はたけカカシの熱烈な 前編

 その黒い仔犬は、俺の部屋の前にチョコンと座っていた。
 つぶらな瞳はひっきりなしに周囲を伺っており、仔犬特有のずんぐりした体は何かにつけてモゾモゾと動いている。時折フンッと鼻息を荒くしてみたり、かと思えば怖気付いたように項垂れたりもして、とにかく落ち着かない様子だ。クルンと丸まった尻尾も、激しく動いたりピタリと止まったりと忙しい。
 その仔犬の前にはスーパーの袋らしきものが置かれており、仔犬はそれをかなり気にしている。袋は手提げの部分で結ばれてあるのだが、鼻先を突っ込もうとしてみたり、前足でカサコソと突いてみたり、気になって仕方ないようだ。
 任務を終え、報告書をパックンに頼んでそのまま帰宅した今の俺は、あまり機嫌が良いとは言えない精神状態だ。任務内容がいつにもまして酷かったので嫌なものをわんさか目にしたし、何だかうんざりするくらい人を殺したからサンダルの中がまだ血でグチュグチュと音を立てているほどなので仕方ない。
 だから、本来ならば俺はその仔犬のことなど気にせず家の中に瞬身するか、もしくは暗部棟にでも行って仮眠室を借りるところだった。家の前に女が立っている、なんて状況ならば問答無用で暗部棟行きだったろうし、他の仔犬であっても同じことだったに違いない。
 だが、そうするわけにはいかなかった。
 辟易するほど疲れていて面倒事など一切関わりたくないこの精神状態であってもなお、その仔犬に話しかける他なかった。
 何故なら―。

「イルカ先生、何してんですか」

 俺が上から声をかけると、仔犬……もといイルカ先生はその場で3センチほど飛び上がった。忍者らしからぬ驚きようだ。この人はいつもこんな具合だが。
「ウオンオンゥオン、ワンウォンワンオン! クゥオォ?」
「犬語は分かりません。変化を解いてください」
「ク……クォン?」
 何のことでしょうか、と言わんばかりにイルカ先生はそらぞらしく首を傾げる。しかしつぶらな両の目はあらぬ方を向いているし、丸まった尻尾は挙動不審を絵に描いたように怪しく揺れまくっている。この人はどうして中忍になれたのかと疑問を抱いてしまうほどだ。
 あくまでも仔犬だと言い張るらしいので、俺はそれに付き合わねばならない。小さく溜息を吐いてからイルカ先生の前に降り立った。
 見下ろすとイルカ先生は盛んに尻尾を振って仔犬らしく愛嬌を振りまいた。まぁ可愛いことは可愛い。それは認める。しかし仔犬に変化したのは良いが、鼻の上を横切る傷、そのトレードマークを消し忘れているところが如何にもこの人らしいが。
「で、なに?」
 しゃがみこんで視線をできるだけ近付け、要件を訊く。すると仔犬に変化したイルカ先生はキュイキュイ鳴きながら鼻先でスーパーの袋をつついた。
「俺にくれるの?」
「ワンッ!」
「深夜なので大きな声で鳴かないの」
「……クォン」
 すんませんと律儀に頭を下げる仔犬など見たことがないが、まぁそれはさておき俺は袋の中を覗き込むことにした。何故か変化をしてまで、とにかく何かを持って来てくれたのだから。
 中を見ると、まずはビニール袋に入った氷と保冷剤があった。それを避けると美味そうなサンマが一尾、それからナスと味噌、だしの素、更には大根まで入っている。完全に意味が分からないが、一番下に水滴に濡れてグニョグニョになっている手紙があったのでそれを開いて見てみると、そこには滲んだ文字でこう書かれてあった。



to 木の葉の至宝、はたけカカシ様!

お誕生日おめでとうございます! 本日はカカシさんがこの世に生まれた素晴らしい日であります! 木の葉は今日を祝日にしても良いくらいだと私は思っています! 私の中では既に祝日です! 有難うございます! カカシさんの存在自体が奇跡です! youはshock! 大好きです! お誕生日おめでとうございます!×無限!!!

P.S いやむしろV.S
カカシさんはサンマとナスの味噌汁が好物だと小耳に挟みました。もし良かったら調理して食べてください。中忍的精一杯の大枚を叩いて超レアな味噌を入れておきました。もしカカシさんが赤味噌派とか白味噌派だったら、申し訳ありませんがその味噌は明日受付の虎吉に渡しておいてください。それからサンマは高級スーパーのマルゼンで買ったものです。美味しいと思います。カカシさん大好きです。憧れています。あわよくば結婚して欲しいです。宜しくお願いします!

