第3章 太陽の中に
昼休みの屋上は俺と永司だけだった。苅田は4限目が始まる前にどこかへ行ってしまったし、緋澄は教室で眠っていた。たまにここへ顔を出す他のクラスのヤツも今日は誰も来てない。
空は随分適当な青だった。神様が朝食の食パンにバターを塗ったついでに片手でささっと空を塗ったに違いないと思われる。それでいて、きっと神様のテーブルには食パンのパンくずがちょっと落ちているんだ。
「あのね」
煙草に火を点けて、隣に座っている永司を見ないまま俺は話を始める。
「一度ちゃんと話し合った方が良いと思ってさ。先送りしようと思ってたんだけど、一人で考えても限界があるし、お前が話してくれればそれで済むことのような気もするし」
永司は動かない。俺の隣に座ったままピクリともしない。
「2月の始めだっけ。お前とセックスしたことは覚えてる。俺たちがガッコー行かずにダラダラしたり猫が箱の中に入って寝てたりした日だよな。んで、俺の記憶はあそこから一気に2月後半へぶっ飛ぶ。お前のマンションで目覚めて俺が逃げた日。その間の記憶がないんだ。いや、お前ともう狂ったようにセックスしてた記憶はあるんだけど、それってなんか違うみたいだし」
喋ってるだけでウンザリしてきた。何にって、話のややこしさに。
「違うと思うのか」
「違うと思う。俺はそうなような気がするんだけど自信ない。ってゆーかホントはよく分からんの」
「だったら俺のところに戻って来たら?」
よく言う。
そう思いながら永司を盗み見しようとしたら、思いっきり目が合った。
「とにかくひとつひとつ話を片付けよう。お前、あの間俺に何してた?」
俺の良くない癖のひとつで、本当はもう何もかもがどうでも良くなってきてる。でも、ここでうやむやにしたらダメだってことも分かってる。
煙草の灰を指先で弾いて落とし、俺は大きく深呼吸してから改めて永司を見た。永司は曲げていた足を伸ばし、わざとらしいほど無表情で俺を見ている。
「覚えてない」
永司の言葉にちょっと笑った。それは予想してなかったから。
「悪いけど、もう一回言って」
「覚えてない」
永司は視線を逸らさない。真っ直ぐで決して浅くない、なんて良い瞳だろうと思う。
「嘘だ」
「本当」
「いや嘘だ。俺、嘘分かるから」
「ただの勘だろ」
「その勘が良いの。知ってるはずだけど?」
永司の嘘を見抜くのは難しい。でも俺はこの時、絶対に嘘だって確信していた。
「あのさ。自分以外の誰かとずっと一緒にずっと仲良くしていくには、会話って欠かせないものだと思うわけ。言葉が足らないと誤解が生まれるし、そういう誤解って一度生まれると面倒臭いことになるじゃん? ほら、ドラマとかでもさ、男と女が言葉が足らなくて誤解しちゃって仲がこじれるシーンって必ず一回は出てくるだろ。俺はさ、あーゆーの見る度に『話し合えば済むことじゃん』って毎回突っ込み入れちゃうんだけど、実際そうだと思わねぇ? それと一緒でさ、俺もお前もちゃんと会話を重ねていけばそれで済むことだと思うわけだよ」
永司は少し笑いながら俺を見ている。絶対に視線を逸らそうとしないその態度に少し苛つきながら俺は話を進めていく。
「お前が何しててもそれはもう終わったことだし俺は何も言わない。問題はそっからどーするかってだけなんだし」
「問題なんて何も無かったとしたら? 春樹があると思い込んでいるだけで」
それも予想外の返答だった。なかなか面白い。
「真田を利用してるんだろ」
「何それ」
「お前、朝アイツにケリ入れられたろ」
「ああ。アイツ何か言ってたな」
永司はまた少し笑った。余裕綽々といった感じで俺から目を逸らさない永司は、ずっとずっと切羽詰ってた俺の知っている永司とは別人のように見えた。
本当に別人なのかもしれないと少し不安になったくらい。
「まぁいいや。とにかくお前、ホントに覚えてないんだな?」
念を押すと永司は頷く。俺はひとつ息を吐き言葉を続ける。
