第3章 私はないと思う

 分家と呼ばれている旅館の風呂を借りて来た砂上が、濡れた髪をタオルで包みながら戻って来た時は、部屋は随分と暖かくなっていた。
 旧式のストーブがある隣の部屋では緋澄が布団の中で眠っており、俺達がいる部屋は普通のファンヒーターと婆さんの言いつけで中年のオヤジが運んで来た火鉢が置いてある。
「いい湯だったわ。お肌も生き返ったようだし」
 満足そうにオホホと笑いながら、砂上は鞄の中から小さなポーチのようなものを取り出し、その中の小瓶を全部畳みの上にぶちまけると今度は使う順番に一列に並べ、ペタペタペタペタと顔につけ始めた。俺はいつも思うのだが、アレは本当に意味のある事なのだろうか。もしあの小瓶の中身を薄めた牛乳に変えてら、女達はそれに気がつくのだろうか。それとも気がつかず、やはり同じように熱心にペタペタペタペタとやるんだろうか。
「そう言えば私、嫁入り前の身だと言うのに昨日貴方達と一緒に寝ちゃったわ。どうしましょう。喜代、たった一度の過ちでお嫁に行けないかもしれない」
 持って来ていた鏡で自分の顔だか肌の張りだかを確認しながら、砂上は今更なことをかなり大袈裟に、深刻ぶって言う。いくら深刻そうに言ったって、砂上は今自分のお肌のことで頭が一杯だということは見え見えだったけれども。
 お前、永司のマンションでしょっちゅう俺達と雑魚寝してんじゃん。
 火鉢をダッコする形で丸まっていた俺は心の中でそう突っ込みを入れてみる。多分隣で煙草を吸っている苅田も心の中で同じ突っ込みを入れているに違いない。

 いつまでもスヤスヤと寝ていた緋澄が二度寝からモゾモゾと起きたのは、もう随分と日が傾いた頃だった。その頃は俺と永司・苅田・砂上で花札をするのにも飽きていたから、5人で村にでも下りてみようかという話になっていた。別に何もない村だろうけれどもせっかく来たのだし、婆さんが言うには随分と珍しいモノもあるらしい。
 準備をして出かけようと5人でぞろぞろと廊下に出た時、窓の外に視線を遣った。昨晩永司と月を見た窓からは、真っ白になっている山が見える。光が反射し、かなり眩しかったので目を細めた。
「……あ?」
 足を止めて窓枠に手を置き、もう一度目を細めて見てみる。
 裏側に聳え立つその山のほぼ頂上に、黒く見える建物。かなり小さいようだが、社のようだ。ここから見えるくらいだから、祠と呼ぶほど小さくもないだろう。
 興味をそそられた俺は玄関に出るとそのまま苅田達とは別行動することにし、永司と一緒に裏山に向かった。別にどこでも良かったんだ。暇さえ潰せれば、なんだって良かった。
 大きなお屋敷の裏に回り上れる道はないかと探してみると、案の定敷地内の一番隅っこに階段のようなモノが見えた。何故「階段のようなモノ」かと言うと、雪で階段自体が埋まっていたからだ。それでもその脇に鉄でできた手摺りが続いており、俺は足元に注意しながら雪道を登って行った。
「どこ行くんだって訊かないのかぁ?」
 後ろからついて来る永司にチラリと視線を送ると、永司は別にこれと言った返答もせず軽く頷いたまま俺の跡をついて来る。本当に、コイツはどこでもついて来るんだろうと思う。
 思ったよりも積もっていなかったとはいえ、雪の坂道は歩きにくかった。一歩一歩足を進めるのにも普段以上に体力を使う。それでもサクサクと音を立てながらまだ誰も通っていない真っ白な雪の上を歩くのは楽しく、俺はただ下を見ながら黙々と手摺りに沿って歩いて行く。雪を被った真っ直ぐな杉や突き出ている細いうるし、たらなどを見ながらただ黙々と登って行く。ダッフルコートの中の体はポカポカと温かく、その温かい体の中に入って来る冷たい空気が肺を通って白くなって出て行く。毛糸でできたウサギの耳がついている白い帽子は耳まで暖めてくれるが、唯一鼻の頭だけがこの体の中で冷たいような気がした。
