「火影と上層部がその血が無駄か無駄じゃないかを決める。無駄じゃないと決めると僕達忍は全力で、まるで一風変わったお祭りみたいに他人の血をじゃんじゃんと惜しみなく流す。笑っちゃうくらい何も考えずに。本当は無駄な血かもしれないなって、まぁちょっとは思うかもしれないけどね」
 ほんとは無駄な血がほとんどなんだよねと、アオイは楽しそうに笑った。
 それから動けない状態に疲れたのかそれとも飽きたのか、不意に顔を顰めて視線を左端に送り、何もしないから金縛りの術ちょっと緩めてくれない?と、そこにいる暗部かカカシに向けてそっけなく頼んだが、術は緩まなかった。
 アオイは小さく溜息を吐いてから、話を進める。
「断っておくが無駄な血を流すのは動物界でもままある。高い知能を持った動物は遊びをするし、その中で他の生き物を殺すことがある。身近にいる動物で言えば猫がそれをよくやってるね。シャチがアザラシを放り投げて遊ぶことも有名だ。僕はそれを否定しないし否定する権利もない。それと同じく人間が無駄な血を流すことも否定はしない。それが遊びだろうが政治的思惑だろうが見極めの甘さだろうが個人的感情の結果だろうが、何だって良い。何にせよ僕達忍は言われるがまま殺すだけだし、人生は無駄で溢れているんだから無駄な殺人があっても良いし、もっと言うと人間は無駄な血を盛大に流さないとなかなか過ちに気付けないちょっと残念な生き物だし」
「お前は火影様を信じていないのか?」
「火影の何を信じるの?」
「火影様は個人の怨恨による暗殺依頼を受けない。戦争でも周辺諸国のパワーバランスを崩すような依頼は受けない。一方的な虐殺になる可能性が高いものも受けない。大金を積まれてもだ!」
「だから?」
「火影様とて人間だ。全てを見透かし全て正解の道を歩いているわけではないだろう。だが俺は火影様の判断を信じている。何故なら火影様はご自分の忍道に沿って全てを判断されているからだ。俺は火影様のその忍道を信じる。そこには俺の心を裏切るようなものは絶対にないと信じる」
「つまり、あまりに人の道から逸れた非道な判断はないってこと?」
「そうだ」
「もしかしてイルカ先生は、基本的に火影は大局的見地に立ち結果的に人々のためになるよう最善の判断を下している。みたいなこと思ってる?」
「思ってる。木ノ葉だって段々良くなってるじゃないか」
「火影は正しい。火影は善だと思ってる?」
「思っている」
「命の定義すら出来ない貴方が善悪の定義をできるとでも?」
「じゃあお前はできるのか! 命の定義や善悪の定義ができるのか!」
「できないよ」
 アオイがまた不良品のからくり人形のようにゲラゲラと笑う。
 月だけが煌々と光る静寂な森の中に響き渡ったアオイの下品な笑い声は、イルカに生理的な嫌悪感と底知れぬ恐怖を与えた。それはどこか狂気じみていたし、今まで理知的に話を進めてきたアオイから急に知性が消えたようにも感じられた。
 イルカは眉根を寄せ、それでもしっかりとアオイを見据えて口を開く。
「そろそろ本題に入らないか。結局お前が言いたいことは何だ? お前も仕方なく三人を殺したとでも言いたいのか? それとも人間社会もしくは忍社会の不完全さと矛盾を分かりやすく提起したかっただけなのか?」
 アオイは笑うのを止め、しっかりとイルカを見据える。
「全然違う。僕が言いたいのは、命の重さってその程度のものってことだよ。ある程度の理屈を捏ねれば他の生き物を殺すことも人殺しをすることも見逃されるくらい、軽いってこと。ちょちょいとハムサンドを作るみたいに適当に理由を創作してやれば、何だか知らないけどそれで済まされちゃうくらい軽いってこと。水に浮かんで波間を漂流する葉っぱみたいに軽い。感動的なくらいだ」
「お前は三人を殺した理由を、見逃される理由を創作してないじゃないか」
