第7章 僕はそれこそ最初から最後まで


 9月も半ばを過ぎた。
 僕はあの日から毎日コンタクトをして、少しだけ服も同年代の子が着ているような物を選んで学校へ行った。深海君は相変わらずだったし、クラスの皆も別に誰一人として変わりはなかった。僕だけが一人、少し浮かれていたのかもしれない。
 そして、学校が終わるとその足で奈々実さんのマンションへ向かった。
 その日の彼女は驚くほど機嫌が良く、何かから吹っ切れたようによく笑っていた。
「和也君、あのCDの中で私が一番気に入っている曲分かった?」
 僕はもうあのCDを60回近く聴いている。
「まだ分かりません。でも聴き込む程彼女の声が好きになりますね」
 僕は彼女とソファーでくつろぎながらコーヒーを飲んでいた。
「私にアレサって名前の友達がいるの」
「アレサ?」
「そう、アレサ」
 僕はその友達はどこの国の人なんだろうと思いながら、それでも黙って話の続きを待った。それなのに彼女はそれ以上何も言わない。 僕が不思議に思っていると、彼女は笑いながら僕にキスをした。
 その日は彼女が体調が悪いと言うのでセックスはしなかった。
 それでも彼女の久々の笑顔が見れて、僕は満足して家に戻った。


 それなのに突然僕達は他人になる。


 僕は最近帰宅が遅いから、その日は一回家に戻る事にした。
 家に戻って母に帰宅時間を告げ、そして奈々実さんのマンションに向かった。電車から見える景色はもう馴染み深いものになっていたし 、僕はいつものように奈々実さんのマンションへ向かった。
 玄関のドアの前に立って、いつものように鞄の中から鍵を出す。いや、出そうとした。しかしそこにあるはずの鍵はどこを探しても見つからず、僕は鞄の中をひっくり返して探したのにそれは出てこなかった。人から貸してもらっている物をなくしたのかと僕は焦ったけれど、もしかしたら昨日彼女の部屋に忘れていったのかもしれないとドアを叩き、インターフォンを鳴らした。
 彼女は出てこない。
 電話をしようと携帯を探していると、中から物音が聞こえた。
「誰だよ」
 それは低い男の声だった。
 少し扉が開く。
 しかしそこには彼女の姿はなく、僕の見たこともない男の人が立っていた。
「誰だよお前」
 貴方こそ誰ですか?
 その時僕の心の中にあったのは、怒りでも混乱でもない。ただ、不思議だったんだ。
「奈々実さんは…?」
 僕の声が震えていたのは何故だろう。僕は何に怯えていたのだろう。このガラの悪い男の人に怯えていた?それとも。
「奈々実、客!」
 男が部屋の中に向かって叫んだ。
 僕は足まで震えだした。どうしてだろう。どうしてあんなに怖かったのだろう。
 奈々実さんが奥から顔を出した。
 しかし彼女は薄いキャミソール一枚で出てきた。乱れた髪を手で抑えたままだるそうに僕を見ていた。彼女の顔は何も語っていなかった。僕はそれがひたすら怖かった。
「奈々実さん…」
――どちらさまかしら?」
 彼女の声は彼女の表情と同じように冷え切っていた。

 それから僕は走って彼女のマンションから逃げ出した。早くここから逃げなくてはいけないような気がして、とにかく全速力で走った。今見た事、聞いた事から全速力で逃げて、でもどうしても逃げ切れなくて、気がついた時には泣きながら知らない場所を歩いていた。
 夕日が赤くて、とにかく真っ赤で綺麗だった。
 僕は何も分からなかったんだ。どうしてこんなことになったのか。どうして彼女の部屋に男の人がいたのか。どうしてどうしてどうして、僕は――

