第2章 かごめかごめ

 長野の山奥にある真田の実家には、電車で行く事になっていた。
 ボードや着替えの荷物は宅配で送り、駅で集合した俺達は身軽な格好で列車に乗る。永司の部屋で寛いでいるのと別に変わらない。俺達はそれぞれ別な事をしながら時間を潰し、長野に向かい、そして窓から見える風景に雪が混じり始めた頃寝ていた苅田と緋澄が起き、皆で暁生が持ってきていたイチゴポッキーを奪い合って食べた。

 ガヤガヤと混雑した列車は、定時に長野に到着。
 俺達はそこで降りて善光寺に行ってお参りし、俺と永司・砂上と緋澄が長蛇の列にうんざりしながらも並び待って戒壇廻をし、その後は善光寺の近くの蕎麦屋で蕎麦を食った。
 昼飯を食い終わると、そこから車内をほどよく温められたタクシーに乗って真田の実家に向かう。雪の深い山を越え、更に雪が降り積もる山間部へと入って行く。長野市は冬季オリンピックのために道が整備されてはいたのだが、少し市外を通ると途端に道幅が狭くなる。除雪された雪が道の両側を圧迫するようにし、狭い道路を更に狭くしていた。
 長野には昔住んでいたことがある。多分、2回くらい住んでた。
 明確に覚えている記憶はほとんどないのだが、連なる山を見上げて学校に通っていたような気がする。そうだ。あの時…春の青空に白々と光り浮かぶ日本アルプスを見た時、子供心に何故人が山に登るのかを理解したんだ。それほど美しいものだったのだ。
 ああ、でも。
 俺は感動したことしか覚えていない。本当に綺麗で凄く雄大だって感じたことしか覚えてない。ようは、良い映画を見て感動して泣いたのに、ずっと経ってから友達に「この映画見た事ある?」って訊かれた時に「凄く良かったよぉ。一杯泣けたぁ」って答えるわりには、その映画の内容が全然思い出せないのと同じだ。なんだか凄く感動したことを忘れてその感動だけを覚えているのは勿体無い気がする。

 タクシーには1時間半か2時間は乗っていたかもしれない。徐々に家屋も少なくなり、峠を何度か越えた所で携帯が鳴った。
「もうすぐだぞ」
 先頭のタクシーに乗っている真田からだった。
「もうすぐだって」
 隣で外の景色を見ていた永司に伝える。しかし永司は頷くだけでずっと外を見ていた。タクシーの窓ガラスは曇っていて、外側には雪が張り付いている。それでも永司は内側を手で拭いてじっと外を見ていた。
「永司?」
 何か気になるものでも見えたのだろうか。そもそも永司が俺の呼びかけを無視すること自体が珍しい。
「永司ってばぁ」
 何か怒っているのだろうかと思ってツンツンと肩を突付いてみたら、永司はようやく反応した。しかし、振り向いて「分かったよ」とか「なに?」とか言うわけではなく、じっと固まっていた手を、そこに意味を込めるかのように実にゆっくりと上げて人差し指を伸ばし、ガラス窓の向こうを示したのだ。
 俺はそれにつられるようにして、永司の身体の上に体重をかけるように身を乗り出し窓を覗く。顔を近づけて覗いても、自分の吐く息や体温でたちまち窓は曇るから、何度も服の袖でガラスを拭いた。
 外は夕暮れで薄暗く、所々に淋しそうな電灯がポツリポツリと突っ立っている。峠の途中らしく、木と雪の他には何もない。木々の奥にはまた木々。永遠に木々が立ち並びはしているものの、しかしやけに暗い山のような気がした。
「なんか見えたんかぁ?」
 暫く眺めては見たものの、いっこうに代わり映えのしない窓の景色から視線を逸らし永司に尋ねた途端、視界の端に何かが映った。
 視線を戻して外を見る。
 しかし何もない。相変わらず山の斜面と雪と木だけだ。
「永司」
 名を呼びながら外を見る。
「お前…」
 また少し視線を外した途端、視界の端に何かが映った。
 ハッキリとは見えなかったが、人影のようにも見えた。
 まさかこんな場所に人がいるわけない。実際この峠に入ってから一台も車とすれ違っていないのだが、そんな車も滅多に通らないような道で、しかも雪が降り積もっているこの寒空に、一体どんな理由があれば一人で佇むことができるのだ。
 俺は遭難者かと思いガラスにひっつくようにして随分と後ろを眺めたが、やはりそこには何もなかったし誰もいなかった。
「運転手さん……」
「この辺りはね、昔から鬼が住んでいると言われてるよ」
「鬼?」
 何も訊いてはいないのに、運転手は喋りだした。
「私は…いや、誰もハッキリと見た者はいないがね」
 突然独り言のようにボソボソと聞こえた運転手の声はそこで止まった。細くクネクネとした細いロープのような道は、ついに行き止まりになったのだ。
 そこは広めの駐車場のようで、端っこに雪かきで集めた雪で作ったかまくらがあった。そしてその先に、創業何年なのか想像もつかない、しかしその分威厳のある随分と立派な旅館が建っていたのである。多分この旅館の裏に真田の実家があるのだろうが、これを見ただけで真田の実家がどれだけのお屋敷なのか想像できるようだった。
 タクシーを降りると最後に苅田と緋澄が乗っていたタクシーが到着する。全員揃うと3台のタクシーは引き返していった。ふと考えれば、俺はあのタクシーの運転手の顔を見ていない。一体どんな顔をしてこの峠を登り、俺と永司の会話にもなっていない会話を聞き、そして鬼の話をしたのだろうか。
 この辺りは鬼が住む。
 それはどんな鬼なのだろう。

