第2章 何もかも、ひとつひとつ

 目の奥に強烈な閃光が生じ、身体が痙攣した。
 四肢の自由がきかない。
「今日は何する?」
 耳元で聞こえる永司の声がダイレクトに身体に響き、痺れるような疼きがまた蘇る。
「言ってみろ春樹。お前はどんなことされたいんだ?」
 永司は笑っている。性的であり嗜虐的な笑い方。
 射精したばかりの下半身に永司の手が伸び、腹についた精子を指で掬い取るとそれを俺の唇に塗りたくる。それからそれにむしゃぶりつくようにして永司は唇を重ね、精子を舌で舐め取っては俺の口に移してくる。柔らかくて生温い永司の舌の感触と自分が吐き出した精の独特の匂い。
「玩具にしてやる。今日も」
 永司はまだ笑ってる。俺は腰を持ち上げられ、先程まで散々弄られていた部分に永司の性器を埋め込まれる。身体に広がる圧迫感は同時に快感へと変わり、俺は永司に支配される。全部、全部、全部。
「ヘンになる……ヘンに…頭が……ぁ…あ、あっ」
 ヘンになる。全部、全部、全部。
 身体ン中の一番気持ちイイ場所を永司はわざと強く押し付ける。押し付けて、擦って、擦って、擦って。執拗に。
 身体が跳ねた。薄っすらと闇の中に何かが見える。真っ暗なのに、何かが見える。

――――ハルキ

 今まで全く自由が利かなかった自分の身体がその声に反応を示した時、俺は猛烈に永司を抱き締めたいと思った。例えば、死に行く我が子を必死で抱き締めようとする母親のような衝動。
 しかしそこに永司はいなかった。あるのは塗りたくったような闇だけで。
 だったら今俺に口付けしてるのは誰だ。
 俺を抱いているのは誰だ。
 永司はどこなんだ。
「永司ッ!」


「うそ……」
 うんざりするようなアレな夢から覚めた俺を待っていたのは、冷たくてベットリとした…そんでもって下半身が多分ちょっと精子臭い現実だった。
「ってゆーか、うそぉ」
 もう一度言ってから布団を捲って下着を覗く。
「ってゆーか、昨日と同じパターンですよ俺」
 もう何だか本気でガックリしながらというか自分のチンコに半ば呆れながら身体を起こすと、枕元で携帯が鳴った。本当に昨日と同じだなと思いながら携帯を手にし通話ボタンを押す。
「ぶぁーーーーか!」
 真田はそれだけ言うと電話を切った。真田が何を言いたいのかよく分からないけど、きっと俺はバカなんだろう。

 その日、学校では特に変わった出来事はなかった。
 朝学校で永司と会って1限目からシゲちゃんの生物の授業を真面目に受け、4限目の授業はさぼって苅田達と学校近くにあるハゲデブ親爺が一人で切り盛りする「瓢箪」という中華料理屋に行って餃子とマーボー豆腐を食い、昼休みに学校に戻って体育館でクラスのヤツ等とバスケをしてから午後からの授業もキチンと受けた。
 登下校が永司と一緒じゃないだけで、あとは何も変わらない学校生活。俺が約1ヶ月間学校を休んだ理由をクラスのヤツ等には「永司と旅行」だと言っておいたので、俺と永司の間に何かあったと気付いた人間は、世話になった砂上の他に今はどこかに行っている暁生と不機嫌極まりない真田と、多分苅田。この4人だけだと思う。人間は幾らでも秘密を抱えられる生き物のようだ。
 授業が終わり帰宅しようとチャリに跨った時、視線を感じたので後ろを振り返ると今日は一度も話をしなかった真田が同じようにチャリに跨ってこちらを見ていた。それどころか、真田は押し黙ったまま何故か俺の後を付いてきて、結局俺のアパートの階段を俺と一緒に上っていた。
「遊びに来たのかなんだかよく分からんけど、まぁドーゾ」
 朝からずっと、俺らしくないとは思ってた。昨日の真田の一言をずっと気にしてるなんて、真田と少し距離を取りたがってるなんて、俺らしくないと。だからアパートの鍵を開けて振り返った時、俺はなるべくいつも通りの声を出したつもりだったが、真田はやっぱりどこか不機嫌なままでニコリとも笑わず、笑おうともせず、俺の後から部屋にあがった。
 真田がすぐに俺のベッドを独占して熟睡を始めたので、俺は永司に電話をする。さっき別れたばかりなんだけど、それでも着いたよと電話を入れておく。人のベッドを独占した挙句、涎を垂らし鼾までかいている真田を実況しながら少し笑って、今日はどこにも遊びに行かないことを告げて電話を切る。それからメシの用意をし、まだ寝ている真田をそのままにしておいて風呂に入る。風呂から出るとビールを飲みながら脳味噌まっさらにしてテレビを見、メシを喰おうと真田を起こそうとしたが真田は起きなかったので俺一人でメシを食べる。
 すぐ眠くなったのはビールのせいじゃなくて、昨日一昨日とよく眠れなかったせいだと思う。
 とにかく俺は本当に眠くて眠くて、真田が占領したベッドの下にもたつく足で適当に布団を引くと永司にもう一度電話をした。おやすみを言うためだけに。
 本当は、今日こそ聞いてみようと思ってたんだ。いろいろなことを、じっくり。一晩かけてでも。でも俺はリンゴを喰った白雪姫のように眠くなって、今日も何も言えないまま、訊けないまま終わった。


