真田と暁生は次の日の早朝、山の麓で見つけたらしい旅館の客を捕まえ車で戻って来た。
昨日永司と二人で裏山に登った俺はやけに疲れていて苅田達の帰りも待たず眠ってしまったし、朝も随分と遅くまで寝ていたので真田と暁生が帰って来たのを昼飯の時まで知らなかった。
朝食を抜いた俺は昼になってようやく皆の顔を確認し、昨日の報告を受ける。
苅田達は向かいに見える山の麓にあるお寺さんに行って来たらしい。そこには珍しいモノがあるという話だったが、それは鬼のツノだったそうだ。でも見せてもらったら、ツノと言うよりもただの石っころみたいなモノだったと砂上は言っていた。苅田と緋澄はそこで帰り、砂上だけはお寺の和尚さんに話を伺ったと言ってそれを語ってくれた。
話は中々面白いものだった。
昔々、向こう正面の山に鬼が住み着き村の住民を苦しめていた。疫病をもたらしたり農作物を枯らしたり、はたまた赤子を喰らったりとやりたい放題だった。
困った村人が恐れ慄きながらもこの山の山姫に何とかして欲しいと願い出るも、気難しく気まぐれな山姫はなかなか動こうとしてくれなかった。村人は打つ手もなく、日々を怯えて暮らすしかなかった。
そんな時現れたのが真田佐衛門佐信繁…つまり世に言う真田幸村だ。
秀頼の手を引き徳川の手から鹿児島へ逃れるのを成功させるも、元より体の弱かった秀頼は病死。そこから信州に戻ろうとするも、真田の家を守るため大阪の陣で敵味方に別れた兄・信之の立場を考え帰郷を諦める。豊臣方である西軍につき、しかも一番重要な位置に出丸まで作って闘った幸村である。夏の陣では家康の本陣をも突き崩し、三方ヶ原の戦さ以来ずっと守ってきた本陣の旗までもを崩し、絶望した家康が切腹しかかったと噂されるほど苦しめたのだ。敵からも讃えられ、その武勇にあやかろうと戦死後、髪の毛を抜いて持ち帰った兵が大勢いたという逸話まである幸村だが、もし生きていると分かれば家康が許すはずもない。
さてどうしたものかと薩摩から紀州に行ったり、そこから奥州に行ったりはたまた大館に逃れたりと放浪を続けていたのだが、数年後結局また信州に舞い戻って来た時にこの地に来た。
元々貧しい貧しい村だった。そこに鬼が住み着き、更に農民を苦しめている。
幸村は農民から話を聞き、立ち上がった。
幸村は鬼が住むと言われるその山へと入って行き、老人とは思えぬ動きでバッサバッサと鬼共を成敗して行く。だが、鬼の数はなかなか減らず、しかも敵将が滅法強い。幸村は背中に傷を負い刀は折れ絶対絶命だと思われたその瞬間、ついにこの山の山姫が現れた。
山姫は鬼にやられた幸村の三本の爪痕をじっと見た後、鬼達に向かって静かに語り出す。
「鬼達よ。私の子となりなさい」
その言葉を聞いた途端、敵将の鬼のツノがポロリと折れたのだと言う。
それから残った鬼達はこの山に移り住み、山姫の子として暮らした。山姫の子となった鬼達は村人に悪さをするわけでもなく、ただひっそりと暮らすようになる。
そして幸村も、命を救ってくれた山姫がいるこの地この山に定住を決めたのだった。
幸村と鬼と山姫を巡る話は、民話の多くがそうであるように意味が分からない部分が多かった。何故幸村は一人で鬼退治を買って出たのか。一宿一飯の恩義からか、赤子まで喰らうと言う鬼達の残忍さが許せなかったのか。どんな理由にせよ一人で立ち向かうのは無謀だろう。
そして、何故それまで動かなかった山姫が急に現れたのか。しかも、「私の子となりなさい」だ。突然養子縁組だ。そんでもって、それを聞いたら鬼のツノがポロリ。最後にゃウロウロしてた幸村がこんな山奥に住みつきだす。
でもまぁ、村に伝わる昔話ってのはそんなモンなんだからしょうがない。ただ俺もそのツノを見てみたかった。
その日は真田家の雪かきを手伝い、それから庭で雪合戦をやった。
天候は一向に変わらず空はずっと厚い雲に覆われていたけれど、たまに思い出したように粉雪が舞う適度だったし、気温もアホみたいには低くなく外で遊ぶにはもってこいだったからだ。
俺・永司・暁生チーム対苅田・緋澄・砂上・真田チームだ。