 真田の実家は村の一番外れの山腹にあった。
 真田の話が本当であれば、幸村はここで余生を過ごしたのだと言う。最初はそんな話眉唾だと思ったものだが、いざこうして来てみればそうでもないような気がして来た。
 タクシーの中からずっと見てきたが、この村自体が随分と山奥にある。隠れ里と言われればそれで納得してしまいそうな辺境の地だった。そしてその地の一番奥、この先はもう何もないと断言できそうな場所に真田の実家がある。俗世間から離れ、老い先短い残りの人生を過ごすにはもってこいにも見えるし、また自らこのような場所に居住を決めると言うのは余程の世捨て人なのかもしれないとも取ることが出来た。
 旅館をそのまま素通りし、真田の実家に案内される。
 思っていた通りのお屋敷で、門に案内された時に振り返ってみると、眼下には過疎化が進んでいるとひと目で分かる小さな村、その向こうには白く高く聳え立つ山々、天候は決して良いとは言えないものの薄く染まった厚い雲。
 綺麗だと思った。
 一面が雪で覆われ、家も道路も、村も、山々も、白く白く。その白い雪が、雲の隙間から微かに入る夕日でほんのりと赤くなっている。
「永司、綺麗だな」
 声を掛けると前にいた永司も振り返った。
 そして、同じようにそこから見える風景を見、最後に俺を見て頷いた。
「お帰りなさい、姫様」
 玄関まで出迎えに来ていた老婆が真田を見て頭を下げる。
「姫様だぁ?」
「つか、誰がよ」
「私の事に決まっておろうが。バカタレ」
 俺と苅田の突っ込みにカカカと笑いながら、真田は踏み石で靴を脱ぎ捨てズンズンと進んでいく。
 俺達もそれに続き、皆それぞれに「オジャマシマス」だの「お世話になりマス」だのと口にしながら奥へと進んで行った。
 長い廊下だった。
 そして、使用人と思われる人々…主に老人は、真田とすれ違うたびに「お帰りなさいませ、姫様」と口にする。真田はこの村の人々からすれば本物の、真田幸村の血を引いている引いていないを別にしても、本物の姫様だったのだ。
「皆のもの、大儀であった」
 長い廊下を渡って離れに到着すると、真田が手前の布障子を開ける。
「ここがワラワの家じゃ」
 俺はその言葉を聞き、真田が本当にこの自分の家に対し一物抱えている事を知った。
 真田はこの屋敷の門をくぐっても、使用人と思われる老人達に挨拶されても、一言も「ただいま」とは言わなかった。それどころか、彼等とは口も利いていない。ただ、頷くだけだったのだ。それが今、この離れに到着し薄い墨で松が描いてあるこの布障子を開いた途端に「ワラワの家」だと言ったんだ。つまり、この離れだけが真田の家なのだ。
 俺達は無理矢理押しかけて来た。真田は嫌がっていた。しかし真田が本当に嫌がっていたならば、俺達を連れては来なかったはずだ。
 真田鮎は、この家に何を感じているのだろうと思った。

