「……ガキが……いい加減にしろよ……」
ボソリと低い声がした。
天井裏に潜む俺達は瞬時に忍の顔に戻り、息を潜めて起こるだろう事態に備える。バタバタと手足を振りまわしていた彼もすぐに身体を起し、その場で正座をして項垂れた。
ラーメンに支配されていた彼の脳も、本来の機能を取り戻したようだった。
「ごめんなさい。俺、ラーメンのことになると我を失ってしまうんです。化学調味料が入っていても、袋ラーメンやカップメンなんかは平気なんです。むしろ好きです。大好きです。シオ先生とネギとレンゲを呼んで新発売カップラーメン試食会を開くことも大好きです。でもこのラーメンはインスタントラーメンの麺じゃなくて生麺だったので少し興奮しちゃったんです。お金持ちの家にインスタントラーメンがあるなんて思ってなかったし、少し期待しちゃったんです。ごめんなさい。もう我儘言いません」
彼はしゅんと項垂れてしまった。
彼の脳の機能は半分ほどまだラーメンに支配されているようだが、ともかく。
ともかく、はんぺいたがしゅんとしていると、俺まで胸が痛い。
クソ、あの男め! ブチ殺してやる!
「ラーメンはもう良いだろう? これからもっと美味しいものを食べさせてあげるからね」
男は目をぎらつかせながら身体を起し、彼にのしかかった。
殺そう。
うん、殺そう。
大丈夫、羽振りの良い商家の一人息子だろうが何だろうが構わない。死体も消してしまえば良いんだ。証拠隠滅して、遺書でも捏造して、兎と鳥を脅してあとは知らぬ存ぜぬを通せば良い。
フフ。
俺は殺気を全身に纏わせてフラリと立ち上がり、瞬身で部屋に降りようとした。
が、ツンツンと兎が俺の足を突く。
「なに?邪魔するとお前も殺すよ?」
「カカシ落ち着け、お前らしくもない。それよりも彼、何かしようとしてるぜ?」
ふと隙間から下を見ると、彼がのしかかった男の背に両手を回し、そこで印を組んでいる。まだおぼつかない手の動きで、体勢的に組みにくいらしく随分ノロノロしていた。
「あら? はんぺいた何してんの?」
「ずっと見てるけど、どうも幻術を施そうとしてるみたいだ」
指文字が面倒になってさっきから小声でボソボソ喋り続けている俺達をよそに、彼は懸命にもぞもぞと印を組んでいる。
「あ、間違えちゃったよ」
「やり直してる」
「俺達、どこまで見守ってれば良いんだ?」
「下忍のサポートとしか聞いてないよね?」
「あ、また間違えた」
「はんぺいたがんばれ!」
「ちょっとハゲ。誰に許可取って彼のこと勝手にはんぺいたって呼んでんの? はんぺいたの保護者は俺なんだけど? 殺すよ?」
「いつの間にカカシはあの子の保護者になったんだ?」
「うるさい瞑想オタク。俺は前世からはんぺいたの保護者なの! 来世まで! 永遠に!」
「カカシ声が大きいぞ」
「……あ」
その彼の声はまた印を組み間違えたから思わず出たものだったのだが、状況的に非常に煽るものとなった。
「大人しくしていれば、できるだけ可愛がってやろう」
男の指が薄汚い芋虫のように彼の足をのぼっていく。襦袢の裾が捲れ、彼の健康的な太ももが剥き出しになった。
絶対にあの男は殺す!
一秒でも早く殺したいのだが、彼が自分で何とかしようとしている以上、俺は彼の意思を尊重したい。
何せ俺はこの年でもう紳士で、その上彼の前世からの保護者だ。
「……あん」
今度のは印の組み間違えじゃないぞ!!
はだけられた胸元に、男のクソ汚い舌がぬめぬめと這う。
俺は泣きそうになった。はんぺいたが汚れる!
「だ、だめです……」
それでも懸命に印を結ぼうをする彼がいじらしい。でも俺の堪忍袋もそろそろ限界だ。
彼の身体を弄る男の手に熱がこもり、彼は身体をよじってそれから逃れようとする。
「や、止めてください…あ、やめっ」
「可愛いよ半平太」
「だめ、だめです……ちょ、ちょっと……」
「大人しくしていなさい」
「あ、だめだめ! あっあっんぁ、らめぇえええええええーーーーーーー……ん」
らめーーーーーーーー……ん?