しかし緋澄は雪合戦に参加せず、砂上がどれだけ球を作れと言っても一人ぼけーとしながらまだ誰も踏んでいない場所に足跡を付けて遊んだり、砂上が作った雪玉で雪ダルマを作って遊んでいたりしていた為、実際は3対3だった。砂上と暁生がまた賭けを始めたので皆で金を賭けた雪合戦となるが、結局は雪に慣れている真田の独壇場となり、楽勝かと思われた俺と永司と暁生は雪まみれになって終わった。
負けたのは口惜しかったが、意外と永司が楽しそうだったので満足できた。
それと、コートの隙間から背中に入った雪の感触が嬉しかった。だって「あぁ、俺ってば今年も雪山に来ちゃってアホ騒ぎしちゃってるのね〜」って気分になるもん。もし夏になっても雨上がりにアスファルトの匂いがしなかったら、夏の気がしないだろう。蝉の声やカエルさんの声が「レイヨレレイヨレレッヒッホ〜〜」だったとしても、イマイチ夏の気がしないだろう。それと同じように、背中に雪が入らなければ、俺は雪山に来た気がしない。いや、しないことはないけど、やっぱ背中に雪は入った方がアホ騒ぎしてる感じがして良い。
疲れて一息吐いている時、真田だけがまだ元気だったのには驚いた。暁生すら雪の上で大の字になって灰色の空を見ながら物思いに耽っているのに、真田は何処からかデッカイ雪かき用のスコップを持って来て、暁生の体の上に雪をかけて遊んでいる。雪かきをしたことがある人なら分かると思うが、アレはもーんの凄く体力を消耗する。雪ってうんざりするほど重いんだ。ソレを、真田はやけに楽しそうにやってる。恐ろしい女だ。あれは本当に女なのだろうか。もしかしたら本当に怪獣ギガで、人間とは別種の生き物なのかもしれん。今度学会に報告してみよう。
「喜代、おトイレに行きたい……」
俺の正面で雪の上に座って休んでいた砂上が、ボソと呟いた。
「あのな〜、砂上。お前しょっちゅう『喜代、お嫁に行けなくなるぅ』とか言ってるくらいだったら、わざわざトイレ行くのに申告するなよぉ」
この女もイマイチ理解できん。
「だってもう動くことも出来ないもん。苅田君、オンブして」
足を投げ出して苅田に手を伸ばしている砂上だが、苅田も動く気配はない。
「俺も疲れた。つか、ちょっと歩けばすむことじゃねぇか」
「だったら苅田君が私をおぶってちょっと歩いてちょうだい」
「面倒臭い」
「まぁ、レディーには優しくしなくちゃいけないでしょ!」
「レディーがションベンしてぇとか言うな」
「ションベンなんて言ってませんー」
二人の会話で余計に疲れた俺は、暁生のようにその場で大の字になる。雪の中に埋もれるって、どうしてこんなに気持ちが良いんだろうか。
「砂上よぉ〜。お前そんなに動くの嫌なら、その辺ですればぁ〜?」
熱い体を雪で冷やし、ニットの帽子のウサギの耳の部分をサワサワしながらノンキに言うと、即座に砂上のムっとした声が返って来た。
「男に女のおトイレ事情なんてものは一生分からないのでしょうね!貴方達男性はそりゃ良いわよ。尿意を感じたらその辺で気前良く勢い良く放尿出来る体の構造をしているものね。でも、私達女性はそうはいかないのよ!」
別に気前良く立ちションするわけではないんすけど。
「なんでぇ?」
別に今更女の子ちゃん達の体の構造に興味があるわけではなかったけど、砂上がなんだか説明したそうなオーラを発していたので聞いてみてやった。
「あのね、深海君。貴方達男性はオシッコする時に何も悩む事はないでしょう?沈む夕日を眺めながら現今の世界情勢に問題意識を持ってみたり、数学の教師やテストに頭を悩ませたり、女体の神秘についてじっくりと考えてみたり、あそこの砂漠の砂はあーだのこーだのと思い出してみたり、はたまたただたんにボーーっとしてみたりしながら、的となる木や電柱にジョロジョロとやるだけじゃない。時には話を途切れさせる事もせず、しかも片手でその突き出てる肉体の一部を支え、空いた手でジェスチャーまでも加えながらでも放尿できるじゃない。
でもね、女は違うのよ。
まず女は、自分が用を足すなんて事を他人に知られては決してならないのよ。しかも外で用を足すなんて、絶対に秘密なの。特に男性には何があっても知られてはならないトップシークレットなのよ。だからわざわざ女性同士で徒党を組み、見張り役までつけるのよ。分かる?