 真田の御両親に挨拶しようと思ったが、真田はそれを嫌がった。風呂は旅館の風呂を借り、飯は真田の部屋で猪鍋を食った。料理を運んで来るのは、最初に真田を出迎えた婆さんだけで、あとの者はこの離れに近付こうともしていないようだった。
 婆さんは何も言わず、料理と一緒に未成年の俺達に酒を運んで来る。そして俺達は、ほどよく温められたその日本酒を飲み、妙に静まり返っているこの部屋で騒いでいた。
 真田の両親は一度も顔を出さなかったし、真田自身もそれが当たり前のような態度をとっていた。
 ただ、俺達が騒いでいる間も永司だけは窓の外から見える山をじっと見詰めていた。

 その夜はヘンな夢を見た。




 耳元で誰かの声がする。
 それはボソボソと低い声で話し掛け、心地良い睡眠の邪魔をする。
「…眠い」
 幼い女の子の声。
 それでも耳元の声は止まない。それはボソボソと読経のように続いてる。声の低さから言うと声の主はどうも男のようだった。
 この声に耳をすませる必要はなかった。何故ならその声は恨みつらみなのだ。
 誰かに対する恨みの言葉は、睡眠を邪魔されて叫びだしたくなるようなストレスの中、冷ややかに長年鬱積した恨みを囁き続ける。怒鳴るのではなく、すすり泣くのでもなく、ただ冷え切った声で恨み言を呟く声。
 しつこくて、陰険な恨みだと思った。
 視界がゆっくりと引く。
 そこには8畳の部屋で布団に包まる真田が見える。しかし真田は今の真田ではない。今のようなキツさは目元にあるものの、まだまだ幼くあどけない。
 真田は眉間に皺を寄せ、寒さの中モゾモゾと動き両手で耳を塞ぐ。それでもその声は消えない。消えないどころか、どれだけ耳にキツク手を押し当てても嘲笑うかのようにその声は静かに恨み言を連ね続ける。
 真田は眠れない。
 眠れない苛立たしさとその声の主である男に対しての不満、そして、その声の内容に歯を食いしばりながら夜を過ごす。


「姫様は山神様に愛されておるのですよ」
 しゃがれた声で幼い真田に言い聞かせるのは、腰の曲がった老婆だった。
 枯葉がヒラヒラと舞い落ちる山の中で、真田は老婆の後を追って歩いている。夕日はもう沈み、東の空にはうっすらと星が出ていた。
「山神様は女の神じゃろう。ワラワのことは好きではないはずじゃ」
「いいえ。姫様のことを愛しておりますよ。ほら、今日も」
 老婆は獣道の先を指す。
「山神様の遣いだ」
 険しい山道の先に、何かの動物が見え隠れした。


 耳元で誰かの声がする。
 それはボソボソと低い声で話し掛け、心地良い睡眠の邪魔をする。
「……何故私なのだ」
 真田の声。
 8畳の部屋で布団に包まる真田が見える。それは今の真田より、少し幼く見えた。
「何故私なのだ」
 真田の声が部屋に響くが、声は止まない。
 真田は苦しそうに両手で耳を塞ぎ、耳元の髪を掻き毟る。それでもその声は消えない。
 独り言に近いその声は、女のようだった。
 真田は眠れない。
 日が昇るまで布団の中で包まり、両手を耳に当てたまま時間を過ごす。




