一生持つまいと決めていた携帯電話を買ったのも、深海君の一言からだ。
僕は携帯電話の着信音が嫌いで、携帯は絶対買わないでおこうと決めていたんだ。電車の中で平気で大声を出して喋っている人が理解できないし、通学中の電車の中で本を読んでいるのに隣で突然必要以上に大きな音で着信音が鳴り響くのはとても不愉快だったから、携帯電話自体を疎ましく思っていた。
それなのに、ある日深海君が僕に眠そうな声で
「どうしても気になった英単語があって、調べたけれど辞書に載ってなくて困った。気になって気になって眠れなかったんだぁ」
と言ったんだ。僕は彼のノートに走り書きしてあるその英単語を発音してあげて、不思議に思った。僕に訊けば、すぐに答えてあげられたのに。
「そんなに気になったのなら、電話してこれば良かったのに」
「だってもう夜中の12時回ってたんだぜ?迷惑じゃん」
この一言だ。
僕は普段夜1時くらいまでは起きているけれど、確かに父と母は寝ている。深海君は一般常識に沿って僕の家に電話をしなかったのだ。
僕はその日の夜に両親に了解を貰って、週末に携帯を買いに行った。深海君の持っているモノと色違いにした。月曜日には一番に深海君に番号を教え、そして僕の何も登録していない携帯に彼の番号を登録した。
「夜中にかけてきても良いよ」
僕は笑って言う。
「夜の2時でも朝の5時でもいたずら電話でもぉ?」
「良いよ」
僕が何度も頷くと、彼は本当にその日の夜12時に電話をしてきた。着信のディスプレイに『深海』と出ているのに、わざわざ裏声を使って
「あたすぃ〜、サバ子よサバ子!覚えてるぅ?サバ子は和也君のアノ夜が忘れられないのぉ。うふ。今寂しく海で泳いでるのよぉ。和也君今度サバ子に会いに来てね。妹の鯛子も和也君の事待ってるわ〜ん」
とか言って、ずっと一人で喋っていた。僕は可笑しくて可笑しくてしょうがなかったけれど笑うのを我慢して、
「サバ子ちゃんの事、忘れてないよ」
とか、無茶苦茶な事を言って彼のお遊びに付き合ってあげた。彼はとても喜んで、時折地声に戻りつつも話を続けていた。
あの頃は本当に楽しかった。
僕も深海君もずっと笑っていた。
僕は平穏な毎日を送っていた。
数学の授業で教師に当てられ困っている深海君を助けたり、午後の授業をさぼる彼の教科書に、テストに出そうな部分を蛍光ペンでアンダーラインを引いておいたり、そして時々かかってくる深海君の悪戯電話に付き合ってあげたりしながら日々をすごした。
深海君の友達は幅が広く…と言うか、彼は誰とでも分け隔たり無く友達になるので、彼の側にいる僕も自然に友達が増えていった。今まで怖くて話し掛ける事ができなかった生徒でも、話してみるととても気の合う生徒もいた。深海君に手紙を渡してくれと女生徒から頼まれた事もあった。そしてその彼女の想いを、非常に上手く断っている深海君を見たりした。
僕の世界はどんどん広がっていった。
毎日学校へ行くのが楽しく、そして毎日が新鮮だった。
そして事件が起こった。
10月の初めのある日、僕は生まれて初めて恐喝されたのだ。そんな事現実の世界ではありえないと思っていたのに、本当に恐喝された。
書店で参考書を買って街中を歩いていると、4人組の同年代の男の子達に囲まれたのだ。僕はそれだけで怯えてしまい、路地裏まで引き摺られた時はもう足が震えて相手の顔もまともに見ることができなった。財布を要求されると、急いで鞄から財布を差し出した。彼等は中身を取り出し財布を捨てると、僕に暴行を始めた。
生まれてこのかたそんな暴力行為とは無縁だった僕は、サンドバックのように殴られ蹴られ、唇が切れて胃のものを吐き出しながら汚物で汚れた路上に蹲ってそれに耐えた。
自分の胃液の匂いがした。
音が、地面と僕の身体が擦れる音や彼等の足音や表の道路を走る車の音、それらが大きく聞こえた。僕は耳に入ってくる様々な音を聞きながら、黙ってきつく目を閉じていた。腕で頭を覆いながらも割れた眼鏡で顔を傷付けた。
僕はされるがままだった。
殺されるのかと思った。
