第8章 そこで僕が見たものは


 どうしてだろう、深海君が急に憎く思えたのは。
 あんなに大好きだった深海君が、今回の失恋の全ての原因のように感じたのは。深海君が悪かったんだとそう思えてしょうがなかったのは、どうしてだろう。
 僕が彼を好きにならなければ、僕はもっと彼女に集中して恋愛をしたに違いない。そうすれば彼女は他の男には走らなかっただろうし、僕だってこんな辛い想いをしなくてすんだんだと、そう思えてしかたなかった。
 分かっていた。そんなの関係ないのは分かっていたんだ。
 でも、彼女と恋人のセックスをしたのに、それなのに僕は彼女からは「本当の好き同士ではなかった」って言われて振られた。僕が本当に彼女だけを見ていたらこんな事にはならなかった。僕は何度も深海君を諦めようとしたんだ。でも深海君は僕の届かない場所に存在していると思ったのに、岬杜君と特別な関係になった。だから僕は諦める事ができなかった。僕だって彼を捕まえる事ができるかもしれないと思ってしまったんだ。彼がいつか僕の元に手を差し伸べてくれるかもしれないと思ったんだ。だからずっと期待してた。いつか起こるかもしれない奇跡をずっと待っていた。
 いや、深海君は何にも悪くはないんだ。分かってるんだ。本当なんだ。
 でも僕には、この気持ちの持って行き場がなくて。
 だって奈々実さんに振られた僕にはもう深海君しか残っていないのに、それでも彼は岬杜君ばかり気にして、そして美人で年上のセックスフレンドとセックスして、僕には何の相談もしなくて、僕は必死で自分の心に扉を作っているのにそんな事も気がついてくれなくて、僕はいつも辛くてしょうがなくて。そう、彼が僕の気持ちに気が付いてくれて、僕を振ってくれたなら僕は君の事なんか忘れて奈々実さんの事を理解できたのかもしれないんだ。
 僕は歩きながら首を振る。
 違う。そんな事ない。深海君は関係ない。
 そう思うのに僕の中の汚い部分が深海君のせいだって、全部彼のせいなんだって言う。僕は自分の髪を掴んでそんなコトは関係ないんだって叫んだけれど、彼のせいにしたほうが楽になるのは分かっていた。
 だって深海君は奈々実さんだもの。
 岬杜君を気にして側にいさせて、そして突き放した。奈々実さんと一緒だもの。誰からも愛されて僕の惨めな気持ちなんて分かってくれない。
 分かってくれないのに突き落とした。
 奈々実さんと一緒だもの。

 僕の頭はもう正常には動かなかった。
 奈々実さんが以前言っていた『自分の中にあるグシャグシャしていて攻撃的でベソベソしていて赤色や青色や灰色が混ぜこぜになった部分』を、初めて自分の身体と心をもって心底実感した。


 次の日の金曜日は朝から雨だった。
 僕は放課後に深海君に少し付き合って欲しいと頼んだ。彼は快く頷いてくれたけれど、僕にはそれさえも憎く思えた。彼は僕の話を聞いて、僕を慰めてくれるのだろう。あの手で、あの顔で、あの声で。でも、彼はきっと自分の事は何も僕には言ってくれないんだ。
 今日も朝登校する前に心に扉を作ってきた。随分と貧相な扉だったけれど、作り直そうとは思わなかった。
 僕は深海君に何を求めていたのだろうか。何を話そうと思っていたのだろうか。
 とにかく僕の気持ちの最終的な持って行き場は、優しい僕の友人であり僕が一年間想い続けていた人だった。
 グチャグチャになった僕は、もうそれしかなかったんだ。
 放課後になっても雨は止まなかった。
 僕は教室に誰もいなくなるまで黙っていたし、深海君も僕の様子を見て何も言ってこなかった。彼はこうゆう場面でとても気が回るんだ。僕の想いには気付いてくれないけれど。
 クラスメートは迎えの車が来るまで教室にいたけれど、それでもすぐに僕達2人になった。
 外は雨が降り続いていた。

