晴天豪雨
「だからさ、染められる染まらないって話になっちゃうわけなんだけど」
と、少し足でブランコを揺らしつつそう言った。
5月終わりのこの小さな公園には、幼稚園児らしき4人の子供とその子供達を見守りつつ世間話に花を咲かせているママさん連中、犬の散歩に来ている人、あとは仕事をサボって木陰のベンチで寝ている中年サラリーマン。
永司はブランコの鉄柱に凭れ腕を組み、緩くブランコを漕いでいる俺を黙って見下ろしている。
俺は考えを纏めるために強く足を蹴ってブランコを揺らした。先ほどまでこのブランコで夢中になって遊んでいた子供達は、今は砂場に移って赤や黄色のプラスチックのスコップで穴を掘っている。
少し古びたブランコは漕ぐ度にキィキィと小さな音を出し、俺は前へ後ろへと揺れるブランコの上で風を感じながら、どう言えば分かってもらえるだろうと考えていた。天気が良く暖かく強い風も吹かないこんな日曜日に、のんびりとした公園でこうしてじっくり会話を交わすことは、昼間に太陽を一杯に浴びた布団で眠ることに似ているような気がする。だからあまり深刻な、永司の眉間に皺が寄るような会話にはしたくないと思う。
考えを纏め、靴の踵で土を擦らせてブランコを止める。
「多分ただの好みの話なんだろうけど、俺はよくいる女の子ちゃんみたいに、自分の人生や価値観や体や生活や、とにかく自分の全てを自分の好きな男に全部ポイって投げちゃうのが苦手なんだ。何て言えば良いんだろう。俺は昨日の俺ではないし10年前の俺とも違う。そうやってどんどん変わっていくんだけど、俺の根底には何も変わらない俺がいるし、そういう自分が好きだ。そして、お前も昨日のお前とは違うし10年前のお前とも違うわけだが、きっと根底には変わらない自分というものを持っているはずだ。それで良いんじゃないかなと思うわけなんだ。染められる部分はあっても染まらない部分が根底にある方が。なんていうかさ、つまり」
ちゃんと考えを纏めたはずなのにいざ口にしてみる何だか的外れなことを言っているような気になって、自分で何を言いたかったのかよく分からなくなってくる。
俯いて、自分の影を足でトントンと叩いた。
「あのさ、多分俺、今すっごく大切なこと言ってると思うの」
足元から視線を上げて永司を見たが、永司は返事をせず、頷きもせず黙って俺を見下ろしている。
俺は言わなくちゃならない。
強くそう感じ、息を止めて立ち上がった。そして永司と真正面から向き合う。
大きく息を吸って腹に力を込める。俺は言わなくちゃならない。
「宣言だと思って聞いてくれ。俺は変わらない。根性と気合でお前と生きていく」
口を閉じた時、永司の顔から表情が消えていた。
今まで表情を崩さず沈黙を押し通してきた永司の顔から、身体から、生気そのものが消えた。今ここにいるのが本当に永司なのか、それとも永司の肉体を持った他の誰かなのかも分からないほどに永司は肉体だけを残して消滅していた。
ここにいるのは、死体だった。
小さく高い金属音を響かせ、世界は一瞬だけ時を止める。
ゆっくりとその手を掴むと、永司は握り返してくる。その表情に生気が戻り、俺は永司の中のどこかで起こっている変化のひとつひとつに耐え難い痛みを感じる。しかしその痛みは決して永司が運んでくるものではなく、それを完全に隠してしまう永司をこうして目の前で見ている俺の、俺だけの痛みだった。
第1章 理解していないことで傷つけてしまうから
「だって珈琲専門店だよ? それなのにそば湯を出せって言うんだ」
窓に張り付いた藤原は、困ったように、しかしどこか抑えきれないといったその可笑しさに目を細め、運動場で黙々と体育の授業の準備をしている真田を眺めていた。真田が準備をしているということは、今日は真田が日直なのだろう。あの女はそういうところで絶対にズルをしないのだ。
「何が気に入らなかったんだろ」
「分からないんだ。僕がお手洗いに行っている間にウェイトレスさんと何かあったようだけど、何があったのか話してくれなかった。ただひたすら『そば湯を出せ』って」
「何かあったんだろうな。あいつにとってかなりカチンとくることが」
「うん。まぁ愛想のないウェイトレスだったことは確かなんだ」
俺は窓に添えられた藤原の手を取り、指相撲を始める。
「でもそれだけで済んで良かったんじゃね?」
真田の場合、本気でキレると何をしでかすか分からない。俺は暁生から、以前真田が何か暁生が理解できないことでキレはじめ、調理場に乗り込んでラーメン屋の命とも言えるダシの入った大鍋を床にブチ撒けた話を聞いたことがある。
