あれから自分がどうやって家に戻ったのかはいまだに思い出すことができない。
気がつくと僕は自分のベッドで横になっていた。
身体を起こそうとしてみるとやけに自分の身体が重い事に気がつく。熱っぽくて気だるい。額に手を当ててみると微熱がある事が分かった。
僕はもう一度ベッドに倒れこみ、毛布を引き寄せる。
廊下から足音がした。
「和也」
母の声だ。返事をすると父と母が部屋に入ってきた。
「熱は引いた?」
母が優しく微笑んで僕の顔に手を当てた。それはまさしく、僕の母の手だった。
「僕は…」
「喋らなくても良いのよ。お腹は空いていない?何か持って来ましょうか?」
母は優しく僕に話し掛けてくれる。でも僕は本当に口を開ける事すら億劫だった。頭が痛くてぼんやりしていて、ただひたすら眠かった。
黙っている僕を見て、母がまた顔を撫でてくれた。僕の目には心配そうに自分を見ている両親が映っていた。
「お腹が空いたら言ってちょうだいね。さぁ、もう少し眠ると良いわ」
母が毛布を整えてくれる。
僕はその優しさを感じながら天井を見た。
「……僕は、失恋したんだ」
僕の突然の告白に、父も母も驚いた様子はなかった。どうしてだろうか。僕はうわ言で何か言っていたのかもしれない。
「僕は2人のあまりにも美しい人に、同時に恋をした。そして失恋した」
僕はそう言って目を閉じた。
父の溜息と母がしゃがみ込む音が聞こえた。
「和也。失恋は誰でも経験することよ?母さんだって若い頃は失恋した。きっとお父さんだって同じ。失恋は誰でも経験する事なの。貴方はもう高校生なんだから恋をするのは当たり前。貴方はこれからも沢山恋をすると思うけれど、私もお父さんも貴方の恋愛には口を挟むつもりはない。貴方は自由に人を好きになれば良いのよ。そして素晴らしい恋をすれば良い。今は辛いかもしれないけれど、貴方の心の傷は時が癒してくれるでしょう。和也。失恋は誰もが一度は経験して、皆それを乗り越えていくものなのよ。大丈夫、素晴らしい恋愛が貴方を待っているわ。いつか今を良い経験だったと思える日が必ず来る。大丈夫なのよ。貴方はまだまだ若いもの。大丈夫なの」
母は僕の髪を撫でながら静かに話しをした。
だが僕は母の話が全然頭に入っていなかった。
ただ母の声が僕を通り抜けていくのを感じていた。
「辛かったでしょう。でも大丈夫なのよ。今は眠れば良いわ」
母さんは最後に僕の頭を抱いて部屋を出て行った。
母は、「私もお父さんも貴方の恋愛には口を挟むつもりはないと、貴方は自由に人を好きになれば良い」と、そう言った。でも、もし僕が恋をした人が年上の素性もよく分からないような女性でついでに今まで沢山の男性と寝ているような女性だったと分かっても、もし僕が深海君を…同じ男性に恋をしていて彼で何度も自慰行為をしていたと分かっても、その台詞は同じように母の口から出てきたのだろうか。
本当に僕はこの失恋を乗り越える事ができるのだろうか。
いつかこの失恋を良い経験だったと思える日は本当に来るのだろうか。
「和也」
父の声がして、僕は少し驚いた。母と一緒に出て行ったと思っていたんだ。
「お前は大きな経験をした。今は辛くともそれは母さんの言う通り時が癒してくれるだろう。しかし、お前にはまだ分からないと思うが人生には辛い事は山ほどあるものなんだ。お前も男なんだから、困難や胸の痛みから逃げず立ち向かえるようになりなさい」
父の声は母と同じく静かで穏やかなものだった。でもやはり僕は父の言葉が全然頭に入ってこない。
困難や胸の痛みから逃げずそれに立ち向かえるような男になれって、
父はそう言ったのだろうか。
だったら僕には無理だ。僕はそんな事絶対できない。僕はいつだって。
「今はとにかく身体を休めること。母さんは最近ずっとお前の事を心配していたんだ。はやく元気になって母さんを安心させてあげなさい」
