第3章 挑発的に冷たく笑う彼の顔


 あの日、深海君はクラスの誰かに僕が変な奴等に引き摺られて行った事を聞いたらしかった。彼は急いで駆けつけてくれたけれど僕の身体は酷いことになっていて、精密検査を含めて2週間入院するはめになった。その間ずっと母は僕の側で世話をしてくれたけれど、なんだか自分が子供のようで僕はそれを恥じた。でも、警察の人が来て正直に全部話した時も、父と母は僕が嘘を吐いた事を責めなかった。
 深海君は毎日来てくれた。
 最初の2日間は母に面会を断ってもらい、彼を避けて僕は考え続けた。深海君は人の気持ちが全て読めるわけじゃないのは分かっているけれど、それでも彼は人の気持ちに敏感だった。僕が彼に好意を持っていて、しかもそれが性欲に関わる好意だと知ったら、彼は一体どうするだろう。
 考えるだけで恐ろしかった。
 僕が一番恐れた事、それは自分が深海君と一緒にいられなくなる事だ。僕達は今とても良い友人同士だ。だから僕は彼の側にいる事ができる。自分のこの異常な感情でその関係が壊れるのだけは避けたかった。
 だから僕は、とにかく自分のこの気持ちの持って行き場を考えた。
 この感情は、この初恋は一生の秘密にしなければならない。
 そうしなければならないのだ。
 入院3日目も彼は会いに来てくれた。さすがに母にも困った顔をされたので、僕は彼を病室に入れてもらった。しかし顔が痛いとか身体が痛いとか言って、彼に触れられるのを拒んだ。彼の顔も見なかった。見る事ができなかったんだ。
 それでも深海君は退院するまで2週間毎日来てくれた。彼の嫌いな数学もちゃんと授業を受けたらしく、彼の独特の落書きが多い、それでも一生懸命黒板を写した努力が良く分かるノートを自慢げに見せてくれた。僕はそのノートを見ながら堪らない気持ちになった。彼に嫌われるのは怖い。いや、嫌われるだけならまだしも僕のこの感情は普通じゃないんだ。だって僕は男だし彼も勿論男なのだから、嫌われる避けられるどころの話ではなくなるんだ。だから必死だった。自分のこの感情をどうやって隠し通すのかを模索し続けた。
 こうして僕は、入院中に少しずつ自分の気持ちを隠す術を会得していく。
 それはとても難しかったけれど、人の嘘を読むことができる深海君と友達でいる為にはどうしても必要なことだった。
 まず、目を閉じて心の扉をイメージする。その扉は重くて、僕が開けようとしてもなかなか開かないほどだ。厚くて、重くて、頑丈な扉。鉄でできていて、絶対に壊れない扉。それを明確にイメージする。その扉は重いから、僕が全身を込めて力を入れても少ししか開かない。でもその僅かな隙間に、僕が深海君を想う気持ちを全部押し込める。深海君を求める僕の気持ちを残らずそこへ押し込める。それが終わったら重い扉を閉めて、鍵を掛ける。鍵穴を塞ぎ、部屋の外に出てまた扉に鍵を掛ける。それを繰り返すと、僕はもう深海君のただの友達だ。深海君はもう恋愛対象じゃない。
 そう思い込む。
 僕は何度もそれをイメージして、少しずつ深海君に嘘を試していった。 最初は彼を見る事もできなかったけど、次第に目を見て話す事ができるようになったし彼に触れられる事も恐れなくなった。
 こうして僕は日常へ戻ったのだ。


