第一章

「シリウス」
 気持ち良く酔っ払った俺が一際煌めくそれを指差すと、カカシさんも冬の夜空を見上げた。
 でも口布と額当てのせいで表情は分からないし、「うん」も「だから?」も「綺麗ですね」もないから、カカシさんが今何を思っているのか分からない。けれど俺は構うことなく次々に星を指差しては、「プロキオン」「ベテルギウス」と確認するように口に出し、指先で冬の大三角を結んで描く。そうして満足する。勿論カカシさんは何も言わない。
 この人のそういう部分に対して、俺は今日完全に吹っ切ることができた。この人が何を考えていようが俺のような凡人にはどうせ分からないし、この人の沈黙に真っ当に困惑してみても疲れるだけなんだ。カカシさんは上忍で、天才で、俺とは全く違うタイプの人間なんだから理解しようと力んだって駄目。この人の顔色を窺ったって、今は何にも分かりゃしないんだ。今はまだ。
 俺は夜空を眺めながらカカシさんと並んで歩く。澄んだ夜空に散らばる星々を愛でつつ、ゆっくりと腹の底から息を吐き出す。口から出た息は外気の冷たさによって薄らと白くなり、すぐに大気の中に霧散していく。それが楽しくて、顎を少し上げて何度も白い息を吐き出した。
 酔っ払ってる。その自覚はあるが、今日は気持ち良く酔ってる。
「もう随分寒くなってきましたね。雪、早く降らないかなぁ」
 寒さを確かめるようにまた大きく息を吐いて、その白さに心を踊らす。
 冬は好きだ。その冬は、すぐそこまで来ている。
「初雪が降ったらねー、生徒達と雪合戦したり雪だるま作ったりするんです。毎年、そうやってみんなで遊ぶんです」
 良いでしょーと自慢してから、一人でクスクスと笑った。それから「トウ!」っと塀の上にジャンプをして、足を高く上げて大袈裟に歩き、塀が終わると「トウ!」っとジャンプをして道に戻った。着地の時にフラリときたけれど、カカシさんが咄嗟に腕を持ってくれたので転ばずに済む。カカシさんは何を考えているのか分からないけれど、意外と良い人なのだ。多分。
 俺は両手を頭の後ろで組み、塀の上にいた時のように大袈裟に歩きながらまた夜空を見上げる。
 今日は月もないし雲もない。満天の星空だ。
「シリウスが一番綺麗ですねー」
 へらりと笑ってそう言うと、隣のカカシ先生が小さく頷いた。珍しく反応があったことに、俺は更に機嫌を良くする。
「シリウスって、【焼き焦がすもの】と【光り輝くもの】を意味するセイリオスって古い言葉に由来してるんですよ。知ってました? 因みにうみのイルカのイルカは、【元気良く泳ぎ回るもの】と【空飛ぶラーメンのようなもの】を意味するウィルクォって古い言葉に由来……してません!」
 馬鹿な戯言を口にし、俺は一人で腹を抱えて笑った。一度笑いだすとなかなか治まりがつかなくて、腹や頬の筋肉が痛くなるまで笑い続けた。
 そしていつもの四つ角まで来ると、大きく手を上げてカカシさんにニッコリと微笑みかける。
「んじゃ、また」
 ひらひらっと手を振ると、そのまま踵を返して大袈裟な歩行を再開させる。
 気分が良い。今の俺は解放感に満ちていて、その上酔っ払いだ。
 次の角で曲がろうとした時に何気なく振り返ってみると、カカシさんがまだ向こうの方で突っ立っているのが見えた。いつものことなので、特に気にしない。
 ただ、夜の闇の中でも目立つその銀髪は、とても綺麗だと思った。



 初めて飲みに誘われた時は驚きの余り受付所で硬直した。子供達を介して話をしたことはあったけれど、それも数える程度だったし、子供達以外には接点などなかったし、そもそもカカシさんは誰かと仲良くしようと自分から試みるタイプには見えなかったからだ。実際いつも一人でいることが多いように見えた。少々とっつき難い雰囲気もあった。そのカカシさんが、俺を誘ったのだ。何の前触れもなく。