それだけで終わりじゃないのよ。女は男と違って、その部分だけポロリと出せば済むってモンじゃないの。ズボンをおろしたりスカートを捲ったりした挙句パンティーまでもを素早くおろし、その丸いお尻を全開丸出し状態にして小さくしゃがみ込み、そしてようやく体内から尿を排出できるの。しかも、オシッコがブーツやズボンの裾につかないように細心の注意を払いながら、全てをテキパキと終わらせなくちゃならないのよ、まったく。
大体ね、公衆トイレでトイレットペーパーをクルクルと切り取ってから便座の上に置き、座ろうとするとまず高い確率でそのトイレットペーパーが滑り落ち、慌てて押さえたりまたクルクルと切り取ったりする、そんな苦労すら知らない貴方達のようにオキラクな男性という人種には、女性の排尿というものは理解し難いモノなのよ」
砂上の身振り手振りを交えた熱のこもった弁舌が終わった頃には、暁生は首以外全て雪に埋まり、緋澄は何故か雪の中で正座しながらウツラウツラと船を漕ぎ、永司は煙草を一本吸い終えていた。
ただ、俺と苅田は砂上の熱弁に大爆笑していた。
その日の夜、雪で遊びまくった体の疲れを癒すために、俺は真田家の分家の旅館に風呂を貸してもらった。真田に「今晩は寒くなるから出歩くのはやめておけ」と言われたけど、寒いから温まりに行くんじゃん。それに旅館はすぐそこだ。歩いて5分もかからない。
永司が付いて来るかと思ったけど寸前に携帯が鳴って、永司は何か小声で喋りながら廊下へ出て行ったきり戻って来る様子もなかったので、俺だけが先に出かけた。
外に出ると日はとっぷりと暮れていたし、空は変わらず厚い雲に覆われているらしく、星も月も見えない。それでも真田の家と旅館の窓から漏れてくる光を雪が反射し足元は明るかったので、足を滑らせて坂を転げ回って木に衝突し、その上ドサっと雪が頭の上に落ちてくる…なんてこともなく旅館に到着できた。
この旅館は湯治場なんだろう。客の多くは腰の曲がったジーサンバーサン達で、長期滞在しているらしくすっかりとこの古い旅館の一部になっているようだ。それ以外は人目を憚るようにコソコソしている意味有りげな怪しい中年カップル。たまに松葉杖をついているとか、包帯を巻いている若い人がチロっと。考えてみればここには何もない。遊ぶ場所は全くないんだ。スキー場もないし有名な温泉地でもない。秘湯として有名なのかもしれないけど、見た限りではそんな感じでもなさそうだ。
風呂は中に小さな洗い場が一つと中くらいの風呂、あとはやたらとデッカイ露天風呂だけだ。今は露天風呂の方には客が一人もいない。
モアっというか、ブアっ!って感じの湯煙に巻かれながらかけ湯をし、体をワサワサと洗うと露天風呂に向かう。
白く雲って外が全く見えないガラスの引き戸から出ると、外は思った以上に寒かった。寒すぎて逆に体に悪いんじゃねぇか?と思うくらいだった。バナナで釘が打てるんじゃねぇのか?とも思われた。いや、本当にぶっ倒れそうなほど寒かったんだ。
山頂から見た雲のように流れている湯煙を吐く湯に足を入れると、湯は硬くて引き締まった俺好みの湯だ。しかし熱い。本当はそんなに熱くはないのかもしれないけど、体が一気に冷えたもんだから滅多矢鱈と熱く感じる。ぐおーー!とか、うりゃーー!とか、一人気合を入れて誰もいない露天風呂で大騒ぎをして入り、体を温めたは良いが今度は湯から上がることが出来ない。だって出たら寒いもん。
でもこのままずっと風呂に入って春を待つわけにもいかず、根性をキメてまたもや「うりゃーーっ!」と一人大騒ぎをしながら立ち上がり、風呂場で走ってはいけませんと言う公共ルールを破りながら脱衣所まで戻り、ワタワタと服を着て全速力で真田の家まで戻った。
もう、なんでこんな場所でこんな全速力で走らにゃならんのだとか、そんな愚痴すら思いつかないくらいの勢いで戻って来ると、途中の廊下で偶然真田と苅田に出くわした。
