しい赤味噌の味噌汁を啜った。中身はシジミだ。
「俺、アンタと会った事ないよね。でもアンタ、俺の事知ってるよね」
「知ってます」
「なんで?」
 川口はまた黙る。
「永司は関係ある?」
「岬杜君は関係ありませんよ」
 俺はそれを聞いてから一旦質問を中止し、ご飯と一緒にアジの開きを食べた。それから最後に残った味噌汁を飲み、熱いお茶を避けておいて「ごちそうさま」と言いながらトレーを戻す。川口がトレーを持ってシンクで片付けをするのを見ながら、俺もベッドがある部屋に行って煙草と火と灰皿を手にし、それからもう一度リビングへ戻った。
 お茶を一口飲んでから煙草に火を点ける。
 俺は石塚がよくやっていたように、自分の両手を広げてそれをじっと見つめた。
 何が見えてくるのか、そこに何があるのか。俺の目は見えているのか、この手に力はあるか。
 川口が食器を洗い終わり、またさっきと同じように俺と向き合った。
 俺は煙草を消す。
 そしてお茶を一口。
「本当に明日解放してもらえるのかなぁ?」
「解放します。約束します」
「でもアンタ昨日、『俺をここに監禁しなくてはならない、かなり込み入った事情がある』って言ってたじゃん?その込み入った事情が更に込み入っちゃったらどうすんの?」
「大丈夫です。明後日には」
 川口が俺を見詰めている。その視線は別にこれといった独特なモノではなかったが、少しだけ気になった。
「ふぅん。んで、そのかなり込み入った事情って?」
 川口はまた黙る。
 なんて怪しいんだろうと思いながらも、俺は他人事のように川口の視線を感じていた。どうしてか昨日から、全く緊張感がない。
 俺も、この男も。
 2本目の煙草を取り出して火を点ける。
「アンタにどんな事情があるかは知らねぇけど、これは犯罪だって分かってるだろうな」
「分かっています」
 川口はちゃんと真っ直ぐ俺の目を見て答える。
 俺も川口の瞳を見ながら話す。
「俺ねぇ、もう帰りたいのぉ」
「明日には必ず」
「永司の元に今帰りたいのぉ。俺ってば永司に毎日抱いてもらわないと、もんの凄く身体が疼くのよね〜。永司ってエッチも上手だし、それにすんごくデカくてタフでさぁ。最高なの。んでももう2日ヤってないじゃん?今日もできないじゃん?アンタ相手してくれるぅ?」
 俺はニコニコ笑いながら足を伸ばしてブラブラさせる。
「できません」
「アンタ男は抱けないの?」
 川口は薄っすら微笑んで俺を見ている。
「俺、抱いてくれるんなら抵抗しないよぉ?」
 川口はピクリとも動かないし、その瞳も揺れない。無機質なその瞳は、何も見えていないのか何もかもが見えているのか、それさえも俺には読めなかった。永司や姉ちゃん母ちゃんのように深い、とかではなく、緋澄のように流れているのでもなく、本当に俺が初めて見るタイプの瞳だった。
 俺はトントンと煙草の灰を落とし、こりゃ誘っても無駄そうだと思って話を続ける。
「アンタさぁ、普段何やってる人?」
「先日会社を辞めましたので、今は何もしていません」
「明日高飛びするとか?」
「そうですね」
 そうですね…ってか。
「どっかアテはあんの?」
「私は自分の家に帰ろうかと思います」
「実家か?」
「はい」
 こんなにペラペラ喋って、コイツは何を考えているのだろうか。明日俺が解放されたとして警察に全てを話す事が前程だとして、この余裕は一体どこから出てくるのだろう。 それとも俺は明日…。
「ね。もしかしてアンタ、マジチャカとか持ってるの?」
 俺の言葉に川口が目を見開き、そして額を抑えながら笑い出した。
 意外な言葉を聞いたと、そんな感じの笑い方だった。
「持ってませんよそんな物騒な物」
「俺、見てみたい」
 川口はまた笑う。
「だから持ってませんって」
「改造銃?トカレフ?それとももっとカックイイやつ?俺、できるならワルサーP38とかマグナムとかリボルバーとか南部とか見てみたい」
「見てみたいと言われましても」
 川口は楽しそうに言い、立ち上がってキッチンに向った。インスタントのコーヒーの瓶とコップを出し、沸騰している湯を注ぐ。お茶のおかわりはいるかと訊かれたが断った。
 川口は本当に分からん奴だが、雰囲気はおっとりしていて危害はないような気もする。確かに俺の勘は何も言わない。俺の勘は何も言わないどころか、昨日目覚めてから今まで俺の身体は変にリラックスしている。
 これって変じゃないだろうか。いくら俺が図太い神経の持ち主だからって、永司に初めて抱かれた時だってもうちょっと緊張したのに。
 考えていると川口がコップを持って戻って来た。またさっきと同じ場所に座る。
「ねぇ、アンタどうして妙に優しいの?」
「冷たくした方が良いですか?」
「なんっちゅうか、緊張感が出ないのよ」
 川口がまた笑う。
 俺はお茶を飲みながら、何故川口の瞳や顔立ちは機械のようなのに、笑顔だけはこんなに穏やかなのだろうかと思った。
「何かさぁ、普通はもっと違うっしょ?こう、口なんかもガムテープ貼られちゃったりして、身体もロープとかでグルグル巻きなわけ。そんで食い物もほとんど無くて、そんでもって俺が『トイレ』とかって言うの。そしたらアンタが『ここでしろ』とか言ってバケツとかおまる持って来たりするわけ。俺、そこで『そんな〜』とか言って文句言うと、刃物で脅されたりしちゃってさぁ」
「私は深海君の味方なのですが、それでもそんなのが良かったですか?」
「いや、別にそれが良かったわけじゃねぇけど」
「おまる用意しましょうか?」
「俺、あひるのおまるが良いのぉ」
 どうしてこんな馬鹿話をしているのか不思議なくらい、俺も川口もリラックスしていた。俺は自分の立場が分からず明日になれば最悪殺されるかもしれないのに。そして川口だって今にでも警察が乗り込んできて逮捕されるかもしれないのに。
 しかし、確かにこの部屋だけは別世界のような気がした。
「ねぇ。アンタ、ホントは何者なのかなぁ?犯罪を犯しているにしては緊張感がなさすぎるし、犯罪に慣れているにしては悪意が感じられない。悪意は隠そうと思えば思う程匂ってくるモノなのにねぇ」
 俺は今まで悪意を完全に隠し通す人間に出会った事がない。
「君は人の感情だけでなく悪意も感じる事ができるの?」
 川口がコーヒーを啜りながら言う。
 俺は今川口が口にした言葉を心の中で繰り返す。
「感情と悪意は違う。感情は伝わるモノだけれど、悪意は匂うモノなんだ。ソレには脱臭剤も芳香剤も効かない。そして悪意は人から匂うモノの中で最もキツイ匂いがする」
「悪意を持たない犯罪の場合は?」
「悪意を持たなくても、犯罪に関わる以上後ろめたさを感じるのが人間だ。後ろめたさも悪意もない犯罪者なら、俺の身体はそれなりの反応をする」
「深海君。君はそんなに自分の力について他人にベラベラ喋って良いの?」
「アンタはどうせ俺の力に気付いているだろう?」
 川口は微笑したまま口を閉ざした。
 俺はその瞳を覗き込む。だが、やはり何も見えない。
「アンタ、マジで何者?」
 煙草を揉み消し俺は訊く。
 だが、男は微笑したまま何も答えない。


