真田の言う通り永司は本当にすぐ戻って来た。
どこから戻って来たのか分からないが、とにかくザクザクと社の裏から歩いて来た。
そんで、手を繋いでいる俺と真田を見るなり「珍しい」と呟き、左手に携帯を持ち近付いてくる。俺は心配していたのに、本人は何も考えてはなかったようだ。
「何してるの?」
「お前を探してたんだよ〜」
むぅとして口を尖らせながら言っても、永司は繋いだ手をしつこく眺めている。それに気が付いた真田がニヤニヤしながら俺の手を握り締め「ヒジキに愛の告白をされた。どうしようかのう」などとほざいた。
「お前、あんまヘンな場所行くなや。心配になる」
真田の手を離そうと手を振りながら言うと、真田は今までの態度を一変させやけに元気そうに「ヒジキに乳を揉まれたーーっ」とか「ヒジキに押し倒されそうになったーーっ」とか「思わず勢いで契りを交わしてしまったーーーっ!」とかって楽しそうに叫びだした。どこにそんな元気が残ってたんだコイツは。
俺は手を離そうと、真田は手を離すまいと互いに必至になっていると、また永司の携帯が鳴る。
「とにかくもうウロウロすんな」
またどこかに消えられたら困ると思ってそう言うと、永司は頷きながら鳥居の方に歩き出す。さすがに寒くなったのだろう。戻るつもりのようだった。
永司が背を向けた途端に用無しと言わんばかりに真田が手を離したので、思わずガクっとよろめく。ムキーとなって真田を睨むと、真田はポンと手を打って人差し指を突き出した。
「ヒジキがとても良いことを教えてくれたから、私もお前に良いことを教えようかの」
俺がいつ真田にとても良いことなんて教えただろうか?もしかして井の中の蛙のことか?
「なに?とりあえず聞いとく〜」
「ホーミングのことだがの」
全然期待してなかったのに、永司に関してだということが分かり急に興味を持った。真田は時々姉ちゃんみたいに暗示めいたことを言う。
「永司がなに?」
「アイツ、山の民がハッキリ見えるみたいだぞ」
「俺も見えたよ?」
「ハッキリか?」
そう言えば、そんなにハッキリとは見えなかった。こう、ぼんやりと見えただけだ。
「見える者には見えるが、そんなにハッキリ見える者はそうそうおらん。でもヤツには見えるみたいだ。あとな、私の声が聞こえるらしい」
「俺も聞こえる…つか、それは皆聞こえるぞ?」
ポカンとして答えると、真田はじっと俺を見た後ゆっくりと口を開けた。
唇が動く。でも何も聞こえない。
さっきと同じように何か喋っているのは分かるけど、何を言っているのか理解できない。
「聞こえたか?」
真田が普通に声を出す。
「いや。それってなんなの?」
「山の民が使う言葉らしいが私にも分からん。ただ、昔から聞こえてたから私もいつの間にか話せるようになってた。この声を聞ける人間は今までいなかったのだが、どうもヤツには聞こえるらしい。コッチに来てから気がついたのだが、私がこの声で話す度にヤツが反応してるんだ」
真田はなにか一生懸命俺に説明しようとしているのだが、どうもうまく言葉にならないみたいだった。なんとか説明しようとするその懸命さに少々押され気味になりながらも、俺は真田の言うことがイマイチよく飲み込めない。
「結局、永司はなに?真田と同じモノを持ってるってことか?」
「似ているが全然違う。アイツは山の民どころか、私やお前にも見えないもっと全然違うモノまで見ている気がする。岬杜永司は私とは…いや、私達とは、【根源】が違うぞ。もしかしたら、岬杜永司は私達とは種類の全く違う異形の者なのかもしれない」
真田は俺の目を真っ直ぐ見詰めたまま懇々と言葉を吐く。俺はその言葉を飲み込もうとするのだけれども、どうしても大事なところが見えてこない。
根源が違う。
違うモノを見ている。
確か川口さんも永司のことを……。
あの時川口さんが何を言ったのかを思い出していると、真田が階段からピョンと飛び降りて歩き出した。見上げると空はまた灰色の雲に覆われ、さっきまで見えていた北アルプスは幻のように俺の脳裏に焼きついているだけだ。
永司は北アルプスに気がついただろうか。
ゴチャゴチャと浮かぶ言葉やイメージに脳を揺すられながら、俺も真田の後に続き屋敷へ戻った。
岬杜重工の格納庫放火事件は思ったより多くに波紋を呼んだらしく、結局永司は明日帰ることになった。
永司は俺に「ゆっくりして行けば良い」と言うのだが、俺も一緒に帰ることにする。明日から永司はウロウロとそこらじゅうを飛び回るのだろうから俺が帰っても意味はないだろうとは思うんだけど、指先で畳をトントンと叩きながら携帯と睨めっこしている珍しく苛ついた様子の永司の側にいたいと思ったからだ。