 ただ雪の中を歩くことだけに没頭していた。永司の足音と自分が雪を踏みしめる音。後は呼吸の音。雪の山の中はひたすらに静かで、俺はこのままずっと雪山を登っていたくなった。

 そんなに歩いてはないかもしれない。でも、30分程は歩いていたのだろうか。
 多少あがった息を整えながら小さめの鳥居の前まで来た。
 振り返ると小さな村を一望できる、開けた場所だった。眼下には真田の家と分家も見える。但し天候がいまいち良くなく、その先はぼやけていて良く見えなかった。多分その下には閑散としたまばらな家々が散らばり、その向こうには今自分達がいる山より、何倍も高い山々が連なっているのだろう。
 日は思ったよりも傾いていたと思うけれど、何せ太陽が重そうな雲に隠れていて時間がよく分からなかった。
「やっぱ神社だったなぁ」
 永司に声をかけると、後からやって来た永司も少し頷いた。
 俺はここに登る時、「神社がありそう」とか「神社みたいなモノが見えた」とか、言った覚えはないのだけれど、永司はとにかく頷いた。
 鳥居は黒木鳥居のようだった。つまり、樹皮つきの丸太を鳥居にした、くさびも亀腹も額束もないシンプルな鳥居だ。
 ただ、柱に昇り竜の彫刻が配されていた。
「…珍しい」
 シンプルなのか凝っているのか良く分からない、あまり見かけない鳥居の柱を手で撫でてみる。
「何が?」
 横に並んだ永司も同じように柱に触れる。
「いや、ただ、この鳥居の柱が。昇り竜がいるだろ」
 そこだけゴツゴツとしている彫刻部分を撫でていると、奥の方から鳥の羽ばたきが聞こえる。見上げると、結構大きな緑の鳥が里に向かって飛んで行くのが見えた。
「お!キジさん発見」
「なんで分かる?」
「だってキジだし」
「どのヘンで分かるモンなの?」
 長野に来てから普段以上に喋らなかった永司がしつこく訊ねてくる。俺はそれがやけに嬉しくて、永司の手を取って社の方に向かって歩き出した。
 鳥居をくぐったところで、季節外れの生ぬるい空気が一瞬だけ体を覆った気がした。
「キジっぽいところがキジ」
「キジっぽい?」
「そ。尾とか」
「俺、ちゃんと見れなかった。キジって黄色だっけ?」
「緑だよ」
 どこから黄色が出てきたんだろうと思い、少し笑いながら表参道らしき道を歩いて行く。まだ少し斜面だったけれども、それでも今まで歩いてきた道よりははるかに歩きやすかった。
 山奥にある神社にしては敷地が大きい方だろう。スギやケヤキ、モミジ、イチョウ、桜、ミズナラ、ブナ。それらが立ち並んで俺たちを見下ろしている。きっと四季折々、この神社は様々な顔を見せてくれるのだろう。
 参道の広さと長さのわりに灯篭は一つもなかったし、手水舎もなかった。
 霧が上ってきたのだろうか。進むにつれて前方が見え難くなっている。それでも微かに見える社を目指し、永司の手を取って歩いて行く。
「なんだか凄いことになってきたなぁ」
 体に纏わりつくような霧を切るように歩くと、社の目の前にもう一つ、小さめな鳥居があった。これも先ほどと同じく、黒木鳥居だった。それをくぐると両端に狛犬がある。
 狛犬は普通の狛犬と同じように、社から見て左の狛犬が口を開け、右が口を閉じているモノだ。ただ、ちょっと全体的に少し変わっているような気がした。狛犬に見えることは見えるのだが、ずんぐりむっくりとしているハズがどうも全身が細い。しかも、妙に鋭い犬歯のような牙が生えており、狛犬なら必ずあるクルクルのタテガミがなかった。
 つまり、狛犬と言うよりも稲荷神社で見かける狐のようだったのだ。
「お稲荷さんかなぁ?」
