目が覚めた俺の目に飛び込んできたのは清々しいほど良く晴れた空と梅の木に留まっているヒヨドリで、耳に届くはのんびりとした幾人かの人の声。
忍の習性として目覚めと同時に周囲の状況確認と記憶の確認が瞬時に行われるわけなのだが、それによると俺は確か高の国の宿でカカシ先生とちょっと口にし難いあれこれをしていたはずで、その結果ここは布団の上ということになっていなければおかしいわけなのだが、何故空が目に映りこんな間近で人の声が聞こえるのだろうか。
手で目を擦りながら身体を起こすと、寝過ぎた時に起こる気だるさに襲われる。一度力一杯背伸びをして頭を振り、肩と首の関節を鳴らしながら周囲を見渡すと当然のようにここは屋外だった。
見たことがある街道だ。多分高の国に近い砂の国辺りの街道で、その証拠に眼下には砂の国と高の国の文化が混ざった独特の建築物が連なる街が広がっている。
振り返るとここが茶屋の店先だと分かった。俺はこの茶屋の長椅子を独占して眠っていたようだ。目の前にはこの狭い街道をカタカタと音を立てながら荷車を引いている人がいて、店の中ではチャキチャキと働く娘が一人と客が二人、隣の長椅子には薬売りらしき男が一人で静かに茶を啜っている。
「イルカせんせ、おはよー」
お手洗いにでも行っていたらしいカカシ先生が、手拭で手を拭きながら戻って来た。
「はい、おはようございます。状況説明お願いできますか?」
「今は昼過ぎでここは砂の国の北部。さっき国境を越えたところ」
言われなくてもそれは大体分かる。中忍舐めんな。
「大きな仕事を終えたばかりでヘトヘトだった俺は天才上忍様との夜のお勤めの最中に気を失ってそのまま爆睡し、早朝に出発しないと大事な授業に間に合わない〜とか言ってた俺の言葉に貴方が気を利かせて俺を背負い、えっさほいさと運んでくれたのですね?」
「そ」
ニコニコと笑うカカシ先生は俺の隣に座り、店の娘に俺の分の茶と団子を注文した。
俺はここに来るまで一度も起きなかった。自分では意識していなかったが、高の国でかなりの疲労を溜めこんでいたのだろう。そんな俺の状態をカカシ先生は見抜き、足を痛めてるからどうせ背負うことになると言う理由もあって俺を起こさずに移動を開始してくれた。俺はその気遣いに感謝する。この人は本当に優しい人だ。
顔を洗いに行きついでに用を足して戻ると、丁度団子と茶が運ばれて来た。俺はそれを食べながら、縁側で日向ぼっこする爺さんの如くまったりと寛ぐ。
異文化同士が混ざり合う場所が大抵そうなように眼下に広がる街は中規模ながら活気があるようで、遠目に見てもそれを窺える。街の真ん中に流れる大きな河を中心に人々が集まり、生活を営んでいるようだ。ここから先は緑が減り過酷な砂漠が広がるので、旅人にとっても重要な街なのだろう。時間があれば足を伸ばして生徒達や同僚に何か面白い土産でも買って行きたいところだ。
空を見上げると、先程はなかった雲がどこかからやって来て、またどこかに去ろうとしていた。上空には強い風が吹いているらしいが、ここはそれほどでもない。梅の木に留まっているヒヨドリも、俺と同じようにのんびりと囀っている。背後には店の娘が元気に働く声がし。
長閑だ。そして平和だ。
「ねぇイルカせんせ。今回の任務、貴方はいつから国王を疑ってたの?」
そう問われて隣を見ると、カカシ先生が悪戯っ子のような目で俺を見詰めていた。
「最初からですよ」
答えるとカカシ先生は目を大きく見開く。素で驚いているその様子に俺は何となくカチンときた。ほんと、中忍舐めんなよ。
「アンタ自分の単独任務成功率知ってます? 驚異的な数値叩き出してるんですよ? そのアンタが一介のテロリストなんぞの暗殺任務で失敗するわけがない。他里の忍が失敗しても、はたけカカシがそんな任務でヘマをするわけがないんです。だから最初に火影様から話を聞いた時点で、俺は大体のことは見当付いてたんです」
「すごーい」
ぱちぱちと子供のように拍手するカカシ先生が、何となくむかつく。だから俺は大きな溜息を吐き、じっとりとカカシ先生を見据えてこの任務のもうひとつの秘密を暴露してやった。
