第6章 座敷童子

 正月…しかも元旦早々世間を騒がせたのは、永司の会社だった。

 早朝に連絡が来たらしい永司はすでに部屋にはおらず、探してみると裏の神社に続く階段付近で携帯で何か話していた。俺と目が合うと片手を上げ来るなと制止する。大事な話なのだろうと思って俺は部屋に戻った。
 部屋では真田と永司以外の4人がニュースを見ている。俺も座って火鉢に手をかざしながらアナウンサーの話を聞いていると、どうやら岬杜重工の地方工場で現役自衛隊航空機を定期点検をしていた格納庫が放火されたらしい。センサーの作動でボヤで済んだらしいし、年始年末で格納庫内に人はおらず怪我人はなし、また人の出入りを厳しくチェックしているはずだし内部の人間の犯行であると予想されることから、犯人はすぐに捕まるだろうと言っていた。
「永司の会社って船と車と映画作ってるんだと思ってた」
 意外と手広くやってるんだなぁと思って呟いてみると、砂上と苅田が呆れたような目で俺を見てくる。そんな目で見られたって、俺は企業とかのことなんて知らんし。
「岬杜んトコってこんなんも作ってるんだな。死の商人…なんつったりして」
 俺と同じく暁生も岬杜グループについてよく知らなかったらしい。
「暁生。お前永司の前ではそんなコト言うなよ」
 むっとして言っても暁生はヘラヘラして笑っている。
「岬杜はそんなこと言われ慣れてるだろうから平気だと思うぞ。ところで問題の岬杜は?朝から見当たらないけど」
「ずっと裏で携帯に向かってヒソヒソ話してるみたいだすぅ」
 ニュースに飽きたらしい苅田が、砂上がいれた茶を啜りチャンネルを変えながら聞いてくる。正月特番って大体つまらないものなんだけど、ニュースよりはマシだろうと思っているのだろう。
 それより、そんなことを言われ慣れてるってどんなんだろう。永司ってそんな一面もあるんだ。
「岬杜君って航空関係の仕事を手伝ってるのかもしれないわね」
 そう言えば俺の携帯は圏外なのに、なんで永司のは電波が届くんだ?
「なんで?同じ岬杜の会社なら、気になるのは当たり前じゃないの?それより、俺の携帯は圏外なんだけど、皆のは携帯生きてる?」
「岬杜君の携帯は衛星携帯でしょ?見てて分かんなかった?それにね、同じ岬杜の名がつく会社って言っても岬杜グループって凄く大きいのよ?そんなんを全部気にしてたらキリがないわよ。しかも、彼はまだ17になったばかりよ。会長とか代表取締役とかでもあるまいし、普通に考えれば手伝っているのは一つの小さな部門だけでしょ」
 そう言えば永司の携帯はちょっとデカイ。本体もちょっとデカイし、アンテナの部分もちょっとヘン。見てて分かんなかった?って言われても、そんなん普通見て分かるもんなのか?
 砂上の説明を聞いても世間の仕組みとかよく分からないから、適当に「ふぅ〜ん」とだけ返事をしておいただけだけど、砂上は後学のためとか言って岬杜グループについて少し教えてくれた。
 そして俺は、岬杜重工が日本屈指の重機メーカーであり、日本最大の軍需会社であることを知った。

 それからなかなか帰って来ない永司と真田を待ちながら、先に帰って来た真田のお兄さんと一緒にこの部屋で遊べそうなゲームを発見し、皆でそれをやる。桃太郎電鉄だ。小学生かよ!とかって苅田に笑われたけど、結構面白いんだぞ。ボンビーの擦り付け合いが燃えるんだぞ。
 正月に実家に戻ったらしい住み込みの女中さん達がいない分、この家は来た時よりも更に静かだったけれども、苅田に気に入られている通いの女中さんが部屋に遊びに来てゲームはちゃんと盛り上がった。このお手伝いさん、年は三十路を越えているみたいだけどなかなか冗談も通じるし、小太りだけど顔は可愛い。結婚していて子供も二人いるそうだけど、今日は人が少ないから朝から来ていたのだそうだ。でも、来たは良いがオセチもあるし来客は俺達だけだし、たいして仕事もなかったみたいで、たまに席を外すこともあったけどずっと俺達と遊んでいた。
 ゲームをしながらポツポツと真田家について喋るこのお手伝いさん曰く、真田家にとって真田鮎は本当に迷惑な存在らしい。