 に、しては、口内も赤く塗られていないし、お地蔵さんのような赤い前だれもつけていない。口に咥えているはずの巻物や鍵、玉もなし。
「狐というより犬のように見えるけど」
 永司の言葉には俺も頷いた。狐にしては体格が良い。眼光も鋭い気がする。でも、狛犬にしては細い。
「珍しいなぁ」
 しきりと妙に感心しながら台座に乗っている不思議な石造を背伸びをしながら覗き込み、両方一周すると社に向かう。
「春樹って、こういうのが好きなの?」
「こーゆーのって、どーゆーの?」
 緩やかな坂となっている参道に膝下辺りまで積もっている雪はザクザクと音を立てているが、それ以外は俺達の声しか聞こえない。あまりにも静かな神社だった。
「お寺とか、神社とか」
「いや別に。でも母ちゃんが結構好きだったから、俺もよく一緒について行ったよ。あとは、田舎って公園が少なくてさ。だから子供の頃は境内で遊んだりしてた」
 社は思ったよりずっと小さかった。しかも賽銭箱がない。
「俺は…コッチ系には疎いんだ。神社って、手を叩く方?それとも叩かない方だっけ?」
「叩く方だよ」
 永司にも知らないことがあるのかと思うとなんだか嬉しい気がして、ちょっと笑いながら俺はハーフコートのポケットから煙草用の小銭を出した。永司もそれに続いてゴソゴソと財布を取り出して小銭を出している。
「……ぇえっと。……それで?」
 小銭を握り締めたまま困ったように小首を傾げている永司はカワイイ。俺は初めてコイツをカワイイと思った気がする。
「2礼2拍手して最後に一礼…だった気が。間違ってたらスマン」
 答えてから小銭をどこに置こうか迷い、いらないのかなぁとも思いつつ閉まっている戸の前に置いてみた。ぺこりぺこりとオジギをしておごそかにし、手を叩こうとした時、俺の小銭の隣に同じように小銭を置いた永司が話し掛けてくる。
「ここ、どんな神様がいるの?」
「知らん」
 土地を守る守護神である産土神…ウブスナガミ…だとは思うのだが、そんなのは地元民じゃないと分からない。もしかしたら一風変わった稲荷神社かもしれないのだし、大体この神社には神額もなかった。
 手を叩こうと手を広げる。
「なんで手を叩くの?」
 ……永司くん。今までの分を取り戻そうとやけに饒舌な気が……。
 手を叩こうとしていたのを止め、その場で体だけ機械のように硬直させながら答える。
「俺の母ちゃん曰く、神社の神様に『来ました〜』って合図する意味だって。でも母ちゃん、適当なこと言うから本当のところは知らん。確か、今は区別されてはいないようだけど神社は臨時出張所で神宮が駐在所だって話も聞いたことがある。だから、神様が神社にいないかもしれないから手を叩いて呼ぶとかって話だった。以上春樹くんの黒豆知識デス。永司くん。他に質問は?」
「臨時ってことは普段はどこにいるの?」
「山の神は春になれば田の神になったりする。日本にはいろんな神様がいるからその神様によってマチマチだけど、結構ウロウロしてる神様もいるみたい。鎮守の神のような土地の神様だったらそこにいるんだろうけどね。だから、普段どこにいるかはその神様によって違うんじゃねぇの?以上春樹くんの煮染豆知識デス。永司くん。他に質問は?」
「もうない。丁寧に有難う」
「どういたまして」
「いたしまして、だろ?」
「イタシマシテ」
 ようやく質問星人永司くんが納得したようなので、俺は固まっていた手を動かしてパチンパチンと手を叩いた。実はアレ以上質問されても答えられなかったからほっとしてたんだけど。
 目を閉じると隣で永司が手を叩いた音がした。
 その瞬間、今までずっと静かだった木々がザザっと音を立てながら風が吹い…たんだと思う。でも、俺は鳥居をくぐった時と同じような、妙な生ぬるい空気に体を舐められたような気がした。
 なんだっけ?