「だったら、二人揃って病院に行こう。だってそれって普通に考えてオカシイだろ」
「必要ない。別に困ってないし」
「困ってる困ってないの問題じゃないだろ。それとも何か不都合なことでもあるわけ?」
「ないけど、メンドーだろ」
絶対に視線を逸らさず嘘を吐き続ける永司を見て、やっぱり違和感を覚えた。本当に別人になったみたいだ。
「それほど言いたくないのか」
俺は小さく呟いた。永司がここまで頑なになるにはそれだけの理由があるのだろう。それは俺を記憶をぶっ飛ばし、永司に鍵を飲み込ませ、それが全部俺の幻覚になっちまったくらいなんだから。
「まぁ別に良い。良いことにしてやる」
俺はニッコリ笑って永司の手を取り、それを自分の頬に当てた。永司の手は隠そうともしない強烈な意思を運んでくる。
「どうも有り難う」
永司もニッコリと笑った。自分の感情が俺に伝わっていることを知っている上で、わざとらしく俺を見据えながら。
どんな理由があるのか知らんが、真田はあれから毎日俺のおんぼろアパートへ遊びに来るようになった。遊びに来るというか、泊まりに来る。お泊りセットまで持ち込んで来る始末だ。俺は永司と普通に接し、学校では問題なく、肉体関係どころかキスすらしない、性別の問題を除けば清く正しい恋人関係を続けていた。永司は早く仔猫を見に来て欲しいと言ってきたが、俺はとてもじゃないが一人で永司のマンションに足を踏み入れる気にはならなかったのでのらりくらりと適当に返事をしておいた。一度真田を誘ったが、真田も嫌がったんだ。
学校が春休みになると授業日数が不足していた俺と真田は…まぁ真田はほとんど成績の問題みただけど、とにかく補習を受けることになったが、いつの間にやらドーラビーラとやらに行っていた暁生も呼び戻されいた。
暁生は帰国すると、すぐさま人懐っこいノラ猫みたいに俺のおんぼろアパートに住み着いたんだけど、これは俺が餌付けをしたんじゃなくて真田のせいだ。真田が俺の部屋にいるから、暁生も来るんだ。
永司の猫が子を産んだことを話すと暁生はこれ以上なく喜び、俺と真田を誘って永司のマンションへ押しかけた。この時何故か真田は嫌がりはしなかった。
久し振りの永司の部屋は何も変わってなかった。バージニアのストックとビールのストック、麦茶のストック。CDラックの一番上は右からパット・メセニー、レッド・ツェッペリン、サンタナ。その下もその下も順番は変わってないし、俺の部屋みたいになってた8畳の部屋には相変わらず赤色に塗りたくったRX78−2がある。俺の服もクローゼットにかかってるし、キッチンには俺のクマさんコップもちゃんとすぐに使えるように置いてある。そこは何も変わってない、俺と永司が生活していた部屋だった。
永司は知ってるんだ。俺のことなら何でも。俺の好きなゲームソフト会社も俺の好きな作家も、俺の好きな肩掛け鞄の生地だって俺の靴底の減り具合だってきっと何でも知ってるんだろう。こんな状態のこの部屋を見て俺がどれだけ泣きたくなるのかだって、きっと全部分かってる。
黙っていたのは俺と永司だけで、暁生と真田はかわるがわる仔猫を抱いてずっと興奮していた。仔猫は一匹で、母親の血をそのまま受け継ぎ真っ黒な猫だった。違うのは性格で、気難しい母親と正反対でとてもやんちゃで人懐っこいみたいだ。俺も少しだけ撫でてみたけど、本当にフワフワで触るのが怖いくらいだった。
その日は結局いつものメンバーが揃った。皆で仔猫を囲み、仔猫が何かする度にその仕草の愛おしさを楽しんだ。仔猫の名前を考えたが、最後まで決まらなかった。こんぺいとうは暁生にベッタリなので今回も暁生に決めさせようという話にはなったものの、暁生のネーミングセンスはイマイチで、結局どれもボツになったのだ。
夜が更けても俺は眠らなかった。永司も。俺は朝まで大きな氷と少しだけブランデーの入っているグラスを眺めて時間を潰し、永司はそんな俺を見て時間を潰した。