「ヒジキ。だから今晩は冷えると言ったであろう?」
真田が笑いながら俺の髪を指したので触ってみると、旅館から真田の家までの数分で髪の先端がツララのように凍っている。屋内はさすがに暖かいのですぐに溶けるとは思うけど、ツララになった自分の髪を見ると今度はやけに嬉しくなって永司に見せたくなった。永司はなんて言うだろうか。
「お前等、何してんのぉ?」
永司にこの髪を見せようとやけにワクワクしてきた俺は、その場で駆け足状態になりながらも一応訊ねてみる。
「真田がな、日本刀見せてくれるってよ」
永司に早くこのツララを見せたい……けど、日本刀も見たいな。
軽薄な俺は思わずそう思う。ああ、でもこの髪の毛ツララって面白い。レゲイのオッサンみたいになってんのよォ。
「ちょっと待っててくんない?俺、この髪の毛永司に見せたい……」
「やじゃ。どうせオヌシ等は『えいずぃ〜!これ見て見てぇ』『どうしたんだよ春樹。凍ってるじゃないか』『お風呂から帰って来たらこうなってたのぉ。てへ』『寒かったろうに。温めてあげるから』とか言ったりして、人の家でベロベロぶちゅーとかしはじめて、その上盛り上がってヘコヘコと床運動でもおっぱじめるこったろ」
ほぼ万人に効くはずの俺必殺「オメメを輝かせてのお願いポーズ」をしてみたけど、怪獣ギガには効果がなかった。それどころか床運動とかって勝手に変な話を作って、真田はスタスタと歩き出す。あぁ、永司の名前なんぞ出すんじゃなかった。
「ちょ…待っ……。ねねね、ど、どんな日本刀ぉ?」
聞いたら見たくなると分かっていながら訊かずにはいられないのはなんでだコンチキショー。
「信繁が持っていた刀」
真田の一言で決まってしまった。
俺は幸村の刀が見たくて見たくて、それが偽物であったとしても見たくなって、俺は真田に付いて行ってしまった。
広い母屋の端まで行きそこを曲がって更に廊下を進む。歩いてみると本当にこの屋敷は広かった。苅田の家もむっちゃデカイけど、まだ新しい。でも真田家はその歴史の重みからか、廊下や柱からモノノケが出そうな雰囲気だ。
真田が廊下の端で立ち止まり、そこだけこの屋敷に似つかわしくない厳つい鍵のついた扉を開け、中に入る。そこからまた襖障子を開けて中に入る。俺と苅田もそれに続いて中に入ると、この部屋だけは妙に暗いことが分かった。電気をつけても暗い。見渡すと窓がなかった。ふとバーサンに聞いた座敷童の話を思い出したが、なんのことはない普通の座敷だ。その座敷に床の間があって、その床の間に一本の長い日本刀が冷気に包まれ飾られてあった。
「おぉ!幸村の?!」
真田の後ろからそろそろと近付き、初めて見る日本刀にドキドキしながら覗き込んでみる。それは黒い布で覆われているものの、本物の太刀のようだ。
でもなんだろう。この冷たく切れた空気。
「銘は?」
「村正だと伝わっている」
「マジ?!ちょっと鞘から出してみろよ」
興味ありげな苅田がそう言いながら太刀に触れようと手を伸ばした瞬間、パチンと大きな音がした。真田が苅田の手を叩いたのだ。
「触ってはならんッ!!」
真田の声が頭に響いたので、思わず耳を塞いだ。体が冷えて来たのか、軽い頭痛。
「んだよ。んじゃ、お前ちょっと鞘から出してみな」
苅田は触りたいようだった。こいつの家なら太刀もありそうだから、ちょっとは詳しいのかもしれない。
「私も触れてはならんのだ」
「なんだよソレ。おりゃー何しに来たんだよ。鞘見に来たんじゃねぇぞコラ」
苅田は珍しく随分と粘り、触らせろだの鞘から出せだのと言っていたが、真田は最後まで首を縦に振ることはなく、最後の最後にもう一度「触りてぇ」と頼み込んでいたが、真田の許しが貰えなかったためブツブツ言いながら部屋へ戻って行った。苅田は…多分苅田はコレが本物の村正だとは思っていない。何せ一見、ごく普通の埃まみれの太刀だ。飾られていると言っても、鞘だってボロイ布で覆われている。本物だと思えば、力ずくでも奪って銘を確かめただろう。