 目を閉じて頭を垂れ、何か願い事のひとつでも言おうとするけれども言葉が浮かんでこない。いつもは「みんなが幸せでありますように」くらい大雑把なんだけれど、今日はそれすらも浮かんでこなかった。
 その代わりに俺の脳裏に浮かんだのが永司のライ麦畑にあったヘンな神社だった。
 そうだ。永司のライ麦畑には神社があった。黄金に輝く広い広いライ麦畑の中に何故か見た事もないようなデッカイ穴が開いていて、その中心に離れ小島みたいになって神社があった。アレは一体何だろうか。
 俺は永司のライ麦畑に飛ぶことがある。ただの夢なのかもしれないが、でもあれは永司のライ麦畑なのだと俺は思っている。
 あそこはとても暖かくて、大好きだ。ちっちゃい永司がいて、ちっちゃい俺がいて、そんでもって世界には俺達しかいない。そこが好き。俺達だけの世界。俺と、永司だけの世界。
 でもあそこに行くと、俺の名を呼ぶ声がする。深海とか春樹とかって呼んでいるわけじゃないけれど、確かに俺の名を呼んでいる声がする。
 ……。
 ……。
 ああ、あの場所にいる時は気がつかなかった。
 そうだ。
 あの声は――

 目を開けると、今まで見た事がないような深い霧が俺を包んでいた。
「永司?」
 迷霧とはこのことだろう。振り返ると方向すら分からない。
「おい永司」
 不安になって声を大きくしてみても、永司の返事はない。
 何故か。手を叩いて目を閉じ、考え事をしていた時間なんてほんの数秒のはずだ。その間に隣にいた永司が動いた気配はなかったし、物音だってしなかったのに。
「永司ってば!」
 探そうと思ったが今動いてはいけない気がして、俺は途方に暮れながらその場に佇んでいた。ここまで深い霧が続くと身動きできない。いざとなったら助けを呼ぼうとポケットにある携帯を取り出したら、思いっきり圏外だった。コッチに来てから携帯を取り出してなかったけれど、もしかしたら真田の家も圏外なのかもしれない。
 参ったナァと溜息を吐き、それでも仕方ないので永司の名を呼び続けた。俺の勘が僅かに騒ぐので、永司が遭難でもしていたらどうしようとかなり心配だった。
「永司ーー!」
 声が、自分の声が響いていないような気がする。俺の口から発せられた声は、永司の寝室に施されてある分厚い防音材のような霧に吸収され、そのまま消えていくようだ。
「永司ーー!!」
 ドキドキしてる。嫌なドキドキだ。
 そう思った時、坂の下からサクッサクッと足音が聞こえた。
「永司!なんで返事しねぇんだよ」
 無性にほっとして情けない声を出した俺の前に深い霧の中から現れたのは、見たこともないオッサンだった。
「あ……」
 村人だろうか。四十代後半くらいのそのオッサンはこけた頬に無償髭を生やし、ヨレヨレの作業着の上に薄汚れた灰色のジャンバーを着て黒い長靴を履いている。薄着のような気がしてコッチが寒くなる。
「こんにちわ」
 こんな深い霧の中を歩いて来たのだろうかと思いながら、とりあえず挨拶をしてみた。オッサンは何も言わない。別に嫌な感じはしなかったけど、オッサンの表情は気になった。まるで生気を感じない。オッサンの瞳はどこを見ているのか分からない。ただ、ひたすらに暗い。まるで自分の死を告げに来た死神を甘受しているような、全てに諦めきった瞳だった。
「すんません。俺の友達見ませんでした?さっきまでココにいたんですけど、なんか目ぇ離した隙にいなくなっちゃって」
 あまり喋りかける雰囲気ではなかったけど、しょうがなしに話し掛ける。だって永司が心配だったんだ。
「君の友達はすぐに戻って来ると思うよ」
 オッサンが即座に答えたので、ちょっとビックリした。その目と同じくひたすらに暗い声だった。
「見ました?」
「見たよ」
「どこで?」
 オッサンは黙り込む。俺は返事をしないオッサンに多少イライラし、永司の身を案じた。
「どこで見ました?鳥居の辺?」
 手を伸ばせば自分の指先すらも見えないような深い霧はまだ続いていたけど、とにかく呼んでも返事をしない永司が心配な俺はすぐにでも永司のいる場所に行きたかった。だが、オッサンは返事をしない。
 イライラが募る。
 しょうがなしに礼だけ言い、俺は鳥居の方向に歩いてみようと思った。
「君はこの世に正義があると思うかね?」
 足を一歩踏み出そうとした時、オッサンが訊ねてきた。唐突なその質問とその内容に一瞬呆気に取られながらも、「ハァ?」と言いたいのを何となく我慢する。
「正義って?」
「何でも良い。君の思う正義だ」
 正義なんてモノは…と言いたいし、俺はとにかく永司を探したかった。
「あると思う」
 かなり適当だけどこれも俺の本心だし、とにかく俺は永司を…。
「私はないと思う」
「はぁ」
 さいでっか。
