第6章 必要なのはFUCKなの


 僕は奈々実さんに会うのが少し辛くなった。
 彼女のことは好きだけれど、それでも僕はそれと同じように深海君が好きだった。だから彼女を騙しているような気がしたんだ。
 僕は家族と共にロンドンへ飛び、そこで残りの夏休みを過ごした。
 到着してからも深海君には連絡をしなかった。連絡したらきっと彼はまた手紙を書いてくれただろう。長い手紙を書いてくれただろう。そしてそこには岬杜君の名前が入っているんだ。僕はそんなもの読みたくない。
 そのかわり奈々実さんには連絡した。彼女は手紙をくれなかったけれども、僕は平気だった。向こうへ滞在している間に随分彼女に電話をしたけれど、 いずれも彼女は上機嫌で僕を笑わせてくれた。
 奈々実さんはいつも、電話だと怒ったり塞ぎ込んだりはしないんだ。

 新学期が始まる寸前まで向こうで過ごし、帰ってきてからまず最初に奈々実さんに会いに行った。僕は彼女に会うのが楽しみだったけれど、彼女は僕のことなんて大したことではないかのような態度をとった。それは少なからず僕にショックを与えたけれど、それでもセックスは恋人同士のセックスをしてくれた。
「僕は奈々実さんに会えなくて淋しかったです」
「嘘おっしゃい」
 彼女は冷たく笑う。
「本当です」
「そう?」
「本当です」
 汗で光る彼女の身体を触りながら、僕はこの気持ちは本物だろうと思った。彼女といる時は深海君の事を考えない。僕は奈々実さんの事だけを考えている。
 でも、彼女はセックス以外の時はやたらと冷たくなっていた。
僕にはそれが分からない。彼女の事は、いつもなんにも分からないんだ。彼女の好きな食べ物だって、好きな色だって、好きな作家だって。
「奈々実さんはどこの大学に通っているの?」
 僕はうだうだと彼女の事を考えながら訊いてみた。けれど返事はない。彼女は返事をしないでテレビを見ている。
「奈々実さんは何を専攻しているのですか?」
「煩いわね。セックスが終わったんだからもう帰ってよ」
 僕はその言葉を聞いて全身が凍った。
 セックスが終わったから帰れって、それはどうゆう意味なの?
「和也君。貴方今日はもう帰ってちょうだい」
 奈々実さんはもう一度言った。
 僕は暫く呆然としながら、それでも彼女の背中を見詰めながらのそのそと動き出した。もう今日は何も考えたくなかった。久しぶりに会って、恋人同士のセックスをして、そしてソレが終わったから帰れと言われたんだ。僕がすべきことはここから立ち去る事。
 奈々実さんのマンションを出ると、外はもう暗かった。
 僕は恋愛をしたことがない。
 あの時、一体何を言えば良かったのだろうかと思う。言いたい事や感じた事は山のようにあるんだ。でも僕は恋愛をしたことがないから、それを言えば良かったのかそれともその場の雰囲気を考えてこうやって立ち去った方が良かったのか、どっちが正解だったのかなんて分からないんだ。
 僕はいつだって何も分からないんだ。


 新学期が始まってすぐ、深海君と岬杜君との間に何かがあった。
 それは僕から見てみれば滑稽に感じる程あからさまなものだった。深海君は元気に振る舞いすぎていたし、岬杜君は学校へ来なくなった。
 汚い僕はそれを目の端で確認しながらせせら笑った。岬杜君を「ザマミロ」と馬鹿にした。僕の獣は孤高の獣。キミでも手の届かない場所で生きているんだと、僕の方がキミよりもより深海君を理解しているんだと、優越感に浸った。
 そう思う日は奈々実さんとのセックスをより楽しんだ。
 僕の心はもうメチャクチャだったんだ。
 でも奈々実さんだって僕と同じくらいメチャクチャだった。
 突然怒ったり塞ぎ込んだりはしょっちゅうだったし、僕が話し掛けると途端に物を投げつけてくる時もあった。そしてすぐに謝るんだ。「ごめんね和也君。ごめんなさいね」と。それから僕の性器を舐めてくれる。いつもその繰り返しだった。
 僕は次第に奈々実さんとのセックスに慣れ、彼女の身体で楽しむ事を覚えた。それでも彼女の心は分からなかった。彼女が何を求め、何を考え、何をしようとしているのかさえも。
 そして、彼女が本当に僕を好きなのかさえも。
 でも僕は彼女が好きだった。僕を翻弄する彼女に恋をしていた。
 僕は必死で彼女の身体を触りながら、彼女の心を求めた。