だが俺は…俺は本物ではないかと思っていた。
何しろこの太刀を見てから苅田達が騒いでいた今までずっと、頭が重い。床の間から冷たい空気が畳の上数ミリをゆっくり流れて、そして俺の体を冷やしているようだった。なんにしろこの太刀は普通じゃない。
村正。徳川に仇をなす刀だと言われ、幸村が好んでつけていた佩刀。
俺は目の前の太刀を見ながら、真田鮎は本当に幸村の血をひいているのかもしれないと思ったいた。
「実はな…私が15の時、この刀を手にして鞘から少し出してみたことがある」
じっとしていると、真田が太刀を前に正座をして話を始めた。
「触ったらいけないのにぃ?」
「そう。いけないと言われていたのに、この太刀を持って暴れてみたかったのじゃ」
なんちゅー物騒な。バーサンが聞いたら泣くぞ。
「んで?」
「誰も触れてはないはず。私も親父が祖父がこれに手を触れているのを見たことがない。絶対に触れてはならんと言われていたのじゃ。にも関わらず、太刀は錆一つついておらず青光りしておった。そして、その青く光る太刀に映っていたのは、一匹の鬼だった」
「鬼?」
「そう、鬼だった。ツノがあって、口が裂けておって、牙が生えておる鬼だった」
真田は正座し背筋を伸ばしたまま、太刀を見詰めている。
始まりそうで始まらない頭痛が気になってこめかみに手をやりながら、俺も真田の後ろに正座をした。正座じゃないといけないような、そんな厳粛な空気がこの部屋にはあったんだ。
「あの日は嫌な日だった。春に転校してきたクラスの子が、朝っぱらから泣いていた。陰険な苛めにあっていたのだと思う。私はあまりクラスに…学校に…いや、この村に馴染んではいなかったし馴染みたくもなかったから、苛めの理由は知らなかった。
私はその日も教師と喧嘩していたな。その教師がまた嫌なヤツで、新任教師だったのだが私の家のことまで持ち出して嫌味を言い始めてな。キミの家はこの辺りじゃ随分な権力者らしいけれど、そんな事は県外から来た私には関係ないからね…とか言い出す始末じゃ。関係ないのならそんな事はわざわざ言うなと思って本当に苛々していた。
で、その日の昼休みに学校の裏門で煙草を吸っていると、その苛められている生徒がやって来てな。カワイイ女だったし私好みだったしでムラムラきての。話し掛けてみた。
ヒジキ、イズナって知ってるか?」
ムラムラすんなよ…と心の中で突っ込んでいたら話を振られ、ええっとと首を傾げる。漫画には良く出て来るな。イズナって。
「よく分からない。妖怪みたいなモンだっけ?」
「そう。そんなもんだ。管狐と呼ばれていている管で飼われている動物みたいなモンらしい。私も良くは知らん。
んで、その転校生はな、イズナ憑きだという噂を流されていたのだと言う。そのイズナってのを飼っている血筋で、恨まれると何をされるか分からんぞ。どんな仕返しをされるか分からんぞ。っと、まぁそんな根も葉もない噂が飛び交ったっていたのだと。アホらしい。アホらしいけれど、この村はそんな村なんだ。
その子も最初は平気だったらしい。どんな噂を立てられても、そんなものは一過性のモノに違いないと思っていたのだろう。だが、この村の人間は恐ろしくしつこいんじゃな。私もしつこいが、この村の人間だってしつこい。一度そうだと決め込むと、何がなんでもそうなんじゃ。何がなんでもその転校生はイズナ使いなんじゃ。そうなるとやな、どこそこの家のモンが大怪我をした、どこそこの家のモンが重い病気になった。あそこの子が不吉なモンを見たと言う。……そんなんもこんなんも、全部その転校生の仕業じゃないのかって話になるわけだ。そりゃもうこれ以上なく閉鎖的な村じゃから、一度よそモンを怪しいと睨んだらとことん村八分にするわけだ」