彼等が去った後も僕は怖くて起き上がる事ができなかった。じっと静かに耳を澄ませ、近くに誰もいないのを確かめ、それからゆっくり身体を起こしてみるともう一度胃のものを吐いた。全部吐いてしまっても、口の中に溢れる血を飲み込んでしまうとまた吐き気がやってきた。僕は唾液を垂れ流しながら鞄を引き寄せ携帯をだして、いまだに震えている自分を見ながら深海君に電話をした。
「岸辺!」
深海君が来てくれるまで、僕はただ蹲って座っていた。日が落ちて街灯りが点いていた。
深海君は僕の元に走りよってくれて、そして僕の身体を念入りに調べて、身体はどこも骨折していないだろうし内臓も傷ついてはいないだろうと言って安心させてくれた。それでも一応病院へは行ったほうが良いと言われたのだけれど、僕はどうしても事を荒立てたくはなかった…つまり誰にも自分が恐喝されたなんて知られたくはなかったし、とにかく深海君以外の人間と喋りたくはなかったのでそれを拒否した。深海君が大丈夫と言うのなら僕の身体は大丈夫なのだろう。
「岸辺、相手はどんな奴等だった?俺がリベンジしてやる」
深海君の言葉に僕は何故かとても嬉しくなった。
「気にしないでよ。僕はもう平気」
「俺は平気じゃねーよ」
「でも僕は事を荒立てたくない」
深海君は不満そうだったけれど、その表情がまた僕を喜ばせた。こんな時にこんな事を考えているのは変な感じがしたけれど、深海君の言葉は本当に嬉しかったんだ。
それからそのまま深海君の家に連れて行ってもらった。身体中が汚れていたので浴室を貸してもらった。
僕の両親も暴力と無縁の場所で生活しているから、今回の事を話すのが心配だった。母親は大騒ぎするかもしれないし、父親は警察に訴えるかもしれない。
それに、恐喝された事を口にするのは考えただけでも辛かった。
「深海君。僕の痣はすぐ消える?転んだって言っても両親にバレない?」
救急箱を探してくれている深海君に訊いてみた。
「痣はすぐには消えない。両親にはちゃんと言った方が良いぞ。その痣は転んだなんて言い訳は通用しないだろうからなぁ」
深海君はてきぱきと僕の顔の傷を消毒し治療をしてくれる。深海君と一緒にいても、僕はまだ思い出しては震えていた。
深海君は僕を抱き締めてくれたけれど、僕はなかなか震えが止まらなかった。
あの時に聞いた音。
道路の音。誰かが僕を蹴る音。自分の吐いたものの匂い。
僕は深海君にしがみ付いていた。
「今日、ここに泊まらせて欲しい」
深海君は良い匂いがする。それは香水などの匂いではなく、もっと自然な匂いだ。
「いいぞぉ。でもお前、ちゃんと親に連絡しろな」
「うん」
僕は素直に答えながら彼の部屋に泊まれる事を喜んだ。
それから僕は家に電話をし、少し変な奴等に突然暴行されて少しだけ怪我をしたと話した。母は驚いて僕の傷を心配し迎えに来ると言ったが、僕は電話を父に換わってもらい「今日は深海君のアパートに泊まるから、来ないで欲しい」とだけ言った。父は了解してくれた。深海君は僕の両親に好かれていたし僕も今まで大した我儘を言った事がなかったので、父は僕の突然の外泊を意外な程すんなりと許可してくれた。もしかしたら僕の状態や気持ちを察知してくれたのかもしれない。
電話を深海君に渡すと、彼は父と少し話をしていた。何の話かは分からなかったが、多分ただの挨拶と僕の身体の話だったのだろうと思う。
その夜は何も食べられなかった。
深海君が作ってくれたお粥を少しと、麦茶を少し飲んだだけだ。
「お前、今日の夜に熱出すかもしれないなぁ」
深海君が自分のご飯を食べながらそう言った。
「何で?」
「お前の身体がビックリしてるから。いいか岸辺。頭ヤラれてないから大丈夫だとは思うが、もし吐き気がしたら絶対言えよ」
僕は頷いて彼が作ってくれたお粥を食べた。残したくはなかったけれど、どうしても喉を通らなかったので随分残してしまった。それが気になってしょうがなかったけれど、彼は意外にも「頑張って良く食べたなぁ」と笑って頭を撫でてくれた。
そして、僕はその夜本当に発熱した。
頭が痛くなって、また嫌な音と匂いを思い出した。
誰かが僕を蹴っている。僕は身を竦めているけれど、お腹に背中に腕に足に激痛がする。その度に嫌な音がする。
自分の呼吸の音や蹴られる度に顔を擦るアスファルトの音。それらが大きく頭に響く。
僕の身体が悲鳴を上げる音がする。
「大丈夫か?」
真剣な深海君の声。