「和也君は確かクラシックしか聴いた事がないのよね?」
 その日、珍しく奈々実さんは最初から最後まで機嫌が良かった。
「クラシックだってそんなには聴きませんよ。僕は音楽に疎くて」
 有線から聞こえてくる流行の曲も全然知らない。洋楽なんてもっての他だ。
「興味はあるかしら?」
「奈々実さんお薦めの音楽だったら興味ありますよ」
 彼女の機嫌が良いのが嬉しかったから、僕も嬉しかった。それに、彼女が僕自身の事を尋ねてくるのは久し振りだったんだ。彼女は最近、恋人とは思えないほどそっけなかったから。
 奈々実さんは白い身体を捻って、CDラックに手を伸ばした。何枚か出したり戻したりしながら、やがて1枚のCDを取って僕に渡す。
「和也君にこれ貸してあげる」
 僕が感動したのは言うまでもない。最近の彼女は本当に冷たかったから。
「ありがとう。MDに入れたらすぐ返します」
「いいの。そんなにすぐ返してもらわなくても良いものだから。でもね、きっちり100回聴いてちょうだい。どこか目立つ場所に紙切れを貼っておいて、聴く度にちゃんとソレに『正』の字を書いて、きっちり100回聴いたら返してちょうだいよ」
「どうして100回なんですか?」
 奈々実さんは僕に渡したCDをもう一度取り上げ、ケースの中を確認してまた僕に渡した。
「どうしてって、別に理由はないの。 ただ、貴方には100回くらい聴いて欲しいと思っただけよ」
 僕は頷いてそのCDを受け取った。
【MARY J. BLIGE】
 そう書いてある。
「メアリー・ジェイ…ブライジ……かな?」
「そう」
 彼女は素っ気なく返事をしてまたベッドに潜り込む。
「奈々実さんのお薦めの曲は?」
「教えない。でも和也君がそれを100回聴いたら教えてあげる」
 そう言って彼女は毛布を肩まで手繰り寄せた。
 僕は、彼女が気に入っている曲を見つけることができれば、少しでも彼女自身に近付けるような気がしていた。だから家に帰ってから、さっそくそのCDを聴いてみた。
 僕の全然知らない音楽だった。これがR&Bと呼ばれている音楽なのだろうか。僕には余り良く分からない。メアリーの声は太くて迫力があった。奈々実さんの声とは全く違う、上手くは言えないけれどとにかく奈々実さんとは根本的に違う、安定していて自信に満ち溢れているモノだった。
 僕は奈々実さんが好きだけれど、それでも彼女との関係は少しギクシャクしているのを感じている。僕達は出会った頃が一番楽しかった。
 いつからだろう、彼女がピリピリするようになったのは。
 いや、初めから彼女は突然不機嫌になったりはしていた。でも、最近はそれを通り越してしまっている。
 いつからだろう、彼女があまり笑わなくなったのは。
 僕は蝶のようにヒラヒラと僕を翻弄する彼女が好きだった。よく笑い、よく怒り、よく喋る彼女が好きだったんだ。
 僕はメアリーの歌声を聴きながら、奈々実さんを本当にこの手で捕まえたいと思っていた。


 深海君は相変わらずだった。
 彼は異常にハイテンションで、前の席の秋佐田君や苅田君、そして他のクラスメートに仔犬のように甘えていた。
 そして、皆で深海君を甘やかしていた。
 彼と岬杜君について誰がどこまで知っているかは知らないが、きっと深海君は誰にも何も言っていないはずだ。だって彼は僕にも何も言わないもの。深海君はいつも、大事な事は他人には言わないんだ。

「岸辺」
 数学の授業中に、深海君が小さな紙切れを寄越した。
 何だろうと思って小さく折りたたんであったそれを広げてみると、そこには
『最近彼女とは上手くいってる?』
 と青いペンで書いてあった。
 僕は同じようにノートの端を切って
『大丈夫。結構上手くいっているよ』
 と返した。
 僕はふと、自分と奈々実さんは本当に上手くいっているのかどうか考えてみた。
 彼女はいつも分からない。相変わらず僕を翻弄する。僕は彼女の心を掴めないし、彼女が本当に僕を好きなのかも分からない。でも、彼女とのセックスは本物だ。心のこもったセックスをする。
 深海君がまた紙切れを寄越した。
『良かった。お前最近元気ないから心配してたんだ。何かあったらちゃんと言えよ。俺はいつでもお前の相談にのるからな』
 僕はこの紙切れを見て苦笑した。
 深海君。僕の相談にのってくれるの?
 僕が君を好きでも、やっぱり相談にのってくれるの?
 君は何も僕に言ってくれないのに?
 僕はそれでも
『ありがとう』
 と書いて深海君に渡した。
 その時少しだけ深海君が憎いと思った。