 目が覚めた。
 身の締まるような寒さの中、自分の息遣いだけがやけにハッキリと聞こえる。畳8畳の部屋と隣の寝室には布団が敷かれ、酒に酔ったそれぞれが適当に布団に包まっていた。
 今のはなんだったのだ。
 今見た夢を思いだしながら目を擦り身体を起こし、暗い部屋を見渡す。
 開かれた襖の奥に見える隣の部屋にはこちら同様に綺麗に布団が敷かれているのだが、暗くて誰がどこに寝ているのかは分からなかった。ただ、誰か一人がいない。布団がペタンコになっている。
 ふと隣を見る。
 しかし何があろうとも絶対俺の隣にいるはずの永司はそこにいなくて、反対側には緋澄が小さな寝息を立てていた。トイレにでも行ったのだろうか。
「永司」
 皆を起こさないように小さな声で呼んでみる。
「…ここだよ」
 少しの間があってから、廊下の方で返事があった。
 布団を捲ればすぐさま冷気が身体を冷やす。いつの間にか枕元に置いてあった半纏を羽織って廊下に出ると、母屋へと続く長い廊下に永司が突っ立っていた。
 歩く度にミシ、ミシっと床が軋んだため、俺は他のメンバーが起きないか心配だった。
「何してる?」
「目が覚めたから…ただ、月を見てた」
 永司は俺と一緒の紺の半纏を羽織り、廊下の格子がついた窓から外を眺めている。
「……夢、見た?」
「見たよ」
 俺も永司も小さな声で話す。勿論真田の家の住民を起こしたくなかったし、それにこの冷えた空気の中、俺と永司の会話を誰にも聞かれたくなかったという自分でもよく分からない理由もあった。
「真田の夢?」
「そうだよ」
「あれは、なんだと思う?」
「真田の夢だと思う」
「真田の夢をどうして俺達が見る?」
「さぁ」
 永司は不思議そうに首を振ったが、永司の目は嘘を吐いていた。永司は何かを知っている。気がついている。でも、永司が言わないのであれば、俺は何も訊かなかった。隠す必要があるのか、もしくは真田のプライベートな話なのか。何せ真田は永司に惚れていたんだ。
 永司の隣に並び、木の格子の向こうに見える月を見上げた。もう細いなくなりそうな月なのに、それを雲が隠そうとしている。
「永司は、なんでここに来た?」
 それだけ小さく囁いても、誰もいない廊下は俺の声をよく通した。
「春樹が来たいと言ったから」
「永司は来たくなかった?」
「春樹がいる場所ならどこへでも行く」
 永司は窓の外を眺めたまま呟く。
 雪は降ってなかったが、流れる雲が夜空を覆い月を隠したりまた追い出したりしていた。
「好きだよ」
 今までずっとその台詞を隠していたみたいに、永司は言う。もう何回も何回も言われた言葉なのに、永司はいつも初めて口にするといった感じで言うんだ。
 視線をまた雲に隠れそうになっている月に遣りながら、手を伸ばして永司の手を探った。
 暖かい。
 永司の手は暖かい。こんな寒い夜でも、永司の手は俺に愛を囁く。
「俺も好きだよ」
 まだ永司を愛してから、愛していると自覚してから三ヶ月ちょっとしか経ってない。なのに、もう何回も何回もこの言葉を口にしている。俺も永司のように今始めて愛を囁くように言いたいけれど、俺の言葉は何回も何回も口にしているそれそのものだった。
「俺の方が愛してる」
「俺だって負けてない」
「違うよ」
 嘲笑うような卑屈めいたような、とにかく嫌な言い方だったので俺はちょっとムッとして握っている手に力を込めた。
「春樹」
「ん?」
 シンと静まり返っている廊下の向こうから、誰かの子守唄が聴こえてきた気がした。
「春樹の愛は、俺の愛に追いつかない」
 静まり返った廊下にそのまま染み込むような永司の声は、胸を締め付けるようにして俺の心の深い場所まで沈んでいく。辛くなって目を閉じた。
 何故永司はそんな事を……口にするんだろう。
「お前は――
 どうしようもなく口惜しくなって、目を開けて永司に視線を向けようとした時だ。
 窓の外に何か見えた。
 一瞬で身体が硬直し、目を見張るようにして外を覗き込む。
 窓の外は分家…つまり旅館とは反対方向で、斜めに山の斜面が広がっている。そしてその上にもう雲に隠れてしまっている細い月。
 俺は言おうとした言葉を飲み込み、そのままじっと外を見た。
 身体に鳥肌が立っているが、これは寒気のせいだけではない。もっと良くないモノのせいだ。
「……永司」
 自分の手が汗をかいているのが分かった。永司は返事をしない。それは俺のように良くないモノを感じて身が竦んでいるわけではなさそうだった。永司の手からはそんな緊張は感じない。永司は、もっと興味深くそれを見詰めているのだ。
 また少し視線を外してみると、視界の端にやはり何かが見えた。暗くてよく分からないけれど、何か良くないモノだという事は分かる。
 シンとした廊下の奥から聞こえるのは、誰かの子守唄。
 それと
 ……
 窓の外から読経のように聞こえる声。
 それは恨みつらみだ。
「永司。お前、アレを見ていたんだろう」
 返事はなかった。
「お前、アレの声を聞いて目を覚ましたんだろう」
 俺にはよく見えなかったが、山の木々の陰に隠れて何かがコチラを見ている。それは複数のようでもあったし、一人…もしくは一匹のようでもあった。
 何が見えるのか。何が聞こえるのか。
 俺は不思議な能力がある。人の嘘を見抜ける能力と、人に力を与える能力だ。真田もなにか能力を持っている。
 そして永司も。
 それに俺は、ようやく気がついた。今までずっと一緒にいたのに、ようやく今、初めてそれに気がついたんだ。
 でも永司は何も言わなかった。