「良いですか、俺は最初から分かってたんですからね。カカシ先生、アンタ前回の朱雀暗殺依頼で任務失敗とされているのをずっと腹立たしく思ってたんでしょう。だから今回この依頼が回ってきた時、アンタは火影様を脅して強引にこの任務を引き受けた。しかもその時点で既に俺を巻き込むことは確定してましたね? だってアンタの真の目的は、この依頼を今度こそ成功させることではなく、俺に『自分は前回も失敗などしていない』ということを知ってもらうことだったんだから」
拍手が一層盛大になった。頭にくるけど、カカシ先生があまりに嬉しそうなので困ってしまう。俺はカカシ先生の嬉しそうな顔にとても弱いんだ。
「火影様にだってバレバレでしたよその辺りは。何せこの任務を拝命した時、あの方は『頼むぞカカシ』ではなく、『頼むぞイルカ』って仰ったくらいですからね。アンタ最初からぜーーんぶ俺に任せて、俺がこの件を解決するのを高みの見物するつもりだったんでしょ」
「すごい。イルカせんせ、ほんとすごい!」
カカシ先生が目を輝かせて無邪気にそう言うから、思わず可愛いなぁなんて思ってしまった。この任務が始まってから、カカシ先生は本当に可愛い。
「最初、拗ねてたでしょ。俺に任務失敗したって思われてるって勝手に思い込んで、貴方拗ねてたでしょ」
「拗ねてなんてなかったよー」
「思いっきり拗ねてました! 物凄い拗ねてました! どう考えても拗ねてました! 俺の顔すら見ず話し掛けてもろくに返事もしなかったくせによく言う。大体ね、任務失敗したからって俺の貴方に対する評価が変わるとでもお思いか。超絶ド天才上忍様でそこまで美形で優しくて愛しくてミジンコほどの欠陥もなく文句のつけようもない完璧人間のくせに、ああなんか腹立ってきたぞ良かったなアンタどこもかしこも完璧でああ良かった良かった。俺の愛を舐めんなよ、このええ格好しいが!」
「ひっどーーーい!」
酷くない。カカシ先生はええ格好しいである。大体任務をしくじっただけで拗ねるなんておかしすぎる。だったら俺は今まで何度拗ねまくれば良かったのか。俺はあれか。中忍って階級に実力出ちゃってるわけだが、それすらも拗ねなくてはならんのか。なんて馬鹿馬鹿しい。
「大体イルカせんせがさ、俺に触れてもくれないくせに他の人間肩車とかしちゃってさー。他の人間おぶったり肩貸したりしてさー。そゆことするから俺はいじけてたんですー」
俺が悪いとでも言うのか!
いや待て。ちょっと待て。何の話だと記憶を辿ってみると。
「アンタろくに情報収集もせず、ずっと俺の後ろにくっついてたんかい!」
思わず大声で突っ込むと、カカシ先生は悪びれもせずに「初日にちょっとだけ情報収集しましたー」と笑った。この人、今回本当に何にもしてないな。ずっと俺の後を付け回してただけだな。どうせ「イルカ先生はいつになったら事の顛末に気付くんだろう」って心配しながら、「あ、俺以外の人間に触った。おんぶしてあげてる。肩車した。肩を貸してやってる」とかって勝手に苛々してたんだろこの人。絶対そう。もう間違いなくそう。何故なら、俺がカカシ先生を頑ななまでに愛しているように、カカシ先生は俺にひたすら執着しているから。
「仕方のない人だなぁ」
自分がヘマをしたと俺に思われていると勝手に想像して拗ねて、俺が他人に触れたといっていじけて、俺が真相に近付いているのを知ると急に浮かれて上機嫌になった。そんな子供みたいなカカシ先生の頬を俺は優しく撫でる。
カカシ先生は猫のように気持ち良さげに目を細めた。
「カカシ先生、本当は三年前の任務の時に朱雀計画に気付いたんじゃないですか?」
そう問うと、カカシ先生はヘラリと笑って否定も肯定もしなかった。
でも気付いてたはずだ、この人は。はたけカカシは気付いたはずだ。そして、木ノ葉を舐めてもらっては困るという牽制の意味も込めて、前白鴉を殺害した。
カカシ先生の前回の唯一の失敗は、その牽制に相手が気付かなかったこと。
「イルカ先生の手は俺のもの」
人懐っこい猫がそうするように、カカシ先生は俺の手に顔を擦り寄せる。
「そうです。俺の手は貴方を撫でるためにあるのです」
俺は少し苦笑しながら、はいはいよしよしと撫でてあげる。
それから二人で茶を飲み、団子を食い、それも終わるとカカシ先生が俺の足の包帯を取って具合を診てくれた。