 なにせ真田は暴力者だから真田と同世代の子供を持つ親からは酷く嫌われており、目上の者に対しても平気で殴りかかってくるような女だったらしいから村からつまはじきにされていたそうだ。俺は高校2年になって初めて真田と接したから、それ以前の真田がどんなだったかは分からない。だけど、このお手伝いさん曰く、本当に酷いものだったのだそうだ。
「でも、お友達を連れて帰って来るようになったんだもん。姫様も随分変わったみたいだね」
 お手伝いさんは灰皿の煙草をゴミ箱に捨てながら、しみじみと言った。
「変わったんだと思うよ。でも、オバサンはなんで真田が嫌いなのぉ?殴られたとか?」
「私は殴られたことなんてありませんよ。姫様はよっぽどじゃない限り女に暴力を振るうことはないですから。でも、姫様がこの家にいるだけで、村のモンはウンザリしてしまうんです。姫様は山姫様に愛されておりますゆえ、逆らうことは怖い。でも姫様は些細なことですぐ怒る。被害妄想が強い。ややこしい人ですから手がつけられんのです。姫様の御両親ですらそうなんです。旦那様も、姫様には何も言えんのです。だから姫様がこの家にいても、なるべく姫様の顔を見ないように生活をするくらいなんです。
姫様は我侭だし、乱暴者だし、でも逆らうことができん。そうすると、皆心の中で姫様を憎みはじめるわけです。影で文句を言ったり、なるべく関わらないようにしようとしたり。そうすると姫様も私等を憎みはじめるんです。悪循環ですねぇ」
 先にどっちが憎みはじめたのか。もしかしたら、真田が先に村民を憎み始めたのかもしれない。
 そう言えば、この前もそう感じた。

 女中頭と思われるいつもの婆さんがオセチを運んでくれ、俺達は本当に良くしてもらった。
 オセチや雑煮を食べ、皆で分家の風呂に入りに行って戻ってきてもまだ真田と永司は帰って来ない。真田はともかく、永司が心配になった。もしかして、山に入って迷ったのではないだろうか。
 そう思ったら落ち着かなくなって、風呂上りに探しに行く。
 今日も空は太陽の見えない灰色の空。昨夜に降った雪が地面を塗りなおし、一面なだらかな銀色の世界。婆さんに「道から外れると深雪に足が嵌るよ」と言われたのを思い出し、人の足跡に沿って自分も歩いて行く。でも屋敷の裏側に回っても永司の影はない。
 神社に向かう階段は雪に埋もれてはいたものの昨日の山始に来た人々が踏み均したらしく、ただの坂になっていた。永司の名を呼びながら滑りやすい坂道で2、3回コケ、それでもワッセワッセと歩いて行き、一体何処まで行ったのだろうと思っていると神社に着いてしまった。社の前に見える人影は、赤いコートを着た真田だ。
「真田ーー〜っ」
 手を上げてフリフリしながら走り寄ってみると、真田は社の階段部分に座って空を見上げている。
「永司見なかったぁ?」
「見た」
「どこで?」
 真田の顔は珍しく青白くなっており、徹夜で何かしていたのだろう、憔悴しきっていた。
「どこで見た?この辺?」
 返事をしない真田。
「真田よぉ。お前、何してんの?早く帰りなよ、疲れてんだろ?」
「帰る体力も残ってない」
 スタミナオバケの真田がここまで疲れているとは、一体丸一日何をしていたのだろうと思いながら隣に座る。
「どうしたん?」
 目の下にクマを作り、ただひたすら灰色の雪雲を眺めている真田が、急に心配になった。
「久し振りに山姫に会った」
「は?!」
「山姫じゃよ」
 この村の人は本当に山姫がいると思っている。それは彼等…彼女等の口ぶりからよく伝わってくる。でも、実際に存在するとは思えない。
 しかし真田の目は嘘をついていなかった。
「山姫って、どんな人?」
「面倒臭い女。自分が酷くブサイクだからって、他の女のことを毛嫌いするような女。気まぐれ。癇癪持ち」
 そんな山姫が、何故真田を気に入ったのだろうか。
 ちょっと一休み…と思って思わず煙草を取り出したが、ここは神社なんだと思い直して煙草をしまう。
「んで、その山姫さんと何をしてたん?」
「山姫の話し相手」
 そんなんで、真田がここまで疲れるのか。
 永司のことが心配だ。でも、なんだか様子のおかしい真田も心配だ。真田は社の階段で膝を抱き、その上に顎を乗せて恨めしそうに空を見上げている。
「永司…見当たらないんだ」
「ヤツならすぐに戻って来る」
 すぐ戻って来る…最近誰かに言われたな。誰だっけ?