 【君が岬杜君との間の事を僕に相談してくれないと僻んだりもしたんだ】

 いつか岸辺に言われた言葉。
 岸辺。
 永司だって俺に何も言ってはくれん。




 随分と遅く、もう昼近くになってから目が覚めた。
 俺達は前日飲みすぎたせいもあって揃いも揃って全員が…何故かそんなに飲まなかった緋澄までが二日酔いの頭痛に悩まされていた。
「オイ真田。真田村特産の頭痛薬とかねぇのかよ」
 暁生が喚くと全員で頭を抑える。声が響くんだキチショー。
「ここは真田村ではない。勝手に村名をつけるなバカモノめが」
 真田は文句を言うのだが、いつもよりはテンションが低い。
「腹減った」
 布団の中に潜り込んだままの苅田が我侭を言い出す。
「喜代はあっさりしたお粥が良いわ」
「…とーふ」
 同じく布団に入ったままの砂上と緋澄が、人様の家というのをすっかり忘れてこれまた我侭を言い出す。いや、緋澄は素でこんなんだ。しかし砂上は確信犯に違いない。
「あのなーみんな。もうそろそろ真田の両親に挨拶せにゃ」
 何故俺がこんなマトモな事を言わねばならんのだとブツブツ文句を垂れていると、このクソ寒いなか一人で顔を洗ってきた永司が部屋に戻って来た。
 それ以外は皆布団の中で亀さんのように丸まっている。
「ワラワの親のことなど気にしてはいかん。親は親で、ワラワには会いたくないのじゃ。と、言うよりヒジキよ、人ン家の事情に首を挟むな大バカモノ」
「誰がいつ真田家の事情なんぞに首を突っ込んだんだよ。常識で言ってるだけだメガバカモノ」
「メガとはなんじゃ。なんぞカッコイイ怪獣のようじゃの」
「そうそう。怪獣」
「その怪獣は空を飛ぶのかや?」
「宇宙まで飛んで行く」
「ほう。それは良いな」
 適当に言った嘘を鵜呑みして真田は布団の中で妙に感心していた。その他のメンバーは、もう一眠りしようとヌクヌクしている者、布団の中から手を伸ばして鞄の中から鏡を取り出し肌のチェックをしている者、いつもと同じくボーーっとしている者、ただひたすらに痛む頭を押さえている者などそれぞれだ。
 部屋に帰って来た永司を見て、俺ももうそろそろ顔を洗おうと腕を伸ばして布団を捲ろうとした。…が、寒い。布団の中との温度差がありすぎて、ちょっとやそっとの根性では布団から這い出る事ができなさそうだ。
「つかよ、なんでこの部屋こんなに寒いわけ?」
 北国なんだから、普通は暖房ガンガンのはずなのに。
「しょうがなかろうが。ここは離れだし、ストーブは昨日の夜に灯油が切れたらしい。オイ、ホーミング。お前元気そうじゃし、灯油入れて来い。もしくは誰か呼んで来い」
 モーター音がしているからエアコンはついているのだろうが、それにしても寒かった。
「永司ぃー」
 寒さに鼻をグスンと鳴らしながら情けない声を出し「灯油入れてきて光線」を出したものの、永司はそんな俺の視線を無視して俺の布団に入って来る。
「ちょっと待てぇぇええーーーーーーーッ!!」
 今までグズグズして布団から出て来なかった真田も、永司の行動を見て飛び跳ねるように起き上がった。ついでに真田の短い髪は寝グセでびょんびょんと飛び跳ねている。
「お前と言うヤツは……お前はいうヤツは……人ン家で何をしとるのじゃ!恥ずかしくないのか!一般常識を持ち合わせてはおらんのか!それより何よりワラワのガラス細工のような乙女心をまたしても……ふんぬーーッ」
 布団の上で地団駄を踏んでいる真田を横目に、永司は俺の布団の中で何気に俺を羽交い絞めにしてた。
「ヒジキーーーッ!!」
「ちょ、ちょっと待てっ。俺だってさすがにコレは…オイ永司!!」
 抵抗しても永司は止めない。俺を羽交い絞めにしたまま真田の声など何処吹く風といった感じで布団を巻きつけ「みのむしさん状態」を楽しんでいるのだ。普段は無口な永司は、たまにとんでもない場所でとんでもない時に俺といちゃつこうとする。それが単なる気まぐれなのかどうかは知らないが、この慣れたメンバーと一緒の時は人目を憚ろうとする気など一欠片も持ち合わせてはいないのだ。そして、そんな時は俺が何を言っても無駄だ。永司は俺とイチャつきたい時、何がなんでもイチャつくのだ。
「…もう良い。そうか。そうなのだな。よかろう。それならお前を成敗するのみ!くらえ正義のメガ怪獣キーーーック!!」
 布団の上から真田が蹴りを入れてきて、それを見て大笑いした苅田までもがふざけて俺達の布団に乗りかかってきた。こうなれば勿論暁生も参戦する。
 こうして俺達はようやく布団から這い出たのだ。俺は朝から打撲で身体中が痛かったけれども。