「真田さんはきっと僕に気を遣ってくれたんだと思う。だから、感情を抑えてくれたんだと思う」
藤原は真田を愛しそうに眺めながら、俺との指相撲に付き合っている。握力の弱い男なので常に俺の圧勝で終わるのだが、勝ち負けに拘らない性質なのでこうしてモジモジと遊んでいるだけでも構わないみたいだ。
運動場にいる真田は全ての用意を整え、予鈴が鳴るとそのままどこかへ消えてしまった。多分授業は受けないのだろう。
「僕ね、女の子とデートしたの初めてだった」
自分の席に着こうと歩き出した藤原が、照れ臭そうに笑みを浮かべながら言う。初デートが真田、しかし藤原にしてみればそれはかなり楽しいデートだったようだ。
俺は藤原の後姿を見送ってから自分の席に戻り、古典の教科書とノートを取り出して、自分と永司が公園で話をしている時に藤原と真田が小洒落た珈琲専門店で珈琲を飲んでいたのだなと考えていた。俺と永司が話をしている時に、真田は珈琲専門店のウェイトレスに向かって「そば湯を出せ」とゴネていた。その同じ時間に死んだ人間もいるだろうし生まれた人間もいるだろう。別れ話を持ち出されて泣き出した女や工場で勉強机を作りながら鼻歌を歌っていた男や、釣り針に引っ掛かって困っている鯉とかカップラーメンを食べる夢を見ている犬なんかもいただろう。でも俺と永司は一緒にいた。
今も隣にいる。
「なー」
その永司を見て声を掛けてみる。
藤原が真田を見ていたように、永司はさっきからずっとコッチを見ていた。
「真田ってさ、たまに吉良上野介みたいに意地クソ悪くなるよなぁ」
俺達は真田という女を知っているのでアイツの根性がそこまでひん曲がっているとは思えないのだが、そば湯を出せと言われ続けたウェイトレスからすると、真田は吉良と同じくらい最低な人間だっただろうと思う。
永司が可笑しそうに笑ったところで、古典の橘が教室に入ってきた。
その日は仔猫を見るために暁生と一緒に永司のマンションへ行った。
仔猫は日に日に大きくなり、大きくなるにつれてやんちゃになり、こんぺいとうは育児を放棄したのか放任主義なのか「一切関知しません」という顔をして仔猫の好きにさせている。だた、この仔猫は母猫と違って永司に懐いていた。
日が暮れると暁生は勝手に冷蔵庫を開け勝手にビールを飲みだし、そして勝手に酔っ払いになる。
「俺、この前思ったんだけどさ!」
愛猫のこんぺいとうを抱き上げながら、暁生が笑いながら叫んだ。コイツは酔うと異常に機嫌が良くなる。
「俺はガチャピンより凄い奴になりたいって思うわけ。最近スゲーそう思うわけ!!」
「なんでガチャピンなんだ。そもそもこの前思ったのか最近思うのかどっちだ」
俺の突っ込みに暁生は床を手でビシバシと叩きながら笑った。俺はそこまで面白い突っ込みをしたわけではないぞ。
暁生がつまみを作れと言い出したので、久しぶりにここのキッチンに立った。俺のアパートの台所は台所だけど、ここはキッチンと呼びたくなるような清潔感がある。しかし清潔感があるだけで実用的ではない。何せ冷蔵庫の中にも戸棚の中にもこれと言って使えるような食材が入っていないからだ。永司は自炊をしないのでしょうがないことなのだが。
しかし材料がなければ料理はできない。なんとかならないかと色々見てみたがどうしようもなく、結局しかたなくなってピザを宅配してもらった。
3人でピザを食べてビールを飲み、猫と遊びながらダラダラとゲームをする。
「俺、さっき思ったんだけどさ!」
暁生が笑いながら叫ぶ。
「俺はガチャピンよりスゲー奴になってこんぺいとうと結婚するんだ!! 今決めた!! 俺達愛し合ってるし!!」
ガチャピンは確かに凄い奴だと思う。多分世界でも数本の指に入るとんでもない奴だ。そのガチャピンを超えて暁生は猫と結婚するらしい。
「そうか。頑張れ。でもきっと真田が邪魔するぞ?」
「別に構わねぇ。つか真田ってさ………」
暁生はそこで口を閉ざし、少し肩を竦めて身体を縮めた。何かから守るように2匹の猫を胸に抱き寄せ、まじまじと俺を凝視する。
なんだろうと小首を傾げて話を促しても、暁生は口を少し動かしただけで声を出さない。何だろう。真田は実はツチノコだったとか、そんなオチだろうか。
隣に座っている永司を見たが、永司はあまり暁生の話に興味がないようで淡々とビールを飲んでいる。
目が合った。
永司が腕を伸ばし、俺の缶ビールを取り上げて少し振り残りを確かめる。
少ないな。持って来ようか?