彼のこんな声を聞くのは初めてだ。
僕はその声の方に手を伸ばす。
目を開けると深海君が僕を心配そうに見ている。
僕は彼に手を伸ばし、その顔を触ってみる。
深海君が僕の身体を擦ってくれた。その手が心地良くて、僕は目を閉じた。
夢うつつでも、深海君が何度も夜中に僕の世話をしてくれたのを覚えている。
翌日、目が覚めれば熱は引いていた。
僕は朝早くから営業しているメガネ屋に行き、新しいメガネを買って深海君と一緒に学校へ行き、その痣でクラスメートを驚かせた。僕の顔は酷く腫れていて、眼鏡で切った傷があったんだ。教師に何があったのか尋ねられたが、勿論僕は何も言わなかった。
恐喝された事は、深海君しか知らなかった。
昼休みに深海君は僕を誰もいない屋上へ連れて行き、喧嘩のイロハを教えてくれた。
「やられっぱなしの場合、一番やっかいなのは相手が味をしめちゃう事なのよぉ」
深海君は僕を座らせ、軽い口調で話し掛けてくる。僕が黙っていると話を続けた。
「つまりね、岸辺がそいつらとまたどっかでバッタリ会っちゃうとするじゃん?そうすると、そいつらにはもう岸辺はお財布に見えるわけよ。お財布が歩いてるように見えるの。だからね、俺は岸辺にそれを回避する方法を伝授しちゃおうってわけ」
「僕は喧嘩なんてできないよ」
「喧嘩なんてしなくてもいいんだ。喧嘩なんてできるだけしない方が良いし。それにそいつらだってタイマンだったら怖いんだよ。本当だ。そんなもんなんだよ。ただ味方が多いと人間は気が大きくなるしさぁ。んで、喧嘩になったら逃げるが勝ちって事を言いたいわけよ」
「深海君も喧嘩は怖い?」
「最初は怖かった。今は慣れたけど」
「本当に怖かった?」
「怖かったよぉ。殴り合いなんてできなかったもん。ただ相手に掴み掛かって、ワーワー言いながら手足バタバタさせてただけ。皆ね、漫画なんかで出てくるようにピンポイントでパンチ当てて相手の倒せるわけじゃないよ。そんなんできるのは相当強いボクサーや毎日巻き藁100回くらい突いてるような空手家だけさ。あとはよっぽど喧嘩慣れした奴とかね。とにかく普通は喧嘩なんて怖いと思うよ。俺だって怖かったもん。こりゃ駄目だと思った時は良く逃げたしな〜」
僕は深海君の話を聞きながら、彼をとても遠く感じた。深海君の話は気取ってなくて本当なら身近に感じるはずだろうに、それでも僕には遠く感じた。
「僕は逃げることもできないよ」
「逃げるのにはコツがいるんだ。そのまま走って逃げても絶対捕まるからな。要は最初に相手の虚をつくのが大事なんだ。その辺にあるモノを使うのが一番良いと思う。棒でも何でも良いから、相手に向かって突く。石の場合は投げれば良いけど、棒や傘の場合は投げるんじゃなくて突くのが良い。自転車があればそれを相手の方に突き飛ばすと効果的。そんで大声上げながら人ごみの方へ全速力!でももし周りに何もなくて人影もなかったらね、例えば――」
深海君は突然僕に何かをした。新しいメガネが少しずれる。何が起こったのか早すぎて分からなかったけれど、僕は一瞬の内に身体が硬直してしまった。
「…な、なにしたの?」
「目打ち」
「僕は他人の目なんか絶対狙えない!」
そんな恐ろしい事できるわけない。
「目を狙うのは確かに勇気がいる。でも裏拳状に手の甲でビンタするのは効果的だぜ? 速いから普通の奴はまず避けられない、痛くなくても一瞬目をやられると大体パニックになる。相手も大怪我しないしね。こう、手首のスナップでパシッとはたく感じ」
深海君は僕の手を取って色々教えてくれたけれど、例え相手が怪我をしないにしても他人の目を狙うなんて僕には絶対できないと思った。
「やっぱりできないよ」
「ん〜。だったらね、殴られそうになったら頭出せ」
「頭?」
「そう頭。額は堅いから運が良ければ相手の拳が壊れる」
「それも怖いな…」
言ってから、僕は自分の意気地のなさに呆れてしまった。
でも深海君はそんな情けない僕を軽蔑する事なく、その他にも色々教えてくれた。
「いいか岸辺。今度そいつらに会っても、絶対財布は渡すなよ。どうしても駄目な時は財布の中身を取り出してばら撒いてやれ!」
「お札をばら撒くの?」
「そう。そんなに欲しいのならくれてやるもんね〜って感じでばら撒いてやれ。そうするとちょっとは気がスッキリするぞ」