 スキーもしくはボードのためにここまで来たのだから。
 そう思って早めの昼食というか遅めの朝食と言うか、とにかく昨日から一人で7人分の飯を運んできてくれる婆さんに申し訳ないと思いつつ、腹にあっさりとしたご飯を詰め込むと、俺達は宅配されたそれぞれの荷物を解いて準備をした。何が入っているのか見当もつかないくらいの大荷物と格闘している砂上とずっとぼんやりしている緋澄を除けば、皆それぞれがゲレンデへ直行できるようにサクサクと用意をする。
 しかし、昨日来た時はこの山にゲレンデなんてなかったような気がするのだが。タクシーの窓から見えたのは、眼下に広がる淋しそうな村とこの家の後ろに聳える寒そうな山だけだった。
 どこにあるのだろうか。
 到着した時からすこぉ〜し疑問に思っていたのだが、俺はハッキリと訊いてみるべきだったのだ。
 なにせ真田のメガ馬鹿怪獣はすっかりと用意を整えた俺達6人に向かって、「分家」と真田が呼んでいる旅館の左横…つまり、昨日タクシーから降りて山に沈む夕日を見たあの山の斜面を指差し、
「さて。では競争でもしようかの」
 などとほざいたのである。
 俺はその雪を被っている木々や雪から飛び出ている藪などを見ながら、その場でガックリと項垂れた。そうさ。真田の言う言葉をそのまま信じた俺が悪かったのさ。はいはい。
「……真田よ。これは山スキーじゃねぇか」
「ボードでも良いぞ?」
「いや、そーゆー問題じゃなくて。雪崩の心配とかさ…」
「私が学校へ行く時は、ここから滑り降りて下の県道に出たもんだぞ?」
「いや、だからそうじゃなくて……」
 俺と真田の会話を聞くまでもなく、砂上と永司なぞはとっととスキーを持って元来た道を引き返そうとしている。
「真田。下まで行ったらどうやって戻って来るんだ?」
「分家に泊まりに来る客がたまにおるからの。それに乗せてもらうのが一番じゃ」
 たまにって…。
 俺と苅田もボードを持って元の道を歩き出す。
「オイ!せっかく連れて来てやったのに、どーゆーことなのじゃッ!」
「うるせーこのギガ馬鹿女!!」
「ギガとはまた新しい怪獣か?それは空を飛ぶのかー?!」
 アホな真田と滑る気満々の暁生を置いて、俺達は真田の実家の方へと歩いて行った。さすがに滑る気にはならなかったんだ。いや、だって滑ったは良いけど帰りが…。
 アイツら滑るんだろうなーと思って振り返ると、駐車場部分より掻きだされた雪によじ登り、二人でショートスキーを履いていた。本当に滑るらしい。
 ブツブツ文句を垂れている砂上と苅田を先頭に、まだ誰も踏んでいない場所を探してサクサクと音を鳴らしながら歩いている緋澄。その後に俺と永司が並んで歩く。風格のある旅館を横切り、俺達は真田の部屋に戻った。
「お帰りなさい」
 真田の言う家、つまり離れに着くと、昨日から俺達を世話している婆さんがどこからともなくやって来てお茶を持ってくる。
「ばーさんごめんねぇ。迷惑かけてさぁ」
 急須と湯飲みが乗っている茶盆を受け取る俺に向かって、婆さんは思いがけず人懐っこい笑みを漏らした。昨日から必要なこと以外は話さず、深く刻まれた皺一本まで動かさなかったつい今さっきまでの婆さんとは同一人物とは思えないような笑みだった。