「……真田、だいじょー?」
「平気」
 ポツリポツリとしか喋らない真田は確かに様子がヘンだ。どうしようかと思いつつ俺は立ち上がって社の裏に向かおうとした。永司はすぐに戻って来る。真田はそう言う。
 ああ、そうだ。あの時ここで会ったオッサンも、君の友達はすぐに戻ってくるって。
「……ヒジキ、行くな」
 急に呼ばれて立ち止まる。
 振り返ろうとした瞬間、視界の端に何か【トンデモナイモノ】を見た気がした。
――――っ?!」
 息を止めて視界を戻す。そこにあるのは重そうな雪をどっさり被っている常緑樹。剥き出しになった落葉樹。雪・雪・雪。光りを遮っている薄暗い静かな山の斜面。
 ドキドキしだした胸を抑えながらゆっくりと体の向きを変える。
 視界の端に目の錯覚のようなモノ。
 行くな見るなと俺の勘が叫びまくっている。
「真田……」
 大きな声を出すのも怖いくらい、一瞬にして俺は怯えていた。
「いいからコッチに戻れ。ホーミングならすぐに戻って来る」
 真田もまた、俺と同じように小さな声で言う。
 勘が、俺の勘は行くな見るなと言うのに、頭痛がしない。一体なんだろうと思いながらも、嫌なドキドキがする自分の胸を抑えながら俺は静かに真田の元に戻った。
「なに?アレ」
「山の民」
「山の民?」
「私はそう呼んでいる」
 重い空気に息が詰まりそうだと感じながら、真田の隣に腰掛ける。同じように空を見上げる。なんだか怖くて、そこから少しでも視線を逸らすことができなくなった。
「山の民って言うと…よく分かんないけど、サンカとかマタギ…とか?」
「それがどんなか知らんが、違うと思う。私の言う山の民とは、もっと異形なモノだ」
 真田の声の調子が変わってきた。イライラしている。
「お前は一体……」
「私は山姫と山姫の子であるアレ等鬼に子守唄をうたうために産まれてきたらしい」
 鬼?
 アレが?
「んだよソレ。そんなわけねぇじゃん。お前は――
 ムキになって言おうとし真田に視線を遣ると、真田の肩の向こうに人影が見えた。
 人影。一杯いる。ナンダアレ。
 暗い。
 よく見えない。
「ヒジキ。見るな」
 でも視線を外せないんだ。
 人。
 蠢いてる。
 あ、この前会ったオッサン。
 血だらけ。
 だからダメだって言ったのに。
「深海、見るな」
 でももう見えた。
 ぼんやりとだけど見えた
 気持ち悪い。  気持ち悪い。
 恨んでる。
 誰かを恨んでる。
 皆誰かを恨んでる。
 鬼の形相。
 暗いその影達…いや鬼達が少し近付いたところで、真田の口が動いた。でも声が聞こえない。
 真田は立ち上がって鬼達に向き合い、何か喋っている。
 人語じゃない。聞こえないけど、それは分かる。
 ああ、真田の夢に出てきた奴等は鬼達なんだとその時理解した。
「奴等、別に害はないからな。ちょっとお前が珍しかっただけだろう」
 真田が振り返り、俺の視界を遮った。その者たちの姿が見えなくなって、ようやく自分の体がガチガチに硬直していたのを知る。
「…ん。大丈夫」
 真田の声は優しかった。山の民とコイツが呼んでいる者達の正体は分からない。本当に鬼なのかもしれない。でも、真田がこんな優しい声をだすんだから、きっと大丈夫なのだろうと思った。
 憔悴しきったような顔を上げて、真田は唄をうたい始めた。聞いたことがある歌。多分、信濃の川。
 それはしゃがれた声だけれども、山に染み込む雪解け水のように静かに浸透していく。俺の中に、木々の中に、雪の中に、山気の中に。多分、山姫や山の民達の中にも。
 真田の歌に反応するかのように鬱閉した雲が動き出し、こっちに来てからずっと空を覆っていた雲に隙間が出来た。日が差し込む。そしてそこから溶け出すように青空が広がっていき、この山の正面に現れたものは。