「嘘が分かるのは良い。正直便利だと思うこともあるし。人の感情が読める力の方は時々凄く疎ましく思う。だってそんなの分かったって俺にはどうしようもないし、大体よっぽどの感情じゃない限りちょっとしか分からないから。でもさ、この力がお前にあれば良いのになって思うんだ。俺がどれだけお前を愛してるのか分かってもらえるから」
口にしてから「ああ、これじゃまた『分かってる』『分かってない』って話になるな」って思って後悔したけど、永司は何も言わなかった。
永司は確かに何でも知ってるし分かってくれてるんだけど、なんか、どうしても大事な所…今俺達が抱えてると思われる複雑に入り組んでる物事の根本が、俺とずれてる気がする。
「箱ある?」
グラスから視線を上げて訊ねると、永司が頷いて寝室から木箱を持ってきた。
「鍵は?」
「ない」
「何で?」
「知らない」
この会話は予想通りだった。
真田と暁生が俺の部屋に入り浸りな状態はずっと続いた。
俺は真田が最近日本酒よりもビールよりも焼酎を好きになってきていることや、幾ら人参を多くやっても「わらわの人参が少ない」と文句を垂れること、風呂に入る時は風呂場のドアを開けっ放しにすること、人前でも平気で真っ裸になること、寝る前にいつの間にか持ち込んでいた山の写真集を眺めること、絶対にニュース番組を見ないこと等を知り、暁生に関しては、慣れているのか真田のオールヌードを見ても平気なことや地球儀や世界地図を見るのが好きなこと、真田と喧嘩をする時は絶対に力加減をしないこと、喧嘩の最中は本気で真田にブチギレしてること、アルコールが入ると機嫌が良くなること、カップヌードルにトマトジュースと少しの水を沸騰させたモノを入れて食べることを等を知った。
真田と暁生は仲の良い本当の兄弟みたいだった。いつか暁生は俺に「俺と真田はお前と岬杜と同じくらい仲が良い」と言ったことがあるけど、それは違うと思う。村上春樹と村上龍くらい違うと思う。いやになるくらい。
何故か入り浸りの暁生と真田だが、いつものように我侭全開ではあるものの俺の部屋で何かとんでもないことをやらかすわけではなかった。困ることは、真田がドアを開けっ放しにして風呂に入るので毎回脱衣所がビショ濡れになることや、暁生が一度鍋にまだ半分くらいカレーが残ってたのにそれを捨てたので、俺が「明日温め直して食べるつもりだったのに」と言ったら、それからどんな僅かな食べ残しでも俺が見ていない隙にそれらを全部冷蔵庫の中にブチ込んでしまうというヘンな癖がついてしまったことくらいだ。まぁこの二人が喧嘩を始めるとモノが壊れることもあったが、基本的に喧嘩が始まると二人とも揃って外に移動してくれたので助かった。これは「深海の迷惑になるから」と二人が思っていたわけではなく、「部屋が狭すぎて喧嘩しにくい」という理由のようだ。
時々暁生に誘われて俺もバトルに参加をした。暁生と真田の喧嘩のはずなのに、いつの間にか暁生真田チーム対俺という構図でヤってたこともあった。一人ずつならまだしもこの二人が一斉に殴りかかってくるわけなので、当然関係ないはずの俺が気がついたら一人でブッ倒れてたこともあった。
ともかく日がな一日俺は真田と暁生のお守りをしながら好き勝手に日々を過ごしたのだ。
一度本を読んでいたら暁生が興味を示してきたので、二人に読んでやったことがある。ロバート・N・ペックの「豚の死なない日」はこの二人の心に触れたらしく、俺が途中で止めようとしても「続きを読め」と最後まで五月蝿かった。真田はロバートの父さんがいかに素晴らしいかにとことん拘り、読んだ後もロバートの父さんに対しての賞賛を俺に言わせようとムキになっていた。暁生は途中までは元気で事ある毎に「全くだ」とか「それはオカシイ」など感想を口にしていたが、最後はずっと黙っていた。
その翌日に「星の王子様」を読んでやったら、二人は目を輝かせ完全に話に集中し、そして俺が読み終えると口々に感想を言い合っていた。