 ベッドのある部屋に戻ってごろりと横になった。
 あの男は何者なのかは結局分からないままだが、相変わらず俺の身体は何も反応しない。
「困った」
 あの男は理解不能。納得いかないのテンコ盛り。
 そして、俺自身が何かに妙に引っ掛かっている。何が引っ掛かっているのか自分でも分からないのだが、それでも俺は重要な事をひとつ見落としているような気がした。
「もう少しなんだけどなぁ」
 首を傾げながら、本棚に並べられている雑誌の中からニュートンを取った。これは俺も購読している。リビングから持ってきたお茶を飲みながらパラパラとページを捲り、それが終わると文庫本のほうに手を伸ばした。何を読もうか悩んだけれど、「今を生きる」を取り出す。ベッドに寝転んで本を開いたが、やっぱりどうも読む気になれなくてテレビを付けた。
 一日中ゴロゴロしているのは身体な鈍ってしょうがないけれど、それでもする事がなかったのでずっとテレビを見ていた。
 昼に一度川口に呼ばれた。昼飯だろうかと思ったが俺は腹が減ってなかったし、それにもう少し考え事をしていたかったので無視したが、川口は一度呼んだだけで後は何も言ってこなかった。俺は何も食べずにテレビから流れる言葉や映像を流していた。
 お昼に一回と夕方遅くに一回トイレに行って、持ってきたお茶が切れると昨日のミネラルウォーターを少し飲んだ。暇だったので煙草は随分吸った。