 笑うと途端に人間になる。そんな感じがした。
「姫様のお友達じゃ。何も気にせんで」
 曲がった腰をしゃんと伸ばし正座すると、婆さんは緩く首を振る。
「オイ婆さん。真田ってホントの『姫様』なのか?」
 婆さんに尋ねながら苅田は畳にゴロンと横になり、俺に茶をくれと合図してくる。なんでいっつも俺なんだよと心の中で文句を言いまくりながらも、砂上以外お茶すら自分でいれられないであろうこのオタンチン軍団のためにポットから湯を出して急須の中に入れる。
「姫様は姫様ですよ。佐衛門佐信繁様の直系子孫です」
 コクコクと頷きながらどことなく己のことのように胸を張る婆さんは、ちょっと可愛い。
「婆さん。その姫様さ、山を降りて行ったけど戻って来れるかなぁ?」
 言いながら湯飲みを並べて少しづつお茶をいれ、茶請けをテーブルに乗せる。
「分家の方のお客さんが捕まれば良いのですがねぇ。駄目でしたら向こう山の麓にあるお寺さんで寝て、早朝に来る除雪車に乗せてもらって来るでしょう」
 婆さんの慣れた言い方に、苅田に渡そうと思った湯飲みを思わず落としそうになった。
「戻ってきて正解だったわ…」
 砂上の呟きは、ここにいるメンバー全員の心の声だ。
 婆さんは俺達の顔を見渡し事情を察したのか、オホホと上品に笑ってから頭を下げ、また元のように腰を曲げて部屋から出て行った。
 それを見て俺も思い出し立ち上がる。朝に切れていた灯油を貰おうと思ったんだ。ファンヒーターから缶を出して部屋を出た。
 長い廊下で婆さんを捕まえた。昨晩永司と月を見た場所だった。
「ねぇ婆さん。灯油くだちゃい」
 部屋を出た途端一回り小さくなってしまったような婆さんは、俺の声に反応して振り返る。また少し微笑した。
「あぁ、気がつかなくて」
「いや。これくらいは自分達でやるよ。突然大勢で押しかけて来たんだし」
 喋りながら廊下を歩き、母屋に戻ると広い台所へ向かった。そこには昨日見た使用人らしきオバサンが野菜を刻んでいる。
「大きなお屋敷だねぇ」
 呟きながら勝手口の側にある灯油のタンクに近付き腰を下ろして、昔ながらの手動式ポンプを貰う。
「あのさー。さっきの話…ちょっと不思議なんだけど、なんで『姫様』である真田を迎えに行かないの?寺で一晩ってムッチャ寒いんじゃねぇ?」
 チュポチュポとポンプで灯油を吸い上げながら訊ねると、隣で俺を見ていた婆さんがまた表情を暗くした。いや、俺は灯油が溢れないようにタンクとポンプを見ていたんだけど、婆さんの表情が暗くなったのを感じたんだ。
「姫様はとにかく…難しい子でしてな。ワシ以外のモノと喋ろうとはせんのです。触れられるのは勿論、話し掛けられるのも嫌がるし何かに手を貸されるのも嫌がる。それでも小さかった頃は、冬のこの山の坂を一人で登る事は出来んかったで使用人の誰かが車で麓まで迎えに行ったもんじゃったが、中学に入った途端それも嫌がりましてな。何時の間にやらお寺に自分用の布団を持ち込んで、分家の客とすれ違わない日はそこで寝泊りをするようになりました」