貴方の熱烈なファンである一介の中忍より。匿名希望



 この人が木の葉を背負っていく小さな子供達の教師をやっているのかと思うと、俺は里の上層部を懇々と諭したくなる。むしろこの世の理不尽に言い知れぬ悲しみを覚え、挙句の果てに悟りを開きそうになる。
 youはshock!とは何だ。P.SいやむしろV.Sとは何だ。アンタは誰と戦っているんだ。それから憧れているのは良いが、あわよくば結婚して欲しいとはどういった方向に好意を向けているんだ。大体このアホのように散らばっている歪なハートマークからして眩暈を感じる。この人の感性は確実に変だ。
「クウォーン」
「はいどうも。でも俺、今日は疲れてて料理なんかする気になれないよ。これは明日食べることにするね」
「グオッ。オンオンヌオ、オンオンクォ〜、グおワン」
「犬語は分かりません。変化解きなさいって。アンタ、その傷はともかくチャクラからして完全にイルカ先生じゃないの。アカデミーの教師がそんなに変化下手でこの里は大丈夫なの? まったく」
「ゴフフン」
「それから匿名希望とか書いておきながら、いつもの癖で最後にちゃっかり傷のあるイルカの絵を混ぜ込んじゃってますよ。アンタそれでも本当に忍ですか。反省なさい」
「……キュイーン」
 イルカ先生から、こういった謎に満ちた手紙を貰うのは今回が初めてじゃない。初めてじゃないどころか頻繁に貰う。この人は何かに付けて歪なハートマークが乱舞する手紙を寄越すからだ。
 以前など、「どうしたらもっと素敵なファンレターが書けるのか」と、この人がサクラに相談している場面に遭遇したことまである。因みにそれまで俺はイルカ先生の手紙の意図をどう受け取って良いのか分からなかったが……いやそもそも内容の把握すらできなかったのだが、ともかくそれで俺は漸くそれらの手紙が「ファンレター」だったと知ったのだった。それまでは怪文書か暗号の一種だと思っていた。
 蛇足だが俺はその時、報告書を持ったままサクラとイルカ先生のやり取りを聞いていたわけだが、二人は受付所の机を挟んで熱心に話し込みずっと俺の存在に気付かなかった。話を終えてイルカ先生がふと顔を上げ俺の姿を見た時、彼は「ぴゃーーーーー!!」と叫んで1メートルくらい飛び上がった。俺はそれまでの人生の中で「ぴゃーーーーー!!」と叫ぶ生き物を見たことがなかったので、とても衝撃的だった。
「作るの面倒だから、イルカ先生が作ってよ。せっかくなんだしさ」
 鍵を開けて家に張ってある結界を解除しながらそう誘えば、それまで頑なに仔犬の姿でいたイルカ先生があっという間に元の姿に戻る。それからスーパーの袋を手に持ち、顔を真っ赤にしながら「いやはや、そういうことならば俺が作りましょう。せっかくですしね。記念すべきカカシさんのお誕生日でもあるわけですし」などと口にしながらわたわたと勝手に俺の部屋に入っていった。
「で、イルカ先生はどうして仔犬に変化してたんですか?」
 未だに血で嫌な音を出すサンダルを脱ぐと、イルカ先生がそれに気付き俺に背を向けて腰を屈める。どうやら血で床を汚さぬようにおぶってくれるらしい。
 どうしようかと思ったが、考えることすら億劫だったので厚意に甘えることにした。
 背負われて浴室に向かう。 
 ……ちょっと待て、なんでこの人、俺の部屋の浴室の位置を知っているんだ?
「ちょっとアンタ、なんで」
「ご安心ください。俺はカカシさんの熱烈なファンなので部屋の間取りくらい知っております!」
 熱心なファンと言うより、この人はストーカーと呼んだ方が良いような気がする。だがそれでも良いだろう、何せ俺は疲れているし、それに腹も減っている。
 浴室で下してもらうと俺はすぐに足を洗う。
「で、なんで仔犬に変化してたのよ」
「カカシさんは犬好きだと聞いていたので、きっと喜んでもらえるかと思ったのです。あわよくば抱き上げてもらったり頭を撫でてもらったり、とかちょっとばかり期待していたのは否定しません。ちょっとばかりって言うか凄く期待していたのが本当だったりします。俺はカカシさんの熱烈なファンですから!」
「どーも。んじゃサンマ焼いてきて」
「ハイ喜んでー!」
 バタバタと忍者らしからぬ足音を立ててイルカ先生がキッチンに向かう。俺はそれを聞きながら脱衣所に戻って服を脱ぎ、本格的に血を洗い落とす。
 本当は何もせずそのままベッドに倒れこんでしまいたい。疲労も空腹も血臭も、今日という一日を全部忘れて眠ってしまいたい。うんざりするような毎日の中でも今日はとびきり嫌な日だったんだ、寝て起きて、そんな一日を「昨日」というものにしてしまいたい。
 でもそうはできない。
 辟易するほど疲れていて面倒事など一切関わりたくないこの精神状態であってもなお、その仔犬に話しかける他なかった俺は、今日という一日にもう少し付き合わねばならない。