 学校での生活は今まで通りだったけれど、帰宅後は今までとは随分違うもう一人の僕がいた。
 僕は家へ帰り自分の部屋に戻ると、即座に深海君への想いを解放しなくてはならなかったからだ。部屋に入った途端に僕の扉は勢い良く開かれ、中からは押し込めた時よりも数倍に膨れ上がった感情が僕を飲み込んだ。僕はその日にあった深海君に関する事を全て思い出して、それを胸に抱き締める。
 彼を想う気持ちは日に日に強まっていった。
 でも、僕は深海君の友達。
 毎日学校へ行く前にする朝の儀式はどんどん長くなっていったけれど、それでも僕は毎朝自分の中に扉を作る。
 深海君の側にいたかったんだ。
 それから毎日僕は完璧に「深海君の友人」を演じ続けた。それは完璧のように思えたが、いつも心の隅にある疑問を抱えていた。
『深海君は僕の気持ちを知っているけれど、知らない振りをしているだけではないか』
 そう、僕はこの疑問をずっと胸に抱いていたのだ。
 そしてその答えが出たのは2年の始業式当日だった。
 僕は運良くまた深海君と同じクラスになり、彼と並んで席に座って2人で同じクラスになったのを喜んでいる時だ。
 僕は深海君がずっと窓側を見ているのに気付いた。彼の大きな黒い瞳が少し揺れている。どうしてか胸騒ぎがした。
「深海君、どうしたの?」
 僕の言葉に彼の肩がピクリと動いたのが見えた。
「えへへ。良い女がいないかチェックしてたぁ〜」
 ニコニコ笑いながら答えた。
 席に着いて担任を待っていると、深海君はまた窓側を見ていた。僕を通り越して、誰を見ているのだろう。深海君が笑いかけている。 凄く可愛い笑顔で。本当に可愛い『特別』な笑顔で。
 僕は気になってそっと窓側を見てみた。
 そこにもし岬杜君がいなければ、僕の初恋はもっと違う形になっていたのかもしれない。振られるにしてもあれほど苦しまなかったのかもしれない。
 しかしそこには岬杜君がいた。
 僕の獣を強い視線で見詰めている、余りにも格好良いもう1人の獣がいた。
 岬杜君とは同じクラスになったことがないけれど、彼の噂は聞いていた。彼は苅田君同様この学校では有名人だったんだ。整った顔に整った身体。誰も彼の声を聞いた事がないという不思議な生徒。滅多に学校へは登校せず、若くして彼の父親がいるロンドンで家の仕事を手伝っているらしいその頭脳。
 そして、その家柄。
 岬杜家の事は僕達の学校の生徒ならば皆知っている。岬杜グループは日本に住む人間なら誰でも聞いた事があるほど大きな財閥だ。祖父は経団連をも影で動かし政界にも顔が利く大人物で、父親もしょっちゅう経済新聞や雑誌に名前が挙がっている。とにかく凄すぎる家系だった。
 彼は生まれながらの本物のエリートなのだ。
 僕達とは掛け離れた世界に住む、もう1人の美しい獣だったのだ。
 岬杜君はずっと深海君を見詰めていた。僕の方など一瞬たりとも見ず、ただ深海君だけを縛り付けるような視線で見詰めていた。同じ人間を愛する者として、僕にはその視線の意味がすぐに理解できた。岬杜君は深海君を欲している。僕と同じ意味で、深海君を求めている。
 僕は無性に悔しかった。僕の獣は誰も捕まえる事はできないはずなんだ。それなのに、彼は深海春樹を捕まえようとしている。
 悔しかった。
 深海君は時折岬杜君を見ながら笑いかけていた。深海君にだってあの視線の意味は分かっているはずだった。それほど意味のある、そして僕と違って自分の気持ちを隠す事もしない強烈な視線だったんだ。だけど深海君はそれに気付かないフリをしていた。 僕から見れば、あからさまなモノだった。
 だから僕は分かったんだ。
 深海君が他人の嘘を読めるように、僕は深海君の嘘が読めると。
 そして、深海君は僕の気持ちに気が付いてはいないと。

 深海君はすぐに岬杜君と友達になったみたいだった。教室でも良く話し掛けていたし、視線を合わせてクスリを微笑み合っている場面も良く見た。それは、1年の頃からずっと一緒にいた僕よりも、もっと親密に見えるものだった。
 授業中だって深海君はしょっちゅう岬杜君の方を気にしていた。例えば何気なく僕に話し掛けようと身体の向きを変えた瞬間、髪をかきあげる瞬間、大きく背伸びをした瞬間。僕には、それら全ての行動が岬杜君を見る為の言い訳のように見えた。深海君は自分でも分かっていなかっただろうけれど。
 僕が岬杜君の気持ちに気が付いたように、すぐに岬杜君も僕の気持ちに気が付いた。僕等はたまに、ほんのたまに目が合った。僕が深海君と話している時や一緒に行動している時などに。岬杜君は僕を見ても大概は無表情だった。嫉妬しているわけでもなく、敵意のこもった目で僕を睨むわけでもなく、無表情で僕を見た。
 僕なんて眼中にはないらしい…そう思うと俯いて笑うしかなかった。