 どこでもないと思う。
 俺も部屋でも永司の部屋でもない。俺が生まれた能登の実家でもないし学校の教室でも屋上でもなく、自分のベッドの中でも昔住んでいたどの家でも母ちゃんの胎内でもない。それなのに身近でとてもよく知っている場所。
 少ししけっている薄紅色の壁には弾力性がありそうな様々な太さの赤い線が縦横無尽に走っており、それが時折音を立てて小さく膨らむ。海の底の音や、狭い場所に水を無理矢理押し流すような音と一定のリズムで低く鳴る何かを叩いているような音が絶えず聞こえる。
 俺はその中でぐっすりと眠っていた。
 その内海の音が消える。すると次第に溶けるように周りが崩れ始め、光が渦を巻くのが見えた。それからその光が伸ばされ一本の線になると光は弾かれるように四方に散っていき、赤い小さな点が残った。今度はそれが大きくなり、次第に緑に変わっていく。それからも様々な色彩が混ざり合い形を変えていった。
 俺はその中で、どこかに墜落するような感覚とどこかに運ばれるような感覚、ゆっくりと浮いていくような感覚、漂流しているような感覚を次々と味わっていた。
 ふと目が覚める。
 すると全ての色彩と感覚は消え去り、辺りは真っ暗になった。
 気配を感じる。
 気配は闇に紛れ、俺の足を捉える。自分の体温より少し低いその手は踝からふくらはぎを上り、腿の内側を撫でていく。
 今日もまた始まるんだ。
 俺がそう思った時、背後から声がした。
「そうやって中途半端だから苦しめるんだ!」