父はそう言って立ち上がった。
僕はぼんやりとそれを見ていたけれど、父が部屋のドアを開けた時にどうしても質問してみたくなった。
「父さん、今までの人生でつまずいた事は何回ありますか?」
振り返った父が僕を見た。
「何回か分からないほどつまずいてきた。しかし人はつまずきながら生きていくものだよ」
父はそう答えて出て行った。
僕は思う。
きっと父は本当につまずいた事なんてないんだと。もしくは、もうその痛みを忘れてしまったのだと。
だって、こんな辛いのに。
僕がつまずいた場所は芝生の上でも柔らかな絨毯の上でもない。そこには無数のガラスの欠片や尖った小石なんかがあって、僕は手をついたけれどあまりにも勢い良く転んだから顔も身体もそこ等中傷だらけになった。皮が擦り剥け血が沢山でた。胃のものが込み上げてきて僕は何度も吐き、傷口からは肉と骨が見えるような酷い怪我をしたんだ。
この痛みと向き合う事なんてできない。
僕はとにかく眠くて、目を閉じた。
僕はゼロに戻ったのだろうか。
戻る事ができたのだろうか。
答えは……。
「深海君、奈々実さん。ごめんなさい」
僕は目を閉じ眠りに落ちた。
何もかもを忘れてしまうような深い眠りだった。
翌朝は昨日の天候が嘘だったかのような見事な晴天だった。
僕はベッドから起き上がって洗面所に向かう。身体はまだ少し重かったけれど、それでも熱はないようだった。
「おはよう」
キッチンにいる両親に挨拶をして僕は顔を洗う。瞼があまりにも酷く腫れていたので思わず笑ってしまった。こんな無様な顔で学校へは行けない。今日が休みで本当に良かった。
キッチンへ戻ると、朝食にしては豪華なメニューを作って待っている母と目が合った。
「今日学校が休みで良かったよ。こんな顔は誰にも見せられないもん」
僕が笑って言うと、父も母も笑ってくれた。
朝食が終わると自分の部屋に戻って、少しだけぼんやりと深海君と奈々実さんのことを考えた。それから下に降りて簡単にシャワーを浴びて服を着替える。
服を着ながら携帯が鳴るのを待つ。携帯の着信音は嫌いだけれど、今日はそんな事少しも思わなかった。
身支度が終わって椅子に座って待っていると携帯が鳴る。ディスプレイに深海とでているのを見て、僕は少しだけ笑った。電源を入れる。
「おはよう」
『ん。おはよ』
彼はいたって普通に応えてくれた。
「僕と会おうって思ったんでしょ?」
『どして分かったの?』
「僕も会おうと思ってたからだよ」
電話の向こうで深海君が笑ったのが聞こえた。
『どこで会う?』
「あの公園。良い?」
『オッケ。時間は?』
「すぐにでも」
『了解。んじゃな』
携帯を切って僕は階段を下りる。父と母に深海君と会って来ると告げて家を出た。
本当に良い天気だった。時折気持ち良い風が吹いて僕の身体をすり抜けていく。空は秋の空で薄い雲が少しだけ浮かんでいた。
僕は歩きながら胸一杯に空気を吸い込む。朝の新鮮な空気を。
公園には僕が先に着いた。奈々実さんと初めて出会った場所だ。あの時と同じベンチに座る。目を閉じ日差しを感じていると、聞き覚えがあるエンジン音がした。
公園の向こうに紺色のバイク。遠くてはっきり分からないけれどきっと後ろは深海君だ。彼はバイクから降りて少しだけ岬杜君に何かを話し、そして僕の方へ来る。岬杜君はそれを見てからまたどこかへ行ってしまった。
彼が近付いてきた。やっぱり深海君だった。
「待ったか?」
「いや、僕も今来たところ」
深海君が僕の隣に座る。
お互いに黙った。
僕は下を向いて地面を見ていたし、彼は上を見上げ空を見ていた。
本当に、良い天気だった。
「岸辺」
「なに?」
「お前、俺に謝る気とかあったりする?」
「君に謝るつもりで来たよ」
「俺もお前に謝る気満々」
彼の言い方がおかしくて僕は笑った。彼も笑っていた。