と、永司が訊く。
いや、まだ良い。ちょっとペース抑えるし。
と、俺が応える。
「お前知ってた? 真田ってよ……」
俺と永司が視線と仕草で会話をしていると、今俺の意識から消去されていた暁生がボソリと呟いた。
「ん〜?」
ビールを少し飲み、また暁生に視線を戻す。
「真田って、自称霊能力者とか宗教家とかにレイプされかけたこと何度もあるんだって」
「…………ゲホッ!」
ビールが気管に入った。
永司が俺の背中を摩りながら俺が零したビールをティッシュで拭き取る。
「ゲホゲホゲホッ!さ……ゲフンゲホゲホ…レイプしかけたんじゃなくて?」
「されかけたんだって。何度も。全部返り討ちしたらしいけど、もし美形が来たら絶対パンツ脱ぐって言ってた」
暁生はそこまで言うと更に身体を縮め、ひとしきり「オー」とか「ウエー」とか「こえー!真田とヤりたがる霊能力者こえぇーッ!」とか叫んだ後、またガチャピンの話に戻って一人で爆笑した。
俺は暁生が一人で楽しそうにしている間に、ビール片手に考えた。
藤原という俺のお気に入りの男は真田のことが大好きで、その真田という女は珈琲専門店でそば湯を出せとゴネ、霊能力者や宗教家にレイプされかけ全て返り討ち。らしい。その真田が愛している暁生は俺の目の前で酔っ払ってしつこくガチャピンの話をし、いつか猫と結婚するそうだ。俺の友人の苅田は老若男女問わず気に入った人間とセックスし、その恋人らしき緋澄は嫉妬心みたいなものがまるでない。川口さんは宇宙人。俺の恋人である永司はもう何がなんやら分からない男で、完全に正体不明。
「だからって、別に何てことはないんだろうな」
呟くと、隣の永司が反応する。そう、大丈夫。俺はとにかく大丈夫だから、要は永司も大丈夫ということなのだ。
俺は永司の頭をイイコイイコして撫で、立ち上がってテーブルの上を素早く片付けて夜中まで3人でゲームをした。
そしてゲームをしている最中、どうしても勝てないキャラが出てくると暁生が不意に眉間に皺を寄せ、コントローラーを放り投げて呟いた。
「このキャラって苅田に似てねぇ?」
「どこが?」
「自分はボスキャラだと思ってそうなところが。顔とか。大体10歳くらいまではアイツより俺の方が喧嘩強かったんだぜ? 俺がボスキャラだったんだ。アイツはその過去を忘れてるけど、ホントは俺の方が強いんだ。マジで。確かにアイツは土建屋の息子だから秘密基地作ると凄かったよ。お前秘密基地作ったことあるか?」
「あるよ勿論」
俺は捨てられたコントローラーを拾い操作しつつ答える。男の子が男の子である以上必ず作るもののひとつに秘密基地があると思う。但し永司と緋澄はこれに該当しない可能性があるが。
「どんなだった?」
「そりゃいろいろ。大抵は普通の……その辺の草木を集めるとか、腐りかけの板を何かに立てかけて屋根にして草で覆っただけのモノとか、押入れとか」
「苅田がいるとスゲーことになるんだ。まずな、木材使いたい放題なんだよ。子供の隠れ家にゃ必要とは思えねぇような太いハリがあったり戸板とトタンで屋根作ってあったりするわけだ。そんで苅田がカンナとトンカチ持って釘銜えてもうやりたい放題やってるのを、他の子供達は体操座りして見学してるような状態だ。やることねぇんだよ。つかむしろやること分かんねぇだろ普通」
「そだね。つか、そんな大掛かりな秘密基地作れるような場所この辺にあるか?」
「ばーか。遠くに作ったら木材運べねぇじゃん。苅田家の敷地内で作るんだよ」