 こんなに泣いたのは初めてだったかもしれない。
 僕はとにかく泣きまくって、通りすがる人達を驚かせた。
 僕は泣きながらひたすら歩き、家に帰ってまた泣いた。母と父が心配していたけれど、僕は部屋に鍵をかけて両親を拒絶した。
 僕はベッドの中でずっと考えていた。奈々実さんの事ばかりを考えていた。今までの事を全部残らず思い出し、そして結論をだした。
 彼女は僕を騙していたと。僕は彼女の、ただの暇潰しだったんだと。
 それしか考えられなかったんだ。だってそれしか理由はなかったんだ。彼女は僕に好きな人がいる事を知っていたみたいだったのに、それなのに僕を誘った。最初から、僕はただの暇潰しだったんだ。
 無性に深海君に会いたくなった。彼の笑顔が見たかった。彼に抱き締めて欲しかった。彼に全てを話したかった。


 翌朝、泣き疲れて寝た僕を起こしに来たのは母ではなく父だった。
 僕は重い身体を起こしてキッチンへ向かう。コンタクトをしていない以前のネガネ姿の僕を見ても、母と父は何も言わなかった。僕も何も言わずにそのまま学校へ行った。
 放課後に深海君と話をする、ただそれだけのために。

 僕は深海君に話を聞いてもらっている間、ずっと奈々実さんについて酷い印象を植え付けるような事ばかりを喋った。
 彼に同情してもらいたかったのだろうか。
 彼女は元々男好きだったようなニュアンスを含めた事ばかりを喋った。そして僕は彼女に裏切られたように印象付けた。胸がチクチク痛んだけれど、それは僕が心の奥底でずっと思っていた事だったんだ。
 僕はどうしようもなく辛かったんだ。彼に慰めて欲しかったんだ。
「そんな女こっちから『のし』付けて返しちまえ!!」
 深海君は言いながら僕の髪を撫でてくれる。奈々実さんはこんな事一度だってしてくれた事がないんだ。深海君の身体からは良い匂いがした。奈々実さんとは違う匂いだ。
 深海君はとにかく僕に優しくしてくれた。
「深海君だったらどうした?初めて出来た彼女が自分を騙していたら。彼女の家に行ったら知らない男の人がいて、彼女に『どちら様かしら?』って言われたら?」
「暴れる。そんで泣く。そんで忘れる」
 彼が僕の顔を抱き寄せてくれる。何度も何度も優しく撫でてくれる。彼の不思議な力で僕を癒してくれる。
 僕はふと、奈々実さんとの恋人のセックスを思い出した。あれは一体何だったんだろう。彼女はあれも嘘だったのだろうか。セックスの時だけは、彼女はあんなに優しかった。
 全部嘘だったのだろうか。
 そんなの信じたくない。深海君に髪を撫でてもらいながら、彼女との短い恋愛を思い出した。彼女が僕を騙していたとは思えない事ばかりを思い出した。
 そうだ。あんなに優しかった奈々実さん。
 全部嘘だったなんてそんな事ないよね、奈々実さん。
「僕、もう一度彼女に会おうと思う」
 僕は小さな声で言った。
「何しに?」
「彼女に貸して貰ったCDがあるんだ。それ、返そうと思う」
 深海君は複雑そうな瞳で僕を見た。僕は今どんな顔をしているんだろう。
 メアリーのCDを返しに行こう。その時、奈々実さんは何事もなかったかのように接してくるかもしれないんだ。そうしたら、僕も何事もなかったようにまた奈々実さんと付き合おう。奈々実さんにも何かの事情があったのかもしれないんだ。
 でも、もし本当に奈々実さんが僕を騙していたとしたら。
「最後くらいはカッコイイ男で終わりたい。笑って今までありがとうって言ってみたいよ」
 僕は俯いてそう言った。
「岸辺…」
 深海君が僕を見ている。
 行くなと言いたいの?もう会うなとでも言いたいの?でも、僕は会いに行くよ。だって最後は格好良く終わりたいし、それに彼女は僕を騙していたわけではないのかもしれないもの。やっぱり全部嘘だったなんて信じられないもの。
「会いに行くよ」
 僕はあの、恋人同士のセックスを思い出していた。
 昨日は混乱してしまったけれど、僕達は本当の恋人同士だった事を思い出す。
「ちょっと落ち着いてから……会いに行けばいいと思う」
「そうする」
 深海君はずっと僕の髪を撫でていた。
 それから僕は深海君の自転車に乗せてもらって駅まで送ってもらった。彼はとにかく優しくしてくれて、その細やかな心遣いがありがたかった。彼は普段子供っぽいけれど、本当はとても頼りになるんだ。
 駅に着いてさようならを言う時、ふと彼が夕日を見た。
 それはやけに毒々しい赤さで、 上手くは言えないけれどあまり長く見ていたくはないものだった。
「重そうな太陽だな」
 深海君の言葉に僕も頷いた。そうだ、重そうだ。
 僕は夕日を見詰める深海君を見ながら、彼は今岬杜君の事を考えているのだろうと思った。彼と岬杜君がどんな状態なのかは知らないが、岬杜君は奈々実さんのような仕打ちをしない。だって岬杜君は僕と同じように本当に深海君が好きだもの。だったら問題は深海君にあるのだろうと思う。彼が岬杜君を翻弄しているんだ。奈々実さんが僕をそうしたように。
 手を振って帰っていく深海君を見ながら、このまま彼と岬杜君は終わって僕と深海君が『特別な関係』になれればいいのにと思った。だけれどすぐに奈々実さんを思い出して溜息を吐いた。
僕はどうしようもなく駄目な人間だ。吐き気がするほど最低な男だ。本当にクズみたいな奴だ。

