最終章 大事にするから

 母ちゃんの胎内だろうと思った。
 暖かくて、明るくて、苦しみも辛さも孤独も、何の憂いもない。自分よりずっと大きくて強い存在に、大事に大事に守られている。
 暖かい。
 きっと、全部の世界の中で一番安心できる場所だ。
 八朔の皮を剥いた時の匂いとか、姉ちゃんが俺のためにホットココアを作ってくれた時の匂い。
 飯盒炊飯の蓋を開ける時のようなドキドキと、開けた時に沸上がる湯気と、そこから見える輝いた白米の匂い。
 虹がくっきり見えた時の色。
 雨上がりの山で感じる、木々と土の匂い。
 長い橋の上で立ち止まった時に感じる強い風。
 母ちゃんが作ったメシを喰った時に良く似た、ほっとした気持ち。
 川の匂い、森の匂い、海の匂い、そして海の音。磯の生き物達が呼吸する音。海の中で貝達が昼寝をしている音。
 大好きな人に身体中をキスしてもらう感触。
 大好きな人の腕の中で眠る温もり。
 大好きな人の唇に触れた時の心地良い胸の痛み。
 大好きな人とするセックス。
 遠くから聞こえる心臓の音。
 トクン。
 トクン。
 鼓動が聞こえる。
 トクン。
 トクン。


……―――――

「永司?」
 目を開けると、そこは黄金に輝くライ麦畑だった。
 遠くから風が運んで来る音。
 鼓動じゃない。
 似ているけどこれは鼓動じゃない。
 誰かが俺を呼んでいる。
 行かなくちゃいけないと強く思った。
 
 俺は走り出す。
 今日こそ永司に見つかる前に、この声の主を探し出さないといけない。だから、一面見渡す限りのライ麦の中を、微かに届く声を頼りに走っていく。
 森を、あの森を探さないと。
 小さな自分の身体を歯痒く思いながら、時折辺りを見渡してまた走り出す。
 息が切れてきた。
 ゼーゼーと胸が鳴っている。ゴクンと飲み込んだ唾がカラカラに乾いた喉に張り付くみたいになって、余計に呼吸が乱れてくる。でも、声は近くなってる。

 あった。
 あの森だ。
 走れ走れ。永司に見つかる前に、あの森に行かないといけない。
 平原に現れたその小さな森の手前に、赤い橋が見える。
 絶壁に落ちないように気をつけながら、俺はそろそろと橋を渡り出す。橋を渡りきった場所にあったはずの狛犬が見えない。その代わり、何故だか一対の神像…仁王様がいる。
 何故かは分かんない。
 でも、そんなん今は関係ない。
 橋の真ん中に来た時、絶壁の下から疾風が舞い上がり身体を突き飛ばすようにして去って行く。一瞬の突風によろめきながらも、俺はすぐに体勢を持ち直し赤い橋を渡っていく。
 橋のたもとにいる口を開いた金剛、口を閉じた力士は黙ったまま俺を見下ろしていた。





「春樹ッ!!」
 永司の声に思わず身体が止まる。
 しまった見つかった。
 一瞬躊躇したが、俺は聞こえないふりをして橋を渡りきろうと足を上げた。
「行くな!頼むからッ!!」
 永司の声はあまりにも必至で、上げた足が止まってしまう。
「行かないでくれ…頼むから」
「……なんで?」
「お願いだから行かないで」
「……だから、なんで」
「本当に、お願い。行くな春樹。大事にするから」
 泣きそうな永司の声に、俺までも泣きそうになった。大事にしてもらってるのは分かってる。俺が一番よく分かってる。
 どれだけ永司が俺を愛し、どれほど俺を求め、どれくらいいつも張り裂けそうな想いを抱いているのか、それは永司を愛している俺が一番よく分かってる。
「春樹…行かないでくれ。大事にするから」

 もう一度言われて、俺はようやく振り返り永司を見た。







end




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