 だからその時の俺は、大きな驚きと戸惑いで一杯だった。七班はもう事実上解散していたし、今更カカシさんが俺に何の用があるのか皆目見当も付かなかったんだ。
 しかし中忍の俺が上忍のカカシさんの誘いを断るわけにはいかなかった。だから精一杯の笑顔を必死で作って、カカシさんの誘いを承諾した。上忍が使う店に行くのなら財布の中身が心許ないと慌てて同僚から金を貸してもらい、無礼のないように気を引き締め、待ち合わせ時間にしっかりと間に合うように仕事を終わらせて、カカシさんに付いて行った。そして、立ち入ったこともないような高級料亭に連れて行かれ、口にしたこともない高級な酒を振舞われたんだ。
 いや、そんなことは良い。何を食べ何を飲んだかなんて関係ない。ただ、とにかく、かつてあの時ほど居心地の悪い思いをしたことはなかった。何せカカシさんは喋らない。本当に、むっつりと黙りこんだまま喋らない。話し掛けてもロクに返事をせず、表情も変えない。ただ俯いて黙って酒を飲み、時折思い出したかのように料理を箸で突いているだけなのだ。
 何か用があって俺を呼んだのだろうと思っていた。言い難いことなのかもしれないと、俺はできるだけ和やかな空気を作ろうと努力した。しかし上忍、しかも写輪眼のカカシを相手に低レベルな話など持ち出せるわけもなく、たかだか中忍である俺の話のネタはすぐに尽き、酒に酔うと失言する恐れがあったので、目の前に置かれた普段滅多に口にすることのできない高級な酒もあまり飲めず、俺はただひたすら長く重い沈黙と窮屈な空気に耐えて、カカシさんが何かを言いだすのを待った。辛抱強くその時を待ち続けた。しかし結局カカシさんは何も言わず、最後まで俯いて酒を飲んでいるだけだった。
 何が目的だったのか最後までよく分からず、奢ると言うカカシさんの申し出を丁重に断り、俺は困惑したまま帰途に着いた。俺は気疲れでうんざりしていたし、カカシさんだってそれを楽しい時間として過ごせてなかったはずだ。
 それなのに数日後、カカシさんはまた俺を誘った。低く小さな声で「飲みに行きませんか」と。
 上忍の誘いを断ることなんてできやしないので、俺はまた精一杯の笑顔を必死で作って承諾した。今度こそ、カカシさんは用件を言ってくれるだろうと期待して。
 それなのにその日もカカシさんは何も言わなかった。二度目からは上品な小料理屋になったのだが、場所は変われどカカシさんは変わらず、黙って俺の話を聞いて、黙って酒を飲んでいるだけだった。話題を振っても無表情のまま俯くので、どうしようもない。本当にどうしようもない。思わず小さな溜息を零してしまいながら、俺はその妙に居心地の悪い空気の中で耐えるしかなかった。カカシさんには、とてもじゃないけれど親しみなんてものは持てなかった。
 それでも、その後も何故か誘われた。
 誘われれば行かざるをえない。何がしたいのか何故俺なのか、何もかもよく分からないまま俺はカカシさんとの苦しい時間を過ごし続けた。ストレスにしかならないカカシさんとの時間は俺の財布にも大打撃を与え、その内にカカシさんの存在自体を疎ましく思うようになった。思い切って「俺に何か用があるのですか」と訊いてみたこともあったが、カカシさんは何も言わず自分の手元に視線を落としたまま動かなくなっただけだった。
 カカシさんが分からない。理解できない。それが俺の大きな精神的負担だった。せめてもう少し歩み寄ってくれれば良いものを、カカシさんは常に無表情で無口だった。それなのに俺を誘う。これは一体何の罰ゲームなんだろうかとほとほと嫌気が差して、ついに嘘を吐いた。「火影様に急用を言いつけられたので、今日は御一緒することができません」と。カカシさんは暫くその場に突っ立っていたけれど、俺が頭を下げて申し訳ありませんと謝罪すると、のろのろと去って行った。