「深海君、付き合わせて悪かったね」
 僕が呟く。
「いいよ。家帰ってもどうせする事ないしさぁ」
 雨の音が聞こえる。
 僕の心にも今、雨が降っているのだろう。
「僕、彼女に会ったよ」
「うん」
 僕は黙って俯いた。これから僕は何を言おうとしているのだろうか。
 でも、とにかく僕は全部を打ち明けてしまいたかった。もう辛いのは嫌なんだ。自分の中の汚い部分はもう増えすぎてしまって始末におえなくなってきている。
 僕は戻りたい。
 奈々実さんに出会う前の、深海君に恋をする前の自分に戻りたい。彼女に会って、そしてこっぴどく振られて、それでも泣きすがった事を消去してしまいたい。僕がオカシクなったのは深海君に恋をしてからなんだ。だったら全部ぶちまけて、最初の僕に戻りたい。汚い蛆虫が住んでいなかった頃の僕に戻りたい。もう考えたくもないから。
 ゼロに戻りたい。
 黙って僕を見ていた深海君と目が合う。
「僕は笑って今までありがとうと言いたかったんだ。でも、言えなかったよ深海君。僕はそんな格好良い事言えなかったし、言わせて貰えなかった。彼女は僕に呆れていた。僕が会いに行った事に呆れていたんだ。さよならの一言も本当は言っちゃいけないんだって、僕はあのまま消えなくちゃいけなかったんだって、そう言った」
 そう言われたんだよ深海君。それでね、僕は何にも言わせて貰えずに最後にはウルサイって怒鳴られてね、僕は子供みたいにグズグズ泣いてね、彼女の部屋のドアを必死で持ってね、格好悪かったんだよ。
「さよならくらい言ったって良いと思う」
 深海君は優しいね。でも、言う事は優しいけれどやってる事は奈々実さんと一緒だよね。
「立つ鳥跡を濁さずって言うでしょう?って言われた。僕は立つ鳥なんかじゃないのに。僕は強引に彼女から突き落とされただけなのに。僕は飛べないのに、突き落とされた。なのに彼女はそう言うんだ。僕は、僕の心はまだ彼女の元にあるのに」
 僕は静かに言いながら深海君を睨んだ。
 深海君。僕は、僕の心はまだ君の元にもあるんだよ。
 決して成就しない恋をまだ君にしている。
 僕はこの気持ちを壊してしまいたいんだ。
 そしてゼロに戻る。
 窓の外から雨と風の音がした。
 深海君はじっと僕を見ながら手を伸ばす。僕を憐れんでいるように見えた。
「触らないでよ、深海君」
 僕は彼の手を払いのける。憐れんでくれなくて結構だ。同情なんてまっぴらだ。君に恋をしているのに、君から同情されるなんて考えたくもない。
 彼は少し戸惑った表情を見せた。僕はそれすらも憎く思えた。
「深海君に触れられるのは好きだよ。落ち着くしね。でも、今日は触られたくないんだ。深海君に触られたら、僕はいつまでたっても飛べない」
 そしてゼロに戻れない。
 彼は僕を見ている。何を思っているのだろうか。
「深海君は彼女の事どう思う?悪い女だと思う?酷い女だと思う?」
「悪い女とか酷い女とか、そんなんは分かんねぇよ。実際に会った事もないし、その女が何を考えてたのかも分からない。岸辺がそこまで惚れるんなら良い所もあるんだろうと思う。でも、俺は岸辺に辛い思いをさせるその女は嫌いだ」
 僕は心の中で笑った。
 岸辺に辛い思いをさせるその女は嫌いだ?
 君が一番僕を…。
 それに奈々実さんは本当に素敵な人だったよ。
 悪く言わないで。
「僕はそれでも好きなんだ」
「うん」
 うん、なの?そう。君はいつだってそうだ。本当に君は孤高の獣だよ。何一つ僕の事なんて分かってないくせに、そうやって何でも分かっているような悟ったような口の利き方をしてさ。
「彼女と深海君は同じなんだ」
 僕は言いながら笑った。きっと陰険な笑い方だったろうと思う。
「何が?」
「悟ったような事しか言わないし、誰からも愛されている。でも深海君はいつも冷えた目で周りを見ていて皆を嘲笑っている。自分は特別だと思っている。凄いナルシストだよね。カッコイイいよ、まったく。実際特別なんだろうけどね」
 そうだよ君は孤高の獣。
 誰からも愛されていつだって格好良くて僕をこんなに苦しめる。
「岸辺、俺は悟ってなんて無い。皆の事も嘲笑ってないし、特別な人間でもない」
「落ち着いてるんだね。深海君は怒らないの?」
「怒らない」
 怒らないんだ。
「やっぱり僕を可哀想だと思うから?失恋もした事ないカッコイイ深海君は、僕に同情してくれるんだ。可哀想な岸辺を心の広い俺が慰めてあげよう、とか思ってるわけ?人から嫌われた事もない深海君が、失恋した僕の心を癒せるわけもないのにね」
 笑いながら僕はどんどん酷いことを言った。