 窓から入ってくる光は街灯だけのようで、薄暗い部屋の中で俺はハッキリしない頭のまま天井を見上げていた。まさか夢が途中で終わるなんて思わなかったんだろうか。見ていたテレビが唐突に一時停止になり、止まってしまった画面をただじっと見ているような感じで俺はずっと天井を見ていた。
「ばーか」
 真田の声が聞こえた。3日連続だ。
 俺は天井を見つめながら、「でも今日は夢精してねぇや」などとどうでも良いことを考えていた。
「お前とホーミングが学校に来なくなってから、私はとても気持ちの悪い夢を見るようになった。何もない作りたての灰色のコンクリート部屋の床にお前は寝ていて、そこにホーミングがやって来る夢なんだ。ホーミングの姿はいつもちゃんと見えなくて…なんと言うか、黒い灰のようにチリチリしてるかと思えば、ブヨブヨしてるようでもあって、腐った巨大な生き物のようでもあって。とにかくそんなホーミングがお前に近付くんだ。ホーミングがお前に近付く度にアイツの身体の一部が崩れて、コンクリートの床にベチョベチョ落ちる。するとそこから虫が生まれて。とにかくミミズとかゲジゲジとかを掛け合わせたような気持ちの悪い虫が一杯生まれる。その内気持ちの悪いホーミングがお前に覆い被さる。
そこで毎回毎回私は『あ、ヒジキが喰われた』って思うんだけど、実際にお前は喰われてないんだ。お前はお前のまんまなわけだ。そんな状態のままなのだが、暫くするとホーミングが酷く悲しみだす。そうは見えないのだが…何せホーミングはどこが身体でどこが顔なのかも分からないような状態だからな…だからそうは見えないのだが、私には分かるんだ。私はアイツが憐れで憐れでしょうがない。何せアイツがあんなに悲しんでいるのに、お前は何も知らずに寝ているのじゃから。
でも、夢から覚めると凄く気持ち悪いんだ。なんというか、怪物みたいなホーミングが私に乗り移ろうとした後みたいで。それに日に日に身体が弱っていくのを感じていた。
毎晩そんな夢を見ていたんだ。ずっと。でもその内夢の中のお前の様子も変わってきた。お前はいつも床の上で死んだように眠っているだけなんだけど、身体にカビのようなものが生えてきたんだ。夢の中で私は、この部屋は窓がないから空気が澱んでいるし湿度も高いのだろうと思っていた。
どんどんカビに覆われていくお前を見ながらどうしようかと思っていたある日、いつも眠りこくっていたお前が初めて目を覚まし、私に手を伸ばして『トリ』と言った。私に手を伸ばしていたがお前の目は私を見ていなかったので振り返ってみようとしたら、そこで目が覚めてしまった。しかし目が覚めてからもう一度振り返ると、そこには遊びに来ていた暁生が眠っていた。
私はその日、暁生を連れて長野に帰った。私の体力が限界に近付く前に、山姫に会おうと思ったんだ。助けを求めに、とは、私の夢についての助言が欲しかったんだ。お前のこともホーミングのことも私自身のことも、全てが気がかりだった。
山姫は酷く興奮していて私はこれといった事は何も聞き出すことが出来なかった。あの女はいつも人の話を聞かないんだ。自分の思ったことをそのまま口にするから話は纏まってないし、時々妙な奇声を上げるし、急に笑い出すし、難しい言葉で喋ることもあれば、キンキン声で何か喚き散らすこともある。でもずっと山姫の言葉に耳を傾けていると、ほんの少しだけ何か分かった気がした。それは言葉には出来ない。でも山姫はホーミングに肩入れしているようだったから、私はきっとお前が悪いんだと思った。
翌日、お前が暁生を求めていたことを思い出した。当たりをつけてまず暁生をお前の母親の元に行ってもらった。そしてお前は暁生に出会えたはずだ。それなのに私の悪夢は終わらなかった」
 真田の独り言のようなやけに長い話はそこで終わった。俺はまだ天井を見つめていて、頭の隅っこで本当はこれも夢の続きなんじゃないだろうかって考えてた。テレビを見ていたら唐突に画面が静止し、その後俺の知らない間に誰かがチャンネルを変えたのかもしれないって。
「言ったぞ。本当のことを、出来るだけ詳しく」
 真田の声に一度だけゆっくりと目を閉じる。そして真田が話してくれた内容を出来るだけ細かく、何も見落としをしないよう慎重に考えた。真田の話はまるで他人事のようだけど、これは俺と永司の話なのだ。いつも自分では何も分からない所で物事が進んでいるように、真田の夢も俺が分からない所で進んでいただけなのだ。
 目を開けるとさっきと同じように天井が見える。
「お前は俺の夢を見ていた。でも俺もお前の夢を見たよ。お前の家の裏手にあるあの神社で、お前が俺に何かを伝えようとしてた夢なんだ」
「そんなの知らん」
 だよな。真田の夢も俺からすれば「そんなの知らねぇ」の一言なんだから。
「今も夢を見てた」
「私も。カビカビヒジキのばっちー夢だった」
「夢から覚める直前、お前は『そうやって中途半端だから苦しめるんだ』って言ったよ」