 5月の連休が終わったすぐに、深海君の様子が変わった。
 笑顔がぎこちなくなり、岬杜君の方も見なくなった。
 僕は隣でそれを意識しつつも、ごく普通に接していた。正直に言えば、嬉しかったんだ。深海君は誰のものでもないんだから。深海君は誰にも捕まらないんだから。
「深海君、今日君の家に遊びに行ってもいいかな?」
HRに僕は深海君に話し掛けた。彼はいつもよりもずっと神経質そうな顔をして額を抑えていたけれど、僕の言葉ににっこり微笑んでくれた。
「いいよん。裏ビデオ視聴会でもいいぜぇ」
 深海君は薬瓶を握っていた。彼は頭痛が酷くなるといつもビタミン剤を飲む。これは彼の頭痛には薬が効かないから、気休めで飲むのだそうだ。
 深海君は少し砂上さんと話をしていた。もうニコニコ笑ういつもの深海君のようだった。僕は心の中の扉をイメージしながら、全ての深海君を記憶する。彼の声、言葉、仕草、表情。家に帰ってから、それらをすぐ思い出せるように、でも彼に気付かれないように細心の注意を払いながら。
 しかし、突然砂上さんを見て笑っていた深海君がピタリと止まった。
 そこだけが空白になったような時の中で唯一彼の身体だけが抑えられないような力で動き、僕の目の前を何かが横切っていった。
 すぐにクラスメートの悲鳴が上がる。僕はあまりの事に呆然としていた。深海君が挑むような目付きで、それでも冷えた笑顔で岬杜君を見たのが分かった。
「いや〜ん、岬杜君、すんまそ!」
 冷たく笑いながら言う深海君の顔が、僕には酷く挑発的に見えた。
 深海君はクラスメートに謝りつつも、岬杜君の元へ向かう。何か、一言二言喋っている。クラス中が聞き耳を立てているのが分かった。
「早く帰ろぉ〜」
 席に戻って来た深海君は笑いながら僕に抱きついてきた。

 家庭教師と向き合っている最中も、僕は深海君の事ばかりを考えていた。
 彼と岬杜君の間に何があったのだろうか。どうして最近彼は岬杜君を見なくなったのだろうか。どうして急に彼は瓶を投げたのだろうか。
 僕はあの時の深海君を鮮明に思い出す。彼は砂上さんと視線を合わせ、突然、何の前触れもなく瓶を投げた。今まで見たこともないような深海君の表情だった。いつも温厚な彼の本気でキれた瞬間だったのかもしれない。それは怒りの表情ではなかったけれど、底冷えするような冷め切った感情と、波のうねりのような強い力の、僕には分からない何かの感情を搗き交ぜたような複雑な表情に見えた。
 僕には分からない深海君の心。
 彼は岬杜君をどう見ているのだろう。僕といる時の深海君は、あんな表情は絶対しない。岬杜君は確実に深海君の心を揺らしているんだ。
 きっと岬杜君は、誰にも揺らすことが出来なかった深海君の心に触れたんだ。
 僕は岬杜君に嫉妬した。
 僕の獣は誰のものでもないのに、と。
 そして、深海君が僕に何も言ってくれないのを淋しく感じた。