オセチを食べながらその事を報告すると、それじゃ皆で明日ここを発とうって話になった。なにせここには何もない。みんな暇なのだ。学校が始まるまでずっと長野にいるつもりの苅田達は、野沢に行こうか軽井沢に行こうか志賀高原に行こうか妙高に行こうか、はたまた八方尾根に行こうかなど話し合っていたのだが、結局は暁生の父親のツテで空いているホテルを探してもらい妙高に決定したようだった。
俺は妙高に行く苅田達を羨ましいとは思わない。ただ、ただ、ただ。せっかく長野に来たのだから蕎麦星人の深海くんとしては戸隠の蕎麦を喰いに行きたかった…とかとか、かなり思ってる。
でもでもそんなことは言っていられないので、脳内で戸隠の蕎麦に思い切ってバイバイと手を振り帰る準備をしていると、またもや永司がいないことに気がついた。なんて落ち着きがないんだと思いつつ探してみたけど、やっぱりいない。どっかの国のエージェントでもあるまいし、なんでそんなにコソコソしなけりゃなんねぇんだ。しょうがねぇなと思いつつ永司の分の荷物も纏め、それも終わった頃には苅田も暁生もいなかった。永司は勿論帰って来てない。
待っていれば戻って来るだろうとは思いつつコートを羽織って外に出てみると、裏庭に人影が二つ。苅田といつものお手伝いさんだった。暗闇で何を…つか、こんな時は見て見ぬ振りをするべきなのか?と何故かコッチがちょっと焦ってしまっていると、足音に気付いたのか苅田が手を上げた。
「お、おう」
まだちょっとアセアセしながら返事をすると、お手伝いさんがペコっと苅田に頭を下げてこっちに向かい、俺を見てニコっと笑うとそのまま屋敷に戻って行った。なんだったんだろう。邪魔したのか、それとも妻子持ちであるお手伝いさんを自称「愛の伝道師」本性「ただの性欲魔人」の苅田から守ったのか、どっちにしろ俺は苅田に近付き永司を見なかったかと聞いてみた。でも、永司はこっちに来てないらしい。
「お手伝いさん、口説いてたん〜?」
ナハ〜と笑いながら訊ねてみると、苅田もニタァと笑う。
「タエちゃんは俺の好みじゃねぇからなぁ」
あのお手伝いさん、タエちゃんって名前なのか。
「なにコソコソしてたの〜?」
「口説かれてた」
「うそ〜ん」
「本当ー」
苅田はニヤニヤしながら俺の腕を引き寄せて腰に手をまわす。コイツの脳味噌は本当に俺と永司の関係を理解できているのだろうか。
「苅田さん。ハルコはもう指名制のお店を引退しちゃったの。だからもうハルコのことを忘れて、新しい人を見つけてくださいっ。ぐすん」
オヨヨと泣き真似をしつつ苅田の腕から逃れようとすったもんだしてみても、コイツのぶっとい腕はびくともしない。
「深海ちゃーーん。そろそろ岬杜に飽きてきただろ?俺はいつでもお前を待ってるぜ?」
「待ってくれんで結構!」
苅田から逃れようとガオガオと暴れてみても、コイツは調子に乗って更に力を込めて抱き締めてくる。こうなってはもう何をしても無駄だと思って力を抜くと、苅田は神社に向かう階段の柵に腰を下ろし俺の体を自分の膝に乗せる。結局いつものハッスルタイム状態だ。
「そういやさー。深海ちゃん、前にフェラチオの話したじゃん?」
「んぁー?」
あーあと思っていると突然なんの脈絡もない話をされ、俺はかなり間抜けた声を出した。
「岬杜がさせてくれないとかなんとか」
「ああ、したした」
そう言えばそんな話もしたなぁ。
「結局どうなった?」
「全然ダメ。何をしても言っても無駄みたい」
なんでさせてくれないかは、このまま永遠の謎に終わるのだろうと諦めていた。
「今ふと思い出したんだけどよ、俺が岬杜と学校の屋上で二人きりになった時、フェラチオの話をしたことがあるんだよ」
なんでそんなヘンな話を…と思ったが、興味をそそられた。話を促すためにフンフンと頷き苅田を見る。
「最初はいつものように俺が一方的に喋ってた。フェラの話じゃなくてただの下ネタ話。そんで、なんとなくフェラの話になったんだよ。俺が『咥えてもらってると、どうしようもなく凶暴な気分になる時がある』とかなんとか言ったんだ。したらよ、それまで黙って煙草吸ってた岬杜が俺をじーーっと見るわけだ。そん時俺は、あーコイツは俺と同類だな、と思った」
苅田はいつの間にかニヤニヤするのを止めていて、俺を試すように見据えていた。
「それは同類多いんじゃねぇ?俺だって咥えられてるとたまに……」
「――深海ちゃんには分からないよ」
決め付けるような強い口調で遮られ、俺は息を吐いて口を閉じた。
「深海ちゃんには分からない。俺や岬杜の身体ン中にあるモンがお前にはない。それに【凶暴な気分】ってのは、髪掴んで殴りながら好きなだけ犯しまくるとかそんな甘いモンじゃねぇぞ?