「別に見逃して欲しいわけじゃないもの」
「じゃあ何をグダグダと」
「グダグダ言い出したのはイルカ先生じゃないか。僕は命が重いという幻想と願望から離れられないイルカ先生に現実を教えてあげただけ。命に重さなんてない。人は死ねば肉になるだけ。ここはそういうシンプルな世界なの。分かる? 僕の母と父も葉ノ紀先生もみんな同じなの。蟻や蛆虫や腸内細菌と同じくらいの重みしかないの」
「黒羽もか? お前と兄弟のようだった、お前を心から大事にしていた黒羽もか?」
「当たり前でしょ? みんな同じって言ったじゃないか」
 イルカは両手の拳を固め、それを思い切り自分とアオイの間にある結界に叩きつけた。暗部によって二重に張られた結界はびくともしなかったが、イルカは怒りに任せてもう一度拳を叩きつける。
 そして歯を食い縛ってきつくアオイを睨みつけると、アオイもまた酷くぼんやりとした虚空のようなものに支配された目の中に僅かな憎しみのようなものの一端を見せた。
「お前はやっぱり心を失くした」
「喜怒哀楽はあるって言っただろ!」
「喜怒哀楽だけが心じゃない!」
 声を張り上げ睨み合った。
 暫くそうやってキツイ眼差しで互いを真っ直ぐに見据えると、イルカは身体から力を抜いて結界のアオイの黒髪の辺りを撫でる。
「アオイ、変化を解け。時間を進ませろ。そして本来のお前の時間を取り戻し、思い出せ。思い出すんだ。ちゃんと、黒羽のこと、ミキのこと、大輔のことを思い出すんだ。同じ時間を過ごした記憶は消せはしない。お前の本来の時間に戻って振り返って見ろ。その記憶は必ずお前に語りかけるものがある。必ずある」
 ゆっくりと優しく諭すようにそう言うと、アオイは僅かに顎を上げ目を見開いた。
 そして感情と呼べるものをそこに浮かばせる。
 しかしそれは驚愕でもなく感動でもなく、酷く人を馬鹿にした嘲りとそれによって齎される薄暗い喜びだった。
「分からないの? ねぇ、分からないの? だからイルカ先生はいつまでたっても中忍のままなんだよ」
 唇を吊り上げて勝者のように笑うアオイにイルカは鳥肌を立てた。
 得体の知れない恐怖がイルカの足を竦ませる。
「ねぇイルカ先生、変化じゃないよ。僕の身体は時間を止めたんだ。僕の肉体はあの日から成長を拒否しているんだ。これは変化なんかじゃない!」
「――ッ!」
 大きく息を飲んでイルカの身体が硬直した。
 アオイの身体が時を止めたように、イルカの心も時を止めたかのように思われた。
 アオイの肉体が成長を止めるほどの何かが、アオイが優しさを完全に失ってしまった何かが、あの日起きてしまった。自分がカカシに抱かれている間に、それは起きてしまった。
 そして、抱き締めることもできず、話を聞いてやることもできず、涙を拭うことも髪を撫でてやることも一緒に悲しむことも何も、何ひとつできないままここまで来てしまった。
 イルカは呆然としていた。
 夜の森は時間を失い音を失い、永遠にそこに佇んでいるようだった。
 アオイの向こうに見える白いハクガユリの花が月の光に照らされて、それだけがやけに美しかった。
「……アオイ」
 イルカが放心して呟くと、それまでイルカに罰を与えるように押し黙っていたアオイが唐突に語り始めた。
「どれだけ目を逸らしたって耳を塞いだって、絶望的なほどの命の軽さからは決して逃げることなんてできない。人一人の存在の軽さにいくら戸惑ったって任務で人を殺せばその事実を否応なく僕達は突き付けられる。どんな人間でも一緒なんだ。どんな生き物でも一緒なんだ。火影であろうが国主だろうが、黒羽だろうが猫だろうが毒虫だろうがね」
 イルカの指先がひくりと動く。
 語り続けるアオイの黒い瞳からはもう嘲りの色が消え、そこには虚空のようなものが戻っていた。