 怒って欲しかったんだ。本当の友達だと思っていてくれているのなら、怒ってよ。同情なんてしないでよ。
 そして僕を殴ってください。僕の気持ちが爆発する前に、僕の暴走を止めてください。
「俺はね、岸辺。人に嫌われた事なら何度でもあるよ。小さい頃から引越しが多かった事は前に言ったよな?転校する度に友達も増えたが、俺を嫌う人間だっていたんだよ。何故俺を嫌うのか分からない。ただ、俺をとことん嫌うクラスメートだっていたんだ。それとね、俺は岸辺が今どんなに辛いのか分からない。でも簡単な気持ちで岸辺の話を聞いているわけじゃないからな」
 彼は真剣な顔をしている。僕は心底彼が憎くなってきた。だって『簡単な気持ちで聞いているわけじゃない』のなら、どうして僕の気持ちに気が付いてくれなかったの?そりゃあ僕は自分の気持ちを隠していたよ。でも、今の僕の心の扉はボロボロなんだ。 どこまで真剣に僕を見てくれているの?
「僕は深海君を嫌っていた子の気持ちが分かるな。僕も深海君大嫌いだもの」
 僕は笑うのを止めた。
「俺の事嫌いでもいいよ。俺は岸辺が好きだし、優しい友達だと思ってるから」
 よく言うよ。僕には何の相談もしてくれないくせに。
 深海君はじっと僕を見ていた。でも彼は本当の僕を見ていない。彼は自分が立っている高い崖の上から僕を見下ろしているだけだ。
「深海君は今、考えている。何故僕が急にこんな事を言い出したのかを考えている。深海君は僕が八つ当たりしていると思ってる。そしてそれを受け止めようと思ってる。何てカッコイイんだろう。そして、何てイヤな人間なんだろう。自分は特別じゃないと口では言いながら、いつだって僕達凡人を見下してる事実を認識出来ないんだね。僕達は何時だって君に見下ろされているんだ」
「俺は人を見下してなんかない。岸辺、話戻そう」
「話はズレてなんかないんだよ。深海君」
 僕は戻りたいんだ。ゼロに戻りたいんだ。
 深海君と僕は暫く黙って見詰め合っていた。
 僕は君が好きなのに君は気付かなかった。彼女は『私も貴方も本当はお互いに好き同士ではなかった』と言って僕の気持ちを一方的に決めつけた。
 僕はもう辛いんだ。もう自分が何を考えているのかさえよく分からないんだ。
 だから深海君。
 僕は君のいる場所には行けないから、君がここまで降りてきて僕を見て。僕を真正面から受け止めて。振ってもいいから。僕は平気だから。
「岸辺、何言ってんの?ちゃんと言ってくれ。俺は分からない」
「やっぱり分からないんだ。さっきから僕は自分の気持ちをちゃんと言ってるのにね。八つ当たりしてるとしか思ってなかったんでしょ?人を見下してるからそうなるんだ。僕の話ちゃんと聞いててよ!!」
「聞いてるよ。ちゃんと聞いてる」
「聞いてない。僕は、彼女と深海君は同じだって言ったでしょ?」
「俺はお前の女じゃない。お前を傷付ける事なんかしない」
 本当に?僕が君を好きだと言っても、僕を傷つけないって言える?その言葉が本当なら僕はこのまま君の胸に飛び込みたい。僕の初恋の人だった君が僕を本当に受け止めてくれるのなら、僕はもう何にもいらない。奈々実さんの事だってきれいに忘れてみせる。
 でも。
 君は僕の気持ちを受け止めてくれないでしょう?だって君は奈々実さんと同じだもの。本当に君だけを見ていた岬杜君を君が突き落としたのを、僕が知らないとでも思っているの?それとも君も本当は僕の事が好きで、だから岬杜君を突き落としたの?
 僕は自分の考えに唾を吐きかけたくなった。
 そんな事あるわけがない。
 もう、何も考えないでおこう。考えれば自分が惨めになるだけだ。
 そう、僕はゼロに戻る。
――分かってないよ、深海君。僕は深海君が好きだったんだ。岬杜君と同じ意味で」
 僕の言葉に彼の表情が固まった。
 ゼロに戻るよ奈々実さん。
 ゼロに戻るよ深海君。
 僕は息を吐いた。もう何でも良い。何を言ってくれてもかまわない。気持ち悪いと思われても平気だ。だってこれで僕は元の平凡な僕に戻るんだもの。
 さぁ深海君。何でも言ってよ。
 でも。
 ああ。今の僕の心はどうしようもない程腐っている。だってこんな事を思いながら、それでも君に自分の気持ちを受け止めて欲しいって願っているもの。僕を見て、このボロボロの心の扉を見て、『辛かったんだな岸辺。気付かなくて悪かった。でももうお前の気持ちは分かったよ』って、そう言って抱き締めてもらいたいって思っているんだもの。