鴉に蹴られた右足はドス黒く腫れあがっていて、まだ痛みも引かない。自分の足で木ノ葉まで帰ることは可能だが、正直に言えば体重もかけたくないくらい痛い。俺とて忍なので痛みを耐える術を知っているが、痩せ我慢しても悪戯に症状を悪化させ回復を遅らせるだけなので、素直に「痛いです」と言う。カカシ先生はしゃがんで患部を覗き込みながら、とても渋い顔をした。
運良く隣の長椅子に座っていたのが薬売りだったので、俺達はその人から新しい包帯と塗り薬を購入することになった。医術の心得もあると言うので、ついでに足を診てもらう。
彼は白皙の美人とでも言うか、とても綺麗な人だった。すらりとした長身はどこか優雅で、腰まである白い髪を後ろで緩く縛り、理知的な眼差しを持ち低く色気のある声でとても穏やかに喋る。見た目は違えど、どこかカカシ先生に似ている気がする。
「ああ、これはこれは。一体どうしたの?」
「蹴られたんです」
「酷いことをする輩もいるものだね」
「全くです」
大きく頷くと、彼は苦笑した。でも骨にも異常はないし外傷もないので、薬を塗って大人しくしていれば良いと言う。そして、沈痛剤の入った薬を塗布しておこうねと行李の中から薬を取りだし、それを塗ろうと彼は俺の足に触れた。
「俺がするよ。どうも有難う」
そのカカシ先生の口調には尖った感じも威圧的な感じもなかったのに、有無を言わせぬものがあった。本当にこの人は意外と嫉妬深い。そして執着心が強い。
俺は薬売りの彼に目礼し、カカシ先生がどうでも良いことでまたいじけないように、金銭を払って彼から薬を受け取った。
「仲が良いねぇ。君達」
クスクスと笑いながら彼が言う。
「恋人だから」
さらりと、しかしどこか何故か自慢気にカカシ先生が言う。
「見たところ、木ノ葉の忍だよね? 任務だったのかな? 恋人と一緒にお仕事できるって良いねぇ」
彼は俺とカカシ先生の額当てを見て、微笑ましそうに言う。
「羨ましいの? でもイルカ先生は俺の大切な人だからあげないよ」
やけに嬉しそうにカカシ先生はそう言う。
「その大切な人を守り切れなかったのかな? 君は」
カカシ先生の表情が一瞬のうちに強張ったが、彼は構うことなくクスクスと笑いながら立ち上がり、「お大事に」と俺にヒラヒラと手を振り去って行った。
残ったのは俺と一気に不機嫌になったカカシ先生のみ。
痛いところを突かれたカカシ先生を宥めるのに大層骨を折ったが、どうにか薬を塗り包帯を巻いてもらうと俺は荷を背負い立ち上がる。
さて帰ろう。木ノ葉に、俺達の里に。
国王の思惑どころかカカシ先生の思惑も絡んだやっかいな任務はもう終わったんだ。
今この時も、高の国の北方では自らを正義と信じ正規軍に戦いを挑む者達がいるのだろう。朱雀と呼ばれた英雄を心の拠り所とし、引かない熱に引き摺られて。いやゲリラ活動そのものに今は生き甲斐でも感じているのかもしれない。どっちにしろその朱雀を作り上げ、またその朱雀そのものである国王に対しそうとは知らずに反旗を翻し、今も踊り続ける群衆。
そして高の国の支配者として群衆に罰を与えながら、白鴉を代弁者とし囀り続ける朱雀。
「ねぇ、そう言えばさっきの話だけどさ」
俺に続いて立ち上がったカカシ先生が、のんびりした声で話し掛けてきた。しかし瞳には真剣な色を宿している。
「何ですか?」
「イルカ先生は俺の愛を舐めるなよって言ったけど、貴方こそ俺の愛を舐めてるでしょ。俺は貴方にこの任務を丸投げしたんだよ。この俺が」
はたけカカシが、任務を全て俺に任せた。
そう言えばそうだ。それがどれほどのことなのか失念していた。はたけカカシが、自分の受けた任務をそっくり俺に委ね自由にやらせてくれたんだ。
「有難うカカシ先生。大好きです」
心を込めてそう告げ、俺はカカシ先生の手の甲に忠実な愛を示すように口付ける。
「百万回俺のこと好きって言って」
世界の支配者のような顔をしてそう強請るカカシ先生は、壮絶なまでに神々しかった。
――その時。
眼下の街で地響きが上がるほどの何かが大きく爆発する。
茶店にいた客や娘が店から飛び出し、往来の人々が凍りつき、怒声も悲鳴もなく誰もかれもが息を飲んで街を見下ろす中、その爆発の事実を裏付けるかのように巨大な煙が高く聳え立つ。
何が起こったのか。
何が始まったのか。
誰も何も分からぬまま巨大な煙だけがもうもうと空に出現する。
それはまるで、何者かがこの世に突き付けた宣戦布告であり。
また、それを告げる壮大な狼煙だった。