大体な、俺達が抱えてるモンが頭をもたげるのは咥えられてる時だけじゃねぇ。舌ァ捻じ込みながら惚れた人間愛撫してる時だって、突っ込みながら身体揺すってる時だって、そうなる時はなる。それどころか、身体の一部が触れてるだけの時だって…例えば、オメェの細ッこい腰に手を回してる時や緋澄のどこ見てるのか分かんねぇ目を見た時にだって、なる時はなる」
苅田はいつになく真剣だった。
何故突然こんな話をしだしたのかよく分からない。
「だからなんだよ。俺は永司だったらそうなっても良いんだ」
シンとした夜の空気に反応するように、俺達の間には硬い空気があった。
「そうなってもイイ?」
「良い。俺は永司を受け止め、受け入れる」
「お前は全然分かってねぇ」
腰に回していた苅田の腕から力が抜けた。でも俺はそこから動かず苅田の瞳を見詰める。それは暁生が言うオスそのものの瞳だ。
「俺はね、苅田。夏の暑い日に川に入って水草の匂いと石の焼けた匂いを嗅ぐのが好きだよ。ギラギラしてる太陽の下で海の匂いを嗅ぐのも好きだよ。八朔の皮を剥く音とかその時に感じる匂いとか、最高に好きだよ。
でも、永司の匂いはそんなんじゃない。アイツはいつも極端に違うモノを持ってるからだ。でも俺はね、アイツの中にある、酷く嫌な匂いがする…お前の言った【凶暴なモノ】とかまで全部ひっくるめて、受け入れようって思ってるんだ。そう思うくらい、俺は永司が好きなんだ」
「それがどんな事か…」
「分かってるんだ。永司を怖いと感じる事もある」
今度は俺が苅田の言葉を遮る。
他人にはあまり言いたくなかった。でも、分かってないと言われるとちゃんと分かっているんだと言い返したくなったんだ。特に永司についてだと、俺が一番側にいて一番理解しているんだと言いたかったんだ。
苅田は言葉を捜すように一度視線を逸らし、2回大きく溜息を吐いたところで結局何も言わず立ち上がった。俺はつま先を立てて雪の上に足をつき、苅田の胸をポンと叩いて歩き出す。
また厚い雲からチラチラと雪が降り始めている。
「確かに永司と苅田って似てるトコあるよね〜」
「似てるけど全然違うぜ。【根本】が違う。俺は岬杜みてーに根暗じゃねぇし」
根源とか根本とか、なんだか今日はそんなんばっかだ。
永司を根暗と呼ぶ苅田に軽くキックをかまして屋敷の玄関に戻ろうとすると、後ろの山の方から何かの気配がした。
苅田もそれに気がついたらしく、二人で振り返ってみる。
「……なに?あれ」
雪の中に微かに見えるものに目を細めながら訊ねると、苅田も首を傾げた。
「ただの山犬に見える。……けど」
俺達を見ているその獣は、目だけが異常にギラギラと輝いているようだった。確かに中型の犬に見える。茶色の、普通の犬に見える。けど。
「けど、なんか珍しい犬だな。四肢と耳がやけに短い。尾もちょっと変わってるぜ」
俺は犬に詳しいわけじゃないけど、確かに苅田の言う通りちょっと変わった犬だった。普通の犬よりもずっと貫禄がある。そう言えばここの神社で見た変わった狛犬にソックリのような。
なんだろうと思っていると、山犬はすぐに向きを変えて山に戻って行った。
犬らしきものが見えなくなると俺達もすぐに興味を失い、段々と激しく降って来た雪に震えながらまた歩き出す。
途中、山の斜面に無理して作ったみたいな木納屋の裏から携帯を片手に持った永司が出てきた。「ヘンな場所に行くなって言ったろう」とブツブツ小言を口にしてみたが、永司はあまり反省していないと思う。
その夜、最後の夜だからって真田のお兄さんが宴会を開いてくれた。こっちに来てから宴会ばっかのような気がするけど、真田家の人達は皆本当に良くしてくれたんだ。一見無口で暗そうなお手伝いさん達も、真田のいない所で喋ってみると皆親切で気の良い人ばかりだった。いつも俺達を気遣い、突然の訪問にも関わらずガキである俺達に最後まで有難いもてなしをしてくれる。真田の両親は一度も顔を見せなかったけれども、それでもこのもてなしは彼等の心遣いなのだろう。