「でぇ?真田はそれからどしたの?」
ずっと太刀を見詰めている真田の背中を、俺もずっと見詰めていた。
真田の背中は、いつも怒っているように見える。
「どうもできん。この村の性質はどうしようもない。ただ、どうしようもなく嫌な気分になって、そりゃ悪かったのぉって謝った。なんで私が謝らにゃならんのだとかちょっと思ったけど、しゃーないし。
どーしたもんだかと思いつつ教室に戻ったら、今度はクラス全体が『イズナ憑きと鬼憑きじゃから、無敵や』とかヒソヒソ言いながら私等を避ける。私は元々避けられておったけど、その転校生はそんなあからさまに避けられたことがなかったのじゃろうな。また泣き出した。言っておくがな、避けると言うのはシカトのことだ。しかも、嫌なシカトの仕方だ。話し掛けられて無視したらイズナ使いに祟られると言って、話し掛けられる前にそそくさと逃げて行くんじゃ。皆でやれば怖くないとでも思ったのか、クラス全員がそんな有様じゃ。まぁ、なんとも酷いもんでな。
いつもだったら誰かとっ捕まえて一発ニ発と渾身の力を込めて殴ってストレス発散するところだが、それすらも嫌になっての。何もかもが嫌になって、そのまま帰った」
別にこの村に限った事じゃない。村ぐるみでよそ者を苛めたり何かと仲間外れにすることはよくあることだ。俺は小さな時から転校が多かったから、よく知っている。母ちゃんは何も言わなかったけれど、ウチだけ回覧版が来ないことはしょっちゅうあったし、母子家庭だからってだけで子供だった俺の目の前で母ちゃんの事をコソコソと噂する大人だっていた。
「そんで、なんでこの刀を見たわけ?」
「あー、そうだった。この刀の話じゃったの」
真田は話をしているうちに本来の目的を忘れていたらしく、マヌケな声を出しながらポンっと音を立てながら膝を叩くと話の続きを始めた。
「家に帰ってもする事はなくて自分の部屋で篭っていたのだが、その日は無性に…なんと言うべきか私は頭が悪いので上手く言葉が思いつかんのだが、もう本当に何もかもがどうでも良いような気分と目につく人間を全員蹴り殺してやりたいような妙に興奮した気分が混じったような、ヘンにゴチャゴチャした感じでの。こんな日は早く寝てしまおうと思って布団に入ったら、声が聞こえた。声と言うか音と言うか、何か餓えた獣が瀕死の状態で唸っているような声だった気がする。私はその声が気になって家じゅうをウロウロしてみたが、いまいちどこから聞こえるのかハッキリしない。おかしいなと思いつつ最後のこの部屋に来たら、この刀が唸っておった」
「刀が?」
「そう。この刀が唸っておった」
ぎょっとしてボロい布に覆われている太刀に視線をやる。でも、太刀は相変わらず冷たい空気を発しながらそこに鎮座していた。
「それで私は、この刀を持ち上げてみたのじゃ。触るなと厳しく言われていてそれまでは触れる気もなかったのに、その時はただその唸り声が気になっての。なんだろうと思った。
持ち上げてみたら今度は、この刀を持って思う存分暴れ回りたいと思った。ただ無性に、純粋に、心の奥底から湧き出るように自然にそう思ったんだ。
そして、布から出して鞘をちょっとずらして見ると、そこに鬼の顔が映っていた」
ちょっと珍しいモノをたまたま見かけた。そんなモノの言い方をすると真田は立ち上がる。俺もそれに続いて立ち上がる。
「そんで、真田はどうしたの?」
「そこで我に返って、鞘を戻して布を巻いて元に戻した」
「……良かったな」
「良かった」
何事もなく済んで良かったと真田は素直に頷いた。
それから襖障子を開けて外に出、この部屋を完全に外部から遮断する扉を開けて外に出る。鍵をかけて真田が歩きだしたので、俺もその後をついて行く。
「あの鬼は、私に似ていた」
廊下を一つ曲がった所で、真田が小さく呟いた。