 それから僕は全然身を入れて話を聞かないと怒る家庭教師に素直に謝り、それでもなかなか集中できないままその日のスケジュールを終えた。
 急いで家を出てタクシーで深海君のアパートへ向かう。彼の部屋にはすでに砂上さんがいるはずだ。
 タクシーを降りて階段を上る。 そして、ドアを叩こうとした時にとんでもない事に気が付いた。
 僕は今、心の扉を閉めていない。
 大慌てでイメージを開始する。重い扉。鉄でできていて、厚くて灰色で、凄く頑丈。どれだけ力を入れても少ししか開かない。そこに僕の感情を押し込める。深海君に関する様々な想いを押し込める。手を放した途端に重い扉はバタンと閉まり、僕はそこに鍵をして、また新しい扉を作る。
「岸辺?」
――え」
 突然目の前のドアが開いて、深海君が顔を出した。
「何してんのぉ?」
 きょとんとしている彼を前に、僕は慌てて作り笑いを浮かべる。心の中では自分の扉がまだ完璧にできていないのが気になっていた。しかし僕は何気なく深海君に話を合わせ、部屋の中に入って砂上さんとも話をする。
 デリバリーでピザを注文し、僕は烏龍茶を飲みながら自分の心の扉をイメージした。もう2つの扉を作ったんだ。大丈夫だろうとは思うけれど、でもあと1つは作っておこう。
「深海君って本当に彼女いないの?」
 僕が1つの重い扉をイメージしようとした時、砂上さんがこんな事を言った。僕は思わず思考が止まる。深海君に彼女なんていないはずだ。僕は、彼が何人もの女の子の気持ちを上手く断ってきたのを見ているもの。
 それでも僕は俯いて深海君の言葉を待つ。
「彼女?そんなんいないも〜ん。俺は俺を愛する皆様の共有財産なのぉ」
 ほら、やっぱりいない。
 顔を上げると、砂上さんと目が合った。
「だったら深海君は童貞なのかしら?そんなにカッコイイのに?」
「セックスは別に彼女じゃなくても出来るでしょ〜よ」
「あら、だったらセックスフレンドはいるんだ」
「ズバリ、いま〜す!!ん〜、でもセフレって言い方はイヤだなぁ。別にソレだけってわけじゃないしなぁ」
 深海君は呟きながら横になった。
 彼にセックスフレンドがいたってかまわない。だって、彼はその人のものじゃないもの。
「でも深海君を落としたその人って、やっぱり凄いわね。どんな人?」
「何で?」
「クラスの女子に情報ばら撒くの。『特報!深海城を落城させた女!!』とかって」
 砂上さんの言葉に深海君は笑っていた。僕はこんな時、彼は自分自身をどんなふうに見ているのだろうと思う。深海君を狙っている女の子は沢山いる。彼は確かに「自分は皆のものだ」と公言しているが、それは暗に『彼女は作らない』って意味を示唆している。それでも彼を狙っている子はいた。女の子ばかりでもなく、男だって深海君に好意を寄せている者だっているんだ。
 例えば、僕。
 例えば、岬杜君。
 考えていると、また砂上さんと目が合った。砂上さんは深海君から上手く話を聞きだしている。深海君のセックスフレンドは年上なんだそうだ。とても美人だけれど、何の仕事をしているのか良く分からないらしい。どうせ深海君はそうゆう話には興味がないんだろうと思う。彼は相手の家柄や仕事云々よりも、相手の話す内容や表情、行動に興味を持つタイプだから。
 僕は深海君の話を聞きながら、 岬杜君にこの話を聞かせてやりたいと思っている自分を見つけた。
 それは、本当に嫌な自分だった。
 心の隙間に汚らしく蠢いていて、まるで蛆虫みたいに僕の腐った心を寝床にしている。
「で、何で今日岬杜に瓶投げつけたの?」
 蛆虫のような僕は、偽善者の僕が今まで訊けなかった事を口にする。
「えへへ、手が滑ったのよ」
 深海君は本当の事を言わない。悔しかった。僕は君の全部を知っていたいのに。
「深海君、岸部君心配してんだから真面目に答えてやりなよ」
 砂上さんが珍しく真剣に呟いた。
 僕は心配しているのか?
 いや、違う。
 僕は君と岬杜君の仲が気になるだけだ。僕は君達が不仲になればなるほど喜んでいる。でもこんな醜い僕の気持ちは絶対に隠さなくちゃいけない。
 扉をイメージしよう。重い扉を。
 そう、僕は深海君を心配してるんだ。
「深海君は知らないだろうけど、岬杜君は俺や砂上さんの家よりもっともっと大きい会社の…何て言えばいいのかな。岬杜グループってのの……」
「岸辺、心配サンキュな。でも俺は別に岬杜と喧嘩してる訳じゃないし、喧嘩ふっかけてる訳でもないぞ。実は今日の夕方その事で岬杜とちょっと喋ったんだけど、分かってくれた。だからもう大丈夫だぜぃ」
 深海君はにっこり笑うと、偽善者の僕はほぅっと息を吐いた。
「何?もう和解済みなの?僕、実は滅茶苦茶心配していたんだよー、もー」
 僕は自分を落ち着かせる。汚い僕は心の片隅で悪態を吐いていたけれど、それを扉の奥に無理矢理しまいこむ。
 それから深海君と砂上さんは、岬杜君について少し話をしていた。僕は時々、この砂上喜代という女の子が怖くなる。彼女はとても友好的だけれど、それでもたまに何か含みがある物の言い方をする。
 2人の会話を聞きながら、砂上さんは僕の気持ちと深海君の気持ちを全部見透かしているような気がして、少し怖くなった。

 家の門限は10時半だったから、僕は10時に深海君の部屋を出た。砂上さんも途中まで一緒に帰ると言い出したので、僕等は2人で歩いて帰る事にした。
 歩道がない道路だったので、僕は何気なく車側に回った。車と砂上さんに気を付けながら歩いて行く。
「岸部君、今日はあんまり元気なかったじゃない」
 砂上さんが話し掛けてくる。
「そうかな。僕は普通だよ」
 僕は俯いて答えた。アスファルトに煙草の吸殻が転がっているのが見える。
「岸部君は彼女いなの?」
「いるわけないよ。僕は格好悪いもの」
 砂上さんは何も言わなかった。僕は何だか怒られているような気分になって、ずっと下を向いて歩いた。
 でも、本当のことだもの。僕は格好悪くて、汚いよ。
「私、こっちだから」
 少し歩いて、砂上さんが立ち止まる。
「家まで送れなくてごめんね」
 僕も立ち止まる。顔を上げると砂上さんの笑顔があった。
「その気持ちだけで充分。それとね岸部君、俯いていては駄目よ」
 砂上さんは手を上げて道を曲がって行った。
 僕は彼女の後ろ姿を見ながら、自分に溜息を吐いた。