「岸辺、本当に…」
「――深海君は悪くないんだよ。君に謝ってもらったら僕は困る」
「俺だって悪いんだ」
「悪くない」
「違うって」
「違わない」
僕達はもう一度笑った。
「んじゃ、お前に決めさせてやる。一番。俺から謝る。二番。同時に謝る。三番。互いに一発ずつ殴りあう。さあ、どれにするよ?」
「三番。君から殴って」
「ばーか。お前、俺を本気で殴れないクセに」
「君だって分かってて訊いたクセに」
僕達はもう一度笑う。
「岸辺。お互いに謝るの止めようか?」
意外な言葉に僕は少し驚いた。
「どうして?君に謝ってほしくはないけれど、僕は謝りたいよ」
「だってよ、俺達ってもう十分互いの気持ち分かってるって思わねぇ?」
「それでも」
「俺、お前に謝られたらどうして良いか分かんない」
「僕も君に謝ってもらったら困る」
「だからさ」
「でも」
深海君の気持ちは確かに分かっていた。そして彼が十分僕の気持ちを理解しているのも分かっていた。
「岸辺。手、ちょうだい」
僕は頷いて手を出す。彼に手を握って貰うのは久し振りだった。
「目、閉じて」
彼の声に僕は目を閉じる。
先程のように秋の日差しを暖かく感じた。少し冷たい、それでも火照った身体を心地よく冷やしてくれる風と、花の匂い草の匂い木の匂い土の匂い。
それから、深海君の手の温かさと彼の気持ち。
彼と心が通じているような気がした。彼が岬杜君と特別な関係でも、それは結局何も関係ない気がした。
「深海君、色々ごめんね」
「あ、謝るなって言ったのに」
「だって思わず言っちゃったんだもん」
「岸辺、俺もゴメン。イロイロ悪かった」
「君に謝られたら僕は困るって言ったのに」
「だって思わず口から飛び出しちゃったんだも〜ん」
目を開けると、彼も同じように目を開けたところだった。
目が合うとやっぱり笑ってしまった。
僕達の前を3人の小学生が走っていった。
「ねぇ深海君。僕は今まで長い間微熱に浮かされていたみたいなんだ。彼女と出会ってから、特に。でも今日は久し振りに、本当に久し振りにすっきりした気分だよ。今まで胸に溜めていた物が全部自分で理解できる。僕は君に避けられるのが怖くてしょうがなかった。心に扉をイメージして、自分を隠すようになった。でもそうしたら僕の中に汚いものが生まれてしまって、僕はそれを自分で処理する事ができなかった。つまらない事で君を憎んだり、君の事を考えながら彼女を抱いたりと、最低な事をするようになった。そしてそんな行為によって自分がどんどんわけの分からない泥沼にはまっていくのを感じた。ぐちゃぐちゃになっていく自分をぼんやりとした頭で感じているだけだった。君が岬杜君との間の事を僕に相談してくれないと僻んだりもしたんだ。いつも自分の事しか考えてなかった」
深海君は黙って僕の話しを聞いてくれていたので、僕は俯いて言葉を続けた。
「僕は君を誰かに取られるのが怖かった。自分のものにならない事が分かっていたから、せめて君は誰にも捕まらないようにと願った。僕の初恋は独占欲とエゴで固められたようなものだった」
僕は何気なく足元の小石を拾った。別にどこにでも転がっていそうなただの小石だ。それを眺めながら、自分のこの恋を振り返る。
「僕は怖かった。君に嫌われるのが、どんどん汚い人間になっていく自分が怖かった。僕は君と違って怖がりなんだ」
「俺だって怖がりだよ」
「そんな事ないよ。深海君はいつも強いもの」
深海君は僕をじっと見ていた。
「俺はね、永司の気持ちが怖かった。アイツは俺に執着しすぎていたし、俺はアイツの気持ちから逃げるのに精一杯だった。何も考えたくはなかったし、とにかく怖かった」
「深海君にも怖いと思う事があるんだ」
「あるよ。一杯ある。俺は誰かに捕まるのが怖かったし、自分が変わるのも怖かった」
自分が変わるのが怖かった?