 今はあまり関わりたくないような気分だったので、とにかくペコっと頭を下げて足を踏み出す。自分の足元もよく見えないので歩くのが少し怖かったけれど、それでも永司が心配だった。
 どこに行ったんだ永司のバカ野郎。
 後ろではオッサンが何か呟いている。なんかヤバイ人だったんだろうかと思いながら慎重に歩みを進めて行った。本当は手でも握れば良かったのかもしれない。でも、今は俺自身にそんな余裕はなくて……これも全部バカ永司のせいだ。
 後ろでボソボソと聞こえてくるオッサンの呟きを聞きながら、右足がまたサクっと雪を踏みしめた時、俺はオッサンの質問とその内容と同じくらい唐突に全身に鳥肌が立った。それは一気に俺の体を上っていき、俺の体を完全に硬直させる。
 ボソボソと呟くオッサンの声は続いている。
 そして、ソレは夢で見た、真田の夢で見た、あの呟きと同じだった。
「永司頼むから戻って来い」
 口の中で早口で言いながら、ぎゅっと目を瞑る。
 するとそれを待っていたかのように、後ろからまたサクッサクッと足音が近付き、俺のすぐ後ろでそれは止む。
 怖かったと言うより、何故俺の勘が何も告げなかったのかが不思議だった。
「良い子でしたよ。それはもう良い子でした。私や家内の言う事を何でも良く聞いて、年頃になっても反抗期なんてモノもなかった。父の日には毎年プレゼントをくれました。母の日には家内にプレゼントを贈ってました。良い子でしたよ本当に。私達の宝だったんです。私達の誇りだったんです。
あの子は大学で…ええ、大学に行ったんですよ。そりゃあ真面目に勉強していましたからね。いや、だからと言ってガリ勉タイプじゃなかったんですよ。ちゃんと友達もいてね。高校生の時はバイトもしてたんですよ。それでも大学へ行ったんです。偉い子でしょう?私なんかは高卒どころか、中卒ですからね。あの子が本当に誇りに思えたもんでした。
あの子は大学で、なんだか私には分からないえらく難しいモンを勉強していましたよ。大手薬品会社から内定を貰ってましてね。手紙にはいつも『一人でも多くの人を救えたら』ってね、書いてあったんです。優しい子だったんです。私達も、この子だったら多くの人を救うことができるだろうと思っていたし、あの子も本当にそのつもりだったんです。離れていた私達に頻繁に手紙をくれましたけど、そこにはいつもあの子の夢や抱負が綴られてましたよ」
 それは誰に語られているのか良く分からなかった。
 俺ではない気がする。
 でもオッサンは俺のすぐ後ろで、独り言のように呟き続ける。
「それがね、それが。あまりにもあっけないモノでした。
本当の理由は知りません。私の息子が…私達の息子が、大事な大事な私達の息子が殺されたのに、理由がね、分からないんですよ。へんな話でしょう?最初は、肩がぶつかったとかって言ってました。だけど、裁判が進むとだんだん話が違って来ましてね。ただひとつ分かっているのは、私の息子は一人だったんです。それで、向こうは五人だったんです。それで、息子はね、息子はね、お葬式に集まってくれた沢山の息子の友人達に顔も見せれないほど酷い殺され方を。
世の中って狂ってると思いませんか?
私達、たった一人の大事な大事な息子を、将来の夢と希望と、立派な抱負をいつも目をキラキラさせて語ってくれていたあの子を殺されたのに、裁判所では何も言えないんですよ。向こうはね、黙秘権だの弁護人選任権だの人権擁護規定とかってのが必要以上って思うくらい認められているのに対してね、私達は告訴権ってのしかないんですよ。
裁判所、行ったことあります?酷い場所ですね、あそこは。
いやね、向こうはね、ゴロツキ…いや、ヤクザだったんでしょうかね。いや、あんなのヤクザじゃないでしょうね。チンピラの集団だったわけですよ。裁判する度に向こうの仲間がやって来ましてね、私達をずーっと、睨んでるわけです。家内が怖がって怖がって。オカシイですよね。私達、何故怯えなくちゃならなかったんでしょうね。勿論それだけじゃなかったですよ。毎晩毎晩、嫌がらせの電話が続きました。家内はそれで体を悪くしまして、それから間もなく私を置いて自分から息子のもとに行きました。
でも家内の選択は正解だったんですよ。世の中、本当に狂っていたんです。
私は裁判で、本当にそれが分かりました。
向こうね、なんて言ったと思います?
本当に、私の、私達の息子を何だと思っていたのでしょう。あの人達、息子が急に襲い掛かって来たって言うんですよ?あの子が、人様に急に襲い掛かって来たんだって。自分達に殺意なんて全然なかったって。笑っちゃいますよね。私、実際笑っちゃったんですよ。そうしたら、裁判官の人に叱られましてね。それもヘンでしょう?何故私が叱られて、そんな嘘を吐くあの人達を叱らないんですか?