「ふざけるなって殴られそうだよ…」
「勿論殴られるの覚悟でやる」
「無理だ」
「無理じゃねーよ。そんなこんなしてるうちに、俺が正義のヒーロー宜しくお前を助けに行ってやるさ〜。それとな、岸辺。今度お前がヤラれたら、お前が何を言おうが俺はリベンジキメてやるからな」
深海君はそう言って僕を見詰めた。
僕は深海君のその言葉だけで胸が一杯になった。
家に帰ると母が大騒ぎをした。何があったのかしつこく訊かれだけれど、僕は「知らない人達の喧嘩に巻き込まれた」と嘘を吐いた。母は思ったよりも酷い僕の身体を心配し、大学病院に連れて行って精密検査までした。父は最期まで何も言わなかったが、心配そうな目で僕を見ていた。
病院から帰ると、僕は昨日の分までご飯を食べて両親を安心させた。必要以上に明るく振舞い、深海君の話をして両親を和ませた。彼はお粥を作ってくれたけれど、その「深海粥」はお粥の割には余りにも沢山の具材が入っていたとか、深海君は何故だかそのお粥の中に一味唐辛子をかけて食べていたとか。そんな些細な話だったけれど、父も母も笑いながら深海君の話をする僕に安心した様子だった。
夜になると僕は自分の部屋に戻ってベッドに入った。
目を閉じればすぐに浮かび上がってくる自分の血と汚物。
僕を蹴る彼等の笑い声。
嫌な音。
アスファルトと砂利が擦れる音。僕の呻き声。
胃酸の匂いと血が混じった匂い。
彼等の笑い声。
自分が殴られる音。
何故だか分からないけれど、その時感じた痛みよりもその時聞こえた音と匂いの方が幾度となく繰り返された暴行のイメージとして強烈に残り、そしてそれに僕はガタガタと震えるほど怯えた。
「深海君…」
僕の口から出たその名前は、1つの呪文。
僕の友達。僕の本当に素敵な友達。
「深海君…」
彼の名前を呟いていれば、嫌な音は聞こえない。
思い出せ。僕の彼の声を、笑顔を、僕を呼ぶ彼の声を。
「深海君……」
僕は眠りにつくまでずっと彼の名前を呼び続けた。
それから数日後、僕は本当に彼等に会った。会ったというか、待ち伏せされた。
僕が通う学校は送り迎えをしてもらっている生徒が多いが、僕は電車で通っていた。そして、学校と駅の中間地点で僕は彼等に捕まった。今度は前回よりも人数が多かった。彼等は僕の財布の中身から僕の学校を知ったらしい。この学校は私立の有名校だったので、彼等にとってみれば僕は絶好のカモに見えたに違いない。
僕は深海君に教えてもらった事など全部忘れていた。周りを見渡して役に立つ物を探す余裕なんてなかったし、それ以前にそんなことすら頭に浮かばなかったんだ。足に力が入らなかったから、逃げる事もできなかった。
僕は人気のない場所まで引き摺られるように連れて行かれ、お金を要求された。
そして僕はその時初めて深海君の笑顔を思い出した。
彼の笑顔は人を包み込み活力を与える優しいものだった。それと同時に、誰よりも力強く自信に満ちていて何もかもを鳥瞰しているように見えるものだった。
それは僕にとって凄く憧れるものだった。
深海君はいつも格好良い。
僕の動きが止まると、彼等の1人が僕を軽く殴った。僕は慌てて鞄の中から財布を取り出す。
深海君はいつも格好良い。
でも僕はいつも格好悪い。
深海君の友達である僕が、こんなに惨めな人間で良いのだろうか。
もし僕が苅田君だったらば、彼等なんてあっという間に倒してしまえるのかもしれない。いや、それ以前に彼等は苅田君には恐喝などしない。もし僕が芳丘君だったらば、この状態を上手く切り抜けられるだろう。
僕はふいに、自分が誰よりも何よりも情けなく感じた。僕は震えながらも、自分の醜態に反吐が出そうだった。自分のこの、震えながら財布を握り締めるこの手を、ズタズタに切り刻んでやりたいと思った。そしてそれすらもできないのなら、せめてこの震えを止めようと全身の力を込めて財布を握った。
「お金が欲しいなら…」
アスファルトの地面は、煙草の吸殻や誰かが吐き捨てたガムが付いていてとても汚い。僕はここでまた蹲るのは嫌なんだ。だって僕は、深海君の友達だもの。
彼等を見ることはできなかったから、僕はただ俯いて言葉を続けた。
「…働けば?」
それからはただ暴力だけが僕を待ち受けていた。