 小さくなっていく深海君のむこうに、重そうな太陽があった。


 僕がすぐに奈々実さんの部屋に訪れなかったのは、借りていたメアリーのCDをちゃんと100回聴いていなかったからだ。僕は毎日正の字を書いて一曲一曲を飽きることなく聴いた。
 奈々実さんから電話があるかもしれないと思って、携帯は常に身に付けていた。お風呂に入るときも着信音が聞こえる場所に置いたしトイレに行くときだってわざわざ持って行った。朝目が覚めると着信履歴をチェックするのも怠らなかった。
 しかし奈々実さんからの電話は一度もないままだったし、僕が勇気を振り絞って掛けても彼女はでなかった。僕は、奈々実さんに騙されていたんだと思ったり僕達は本当の恋人同士だったと思ったりと、毎日同じ事を同じように悩み考えながら日々を送った。


 9月の終わり、僕は偶然深海君のセックスフレンドと思わしき女性を見た。
 その女性は奈々実さんよりも年上で、きりっとした紺のスーツを着て深海君と歩いていた。確かに驚くほどの美人で上品で賢そうで、見るからにバリバリのキャリアウーマンだった。
 僕はその時何を思ったか。
 ねぇ深海君。僕はその時何を思ったか分かりますか?
 僕は君が憎いと思った。君は岬杜君の気持ちを踏みにじって、セックスフレンドとセックスをするんだ。君はあんなに岬杜君の事を気にしていたじゃない。それなのに君はこれからその女性とセックスすんだ。
 確かに君は誰にも捕まらない。でも。
 僕は君が憎かった。
 性の処理なら僕でしてよ。岬杜君じゃいやなんでしょ?どうしてその女性なの?
 僕は彼を見詰めながら、悔しくて拳を握り締めた。
 深海君が僕の視線に気付いて振り向く。
 僕は思わず俯いて走り出す。
 君はやっぱり奈々実さんと一緒です。

 深海君の様子が変わったのはその翌日からだ。
 彼は学校でも元気がなくクラスメートを心配させた。今までできるだけ見まいと無理をしていた岬杜君の席を、額を抑え潤んだ瞳でじっと見ている事もあった。
 僕はそんな彼の姿を視界の隅で捉えながら、奈々実さんもこんなふうに悩んでくれている事を願った。そして、こんな状態でも僕に何も相談しない深海君を憎んだ。
 僕は彼と彼女への想いがぐちゃぐちゃになったまま、メアリーのCDを聴き続けた。
 自慰は奈々実さんとのセックスを思い出したり、深海君の身体を思い出したりしてやった。僕の心はもうわけの分からない感情だけが渦巻くようになっていた。