 それに僕は君を試している。いまだに自分の心の扉を開放していない。でも、もうこの扉は使い物にはならないんだよ。だってコレはもう錆びてしまって腐っているし、穴があいているんだ。沢山穴が開いているから、君が僕と同じ場所まで来てくれればすぐに分かるんだ。君は僕の心を覗き込んで、そして僕がどれほど君に恋焦がれ辛い日々を送ったのかを理解し、そして僕を抱き締めてくれるのを望んでいるんだ。
 腐ってる。
 僕の心はもう完全に腐っている。人を、友人を試すなんて。
 でも。
 僕等は随分長い間見詰めあったままだった。
 雨足が強くなってきているのが分かった。
「俺がウソを見抜けるの知ってる筈だぞ。お前は俺を好きじゃない。お前の瞳はそんな事言ってない」
 だからどうして――
「また人を見下してる。君は最悪な人間だね」
 もう俯くことすらできなかった。
「見下してないって言ってるだろ」
「見下してるから分からない。見下してるから気付かなかった。深海君は僕みたいな凡人の気持ちはたいした事ないと思っているから、ずっと僕を重要視してなかったから、僕は君への想いを隠し通す事が出来た。僕みたいな人間は臆病だから、自分の気持ちを押し殺す事に長けている。それでも君が僕をちゃんと見れば分かった筈なんだ。僕と同じ視線で、僕の心を覗き込んでくれれば分かった筈なんだよ。でも、君は気付かなかった。僕の友達みたいな顔してて、一度も僕の事を真剣に見てくれなかった。僕の心は君を求めていたのに、君は岬杜君ばかり気にしていた。何でも分かってるみたいな顔して、君は僕を見下し、何も気付いてはくれなかった。僕は君が好きだったのに、君は気付かなかった!!」
 僕がいつも必死で作ってきた心の扉が酷く滑稽な物だったんだ。深海君はこんな物作らなくても僕の気持ちに気付かなかったのかもしれない。
 でも僕はいつも何かを期待して。そう、君が僕の心を読んでくれるのを期待して毎朝毎朝これを作った。奈々実さんと出会って彼女に恋をしてからも、それでも僕は君に期待をした。
 僕は確かに馬鹿だった。馬鹿な僕は君と奈々実さんに恋をした。恋の仕方も知らないのに、それなのに君と彼女に恋をして失恋して。
 それでも君が好きだ。
 今も君を見ていると恋しくてしょうがない。だってもう心の扉はどこかに消えてしまったから、自分の感情が溢れてしまって。
 僕は泣いていた。どうしようもなく泣いていた。
 深海君が恋しかった。
「僕は隠していたけれど、本当は気付いて欲しかった」
 雨風が強くなり、窓を強く叩く音がする。
 自分勝手な事を言っているのは重々承知の上なんだ。
 深海君、それでも言わせてください。
「彼女は君に似ていたんだ。飄々としていて、優しくって、誰にも捕まえられない蝶々みたいな人なんだ。だから僕は彼女に夢中になった。夢中になって彼女を追いかけた。そうすれば、彼女に、君に、少しでも近付けるような気がして。もし彼女を捕まえる事が出来たなら、君を忘れようと思った。一生の秘密にしようと思った。でも、彼女は僕を翻弄して何処かに行ってしまった。僕を突き落として。彼女を好きだった。もし君に出会わなくても、きっと好きになっていたと思う。素敵な人だったんだ。僕に沢山の事を教えてくれた。でも、駄目だった。僕は彼女を捕まえる事が出来なかった。そして君も、何も気付いてはくれなかった」
『こんなに好きだったんだ。そして今でもこんなに好きだ』
 僕はそう思いながら彼を見た。
 彼はもう何も言わない。ただ黙って僕の言葉を聞いている。
 それは今まで見たことがない、深海君の苦痛に満ちた表情だった。
 それでも僕はどうしようもない。
 だって結局。
「僕の気持ちは彷徨ったままだ。誰の元にもいけない」
 涙が止まらなかった。今まで散々我慢してきたんだ、もう止まらない。
「君は僕を辛い目に合わす彼女が嫌いだと言う。君は僕を何時だって守ってると思ってる。僕を宥めたり慰めたりしようとしている。僕の想いと対等に向き合ってくれない君が、一番僕を苦しめたのに」
 僕は言葉を切った。
 やっぱり彼は何も言わなかった。
 外は嵐になってきて、激しい風が窓を叩いている。
 遠くの空が光った。
「彼女が僕にした事なんて、君が岬杜君にした事と同じなんだ。君は岬杜君を翻弄し、突き落とした。僕はどっちみちこうなる運命だったんだ。でも、君は僕が君を好きだって言っても相手にしてくれなかっただろうがね」
 僕は最後まで格好悪かった。奈々実さんの言う通り、最後まで全部。
 でもこれで僕はゼロに戻れるだろう。
 もう奈々実さんと会う事はないのだし、深海君の裸体を思い出しながら自慰をする事もない。
 これで元の自分に戻れるんだ。
「僕は君が好きだったよ、深海君」
 僕は立ち上がって教室を出た。
 遠くで雷鳴が聞こえた。