「命は尊いなんて言うけど、そんなもの真理ではない。社会的な生活担保の為や、個人の欲求を満足させる為の方便としてしばしば使われるだけだ。どの生物の命も別に尊くなんてない。そこにあるだけだ」
 イルカの指先がもう一度ひくりと動く。
 アオイと視線を合わせてみても、アオイはイルカを見ておらず虚空を眺めているだけだった。
「イルカ先生は信じられる? 全ての命が、全ての存在が価値のない塵みたいなものだってこと。きっと信じたくないだろうけど、でもそれが正解なんだよ。この世界はそんな塵が無数にあるだけなんだ。だから全て壊したって全て終わらせたって別に良いと思うし、僕はそうしたい。だってあらゆるものに価値はないもの。僕を含め」
「――違うッ!」
 鋼鉄の信念と強靭な意思をその瞳に漲らせたイルカが、ありったけの力を込めて叫んだ。
 イルカは、お前変わってしまったななどと安っぽい言葉を口にして悲嘆にくれてアオイの手を離すなんてことは断じてしたくなかった。それだけは絶対にしたくなかった。だがアオイの変わり様に混乱しどこからどう説得すればよいのか見当も付かず、アオイの饒舌と正論とも呼べる持論に押される一方だった。
 しかしついに気付いた。
 イルカがアカデミー教師として培ってきた経験と勘で、それに気付いた。
 その違和感に。
 その穴に。
 その虚空の根源に。
 アオイを引き寄せるための微かな光をそこに見出し、イルカはそこに賭けた。
「俺は情けないことに教師のくせしてお前を納得させることもできない。お前の言ってることは見方によっちゃほとんど全部正しいし、俺は命の重みなんて口にするくせに【仕方ない】と理由を作って自分を正当化し敵を殺して生徒にその術を教えている。でも俺、子供達が大好きだ。本当に本当に生徒達を凄く愛している。子供は里の宝なんだ。お前も、宝なんだ。里の者はみんな子供を愛してるんだ。俺も、誰にも負けないくらい子供達を愛してるんだ。だから全ての存在が価値のない塵みたいなものだなんて、絶対嘘だ。俺にとって生徒達やお前は、かけがえのないものなんだぞ? お前は俺にとってかけがえのない存在なんだぞ? それを価値のない塵みたいなものなんて言うのは、絶対に許さない!」
 イルカはそこで言葉を区切り、アオイを真っ直ぐに見据えたままどこかにいるカカシに向けて叫んだ。
「カカシさん結界を解いてください! 俺はこの子を抱き締めなくちゃならない!」
 苛立ちを紛らわすように手の平で結界を強く叩き、イルカはアオイに語る。
「愛しいお前の存在は、尊いものなんだよ。お前がそれを知らなくても俺は知ってる。黒羽もミキの大輔も、みんなみーんなお前の存在が尊くて大切なんだって知ってる。良いか? お前は大切な子なんだよ。お前の存在は、お前が生まれ育った奇跡は、とても素晴らしいことなんだよ」
「……イルカせんせ」
 アオイの顔から表情と呼べるものが消え、次に無垢がその瞳に宿った。
「カカシさん早く結界を解いて! 俺はこの子を抱き締めなくちゃならないんだ!」
「…イルカせんせ」
「命は尊い。だから全て壊したり全て終わらせたりしないでって言いたいわけじゃない。アオイ、よく聞いてくれ。【アオイの命は尊い。だから全て壊したり全て終わらせたりしないでくれ】って俺は言いたい。お前は塵みたいに無価値なものなんかじゃない。アオイはかけがえのない大切な存在なんだ!」
「ねぇイルカせんせ……」
「カカシさん頼むから結界を! 俺はこの子を――」
「イルカせんせ、じゃあなんで……」
 アオイは、まるでアカデミー生のような無垢な目をして。
「じゃあなんで」
 酷くあどけない瞳でイルカに問う。




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