 なるべく一杯まで入れた缶に蓋をし、ポンプを元に戻すと立ち上がる。振り向いて見ると、腰を屈めた婆さんが人形のように目を伏せて突っ立っていた。
「真田の両親は?真田のこと心配じゃないの?」
「お二人とも、姫様を恐れております」
 真田の手の早さは知っている。だが、まさか自分の親にまで暴力を振るうとは思えない。
「真田は…」
「姫様は山姫様に愛されておりますから」
 言いかけた途端婆さんに口を挟まれ、俺は黙って灯油の入った缶を持った。婆さんがノロノロと歩き出し、俺はそれに続く。
 今の婆さんと同じように無表情で野菜を切っているオバサンの後ろを通り、さっき歩いてきた長い廊下に出た。
「この山の山姫様は、真田の家を守ってくれております。それはずっと昔からそう言われておりました。しかしある時、真田の家の更なる繁栄を願って当代の当主様が座敷童子を囲ったそうです。かごめかごめの歌はご存知ですかな?」
「知ってるよ。かぁごめかごめ〜籠の中の鳥は〜いついつ出やる〜夜あけの晩に〜鶴と亀がすーぺった〜うしろの正面だあれ」
 俺は重い缶を持ち冷たい廊下を歩きながら謡った。かごめかごめだったら誰でも知っているだろう。
「この辺じゃ、あの歌は座敷童子の歌と言われております」
「へ?」
 どのへんが座敷童子?
「籠の中の鳥。それが座敷童子だと」
 まるで俺の心を読んだみたいに婆さんが答える。
「座敷童子は住んでいる家に富をもたらします。だから、座敷童子が家に来ると呪府やらお札やらを部屋の周りに貼り付けて、逃げられないようにするんですわな。しかしそんなふうに座敷童子を囲っても、繁栄は長く続きませんでした。ある日そんな仕打ちをしている当主に山姫様がついにお怒りになられましてな。当主の命を奪って座敷童子を助けてやったそうです。それからと言うもの真田の家は山姫様から嫌われておりました。ところが姫様がお生まれになった晩、山姫様が突然に先代の御屋形様の前に現れましてな。また昔のように、真田の家を守ってやろうと申し出たそうです」
 婆さんがふいに立ち止まり、窓から見える山を見てゆっくりとお辞儀をした。それにつられて俺も立ち止まり、窓の外から白い山を見る。
「姫様に逆らう事は山姫様に逆らう事だと、村の年寄りは皆そう言っております。しかしそれが悪かったのでしょう。皆、姫様を恐れるようになりました。話す事も読み書きも人より遅かったしで同世代の子供達からはバカにされ、年寄り達からは恐れられ…。姫様はそんなふうに育ったのです」
 理由を説明していた。
 婆さんは、真田のあの偏屈な性格の理由を俺にゆっくりと語りかけていた。
「良い子ですよ。姫様は優しい子なんです。だから山姫様に愛されているのです」
「知ってるよ。真田は良いヤツだよ。だから友達なんだし、真田の家にも皆で遊びに来た」
 俺の言葉に婆さんは曲げていた腰を伸ばし、山にお辞儀したように俺に頭を下げた。





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