 10月の初め、ミニコンポの横に張ってあった紙の正の字が20個になった。


 その日僕は久々にコンタクトをし、電車に乗った。
 僕はこの日を畏れていたが、しかし心のどこかでは心待ちにしていたんだ。
 その頃の僕の心はもうどうしようもなかった。深海君への想いと奈々実さんへの想い。どちらも同じように僕を苦しめた。とにかくどうにかして欲しかったんだ。振られるのならもうそれでも良いとも思った。
 彼女のマンションへ向かう僕は、メアリーのCDを手に歩いて彼女の部屋へ向かう。風が吹いていたので僕は「ゴミが目に入って痛かったろうな」と、そんな事をぼんやりと考えていた。
 彼女のマンションの前まで来ると、何度も深呼吸をする。僕は「振られるのならそれでも良い」と思いつつ、本当は「アレは性質の悪い冗談だったのよ」と言って欲しかったのかもしれない。だから大きな不安とほんの少しの期待でガチガチに緊張していた。
 エレベーターに乗って彼女の部屋の前まで行く。そしてもう一度深呼吸をした。
 僕は彼女との恋人同士のセックスを思い出す。アレは本当だったんだ。アレは本物だったんだ。でも、彼女が他の男の人を好きになったのなら諦めるしかない。 僕は格好悪いもの、しょうがい。
 でも、だから、最後は格好良い男で終わりたい。
 そう、終わるのなら格好良く終わりたい。
 僕はベルを鳴らす。
 彼女は出て来ない。もう一度鳴らす。もう一度。
 彼女は出て来ない。
 携帯を出して電話を鳴らした。
 奈々実さん、他に好きな人ができたならそれで良い。僕で暇潰ししていたのでもかまいません。本当です。でも、もしあの言葉が嘘だったら……。
 僕がもう一度ベルを鳴らそうとした時、ドアが開いた。
 そこには以前よりも少し痩せ、だるそうな顔をして奈々実さんが立っていた。
「なにしに来たの?」
 彼女の声は彼女の表情と同じように冷めていて、僕の微かな期待は木っ端微塵に砕け散る。
 僕は思わず俯いた。
 彼女とはもう終わりなんだ。だったら僕は。
「メアリーのアルバム100回聴きました。コレ、返そうと思って」
「そう」
 彼女が僕を見て嘲笑ったのが分かった。
「奈々実さん、今まで…」
――どうして来たの?」
 彼女が僕の言葉を遮った。
「どうして来たの?貴方はもうここに来てはいけなかったのよ」
 来てはいけなかったのですか、奈々実さん。僕は恋愛をしたことがなかったんです。どうしたら良いのか分からなかったんです。今でも分かりません。
 でも最後は、最後くらいはダサイ男ではなく、格好良くあっさりと身を引こうとは思っていたんですよ。
「さようならを…」
「さよならの一言だって言っちゃいけないの。私達はもうお互いに必要がないのよ?貴方はここに来るべきではなかったし、本当なら私だって貴方とは話したくなかったわ。貴方はあのまま消えなくちゃいけなかったのよ」
 僕はその時、どんな顔をしていたろうか。きっと惨めな顔をしていただろう。
 格好良く身を引こうと思っていたのに、彼女の顔を見ているとこんな時に限って出会った頃の楽しかった思い出が鮮やかに浮かんできて。
「奈々実さんの鍵を、」
「アレは貴方がシャワーを浴びている時に私が貴方の鞄から抜き取っておいたの。心配しなくてもいいわ」
 凄く短い期間だったけれど、僕は確かに貴方に恋をしていて。貴方を捕まえたくて。笑っている貴方も怒っている貴方も黙って本を読んでいる貴方もぼんやりテレビを見ている貴方も目を閉じて小さな声で僕を呼んでいた貴方も、全部好きだったわけで。
「僕は奈々実さんが」
――私にはそんなことどうでも良いのよ」
 彼女は呆れていたようだった。何に呆れていたんだろう。僕には分からない。僕はいつだって彼女の心が分からないんだ。
 とにかく僕はその場を離れることができなかった。あんなに『最後くらいは格好良く終わろう』って決めていたのに僕はそれどころじゃなくて、どうしたら良いのかなんて全然分からなかったけれどとにかくこの場を去ることなんてできなくなっていた。