僕は変わりたかった。格好良くなりたかったし、格好良くなれないと分かった時は元に戻りたいと思った。
「深海君は変わってないよ。君は僕の素敵な友達のままだし格好良いし、それに優しい」
「岸辺も変わっていないよ。相変わらず俺の親友だ。お前といる時は本当にほっとする」
「本当にそう思ってくれてる?」
「当然。信じられないなんて言わせねぇ」
深海君は笑って僕の手を力強く握り締めた。彼の手は不思議だ。僕が忘れていたものや失ってしまったものがそこにはある。なんだろう、言葉にはできないけれど色々なものが僕に語りかけてくるような気がする。
僕は黙って俯いた。左手に持った小石を下に落とす。小さな音がしてそれは地面に転がる。周りには同じような小石が沢山あって、僕が一旦目を離せばもうどれだったか分からなくなるように思えた。
「蟻さん見てんの?」
「え?」
「蟻さん」
彼は僕と同じように地面を見ていた。良く見ると確かにそこには蟻がいた。一匹見つけてしまうと、やっと周りに同じような蟻が何匹もいるのに気付く。
「随分沢山いるね。近くに巣があるのかな」
「ここにある」
彼がそう言ってベンチの脚の部分を指す。そこには蟻の巣の入り口の、独特の砂の盛り上がりがあった。
「本当だ」
僕達は暫く蟻の巣を見ていた。
深海君は蟻の巣の入り口に枯葉を乗せてみたりちょっとだけ砂を被せてみたりして遊んでいた。蟻は巣の入り口に障害物があると、すぐにそれを強靭な顎で運んで片付ける。でも片付けても片付けても深海君がすぐに他の障害物を置くので、蟻は巣の中から仲間を呼んで大騒ぎになって巣の周りの清掃を始めた。
僕はそんな彼等のようすを見ていて、とても微笑ましい気持ちになった。こんな気分は久し振りだった。
「深海君の意地悪」
僕が笑って言うと、彼はニヤリと悪戯ッ子の顔をしてみせた。
「俺ってさ、ちっこい頃蟻さん食べた事あんのよ」
「え?」
「マジ。まだ小学校に上がるか上がらないかの頃ね。だって蟻さんって甘いものばっか食べてるじゃん?道路に落ちてるクッキーとかアイスとか飴とか、花の蜜だって食べてるしあと家にある砂糖とかも食べてる。だからね、蟻さんって甘いのかな〜って思ったわけ」
「それで食べちゃったの?」
「ん、食べちゃった。ぱくって。でも蟻さんは甘いもんばっか食べてるけれど、蟻さんの身体は別に甘くはなかったよ。ちっちゃすぎて分かんないのかな〜って思って何匹か食べたけど、やっぱり甘くなくて口の中がジャリジャリしてもう最悪だったぁ」
僕はあまりにも突拍子もないその言葉に半ば唖然としながらも、それでもやっぱり深海君らしいと思った。僕は今までそんな事考えたことなかったもの。
「アリって確かにジャリジャリしそうだね」
「ん。すっごいジャリジャリした。それによく考えてみると、蟻さんは雑食だから甘いモノばっか食べてるわけじゃないんだよね。よく死んでる蝉さんも運んでるしさぁ。でも蟻さんのイメージはやっぱ甘党だ」
深海君は立ち上がってもう一度僕の隣に座った。
「岸辺は蟻さん好き?」
「好きでも嫌いでもないよ」
僕は蟻の事が好きか嫌いかなんて考えた事もない。
「俺は蟻さん大好きぃ。大好きだからちっこい頃はよく観察した。蟻の巣を見つけると、それを掘り返して一体どこまで巣が続いているのか確かめた事もある。蟻さんの巣は何層にも分かれていて、『もうここが最終地点かなぁ』って思ってもまだまだ一杯部屋があって、もう夢中になって巣を穿り返したもんだ。最後の方にやっと羽が生えた蟻さんを発見して、それから蟻さんの幼虫や卵なんかも見た。その辺までやると普通の働き蟻さん達はもう大混乱。卵や幼虫を口に銜えてウロウロしまくり。俺、それを見てようやく『あぁ、悪いことしちゃったなぁ』って思ったもんだよ」
深海君の話は他人が聞けば普通の思い出話だったろう。でも僕にはこの朝の空気のように新鮮に感じた。