 僕は駅に向かって歩き出した。
 横殴りの雨が激しく降っていたので傘は役に立たなかった。僕は傘を差さずに歩き続ける。駅に着いたけれどどうしても電車に乗りたくなくて、僕は改札を出てまた歩き出した。ここから自分の家まで歩いて帰ろうと思った。何時間かかってでも。
 途中で僕と同じくらいの男とぶつかった。僕は小さな声で謝ったけれどなにしろ酷い雨だったから相手には聞こえなかったらしく、僕は怒ったその男の子に突き飛ばされた。僕はもう何もする気がなかったから別に抵抗するわけでもなく、そのままびしょ濡れの道路に倒れこんだ。それに調子に乗ったのか、相手が僕を一回蹴った。
 僕はただぶつかっただけなのに蹴られた。謝ったのに。この酷い雨は僕のせいじゃないのに。
 僕は持っていた傘を相手に向かって突き出した。相手の目に刺さったらどうしようとかそんな事は思わなくて、僕は黙ったまま傘を振り回した。息が荒くなって、涙で何がどうなっているのか分からなかった。ただ僕は一言も声を発せずに無我夢中で抵抗した。
 本当はもう、そこには誰もいなかったのかもしれない。僕は一人で傘を振り回していたのかもしれない。
 僕の耳には興奮している自分の呼吸と、傘が道路を叩く音、時折通りすがる車の音、そして雨と風と雷の音だけしか聞こえなかった。
 どれくらい時間が経っただろうか。
 涙と泥で霞んでいた目を拭ってゆっくりと起き上がる。思った通り僕の周りには誰もいなかった。通りすがる人が怪訝そうな目で僕を見ていただけだ。
 荒い呼吸を整えて僕はまた歩き出す。
 頭がクラクラしたし、自分がちゃんと真っ直ぐ歩いているのかさえもよく分からなかった。
 僕はそれでも歩き続けて、大きな交差点で足を止める。雨と風と自分の呼吸の音、車の音。それらの中で一際大きくクラクションが鳴る。
 一台のバイクが赤信号を強引に突っ切っていくのが見えた。
「岬杜君…」
 ゴーグルをしていたけれど、それは確かに岬杜君だったろう。彼は紺色のバイクに乗ってこの雨の中を凄いスピードで走って行った。
 僕は彼が低いエンジン音を立てながら小さくなっていくのをずっと見ていた。
 きっと彼は…きっと彼は今から学校へ、僕がメチャクチャに傷付けてしまった深海君の元へ行くのだろうと思って。
 僕が届かなかった深海君の元へ、彼なら行けるのだろう。
 そして彼を抱き締めるのだろう。
 僕はまたゆっくりと歩き出した。