 奈々実さんに貸してもらったCDは毎日聴いた。暇な時は勿論、勉強している時だって聴いていた。そして彼女の部屋に行けばちゃんとその報告をした。今日は1回聴いた。昨日は何回聴いた。
 僕はできる限り彼女に優しく接し、彼女を愛した。誰かと付き合った事などない僕は、どうしたら女の子を喜ばせてあげられるのか分からなかったけれど、それでも誠心誠意を込めて奈々実さんと接した。
 けれども彼女はどんどん冷たくなっていった。
 だから僕は必死になって追いかけたんだ。彼女を捕まえる事ができれば、何もかもが良くなるような気がした。彼女だって前みたいに笑ってくれるようになるって、そう思った。だから僕は必死だった。彼女の事が知りたかったから細かい事まで何でも訊いてみたりした。両親はどんな人か。好きな映画は何か。どんな花が好きか。よく見るテレビ番組は何か。ちょっとでも彼女について知りたかった。彼女に近付きたかった。
 けれども、彼女は僕の質問に一切答えなかった。それどころか酷く不機嫌になった。それでも僕は彼女の事が知りたかったんだ。深海君の事以上に、奈々実さんの事が知りたかったんだ。
 だから毎日奈々実さんのマンションへ通った。
「和也君って、最近質問ばかりするわ」
 セックスの後は僕の質問タイムになっていた。
「奈々実さんが何も答えてはくれないから」
「良いじゃないそれでも。どうしてそんなにいつもいつも質問ばかりするのよ」
「奈々実さんの事が知りたいからです」
 僕は正直に言った。僕は貴方を捕まえたい。
「じゃあ答えるわよ。何でも訊いてよ」
 彼女は意地悪な顔をした。腕を伸ばしてベッドの横の本棚から大きめな一冊の本を取り出している。『僕を探して』と表紙に書いてあるのが分かった。僕は読んだ事がないけれど、それは書店の子供向けのコーナーによく置いてある物で、僕は彼女がそれを持っている事とそれを読もうとしている事に少し意外な感じがした。
「奈々実さんの好物って何ですか?」
「ゴキブリの唐揚とムカデの佃煮。だから買って来て。今すぐ」
 僕は何も言えない。どうして質問しただけで彼女の機嫌を損ねてしまうのか分からない。
「奈々実さん」
「なによ。質問に答えただけでしょ?」
「僕は貴方の事が好きです」
 僕は彼女の身体をそっと抱き締めてみた。彼女は僕を無視して本を読んでいる。
「だからなによ。だったら早く買って来て。ゴキブリの唐揚とムカデの佃煮」
「変な事言わないでください」
 本当に、どうすれば良いのか教えて欲しいと思った。
「変な事言うのは和也君の方よ。どうして質問ばかりするの。どうしてセックスだけで満足しないの。質問して答えてあげれば『変な事言わないで』ですって?だったら貴方は何のために質問するの。それで私の事を理解できる?私の好物を知ったら、私の両親の話を聞いたら、私の好きな映画を一緒に見れば、それで私の事を理解できると思っているの?まったく馬鹿らしいわ。男と女なんて、キスをしてセックスしてればそれで良いのよ。どうして男ってそんなに欲張りなのかしら。私の何が欲しいのよ。私の身体だけでどうして満足しないのよ!」
 奈々実さんは叫びながら僕に『僕を探して』を投げつけた。
 僕は何を言えば良いのか分からない。でも、僕は…。
「僕は奈々実さんの身体だけが欲しいわけじゃないんです」
「だからなに?さっき言ったでしょう。男と女なんて身体合わせてれば良いのよ。キューブリックの『アイズ・ワイド・シャット』見たんでしょ?ニコールだって最後に言ってたじゃない。必要なのはFUCKなの。それで良いの。何を考えようと何を求めようと、それが一番大事なの。どうしてそんな事も分からないの?どうして一番大事な事すら理解できないの?どうしてどうして分からないの?だから貴方はいつまでたってもダサ男のままなのよ!!」
 彼女は叫びながら僕を蹴った。
 僕はやっぱり何を言えばいいのか分からない。
 でも、辛かった。
 僕はダサイんだ。奈々実さんの目から見ても。
 それから少しの間、僕等はお互い何も言わなかった。僕はどうしていのかも分からずに、ただじっとしているだけだった。
「…ごめんなさい」
 小さく彼女が謝った。
 僕は首を振った。嫌がる彼女を質問攻めにしたのは僕なんだ。
「僕の方こそごめんさない。もう奈々実さんが嫌がる事は訊きませんよ。だから…」
「違うの」
 彼女は僕の言葉を遮って俯いた。そして僕の貧弱な身体にキスをしてくれた。その艶やかな唇が僕の下腹部に向かう。僕はそっと彼女の顔を持ち上げた。
「そんな事しなくてもいいですよ」
「どうして?いや?コレだって大事な事じゃない」
 僕と奈々実さんはどうしても噛み合わない。
 それでも僕は彼女が好きだった。
「今日は僕がします」
「駄目よ。私が酷い事をしたんだもの」
 彼女は引かなかった。
 僕は誰かに教えて欲しいと思う。
 こんな時はどうすれば良いのかを。