深海君はいつも空を見上げていて僕はいつも俯き地面ばかりを見ていると、そう思っていた。でも違うんだ。僕も深海君もきっと見ている場所は同じ。
ただ見えているものが違うわけで。
「僕は今まで暗い迷路をぐるぐる回っていた気がする。何度も何度もそこから脱出を試みたけれど、どうしても駄目だった。歩けば歩くほど迷路は複雑になり、僕はそこでフラフラと彷徨っているだけだった。でもね、深海君。今日はなぜだかその迷路の出口を見つけた気がする。さっきも言ったけれど、僕はようやく微熱から開放されたんだ。今は大声で叫びたい。全ての人間にこの気持ちを伝えてまわりたい。僕は深海君が好きだったと」
彼はじっと僕を見ていた。
今までどうして言えなかったのだろうと不思議に思うほど、それはすんなり言葉にできた。素直な気持ちで、心の底からの言葉だった。
僕は彼と向き合って、もう一度はっきりと言った。
「僕は深海君が好きでした」
こうして僕の初恋は終わった。
あの日、僕はゼロに戻る事はできなかった。しかし失ったものは得たものと同じ位大事なものだ。例え自分の汚い部分でも、それは変わらない。
月曜日に深海君と一緒に登校してきた岬杜君と一瞬目が合ったけれど、彼は相変わらずだった。別に僕に敵意を持っているようでもなく、だからといって友好的でもなかった。ただ目が合うと、『深海春樹は俺のもの』だと一方的に言われた気がした。
僕はそれを感じてどうしようもなく笑えてきた。どうやら岬杜君は見かけと違い、随分と人間臭い部分を持っているようだ。彼はこれからも深海君に近付く者全てをあの視線で威圧するのだろう。それはちょっとだけ僕の初恋に似ている気がした。しかし深海君に恋をした者としてその気持ちは十分すぎるほど理解できた。
それから数日が過ぎた。
金曜日の昼休み、深海君がMDを聴いていた。彼はよく学校で音楽を聴いているけれど、そんな時は大体気に入っているアーティストの新しいアルバムを入手した時か、もしくは眠たい時だ。今もヘッドフォンをしながらうつらうつらとしている。
岬杜君がやって来て深海君を覗き込んだけれど、深海君はいやいやをするように首を振っていた。眠らせて欲しいのだろう。岬杜君は彼を暫く彼を見詰めた後、どこかへ行ってしまった。
僕は次の授業の用意をしておこうと教科書とノートを取り出して、隣の砂上さんと少しだけ話をした。彼女は最近僕にとても優しくしてくれる。元々優しい女の子だったけれど、最近は特に優しい。僕達が今日の授業の予習めいた事をしていると、ふと深海君の事が気になった。
だって次は彼の大嫌いな数学だ。
「深海君」
呼んでみても返事がない。ヘッドフォンから微かに音楽が聞こえた。
「砂上さん、どう思う?深海君起こしたほうが良くない?」
砂上さんも頷いたので僕と彼女で深海君の肩を揺らした。
「深海君、次は藤沢だよ!」
「深海君、起きないとまた叱られちゃうよ!」
呼んでも揺らしても起きなかったので、しょうがないからヘッドフォンを強引に外した。秋佐田君も深海君の事が気になったらしく、軽く頭を叩いて起こしている。それでもよっぽど眠いのか深海君は頭を抱えてまた熟睡に入ろうとした。
「オイ深海。数学の教科書持った藤沢が来るぞ。お前を追いかけて来たぞ。俺は知らねーからな。あ、来たぞ来たぞ。お前の事追いかけて…」
秋佐田君が彼の耳元に口を近付け、低い声でちょっと変わった事を言っていた。それでも何かの呪文なのか深海君がうなされている。砂上さんがそれを見てニヤリと笑い、秋佐田君のように低い声で囁いた。
「深海君。来たわよ藤沢が。もう知らないわよ。凄い形相で貴方を睨んでいるわ。あぁ、近付いてきたわ。深海君はもう捕まる寸前よ。捕まったら貴方は数学の呪いをかけられる。位相空間n次元ユークリッド空間確率空間微分積分解析幾何抽象代数関数論……」
「きゃーーーー!!!!」
叫び声を上げ飛び起きた深海君は涙目になっていた。