 何故なら―俺はうみのイルカに若干秘めたる想いを抱いているようなそんな気がしないでもないからだ。

 照れているわけではなく、誤魔化しているわけでもない。実際のところ、本当に、正直に、自分の気持ちがよく分からないのだ。嫌いではないし疎ましくもないし、これほど疲れているというのに家に上げて相手をしたくなるくらい俺はイルカ先生が好きだ。だがこれは珍妙な生き物に対する好奇心なのか、本当の好意なのかが判断できない。
 喋っているとちょっと面白い。怪文書じみた変なファンレターも全部取ってある。たまにその髪に触れてみたいなと思うこともあるし、イルカ先生が生徒と接している時の笑顔は心から好きだと思える。
 しかし単なる友人関係における好意かと訊かれたら、それもよく分からない。イルカ先生といると、ガイやアスマといる時とは違う、何やら言いようのない気分になるからだ。
 だから、それがこの珍妙な男に対する好奇心なのか恋心なのか判断し難いわけであって。……ああ、考えるのが面倒だ。
 石鹸をよく泡立てて身体を洗う。シャンプーも同じように泡立てて髪を洗う。
 血をしっかりと落として浴室から出ると、サンマの匂いが漂ってきた。腹が盛大に空腹を主張し、シャワーを浴びてスッキリした身体がビールを要求する。実に健康的な主張と要求じゃないかと俺は苦笑しながらキッチンのドアを開けた。
「ヘイらっしゃい!」
 包丁を片手に持ったイルカ先生が寿司屋の親仁みたいな恰好をして立っていた。そんなものこの短時間でどこから調達したんだ。いやそれより「ヘイらっしゃい」じゃない。ここは俺の家だ。
「今日は良いサンマが入ってるよぉ、サービスしとくからそれにしときな。それからこの一本は俺の奢りだぜ」
 妙にしゃがれた声で言いながら、イルカ先生はビールをテーブルに置いた。しかしそれは元々俺が買い置きしておいたものであるからして、イルカ先生の奢りでも何でもない。
 俺は椅子に座り、心を落ち着かせて自分に問う。
 おい俺、お前は本当にこの珍妙な生き物が好きなのか? なんか勘違いしてるんじゃないのか?
「兄さん、ご注文は?」
 イルカ先生が両腕を広げ、満面の笑みでそう訊ねた。
「わんこそば」
「サンマ一丁!」
 会話が成り立たないこの奇天烈な生き物に惚れてるなんてありえない。うん、やっぱり勘違いだな。
 三十七回目の結論に至り、俺は小さく頷いてからビールを飲んだ。今日はこの面白い生き物の相手をしながら腹を満たし、ぐっすりと眠ろう。目覚めればもう今日は昨日になっている。誕生日の次の日の朝になっている。そして俺はまた任務に出て、ぼんやりと色褪せた腐りかけの一日を過ごす。
 それで良い。
「サンマおまちっ」
 威勢の良い声とともに、テーブルの上に焼いたサンマが出てきた。焦げ目はバッチリだし火もちゃんと通っているようだ。匂いも良し、添えられた大根おろしの量も良し。
「ん、有難う。ではいただきます」
 箸に手を伸ばそうとしたら、その手をイルカ先生に握られた。この人は俺の熱烈なファンで多少強引なことをする時もあるけど、自分から俺に触れようとしたことは一度もなかった。どれだけ奇天烈な言動をとっても最低限の線引きはしっかりしている人で、そういう部分がこの人の底知れなさ、ひいては魅力のように感じたりしたのだ。
 余談だが、報告書のやり取りで偶然手が触れたことがあった。その時イルカ先生は「ヒョーーーー!」と悲鳴のような奇声を上げて俺の手が触れた部分を高々と掲げ、顔を真っ赤にしながら中忍とは思えぬ素早さで逃げたのであった。
 とにかくそんなイルカ先生が俺の手を握ったのである。ぎゅっと、力強く。
 それからいつになく真摯な眼差しを俺に送り。
「カカシさん、誕生日おめでとうございます。俺は貴方の誕生を、存在を、奇跡を、全て祝います。心の底から」
 などという言葉を驚くほど誠実に俺に捧げ、それから鮮烈とも呼べるほど鮮やかな笑顔を見せてくれたのだった。

 おかげで俺の三十七回目の結論が早くも揺らぐ。


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