 家に戻ると母が出迎えてくれた。
 僕はお風呂に入ってから、少しだけキッチンで母と深海君の話をした。 母は深海君が大好きだ。
「深海君は今日ね、数学の時間に漫画読んでるの藤沢先生に見つかってね…」
 僕の話に母は笑っていた。
 僕は思う。深海君はきっと、何をしても許されるのだと。
 自分の部屋に戻ると、僕は膨らんだ自分の心をやっと解放した。深海君の表情や声を思い出し、そして彼の言葉一つ一つを繰り返し思い出す。机に向かって参考書を開きながら、彼の綺麗な身体や髪を思い出す。ノートを開きシャーペンを出して、彼の笑顔を思い出す。
――深海君のセックスフレンドってどんな人だろう
 僕は考える。それはきっと綺麗で優しくて煌びやかで、僕の想像も出来ない素晴らしい人なんだろうと。でも、その人だって深海君の彼女じゃないんだ。
「……所詮深海君の性の処理係りだ」
 思わず呟いた自分の言葉に僕は呆然とし、そして泣きたくなった。
 僕は本当に嫌な人間だ。自分がここまで最低な人間だったなんて知らなかった。唇を噛んで参考書を捲る。そこにある問題に目を通しながら、僕は頭を抱えた。
――深海君のセックスってどんなだろう
 きっと格好良いんだ。格好良くて優しくて上手くて、でも、激しいのかもしれない。
 僕は体育の時間に見た彼の裸体を思い出す。彫刻のような美しい褐色の身体を思い出す。彼の後方には夕日があって、僕を見下ろしているのを想像する。
 自分の喉が鳴ったのが分かった。
「……」
 僕は今まで一度も深海君で自慰をした事がない。それはどうしてもやっちゃいけないような気がしたからだ。
 でも僕の頭の中の彼は、僕を見下ろしたまま笑う。それはいつもの優しい笑顔ではなく傲慢で横柄な感じがするのに、僕はその美しい獣に跪く。
 右手が服の上からゆっくりと焦らすように足に触れ、そして僕はそこから自分の勃起している部分に手を置いた。
 自分の呼吸が乱れているのをやけに生々しく感じた。
 僕の中の深海君は、彼の前に跪いた僕を見下ろし冷笑する。
「……っ」
 右手が止まらない。 パジャマのズボンを下着と一緒に下ろし、勃起している性器を直に触った。
 自分の荒い呼吸が聞こえる。
 今までにないこの興奮が怖くなって、僕は左手で扱いている右手を抑えた。それでも僕は止まらなかった。
 目を閉じれば彼の褐色の肌が僕を魅了する。僕は彼の足元に跪いて、その足先に口付けをした。彼はまた笑う。僕はその足先から丹念に足首まで唇を這わせ、膝を立てて彼の整った足を少しづつ上っていく。脛も膝も大腿部も、全部に口付けをした。
 彼の性器に口付けようとした時、彼が挑むような目で僕を見る。
 その挑発的に冷たく笑う彼の顔を見て、僕は声を上げて精を吐いた。


 手のひらに付いた汚い精子を見て、僕の心は空っぽになる。のそのそと動いてティッシュを取り、汚れを拭いてから目を閉じた。
 僕の心は空っぽだ。もう何もない。
 暫く俯いたままでいたが、重い身体を動かしてベッドに入った。
 電気を消して目を閉じる。
 僕は毛布を掴んで頭まで引き上げた。
 出来る事なら、このまま大声を上げて泣きたかった。壁を殴って机を蹴って、窓を全部割ってそれからこの家に、この世界に火を放ちたかった。それから誰でもいいから、とにかく誰かを殴ってやりたかった。このまま彼の部屋まで飛んで行って、僕の気持ちを全部吐き出してしまいたかった。
 そして消えてしまいたかった。
 消してしまいたかった。
 僕も彼も、世の中全てを全てを全てを全てを全てを全てを全てを全てを、すべてを。


 挑発的に冷たく笑う彼の顔。
 それは今日僕が見た、彼が岬杜君に向けた表情そのものだった。







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