 パズルは苦手だ。
 でも、俺は永司の元に帰らなくてはいけない。


 夜の7時に川口が俺を呼んだ。
 朝から何も食べてなかった俺は立ち上がりリビングに行く。
 扉を開けると川口が振り向き、俺を見て微笑した。
「良かった。来てくれたんだね」
 キッチンからサバの匂いがしたので、俺はまた朝と同じように床に座りコツコツと指で床を鳴らしながら飯を待った。明日自分がどうなるのかは分からないが、俺の身体はずっと沈黙しているままだ。
 川口が飯を持って来た。今日の夕飯はサバの味噌煮と味噌汁と茄子のお浸しだ。
「ビールちょうだい」
 俺の言葉に川口は苦笑したが、それでも冷蔵庫から缶ビールを持って来た。
 こんな贅沢な監禁は聞いた事がない。
「アンタのメシは?」
「私はいりません」
「そう。んじゃ、いただきます」
 川口が作った飯はやっぱり美味かった。俺の好物ばかりが並んでいるトレーをつつきながら、ビールを飲む。半分くらい食べてから胡座をかいていた足を組替え、また黙々を飯を喰った。
 川口はずっと俺を見ているだけだった。
「ねぇ、俺さぁ」
「何ですか?」
「大事なコト思い出した」
「そうですか」
 川口はにっこり笑って俺を見詰めている。
 俺はそれを感じながら、ただひたすら飯を喰った。