――凄い」
 思わず立ち上がった俺の前に現れたものは、空に浮かぶ白く雄大な、壮大な、壮絶な、あまりにも崇高すぎるほどの北アルプスの山脈だった。
 人は山を見るだけで、これほど感動できるものなのか。そう感じるほど俺の心を強く動かす。
 人は山を見るだけで、これほど泣けてくるものなのか。そう感じるほど目頭が熱くなる。
「素晴らしいだろう?」
 真田の誇らしげな声に何度も頷いた。
 本当に、一生のうちにこれほど感動できる風景はもう二度と来ないんじゃないだろうか。
「暁生に…暁生に見せてやりたい」
 暁生が見たら、なんて言うだろう。
「そうだな、今度見せてやろう」
 目を細め愛しそうに山々を眺めながら、真田も頷く。穏やかなその横顔は、エウロパの氷が溶けた瞬間のように見えた。
 こんなにも心が動く。感動できる。それはどんなに喜ばしいことだろうか。そして、この感動を分かち合う人間が隣にいるというのも凄く嬉しかった。
「……なぁ真田。お前はもっと人を愛するべきだと思うよ。お前の周りに敵なんていねぇじゃん?そりゃ嫌なヤツはいたかもしれねぇけど、そんなんどこにいったって同じ。お前はもっと人を愛すべきだ」
 真田は酷く偏屈な奴だから、今まで何も言わなかった。でも今この美しすぎる山達を見て、真田と一緒にこの風景を見て、今なら大丈夫な気がしたんだ。
「私は、暁生と善野は愛してるぞ」
「そうじゃねぇだろ?」
「では全ての人間を愛せと?」
「別に博愛主義者になれって言ってるわけじゃねぇよ」
 緩く首を振りながら、なんと言えば良いのかぼんやりと考えた。説教じみたことなんて言いたくないし、そんなことを言ったら真田はすぐに心を閉ざす。
「真田の背中はいっつも怒ってるみたいに見えるよ」
「怒ってるみたい?怒ってるんだよ、いつもいつも。なんで私が山姫の相手に選ばれたのか。なんで私が鬼共の相手をせねばならんのだ。なんで私はあれほどバカにされて育ったのか」
「お前は被害妄想が強いと思う。どんなふうにバカにされてたのかは知らないけど、この家の人達は誰もお前をバカにしてない」
「してた」
「してねぇーって」
「してた」
「お前が最初だろ?お前が最初に皆を毛嫌いし始めたんだろ?」
 俺の言葉に真田は黙った。思い出したように冷たい風が吹き付けたが、今の俺にはそんなことどうでも良かった。
 真田はまだ愛しそうに山並みを見詰めている。本当に、恋人に向けるような視線だった。愛しさと、切なさ。
「そうかもしれない。私は人の言っている事や説明している事が上手く把握できない時があるんだ。小さい頃はそれが酷くて、他人の言葉自体が頭に入ってこなかった。なんでだったんだろう。何故私はあれほど物事を理解できなかったのだろう。でもな、それなのに誰かが私について悪く言っている時…それがどんなに些細でも、そんな時だけ分かったんだ。鮮明に、その部分だけは理解できたんだ。感じることができたと言った方が良いかな。なんでだろう。ほんと、なんでそんなに極端だったんだろう」
 真田は俺の問に対する言い訳を、言い訳しているとは思えないような口調で喋った。
 自分に対する悪意を感じとる能力。これは、多くの子供が持っているんじゃないだろうか。実際俺も悪意には敏感だったし、今でも敏感だ。でも、真田はもっと違う。誰に対して呟いているのか分からない山の民達の恨み言が毎晩耳に入って来る。自分が理解できることが全て自分に対する悪意である。そんな場合、どんなに辛く苦しい幼年期になるのか。
「人からバカにされて育ち、それがどんなに口惜しいことか知っているのに、自分だって人をバカにして笑ってる時がある。そんな時、小さい頃のことをよく思い出すな。それでまた、私を見下していた同級生や影でコソコソ言っていた大人達を思い出してぶっ殺したくなる。自分もアイツ等と一緒なんだけどな。なぁヒジキ」