 名前を借りてしまい火影様に申し訳なく思ったけれど、カカシさんに嘘を吐いたことに関しては罪悪感はなかった。むしろこれで今日はあのつくづく嫌になる沈黙に耐えなくて良いのだと気が楽だった。これからもそうやって断っていれば、カカシさんは俺を誘わなくなるかもしれないと思ったくらいだ。
 それなのに、会ってしまった。
 その日、いつもより遅くまで残業をして時間を潰し、この時間帯ならもう平気だろうと呑気に行きつけの店に寄ったら、そこにカカシさんがいたのだ。
 思わず逃げ出したくなった。何故上忍が、しかも写輪眼のカカシがこんな居酒屋にいるのかと、わけの分からない怒りまで芽生えた。それでも目が合ってしまったから仕方なく、俺は目礼する。店内が混んでいたのでカウンターの端に腰を下ろし、早く食べて早く帰ろうと思っていると、あろうことかカカシさんがのそのそとやって来て、「一緒に飲みませんか」といつものように低く小さな声で訊いてきた。断れるわけがなかった。
 その日は自棄酒になった。酔っていらぬことを口走ったらとか、そんなことも考えずひたすら飲んだ。時折口調が若干攻撃的になっている自覚はあったが、どうせならこのまま嫌われた方が良いと思った。どうだって良い。上忍に嫌われて何かやっかいなことになったって、何もかもどうだって良いんだと。
 だからいつになく饒舌になって、馬鹿げた話を沢山した。生徒達の他愛のない悪戯や、テスト用紙に書かれたとんでもない間違いや落書き、俺自身の失敗談。それに同僚のこと、里のこと。上忍のカカシさんから見れば、内勤の俺が偉そうに里の行く末について語っているのは滑稽だったに違いない。
 飲んで、一人で馬鹿みたいに喋って、一人で笑って。それなのに心の中は本当は全然楽しくなくて、また飲んで。
 会計を済ませて外に出ると、雨が降っていた。お店の人に傘を二本貸してもらい、千鳥足で歩き始める。傘があるせいかいつもよりカカシさんとの距離が広くて、たったそれだけのことなのに有難かった。その距離が有難かった。この人が纏うわけの分からない空気から少しでも距離を置けることが。
 自棄糞気味に飲んだわりには頭のどこかは冷えていて、カカシさんが心の底から煩わしくて、付き纏ってくるこの人から早く逃れたいと思っていた。早く家に帰って風呂でも入って、眠ってしまいたい。
 うんともすんとも言わないカカシさんを他所にどうでも良い話を一人でして、いつもの四つ角まで行くと足を止めて頭を下げる。
「それではまた」
 軽い口調でそう言い、馬鹿みたいにヘラヘラと笑いながら再度頭を下げる。
 そして踵を返して歩き出そうとした時、ふと何か言われた。
「はい?」
 振り返ると、いつものように俯いているカカシさんが目に映る。いつも何を考えているのか分からない掴みどころのない人だったが、しょぼくれた雨の中で安い居酒屋の傘を差してひっそりと佇んでいるその様は、何だかやけに悲しそうに見えた。仲間からはぐれた渡り鳥のように頼りなさ気で、とても孤独に見えた。
 そして、心を持ったのに喋れない、人形のようにも見えた。
「また、誘っても良いですか?」
 低くて小さな声で、カカシさんはそう言った。
 今までそんなこと一度も口にしたことなどなかったのに何を今さら、と頭の隅で思ったのは確かだけど、ビンゴブックにも載る写輪眼のカカシとは思えぬほど不安気なその声に、思わず大きく頷いた。それから慌てて「是非」と付け加えた。カカシさんは突っ立ったまま何も言わなかったので、その沈黙にどう対処して良いのか分からず、俺は一礼してその場から去った。俺が動かなくては、この人はずっとそこで立ちつくしているような気がしたから。




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