 パズルは苦手だけど、俺は永司の元に帰らなくちゃいけない。

 飯が終わると新しい煙草と熱いお茶を要求し、川口が俺が使った食器を洗っている間に一服した。美味かったと言うと川口は嬉しそうに礼を言った。
 そしてまた、川口が戻って来て俺の正面に座る。
 窓から見える空はもう暗く、仄かに街の明かりを照らしているだけだった。
 ベランダの手摺りに停まっている一羽のカラスと目が合う。
「川口さん、俺はアレが気に入ってたんだ。返して欲しいな」
 カラスは俺を見て、飛び立っていく。
 暗闇の中に消えていく黒い姿を見てから、俺は川口の瞳を覗き込む。
「何をですか?」
「茶色のチョーカー」
 川口の瞳は全く揺れないが、俺は視線を逸らさず言葉を続ける。
「アンタ、ストーカーだろ?アンタの視線がずっと引っ掛かってたんだけど、さっきやっと思い出したよ。アンタ、うちの学校の警備会社の人間だ」
 川口は何も言わない。
「アンタの視線ってちょっとだけ特徴があってね、悪意も性欲もしつこさも感じないけど、つい振り向いちゃうようなモンを持ってるんだよ。アンタ、学園祭の時も監視カメラでずっと俺を見てたろ?あの時は分かんなかったけど、今は全部が繋がった気がする。アンタはずっと校門の監視カメラで登下校する俺を見ていた。俺はたまにアンタの視線を感じていたが、まさかカメラの視線だとは思わなかったし、アンタの視線には悪意がなかったから気にしなかった。俺の部屋にアンタが入った時も人の気配しか感じられなかったけど、それでもアンタのその、 何もない感情と同じモンを感じたよ」
 川口は何も言わないし、眉ひとつ動かさなかった。
「ここまでは正解のはず」
 川口はやはり何も言わない。
 俺は新しく煙草に火を点け、煙を肺に入れる。
「でもさぁ、アンタに拉致られてからずっと不思議に思ってた事があるんだ。どうして俺は逃げようとしないのだろうか、ってさ。明日本当に解放されるかどうか分からないのに、俺は逃げようと思わない。ねぇ、どうしてだと思う?大声出したり、窓打ち破って助け呼んだり、逃げようと思えば逃げれるよねぇ。それでもそんな気にならないんだ。俺はずっとそれが不思議だった。今も不思議だと思ってる。今日一日ずっとその事考えてたんだけど、捻り出した答えはちょっと変なんだ。でもそれしか思い浮かばなかった。聞いてくれる?」
「どうぞ」
「アンタ、催眠術使えるの?」
 川口がクスリと笑った。その笑顔が本物か偽物かも分からないし、それがどんな笑みなのかも分からない。
 俺の推測は合っているのか間違っているのか。
「面白い推理です。よかったらどうしてそんな言葉がでてきたのか教えて下さい」
 淡々としたその喋りに惑わされぬよう、俺は一息吐いてからもう一度煙草の煙を吸い込む。
「昨日今日と不思議な夢を立て続けに見た。それは夢と言うより俺の記憶と言った方が近い。俺のちっこい頃の記憶から永司と暮らすようになった最近まで、ちゃんと順を追って続いて行く夢だ。それは別に、たいして気になるコトではなかったんだけど、アンタは昨日から俺の好物ばっか出すんだよね。ココアのクッキーとかサバの味噌煮とか茄子のお浸しとかさ。極めつけは赤味噌の味噌汁だ。赤味噌って使う人あんまりいないって知ってた?全国シェアで言うと5%程度なんだよね。まぁとにかく、いくらストーカーだからってあんまり細かい所まで俺の嗜好を知ってるもんだから、それらひとつひとつが気になった。そんで、もしかしたらアンタは俺の夢を覗いてるのかもしれないって思った。夢を覗くってか、催眠術で導き出すってかさぁ。そんで、催眠術って単語が出てきたら俺が逃げないのも辻褄が合うコトに気付いたのよ」
「催眠術が使えるなら、私に攻撃しないようにだってできるはずです。そんな足枷をしなくてもここから逃げないようにもできる」
「確かにそうなんだよねぇ。でも、なんでかアンタは俺の事全部知ってるでしょ?俺の能力も知ってるはず。そこで俺はウムウムと考えた。……いや、今考えてるからちょっと待て」
 煙草を口に挟んだまま腕を組みムウムウと唸っていると、川口がまた楽しそうな顔をする。整った二次元的な顔が少しだけ身近に感じた。
 身近に……。
「よし、考えたぞ。これは多分合ってると思う。俺は今、こう頭に浮かんだ。『この男は俺と同じように不思議な力を持っているのかもしれない』と。その能力は俺のように他人の感情を少しだけ読み取れるモノではなく、他人の夢に入り込んだり他人の記憶を覗いたりできるモノかもしれないと。どう?合ってる?」
「合ってます」
 俺は自分で言っておきながら、川口が肯定した事に驚いた。
「んじゃ、俺はどうしてアンタをイヤがらないかの問題は?俺はどうしてここから逃げようとしないのかなぁ?アンタからは性欲を感じないけれど、とにかく俺の勘は動かない。アンタは一体何をしようとしているのかも分からない。これもアンタの能力のひとつ?」
「違います。私の能力は他人の記憶を見る事だけ。深海君がここから逃げようと思わないのは、深海君が私を信じているからでしょう」
 信じている?
 そうだろうか。俺はただ、分からないだけ。そして自分の勘が何も言わない以上、分からない状態のまま無駄に動きたくないだけ。
「まぁいいや。そーゆーコトにしときましょうか。んじゃさ、一番俺が疑問に思ってる事訊くね。アンタ、俺の記憶まで読んで何がしたいの?ストーカーだから俺の全部が知りたいの?ストーカーのくせに性欲がないのは何故?もしかして足枷している俺のこの格好がたまんないとか?足枷フェチとか?」
 川口がにっこり笑った。
「深海君は私の天使なんです。私はもうすぐ自分の星に帰りますので、最後に君の記憶だけでも見てみたかった」
「自分の星ってなによ?」
「私は宇宙人です」

 俺の勘は腐ってしまっているのだろうか。
 川口の言葉に苦笑しながら、俺は白い天上を見上げて煙草の煙を吐き出した。







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