「なに?」
「村正に映っていた顔が、本当の私なんだと思う。私も山の民と同じ誰かを憎むことしかできない異形の者。でも最近、それでも良いなと思うようになってきた」
 真田が放つ言葉の端々には強い劣等感があった。こいつは自分の中にある矛盾を知っていて、それに怒りを感じている。
「私は山の民が嫌いなんだ。アイツ等の中には人を恨むことしかない。恨んで恨んで、身も心も怨恨で一杯だ。でも、私はアイツ等を憎みきることができん。なぁヒジキ。手塚の火の鳥読んだか?」
「読んだよ」
「アレでさ、なんの話だったか…八尾比丘尼の話だったな。鬼が出て来るんだ。それでな、『鬼か人かどうして見分けるのだ』って。『苦しさと恨みが強ければ、人も鬼に見えることもあろう』ってな、台詞があって。私はそれが忘れられん。凄く泣きそうになったんだ。いろんな漫画を読んできたけど、あんなに泣けた台詞はなくってさ。その時、山の民たちも鬼に見えるけど、誰かを恨んで恨んで苦しいほど恨んでしまった人間なのかもしれんと思うとやりきれなくなってな。山の民は嫌いだ。でも、私は奴等を憎むことができない。だから最近は、私も奴等と同じなんだと思うとそれでも良いかなと思うんだ。奴等と一緒なら異形の者でも良い」
「真田が異形の者なら、俺達人間は皆異形の者だ」
 答えると、真田はフゥと溜息を吐いて視線を山並みに戻す。木に積もった雪が落ちて、ドサっと大きな音がした。
「なぁヒジキよ。私はこの村で育ったし、村を出てまだほんの数年だ。アホみたいに広い世界の中の、アホみたいに狭い世界しか知らん。だが、ここから見えるこの風景が世界で一番美しいと思う。絶対そう思う。私はこの村が嫌いだし、ここにいるとどんどん自分が鬼になっていくような気がする。でも、ここから見えるこの景色をあまりにも愛してしまった。だから、いつまで経っても、遠く離れても、心がここから離れることができない」
 真田が話す内容は俺のアパートのキッチンの棚の中みたいにヒッチャカメッチャカだったけれど、だからこそ本心で、思うがままを話してくれているんだと思った。だから、手を伸ばして真田の手を持ってみる。俺は自分から自分の力を使う目的で真田の手を握ったことがない。何故なら、真田は苅田のように俺を必要としない人種だからだった。
 そんな真田の手は、泣きたいくらい何かを憎み泣きたいくらい何かを愛していた。
 でも、重い矛盾を抱える真田の手はやはり俺を必要としていない。強い。誰よりも強い人間だと心底思った。
 そうだ。真田は人を愛している。人を憎んでいるけれども、同じくらい愛している。
 俺はふと婆さんの話を思い出す。
 囲まれた座敷童子。
 もしかしたら、真田は座敷童子なのかもしれない。山の民や山姫に子守唄を唄う座敷童子。
 そして真田を囲っているのは真田を愛してる山姫ではなく、子守唄をうたってもらう鬼達でもなく、真田を嫌っている村人達でもなく、真田家の人間でもなく、真田自身でもなく……真田が愛してしまったこの北アルプスの山達なのかもしれない。
「私は井の中の蛙だ。井の中の鬼だ。でも、それで良いんだ。別に井戸から出なくても良い。山姫もいるし、山の民もいる。それに、ここから見える山達が私を歓迎してくれる」
 籠の中の鳥はそう言う。
「真田よ。井の中の蛙って言葉に続きがあるの知ってるかぁ?」
「知らない。なんだ?」
「井の中の蛙大海を知らず。されど空の深さを知る」
 俺達はもう一度、空に浮かぶ北アルプスを見上げた。





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