その時、世界が時を刻むのを放棄した。
「らめーーん?」
鳥が首を傾げて言う。
「らめーーん?」
兎は呟いてから瞑想に走ろうとする。
「らめーーん?」
男が手を止め、怪訝な声を出す。
「あ、あの、アレです。だめーーって言おうとしたんだけど、舌がもつれてらめええって。でも俺、らめーーってなるとほら、条件反射的に『ん』を付けなきゃ! みたいな!」
「だよね!」
「カカシ地声出すな!」
思わず声を上げた俺の口を兎が抑える。
馬鹿男は俺の声は聞こえなかったようで、少し戸惑った後にまた彼に覆いかぶさってムカツクことを開始した。
「あ、らめぇ〜〜……ん」
鳥が瞬身で天井裏の一番端まで飛んで、そこで身を丸めて震えて笑っている。
兎は俺の口を塞いだままプルプルと笑っている。
俺ははんぺいたのラーメンへの拘りに強い感動を覚える。
しかし、その中で唯一違う感情を爆発させたのは馬鹿若旦那だった。
「ふざけてんのか?」
「ふざけてはないんです。ごめんなさい」
「俺はガキに馬鹿にされるのが一番嫌いなんだよ!」
あ、と思った瞬間には、彼は力一杯殴られていた。拳が頬に当たり、酷い音が俺の耳に届く。
俺のはんぺいたが、殴られた。
殺さなきゃ。
だって俺のはんぺいたが。
俺は兎を突き飛ばし、印を結んで下に降りる。
血しぶきで彼を汚したくない。でも簡単に殺したくもない。どこかにこのクズとともに移動して、そこで散々傷めつけてから殺さなきゃ。
彼に触れた部分全部切り刻んでから殺さなきゃ。
それから彼にラーメンを食べさせてあげるんだ。彼の大好きな一楽へ連れて行ってあげよう。そうしよう。
俺はうっすらと笑みを浮かべ、右手を伸ばしてクズの着物をひっ掴もうとした。
「あにすんだよ!!」
先ほど耳に届いた音より、更に大きな打撃音。
あら?
目の前にいた男が、部屋の片隅まで吹っ飛んでいる。
「俺を殴って良いのはなぁ、亡き母ちゃんと火影様とシオ先生、あとはラーメン屋のオヤジだけだッ!! テメー如きに何で俺が殴られなきゃなんねーんだ金持ちだからって調子ぶっこいてんじゃねーぞゴラァアア!! テメーラーメン作れんのかよ! ラーメン!」
でた!
怒りのはんぺいた、でた!
俺はその場でオロオロする。
鳥も兎も降りて来て、オロオロする。
はんぺいたは怒りで顔を真っ赤にして若旦那をタコ殴りにしていた。下忍といえどもはんぺいたは忍であり、しかもラーメンで興奮した彼の力量は暗部をもひるませる。
「止めろ小僧! その男を殺してはイカン!」
「うっせーハゲ!」
「はんぺいた君、ちょっと落ち付きなさい」
「うっせー兎シチューにしてやっぞ!」
「とりあえずタコ殴りじゃなくて、最初みたいに幻術を試そうじゃないか! 俺達も手伝うぞ?」
「俺はそもそも幻術苦手なんだよ!!」
「ならば俺が幻術かけるからとにかく落ち付きなさい。その男を殺してはやっかいなことになる」
兎と鳥の説得に、彼ははーはーと肩で息をしながらようやく男を殴る手を下ろした。馬鹿若旦那は既にケチャップをかけたじゃがいも状態になって、白目を剥いていた。
それからはんぺいたは俺を見て、目をうるうるさせる。
いや、俺を見てっていうか、たまたま俺が暗部三人の中心にいたからなんだけど、とにかく俺を見てその黒い目をうるうるさせる。
「だって俺、初めてのCランク単独任務だから全部自分でやりたいもん!」
「俺達手伝ってあげるから。全部ちゃんと教えてあげるから大丈夫だよ? それにほら、その男を殺すと火影様から怒られるよ。ラーメン禁止になっちゃうかもよ?」
「それは困る!!」
「ん。だからちょっと落ち付こう? 上手く幻術できたら一楽のラーメン奢ってあげるよ?」
「武士に二言はないか?」
「武士じゃなくて忍だけど、二言はないよ」
「ラッキー!」
目をキラキラさせるはんぺいたの黒い髪に手をおき、俺は良い子良い子と撫でてあげた。
はんぺいた初の単独Cランク任務を無事遂行させてあげる!
天才エリート忍者、はたけカカシの名にかけて!
「そこは、午の印だよ。間違って覚えちゃってるんだね?」
「そっか」
「次は、子の印。チャクラコントロール難しいから、焦らなくて良いよ?」
「うん」
「あ、印はもっと丁寧に結ぼうね?」
「カカシー、もう朝になるぞー」
「うるさい。あ、次の亥に移行するのは難しいから、もっとゆっくりで良いんだよ?」
「カカシ、その子に幻術はまだ無理だ。他の手を考えよう」
「俺のはんぺいたが幻術が良いって言ってるんでしょ! 良いからもっとはんぺいたにチャクラ送って!」
結局俺のはんぺいたが幻術を完成させたのは、次の日の昼だった。
若旦那が悪さをしようとすると、「正義の味方はんぺいた」がやって来てタコ殴りにするという幻術だった。
それから4人で里に帰って一楽に行ったんだが、時間が悪かったのか準備中になっていた。
仕方なく一楽の親爺さんに事情を説明し、今日のはんぺいたのラーメン代は暗部持ちってことにしてもらって、そこで解散して。
夜になって何となく一楽を覗くと、俺のはんぺいたはやっぱりちゃんとそこにいて。
この世で一番幸福なのは俺ですって顔で、ラーメンを啜っていた。
俺は本当に満足した。
俺のはんぺいたが初めての単独Cランク任務を成功させることが出来たことと、大好きな一楽のラーメンを腹一杯食べているのを見れて。