それが我慢できないほどおかしくて僕達3人はお腹を抱えて笑った。深海君には悪いけれど、物凄く笑えてしょうがなかった。彼は呆然と僕達を見ていたけれど、僕達があまりに笑うからちょっと口を尖らせてイジケていた。でもその表情を見て僕達はまた笑ってしまった。僕がこんなに笑ったのは久し振りだった。
「深海、次は数学だぜ?お前フケるんじゃねーの?」
秋佐田君の言葉にようやく納得がいったのか、深海君が頷きながら大きく背伸びをした。
「深海君授業日数考えてる?君は一年の時だってギリギリで最後苦労してたでしょ?今日は真面目に授業受けなよ」
「授業日数かぁ。うう」
僕の言葉に深海君は目を擦りながらまた口を尖らせる。よっぽど嫌なんだろうなぁと思ったが、そんな彼も愛しかった。
予鈴の鐘が鳴る。
結局彼は真面目に授業を受けると言い、僕達もそれぞれ席に着いた。強引に取ったヘッドフォンを返して僕も自分の席に戻ろうとした。でも、その時偶然にヘッドフォンから僅かに漏れる音楽が僕を驚かせた。メアリーの曲だった。
「深海君、これMARY J. BLIGEじゃない?」
「そだよ。お前洋楽に興味あったっけ?」
「ないけれど、このアルバムだけは聴いたことがあるんだ」
僕はヘッドフォンを返して自分の席に座った。
メアリーのあのアルバムなら全曲覚えている。奈々実さんが100回聴けって言ったから僕は本当に100回聴いたんだ。その中で奈々実さんの一番気に入っている曲と僕が一番気に入った曲が同じだったら良いなって考えたりもした。結局彼女が気に入っていた曲は分からないままだけれど。
「深海君。そのアルバムで君が一番気に入っている曲ってどれ?」
机の中から数学の教科書を取り出していた彼は、僕の質問に何度も小首を傾げて考えていた。
「難しい事訊くなぁ。んん、どれだろうどれだろう。でもやっぱ『ドント・ウエスト・ユア・タイム』かなぁ。あれは俺が好きな2人の共演だし。うん、やっぱメアリーとアレサで絡むあの曲は特別好きだな」
僕は聴き間違いをしたと思った。
「メアリーと共演した人誰って言った?」
「へ?アレサだよ。アレサ・フランクリン。クイーン・オブ・ソウルって呼ばれている人」
アレサ。奈々実さんの友達の名前。
僕が呆然としていると、本鈴が鳴って藤沢先生が来た。
授業が始まっても僕はずっとアレサの事を考えていた。
偶然だろう。まさか奈々実さんがそんな凄い有名人と友達だったとは思えない。でも、もしそうだったら奈々実さんはあの時何が言いたかったのか。彼女は有名人と知り合いだからってそんな事を自慢するタイプではない。
授業を受けながらぼんやり奈々実さんの事を考えていると、ふとアレサとメアリーが歌うDON’T WASTE YOUR TIMEが頭を過ぎった。
「そうだ…」
僕は思わず呟く。
そうなんだ。僕はやっと分かった。
あれは奈々実さん歌だ。あの歌にでてくる「彼」は僕だ。
奈々実さんを抱きながら深海君の事を考えていた僕に対する彼女の歌だ。
確かに僕は最初深海君の事を考えて彼女を抱いていた。それは彼女も知っていた。僕が彼女ではない誰かに恋をしている事を知っていたんだ。
それでも彼女は僕を誘った。
そして僕は彼女に恋をした。
考えてみればあの頃から彼女との歯車が狂い始めた。僕は混乱し、そして彼女も混乱し始めた。僕達はいつも互いの心が噛み合っていなかった。
彼女は僕を信頼できなかった。僕の想いを信用しなかった。信用できるわけもなかった。僕は深海君を諦めてはいなかったのだから。
『貴方はウツボカズラじゃなかったから上手くいけるような気がしたけれど、それでも上手くいかなかった。私も貴方も本当はお互いに好き同士ではなかったのよ』
アレサはメアリーに「彼と別れろ」と歌う。
奈々実さんは僕に何を求めていたのか。彼女は最初、僕に好きな人がいる事を知っていたのに、僕が彼女を追いかけると彼女は混乱を始めた。
彼女はもしかしたら僕をただのセックスフレンドにしていたのかもしれない。
でも僕が彼女だけを見ていたら?