僕は酷く殴られ、蹴られ、途中からは何をされているのかも分からない程だった。でも僕は財布を握り締めるこの手を死守した。
これは僕の中で一番大切な物。これを取られたら、僕は深海君とは一緒にいられない。
深海君はいつも格好良い。
僕はそんな深海君の一番の友達で、深海君の理解者だ。
僕はこの手を、この手の中身を死守しなければならない。
「――岸辺」
どれほど殴られたのか分からない程殴られた頃、遠くの方から深海君の声が聞こえた。本当に深海君が来てくれたのだろうかと思うと、僕は嬉しすぎて笑いそうになった。実際笑っていたかもしれない。でも僕は目を開けたくても開けられない状態だったから、ドキドキしながら彼が本当に来てくれたのかどうか耳をすませた。
「岸辺!」
深海君の声が近くで聞こえる。
「テメー等何してんだッ!」
激しく物がぶつかる音がした。
僕はもう怖くなかった。恐怖の時はとっくに過ぎ去り、今はただ深海君の事を考えていた。彼が来てくれたからもう大丈夫。彼は格好良いもの、もう平気。
彼等の怒号が聞こえ、僕はゆっくりと重い瞼を開ける。狭い視界のだったけれど、それでも目の前に道路が真っ直ぐ伸びていて、横向きに電柱が見えた。僕はいつの間に倒れたのだろうかと、そんな事をぼんやり思った。
ドシッと物音がして彼等の1人が僕の前に蹲る。彼は真っ青な顔をして胃のモノを吐いた。深海君の姿が見えない。
…深海君
呟こうとしても、口を開ける事が出来なかった。彼を探そうと動かない身体に力を入れる。もうどこも痛くなかったけれど、頭と顔と身体全体がジンジンしていた。
深海君は彼等を相手に1人で喧嘩をしていた。それなのに深海君はまるでテレビや映画の主人公のように彼等を叩きのめしていった。正直に言って、それはまるで現実感がないような動きだった。彼等は深海君に倒される為に呼ばれたエキストラのようであり、深海君は本当にこの世のものではないヒーローのように見えた。
彼等の1人がナイフを取り出し、深海君に切りかかるのが視界に入る。
それでも深海君はそれを交わし、どうやったのか僕には分からないくらい素早く動いてそのナイフを取り上げた。深海君は凄かった。余りの凄さに、僕は今の状況を忘れて彼ばかりを目で追っていた。自分が映画のヒーローをドキドキしながら応援している子供のような気がした。
相手が最後の1人になり、その1人がまたナイフを持っていた。深海君は瞬時に隣の塀に飛び乗り、振り返った相手の頭を上から思いっきり蹴りつけた。最後の1人が勢い良く道路に倒れ込む。それでこの映画のような喧嘩は終わった。
塀の上に立っている深海君の後ろには夕日があり、彼の美しい姿を照らしているのが見えた。
影になっているが、深海君の表情は見える。深海君はいつもの優しい深海君ではなかった。
彼は自分が叩きのめした人間を、僕を、そして世界中の人間を見下ろし、誰にも辿り着く事ができない嶺雲に気高く存在している。それは眩しいほど崇美で僕は感動すら覚える。
そしてその時、僕は深海君を本当に理解した。
深海春樹は弧高の獣。
それは誰にも手の届かない場所で生きていて、僕達を見下ろしている。美しき獣は僕の友達でも何でもない。深海君は…彼は僕等普通の人間とは違う世界で生まれ、僕等普通の人間とは違う空気を吸って生きて来た。
深海春樹の元へは、誰も辿り着けない。
僕が呆然と彼を見ていると、深海君がトンと塀から降りて僕の側まで来る。その表情はもういつもの彼の優しいものだった。
「岸辺、大丈夫?」
僕は何も言えなかった。本当はありがとうと言いたかったけれども、口が痺れて動かなかったんだ。
「遅くなってゴメンな。救急車呼ぶから待ってて」
深海君が僕のすぐ側まで来る。
彼の後ろにはやっぱり夕日があって、深海君の影が僕を覆った。
僕は彼の影に抱かれながら、ずっとこの美しい獣を見ていた。
そして僕はやっと気が付く。
僕が君に恋をしていると。
誰も届かない場所で生きている君に、僕は恋をしていると。
それは僕の心に浮かび上がった途端に、泣きたくなるような絶望感で僕を完膚無きまでに打ちのめす。
美しき孤高の獣の元へは誰も辿り着けない。
それなのに、僕は君に恋をしている。
君に恋を。