「知らない。私はただヒジキはバカだと思いながら見てただけ」
 川口さんの見た俺の記憶は、真田が夢で見た俺なのだろうか。でもそんなんだったらきっと俺に言うだろう。第一、カビだらけになってる俺と巨大で気持ちの悪い永司なんてありえない。
 そう考えていた時、一瞬何かを思い出した気がした。引っ掛かりを感じる。
 どこに?
 腐った巨大な生き物?
 それはどこかで見た気がする。いや、見たんじゃなくて感じた。でもどこでだろう。
「なんで俺はバカなわけ?」
「ヒジキはホーミングを見てないから」
 俺は布団を頭まで被り、寝返りをうって真田に背を向けた。かなり本気で真田をこの部屋から追い出してやりたいと思ったけれど、何も言わないことにした。ここで真田にどれだけ俺がアイツを愛してるか力説したってしょうがない。俺がどれだけアイツを見てるのか、どれだけアイツを想ってるのか、どれだけ俺が辛かったのか、どんな想いで苦渋の選択をしたのか。それを言ったって真田にはきっと分かってもらえない。いや誰にも分かってはもらえないことなんだ。
 それにしても、俺の知っている現実と川口さんが覗いた記憶、真田が見た夢。一体どれが本物なんだ。
「山姫はなんて?」
「だから、言葉にはできない」
「ほんの少しで良い。俺に伝える努力をしてくれ」
 山姫は何故永司に肩入れするんだろうか。そう言えば真田の家の神社に行った時、永司が女の人に会ったと言っていた。俺があの悲しいオッサンに出会った時だ。あの時のことを思い出すと、あのオッサンの手を握れば良かったってまた後悔した。あのオッサンのライ麦畑にはきっともう子供はいなくなってたと思うけど、ライ麦畑にいるはずの子供が既に崖から落ちていたとしても、俺は手を握るべきだったんだ。
「山姫は私には聞き取れない言葉を使うんだ。だから上手く言えない」
 その声に脱線していた頭の中を整理し直し、真田に背を向けたまままた考える。
「良いんだ。真田が感じたように言ってくれれば」
「山姫は、ようは。ようはお前が……ここが言葉にはならないんだけど、お前が欠けている、落としている、とかそんなような意味のことを言ってた。あとは、私がヘンな夢を見るのは岬杜永司がやりたいことを上手く出来ないからだって」
 俺が欠けている、落としている。何がだろう。何が欠けていて何を落としているんだろう。真っ先に思い浮かぶのは記憶なんだけど。
「永司は何が上手く出来ないんだ。上手く出来ないことと真田の夢に何の関連性があるんだ?」
「知らない。でもさっきちょっとだけ分かったような気がするけどもう言いたくない。山姫の話を聞くのは疲れるけど、お前にそれを伝えるのはもっと疲れる。私は寝る」
 真田は本当に疲れているようだった。何か言おうと思って布団をめくり上半身を起こしてベッドを見てみると、真田は俺に背を向けていた。話し掛けても無駄っぽいし、俺はまた布団の中に潜りこんで天井を見ながらアレコレ考えた。
 何もかも、ひとつひとつ、全部分からない。全部繋がらない。
「山姫に会いたいなぁ」
「行っても無駄。あの女は私にしか会わない」
 もう寝たと思っていた真田が返事をしたので少し驚いた。
 俺はずっといろんなことを考えていた。永司のことと真田のこと。姉ちゃんの言葉とか、山姫のこと。山姫ってどんな人なんだろうってちょっと思った。前に聞いた伝説の山姫は気難しそうだけど良い人っぽかったし、とりあえず人間が分かる言語で話をしていたようだった。でも真田の話を聞いてると、よく分からない言葉でヒステリックに叫ぶ手におえない女のようなイメージだ。しかし実際どうであれ何で山姫は俺と永司の身に起こっていることを知っているんだろうか。
 それに、何で俺だけ何も分からないんだろ。


 朝、真田に朝飯を喰わせてから二人でチャリに乗って学校へ行った。永司は先に来ていたらしく、教室の窓際で俺を待っていた。そして、俺がおはようと声を掛ける前に真田が永司の横っ腹に蹴りを入れた。今までに見たことがない見事なまでの真田のマジ蹴りであり、真田の隣にいた俺も永司の隣にいた苅田も永司本人ですらも、全く動けなかった。
「私を利用すなっ!!」
 真田の怒鳴り声に教室が静まり返った。
 
 真田はその日の昼に俺を呼び出し、空き教室で少しだけ昨日の続きを話してくれた。真田曰く、永司が何かしようとしているが上手くいかないので自分を使っているとのこと。分かりやすく言うと、真田は永司の力を増幅する何かを持っているらしい。それが何なのか、永司が何をしようとしているのかはサッパリ分からないと言っていた。
「バカでスマンの」
 最後に、真田は何故か怒ったようにこう言った。俺は真田に礼を言い、その場を去った。

 事態はどんどん複雑になっていく。





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