【信頼できない相手をどうやって愛するの】
アレサとメアリーは歌う。
そう、
『DON’T WASTE YOUR TIME』
アレサからメアリーへの言葉。
メアリーは混乱しながらも僕の恋人になった奈々実さん。アレサは僕との関係に限界を感じていたもう一人の奈々実さん。あの曲は彼女が自分に感じていた気持ち。もどかしい心。
僕への痛烈なメッセージ。
土曜日には彼女とこの公園でよく時間を潰した。
僕は彼女と話をしているだけで楽しかった。このベンチに彼女と座って歴史の話をした。彼女はよく笑いよく怒りよく悲しんだ。そして僕はそんな彼女が好きだった。
天気の良い日はここの噴水で水浴びをした。彼女は白いハイヒールを脱いで噴水に入り、ウロウロと歩き回って遊んでいた。
僕達はここで出会い、そして僕はここで彼女に恋をした。
彼女は白いワンピースが好きで、同じような服を何枚も持っていた。それはとても彼女に似合っていて、僕は何度もそれを誉めようと思ったけれど結局一度も言った事がない。
部活帰りの中学生高校生が、それぞれ僕の前を通り過ぎていく。
僕はそれを見ながらずっと奈々実さんの事を考えていた。
僕は本当に自分勝手だった。奈々実さんに対しても深海君にも対しても。
目の前を白い蝶がヒラヒラと飛んでいった。
僕は昨日の放課後、学校の図書館でウツボカズラを調べた事を思い出す。
『多年生食虫植物。葉は長楕円形で、長くのびた主脈の先端に円筒形の捕虫嚢を有し、中にはいった虫を溶かし養分とする』
食虫植物。
僕は彼女を捕まえて溶かしてしまおうとしていたのだろうか。
僕が大好きだった奈々実さん。最初、彼女は深海君に似ていると思った。全然違うのに、どこか似ていると思った。それはキラキラ輝く瞳と愛しい笑顔だけではなく、もっと違う場所が似ているような気がした。
そう、深海君も奈々実さんも誰かに捕まるのを恐れていた。
「和也君」
急に声を掛けられ、驚いて顔を上げれば白いワンピースを着た奈々実さんが立っていた。僕は…予想はしていたけれど、やっぱり幻なんじゃないかと思って何度も瞬きをした。
「お久し振りです。奈々実さん」
「全然久し振りじゃないわよ。まだあれから一週間でしょ?」
「僕にはその一週間が一年のように感じました」
僕は意外にもたいして緊張していなかった。
彼女は僕と出会った頃の彼女に戻っていたみたいだし、僕も彼女に恋をする前の僕に戻っていた。だから彼女は現れたのだろうし、僕に声を掛けてくれたのだろう。
「どう?最近」
「アレサの謎を解きました」
僕の言葉に奈々実さんは笑った。
「そう。もう関係ない事だけどね」
「奈々実さんは最近どうですか?」
「別に。あの男はウツボカズラだったから別れてしまったし、つまらないわ」
彼女はそう言いながら僕の隣に座る。
「僕は貴方に謝らなくてはいけない。
どれだけ謝っても足りないけれど、貴方に謝らなくてはと…」
「やめてよ。もう関係ないし」
奈々実さんは少しきつい口調で僕の言葉を遮った。
目の前の噴水は出会った頃と何も変わらず、この公園だって出会った頃と何も変わらない。様々な花が咲いていて、木が木陰を作っていて、子供が時々僕達の前を走って行く。