それだけじゃないんですよ、あの人達。息子がね、クスリかなんかやってたんじゃないかって言い出してね。ハハ。息子をバカにするのもいい加減にして欲しいって感じですよね。あの子は次の年に薬品会社に就職して、病気で苦しむ人達を一人でも多く助けようって――
私ね。私は、この世に正義なんてモノはないんだと思います。
だってね、あの子は街中で暴行を受けたんですよ?なのに、何故誰も一方的な暴行だったと証言してくれる人が出てきてくれないのですか?そりゃ深夜でしたから人も少なかったでしょう。でも、いたはずなんですよ。見てた人は絶対いたはずなんです。車の中からでも、見てた人はいたはずなんです。
私は待ちましたよ。向こうが全員出て来るまで、たった七年でしたからね。たったの七年で、全員出所できたんですよ。息子の人生ってなんだったのか分からなくなるでしょう?しかもヤツ等、誰一人として私達や息子に謝罪しなかった。出所しても、墓前で手を合わせることもしなかった。ただ、裁判で弁護士が用意した紙切れを読んで、それらしい事は言いましたけどね。
私は七年待って、それで、私の人生を終わらそうと思ったんですよ。勿論私だけ息子と家内のもとに行くつもりはなかったです。アイツ等を……」
――駄目だッ!!」
 思わず目を開けて振り返ると、俯いたオッサンが霧の中に佇んでいた。
「不思議だった。人を殺して終身刑になる者もいれば、死刑になる者もいる。私の息子はボロ雑巾みたいにされて殺されたのに、ヤツ等は七年だ。たったの七年だ。一番早く出てきたヤツは四年だった」
「でも駄目だ。そこでオッサンが罪を犯せば……」
「奴等は罰を受けた。そして私もまた罰を受けている。私は、いつまで経っても息子と家内のもとに行けない」
 そこで俺はようやくオッサンのジャンバーに点々と血痕がついているのに気が付いた。オッサンの目は全てを諦めているように暗く、そこには後悔も絶望感もない。そこにあるものは、何年かのうちに身に染み込んでしまったのであろう怨恨と、そしてひたすらに広がる虚無だった。
 手を……せめて手を。
 握ろうと思っても腕が上がらない。オッサンは虚無だけど、あまりにも悲しい。オッサンはあまりにも悲しい。悲しい。悲しい。胸が痛い。
 だから目を瞑って、一瞬だけ瞑って落ち着こうと深呼吸した。

「手を……」

 一度だけ深呼吸しゆっくりと目を開けたら、そこにはオッサンの姿はなく、しかもあれほど深かった霧が嘘のように綺麗に晴れていた。
「春樹?」
 聞きなれた声につられて社に目を向ける。
「永司?」
 そこにはやはり永司が、少し驚いた顔をしながら突っ立っていた。
「どこに行ってた?」
「ここにいた」
 確かに永司は動いていないようで、手を合わせた時と同じ場所にいる。動いたのは俺だ。
「でもさっきいなかった。呼んだのにぃ」
 不思議な出来事にキョロキョロと辺りを見渡し確かめるも、別に変わった様子は何もない。でもオッサンに会ったのは本当だと思う。だって俺の胸は悲しくて今もこんなに痛む。
「俺も春樹を呼んでた。ずっと呼んでたよ」
「俺、人に会ってた。悲しいオッサンに会ってた」
 手を伸ばすと永司がやって来て俺の手を握る。その温もりはいつだって俺に対する愛情で一杯で、心底安心できたから抱き締めたくなった。だから抱き締める。
「俺は女の人に会ってた」
「女の人ぉ?」
 ちょっとだけムっときたのでその胸に埋めていた顔を上げて永司を見た。
「うん。話し掛けられたけど俺は春樹が心配で、ずっと春樹の名前を呼んでた」
「……無視してたってこと?」
「そう」
「知らない人に話し掛けられたのに無視するのは良くないぞっ」
「でも俺は春樹が心配だった」
 そりゃお前がどんだけ俺を心配してたのかは予想できるけど。
 まぁ終わった事はしょうがないねぇと思いながら体を離し、手を繋いで歩き出す。
「なんだったんだろ〜?」
 オッサンが残した胸の痛みと永司から流れてくる愛情を両方味わいながら、変わった狛犬がいる場所で社を振り返った。
「なんだったんだろうね。でも、夢か幻だったのかも」
 永司はもう興味がないようで、一度俺につられて振り返ってみたものの、すぐに体を戻して俺の手を引き歩きはじめる。
「夢じゃないと思う」
 だってこの胸の痛み。
 そうだ。俺、オッサンの手を握れてない。躊躇せずに握れば良かった。
「でも、足跡は俺達の分しかない」
 永司の言葉に思わずもう一度振り返り確認したが、確かに足跡は俺達の分だけだった。





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