本を読んでいる最中、暁生と真田は小さな子供そのものだ。俺はお前等の母ちゃんか、とは思ったもののかなり楽しい時間を過ごした。本を読んでいる最中、永司のことを思い出したりもした。永司がここにいたら永司も黙って聞いていたのだろうな、と。
4月になる寸前に暁生が俺のDVDを漁り「時計仕掛けのオレンジ」を観賞してから、暁生と真田の間でトルチョックが流行った。3人で何気にフラフラと歩いている最中、俺が料理をしている最中、暁生が寝ている間、真田が欠伸をしようとした瞬間、どんな時でも何をしている時でも隙を見せると、どちらかが「トルチョック!」と言って蹴りをかましてくる。もしくは殴ってくる。暁生と真田は脳味噌容量3キロバイト程度のバカ中学生のように何にでもすぐに影響を受ける。悪い影響も良い影響も全く同じように受け、同じ気持ちでそれを楽しむ。
暁生はいつも分かりやすくどんな時でも真っ直ぐで気持ちが良く、真田は時に男子中学生のようであり時に俺の知らないタイプの大人の女のように見えた。
我侭だが気心の知れた真田と暁生と時間を過ごすのは悪くないと、今まで永司とベッタリだった俺はそう思った。永司は今頃俺のことを考えているだろうと想像する時もある。俺をオカズにオナニーでもしてるかもしれんと考えると、ちょっと笑えたりもして。
高校3年になる前夜、俺は夢を見た。
まるで住んでいた住人が自殺をしてそのまま誰も訪れずに何十年も経ってしまったかのような薄汚く光の入らない澱んだ空気で溢れる部屋の中で、真っ黒い壁に向かって俺は誰かと話しをしている。それは最近観た映画の話とかどこのメーカーの缶珈琲が美味しいかなんて類の話じゃなくて、うんざりするくらい重苦しい話だった。例えば、誰それが死んだとか、その死にどんな意味がありその生にはどんな意味があったか、死んだ人間はどんな想いを残しそれは誰に受け継がれたのか、誰も受け継いでいないとすればその想いはどこに行くのか漂うだけの想いにどんな意味があるのか、なんて感じの俺が苦手とする話題。
話はどんどん重くなる。質問に答えられないと、壁の中の人物は物静かな口調で俺を責めたてるように話を進めていく。夢の中で、俺は眩暈を感じた。
ふと見ると、壁の中から生気がまるで無い青白い腕が伸び俺の手首を掴もうとしていた。俺はその腕を力一杯叩き落し、部屋を出て走り出す。夢は真昼間なのに薄暗く人気のない見知らぬ町を、何かの気配に追われて走る悪夢に変わる。
振り向けない。壁の中の人物が追って来ているから。
やたらと長い影を落とす電信柱がある角をひとつ曲がると、真っ赤なセーターを着た真田が立っていた。
「永司が」
俺は足を止め、言い訳っぽい口調でそう言った。真田は何も言わず空を指す。
見上げると、さっきの部屋と同じくらいどんよりとした薄汚い雲の隙間から必要以上に眩しい太陽が現れた。目を凝らすと太陽の中に鳥がいる。
助かったと思った。
夢から覚めると、暁生が俺に寄りかかって眠っていた。難しそうな顔をして眉を潜めギリギリと歯軋りをしている暁生を見て、俺は小さく笑いながらその顎を手で掴んで歯軋りを止めさせた。
一番安心して眠れる場所。それは例えば母親の腕の中、海の中の岩陰、珊瑚の中、台所の隅、棺おけの中、木の上、土の中、葉っぱの中。その生き物の種類によって、いや個々の生物によってそれは様々だ。そして俺にとって一番安心して眠れる場所は、今現在に限り暁生の隣だと言える。それは認めたくないが本当のことなのだ。
歯軋りを止めてようやく静かに眠りだした暁生を眺めていると無性に永司と話をしたくなった。桜の花について、絶望について、ライ麦畑にいる子供について、カタツムリとウサギを殺す子供について、ジョン・レノンについて、セックスについて、世界の共有について。
問題は山積みのままでも、きっと俺はこうして生きていける。
でも、お前は?
そう訊ねてみたい。