 だって彼女は素敵な人だったんだ。僕は深海君が好きだったけれど、奈々実さんだって大好きだったんだ。僕は卑怯でずるくて臆病で一度に二人の人間に恋をしたけれど、それでも貴方が好きだった。そして今でも好きなんだ。
「僕は奈々実さんを本当に」
「煩いわねもう関係ないのよ。貴方が私にどんな…」
――言わせてよ!最後まで言わせてよ奈々実さん!!」
「言われたくないのよ!貴方の気持ちなんて聞きたくないの!煩いの!!どうして最後まで貴方はそうなの?貴方、学校での成績良いんでしょう?どうして分からないの。微分積分だって座標空間だって理解できるんでしょ?古典だって英文だって注釈なしで原文で読めるんでしょ?日本史は司馬遼太郎並に詳しいんでしょ?なのにどうして分からないのよ。どうして最後までそんなに ――
 奈々実さんは言葉を切って僕を睨んだ。全て僕のせいだと言わんばかりの目で僕を睨んだ。僕はもう涙が溢れてしまっていてよくは見えなかったけれど、それでも僕を睨んでいるのは分かった。僕は肝心な事は何一つ分からないのに、そんな事ばかり分かるんだ。
 僕の涙は止まらなかったし、僕の心も止まらなかった。
「僕は最後までなんですか?格好悪いですか?ダサイですか?だったらどうして僕を恋人にしたんですか?僕は貴方が好きでした。貴方を捕まえたかった」
「和也君には捕まらないわ。貴方はウツボカズラじゃなかったから上手くいけるような気がしたけれど、それでも上手くいかなかった。私も貴方も本当はお互いに好き同士ではなかったのよ」
「奈々実さん!」
「ウルサイッ!!」
 彼女の声がマンション中に響き渡った気がした。
「僕は貴方が」
「帰ってちょうだい」
「帰りません。帰れません」
 自分が号泣しているのが辛かった。だってこんなふうになるなんて。
「和也君は私と付き合えて良かったでしょう?一杯セックスだってしたじゃない。気持ち良かったでしょ?コンタクトにした時は格好良いって思ったわよ。アレ、私が言った事気にしてコンタクトにしたんでしょう?学校でも評判良かったんでしょ?良かったじゃないの。もうそれで良いじゃないの。帰ってよ」
 奈々実さんは僕を見なかった。僕も視線を床に落とした。自分の涙が馬鹿みたいにボタボタ落ちていくのを見ているだけだった。でも僕の足はどうしても動かないんだ。未練がましいったらこの上ない。でも僕は動けないんだ。
 僕はドアを閉められるのが怖くて右手でドアを握り締めたまま突っ立っていたんだ。
「立つ鳥跡を濁さずって言うでしょう?」
 奈々実さんの突き放すような冷えた声が聞こえた。それはまるで、彼女の白いハイヒールの踵で僕を踏み潰すような声だった。
 僕がグチャグチャになってその場にしゃがみ込むと、それと同時にドアの閉まる音が聞こえた。それから僕は何度も彼女の部屋のドアを両手で叩いた。手が痛くなっても叩き続けた。彼女の携帯に電話をかけた。何度もかけた。
 でも、もう二度と彼女は出て来なかった。

 僕は随分とその場に蹲っていたけれど、 それでも周りが真っ暗になってようやく重い腰を上げた。
 僕にはもう虚ろな感情しか残っていない気がした。それでも身体の奥底にはまだ熱いモノが燻っていて、僕はずっと泣いていた。
 彼女はいつも分からなくて噛み合わなくて折り合いがつかなくて互いの気持ちを確かめるには身体を重ねるしかなくて。
 僕にはこの感情の持って行き場がなかったんだ。
 最初から最後まで。
「格好良い男なんかにはなれなかった」
 呟いてみて、また泣けた。
 僕はそれこそ最初から最後まで格好悪かった。 別れようとする彼女に泣きすがり、震えていた。
「格好良い男なんかになれなかった。最後まで」
 俯きしゃくりあげながら拳を握った。
 自分が、どうにかなってしまいそうだった。







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