女中頭らしいバーサンの許しを得て、タエさんも遊びに来た。
みんなで喰って飲んで騒いで、そんなんはいつもと変わらない休日なのにとても楽しかった。
そんな中、何時の間に眠ってしまったんだろう。
真田の夢を見た。
今より少し幼い真田。
中学生くらいだろうか。
そんな真田が自分の部屋であり自分の家だと呼ぶこの離れの洗面所で突っ立って、むっとしながら腕を組んでいる。
真田の目の前にあるのは、ポツンポツンと淋しそうに水漏れてしている蛇口。
それと、その漏れを直そうと真田が買って来たらしい工具一式。
真田はウォータープライヤーを使ってグランドナットを外そうとしたけれど、止水栓を閉めてなかったから水が溢れてきて困っている。
灯油の缶を持って来た使用人らしき中年の男性が一人、コチラに向かって廊下を歩いて来る。
真田は彼を一瞥しただけで、何も言わず止水栓を捜している。
男性は灯油缶を置くと、水浸しになってしまった洗面所を見て手伝いましょうかと言いながら近付いた。真田は無視して見つけた止水栓を閉める。男性は手伝いたそうにじっと見ていたが、真田が彼の視線に気がついて勢い良く洗面所の扉を閉めた。バンと大きな音が鳴るほど、強く扉を閉めた。
男性は諦めたような表情を浮かべ、そのまま廊下を歩き去って行った。
真田はまだ蛇口と闘っている。
グランドナットを外してスピンドリルごと取り中を覗いていたが、コマを変えることもせずそのまま考え込んでいる。どうして良いのか分からないようだ。
暫くそのままじっとしていたが、結局真田は諦めて蛇口を元に戻した。
蛇口は直ってない。
廊下には誰もいない。
ポツンポツンと淋しそうな音がする。
目が覚めた俺がまず一番最初にしたことは、永司におはようを言う事ではなく顔を洗う事でもなく、真田を起こして買った工具一式を見せてもらった事だ。真田は驚いていたが、洗面所の下にある棚から工具を取り出してくれた。何をどうすれば良いのか分からなかったのだろう。とりあえず揃えれるだけ揃えたらしく、工具は業者並だった。
「真田、見てみ〜?ハンドルの下から水が漏れてるだろぉ?これはただ、三角パッキンが痛んでるだけなんだ」
説明しながら手際良くビスを外し、スピンドルからハンドルを取る。それからグランドナットを外して中の三角パッキンを交換する。
真田は興味深げに俺の説明を聞き、素直に蛇口が直った事を喜んだ。
真田はえらく屈折したヤツだ。
鬼達に子守唄をうたい、山姫に愛され、人々を嫌い、憎み、人々から嫌われ、憎まれ。
そして山そのものからも愛され、囲まれ。
それでもコイツはエウロパだ。厚い氷の下には深い海がある。そして矛盾を抱えたエウロパは、その深い海に多くの生き物を育んでいる。
信州から戻って来た永司は、そのまま事件のあった工場へと飛んでしまった。
一人残された俺は日払いのバイトを探して時間を潰した。
永司が帰って来たのは結局5日の朝で、それからずっとしてなかったセックスをした。
朝っぱらから、だ。
ハルコのケツの事も考えてねぇと、パジャマを脱がされながらカワイク言ってみたけど、俺の声はきっと永司の左耳から入ってそのまま右耳へと抜けていったに違いない。何故なら、かなりしつこいセックスをされたからだ。
もう嫌だと言っても永司は俺の身体を離そうとはせず、ただひたすらに俺の身体に唇を這わせ愛撫をしては愛してると囁いてくる。何度も分かってるって返事をしたけど、俺の声さえ届いていないような気がして不安になった。