 僕がコンタクトを買ったのは、それからすぐの事だ。
 女性の店員にカラーコンタクトを勧められたけれど、それはさすがに断った。けれども僕は、コンタクトにするだけでも勇気がいったんだ。だって、今まで度の強いメガネ越しにしか世界を見ていなかったし、僕もそうやって見られてきた。
「岸辺岸辺岸辺!!」
 学校に着くと、やっぱり深海君が飛んで来た。
「どうしたの?イメチェン?何かに目覚めた?」
「何にも目覚めてはいないと思うよ」
 僕がそう言うと、深海君は笑いながら僕の顔をぺたぺたと触った。
「どしたのよソレ」
「おかしい?」
「おかしくない!カッコイイ!!」
 彼はなぜか嬉しそうに僕に抱きついた。僕も嬉しかった。
 たまたま通りかかった真田さんが僕をじっと見て
「トンボ君。メガネを取ってもトンボ君」
 と、ちょっと意味の分からない事を言った。でも深海君が「シッシッ!」と真田さんを手で追っ払って、そしてまた僕の顔を見て嬉しそうに微笑んでくれた。
 その日はクラス中の皆に格好良くなったと言われた。普段僕とは喋らないクラスメートも深海君と一緒に僕に話し掛けてくれたりもした。砂上さんにも「これからはいつもコンタクトにしなさいよ」と言われた。僕もそうするつもりだった。
 別に何をしたってわけじゃないんだ。服だっていつものように地味な物だったし、本当にメガネを止めてコンタクトにしただけなんだ。それでもこんなに反響があるとは思わなかった。
 僕はその日、学校が終わると急いで奈々実さんに会いに行った。
 いつも降りる駅を2つ乗り越して、途中で彼女がよく食べているクロワッサンを買って、そして奈々実さんのマンションまで走って行った。

「奈々実さん」
 渡されていた合鍵を使って、ドアを開ける。彼女はいつもインターフォンで呼んでも出てこないから、勝手に上がるようにって言われているんだ。
「おじゃまします」
 僕は靴を揃えて部屋に入る。
 彼女はリビングでテレビを見ていた。
「奈々実さん」
 僕が呼ぶと、彼女はだるそうに僕を見た。
「和也君、メガネは?」
 僕はドキドキしていた。
「コンタクト、買ったんです」
「そう」
 彼女は呟いてからじっと僕を見ていた。僕は期待していた。彼女に何か言ってもらえると思い込んでいた。
 しかし、どれだけ経っても彼女はそれ以上何も言わなかった。
「おかしいですか?」
「どうしてコンタクトにしたの?」
 だって、奈々実さんに好かれたかったんです。奈々実さんには格好良い男だと、ほんの少しは思われたかったんです。貴方と釣り合う男になりたいんです。
「駄目ですか?」
 僕は急に不安になっていた。今日一日クラスメートに言われた事が全部お世辞だったような気がして。
「こっちに来なさいよ」
 奈々実さんが僕を呼ぶ。
 僕は緊張しながら彼女の元へと歩いて行った。
「どうしてコンタクトにしたの?私が酷い事言ったから?私のせい?」
 彼女が弱々しく僕に尋ねる。
「違いますよ。クラスの友達にもコンタクトにしろって言われていたし、僕もそうしようって思っていたんです」
 僕は嘘を吐いた。
 そして彼女に笑いかけた。

 恋人同士のセックスはとても気持ちが良い。
 奈々実さんの身体を、そのすべすべした肌を何度も撫でて、そして湿気った陰部に手を伸ばす。彼女の足を広げさせて、舌を出して白い肌を舐めてみる。彼女は僕の身体にキスをして、この貧弱な身体を愛しそうに撫でてくれる。
 お互いの性器を舐めて、お互いの事を気遣って、お互いを快楽の世界へと導き合う。
「ごめんね」
 奈々実さんが小さな声で謝った。僕は彼女が何について謝っているのか分からなかったけれど、何も言わずに行為を続けた。
 僕はその時奈々実さんの陰部に舌を這わせながら、彼女の言う通り男と女は身体を合わせる事が一番大事なのだと思っていた。







back  next