 僕はゼロに戻ったのだろうか。
 雨に打たれながらぼんやりと歩いて、僕は深海君と奈々実さんを想う。
 奈々実さんは僕を突き落とし、深海君は岬杜君を突き落とし、そして僕は深海君を突き落とした。でも、奈々実さんには新しい恋人ができて、深海君には何があっても彼を諦めなかった岬杜君がいる。
 だったら僕は?
 僕には誰もいない。僕は結局誰の元にもいけなかった。それは自分が望んだ事でもあったけれど、ゼロに戻る為には必要な事なのだけれど。
 深海君の苦渋に満ちた表情を思い出す。
 どうして僕は最後の最後まで彼を試したりしたのだろうか。
 深海君は超能力者なんかじゃないのは分かっていたはずなのに。彼は無闇に人の心を盗み見たりはしない事だって知っていたはずなのに。どうして僕は最後の最後まで心に扉を作っていたのだろうか。どうして最初から、『僕は貴方が好きでした』と言わなかったのだろうか。どうしてこんなに好きだった彼にわざわざ『僕は深海君が大嫌い』だと言ったのだろうか。どうして最後まで僕は格好悪かったんだろう。
「僕は最後まで格好悪かった」
 でも深海君を傷付けずにはいられなかった。優しい僕の友人で僕の初恋の人で僕が一年間想い続けていた人を、傷付けずにはいられなかったんだ。
「ごめんなさい」
 ただの八つ当たりだったんだ。だって奈々実さんには八つ当たりできなかったんだ。
 だから僕は全部深海君のせいにしてしまいたかった。もう辛くて辛くてしょうがなかったんだ。自分の想いが、もう分からなくなっていて。
 僕は深海君に酷い言葉を沢山言った。ナルシストだとか最悪だとか、 とにかく酷い事を言った。
 最悪なのは僕自身なのに。
「ごめんなさい」
 謝っても許されないのは分かっている。だから僕はこのままどこかに消えてしまいたかった。





 目が眩むような閃光と凄まじい獣の咆哮に、僕はビクリと身体を震わせて我に返る。
 目も開けていられないような酷い暴風雨の中、ずぶ濡れになった自分が道端で蹲っていた。
 僕はそのまま空を見上げる。
 そこで僕が見たものは


 大地まで揺らすような
 つんざくような音がして僕は怯え頭を抱える
 一本の太い閃光が目に焼きつくように天から大地へと真っ直ぐ伸び
 カラカラと乾いた音と同時に叩き付けるような低くて太い音が身体を揺さ振る
 恐怖で身体が竦むのだけれども
 それと同じように
 美しさと
 そのあまりにも圧倒的な力の前に
 僕は感動を禁じえない

 それは人間が何をどうしても
 それは僕が何をどうしても――

 「深海君!!」


 僕は空を見上げたまま叫んだ。







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