僕はどうだろう。変わった部分もあれば変わっていない部分もある。そしてそれは彼女も同じ。
「奈々実さん。今日これから暇ですか?」
「暇だから困ってるの」
「コーヒーでも飲みに行きませんか?」
「面倒臭いわ。自販機で買って来てよ」
「いいですよ。ブラック?」
「ブラック」
僕は立ち上がって近くの自販機まで歩いて行く。鞄の中から財布を出して小銭を入れ、奈々実さんが好きそうなモノを選んだ。
ベンチに戻ると彼女は噴水の縁に座って僕を待っていた。僕は缶コーヒーを手渡す。
「ありがとう」
「どういたしまして」
彼女は僕から受け取った缶コーヒーを飲まずに額に当てていた。
「私、今日は和也君に会えるような気がした」
「僕もです」
僕は奈々実さんの隣に座る。
「私は貴方のせいで小石につまずいたの。つまずくの大嫌いなのに」
「本当に…」
「謝らないでよ。そんな風に謝って欲しくて言っているわけじゃないから。自分がどうしてあんなにわけが分からなくなったのか、自分でも理解できなくて困っただけ。多分私、本当に和也君の事好きだったのね」
奈々実さんは言いながら白いハイヒールを脱いだ。彼女の白い足が地面に着いて、僕は彼女が怪我をしないか心配になった。
「今日和也君に会えて良かった。私はあれからずっと大変だったのよ。貴方の事が気になったし新しい恋人はウツボカズラだったしさ」
奈々実さんが噴水の中に足を入れた。
「さすがにもう冷たいわね」
「風邪ひきますよ」
「いいの」
彼女はワンピースの裾を持って噴水の中に入る。
「奈々実さん。貴方はどうして白いワンピースを着るのですか?」
「似合わない?」
「似合います。
この世の白いワンピースは奈々実さんの為だけにあるのだと思うくらい似合います」
僕の言葉に奈々実さんは声を上げて笑った。
あまりに笑うものだからワンピースの裾を持っている事を忘れてしまうらしく、彼女が手を口に持っていく度にその白い足が剥き出しになる。僕は以前も同じ事があったなと思いつつ、慌てて彼女の手を持って裾を下ろさせた。
「なに?」
「下着、誰かに見られてしまいますよ」
僕は真面目に言ったのに、彼女はまた笑っていた。
「私も1つ訊きたい事があるの。和也君はメアリーのアルバムの中でどれが一番好きだった?」
「僕はあのアルバムの中では一番……」
僕と奈々実さんはそれからずっと公園で話をした。彼女はよく笑ったし、質問にも結構答えてくれた。僕達は一緒に冷たい噴水に入ってウロウロしたり、空を見上げたり公園の虫を探したりして遊んだ。
「和也君」
微笑んで僕を呼ぶ彼女の後ろに、秋の青い空と太陽があった。
僕は奈々実さんの元へ行き、彼女だけを見詰める。
「何でも初めは滑稽なモノなのよ。そうでしょ?」
彼女の言葉に僕は頷いた。
僕と奈々実さんの、悲しいほど不安定で苦しいほど混乱した恋は終わった。
でもその終わりは始まりでもある。
「和也君。勝海舟の話をして」
白いハイヒールを脱ぎ捨てて、彼女は芝生の上に寝そべった。
僕と彼女がこれからどうなるのかは誰も分からない。
でも僕はきっとまた、奈々実さんに恋をするだろう。
end