それは秘密基地と呼べるのだろうか。よく分からないが、とにかくその後も暁生は苅田の秘密基地の凄さを語りまくり、「アイツがボスキャラになれたのは秘密基地造りが上手かったからだ」という結論を俺に押し付けた。
そして一人で不機嫌になり大暴れをした後、また激しく興奮しながらガチャピンの話をした。
翌朝、目が覚めると永司のベッドの中だった。
ゲームの最中に暁生が寝てしまったので徹夜をするつもりだったのに、どうやら俺も寝てしまったらしい。この部屋に来た記憶はないので、永司が運んでくれたんだろう。
が、その永司が隣にいない。
いたらいたでまた色々思う所ありなんだが、いないのも少し妙だった。何故かと言うと、この部屋には俺の他に誰かいる、もしくはいた気配があったから。
リビングに行くと暁生が床の上で、永司はソファーの上で寝ていた。永司は珍しく熟睡しているようだったので、寝室にあった気配は気のせいかもしれん。
暁生が寝返りを打って永司の寝ているソファーのすぐ下まで来た。
ソファーからはみ出した永司の手と暁生の手が触れそうになっている。
「お前等どういう関係なわけ?」
俺が声を掛けるとよりによって同じタイミングで2人は目を覚まし、よりによって同じタイミングで身体を起こし、よりによって…ともかく2人で目を合わせてから2人で俺を見て、それからようやく暁生が言った。
「とりあえず、恋人とか前世の敵とかではねぇよ」
それを聞いて永司が笑う。
俺は、なんだかそんな永司が少し珍しく思えた。
学校の外と家の外で、少し気になる視線を感じふと振り向く。
次の日はそんなことが数回あった。
別に何かあったわけでもなく川口さんがいたわけでもないが、とにかく他人の悪意と性欲以外の意識を感じる、しかも一人ではなさそうな気配を感じて振り返る、そういうことが数回あった。例えば、トーストを焼いていたのにそのことをすっかり忘れていて、チン、とトースターが音を立てた瞬間にふとその方向を見るような感じだ。
次の日もやっぱり何度かそんなことがあって、俺はアパートの階段を上りながらキョロキョロと視線を彷徨わせつつここ数ヶ月間のことを考えたりした。
分からない。理解できない、できてない。
そのことがどれほど大きなストレスになるかということだ。少し前もそう感じた。そして今も、分からないからまたつくづくそう感じる。分からないことを全て知りたいわけなんじゃなくて、そんなの無理って分かってるし姉ちゃんにも俺中心に世界が回ってるわけじゃないって言われたけどそんなことだって分かってるし、ただなんていうか。ただとても大事な、それが分からないことで誰かを…つまり永司を傷つけてしまうから。
「あ、そうか」
そこまで考えてようやくストレスの原因が分かった。
つまり俺は、俺が理解していないことで永司が傷つくのがとてつもなく嫌なんだ。それがとても怖いんだ。
つい最近まで自分が一番永司を理解しているって断言してたのに。
「あ、そうか」
誰かが俺の口調を真似た。子供の声だ。どこにいるんだろうと辺りを見渡してみてもその姿は見当たらず、階段の手摺から身を乗り出して階下を確かめたけれどやっぱり誰もいない。まぁ良いやと思い自分の部屋の前まで行き鍵を開けた後、ウチとお隣さんの間にある壊れた洗濯機の向こうをヒョイと覗き込んでみた。
最近引っ越してきたお隣さん家の子供が膝を抱えている。
「よぉ〜」
声をかけたけどシカトされた。
家に帰ってから俺は永司に電話をし、洗濯をして夕飯を食べた。それから永司に関する様々なことを考え、その結果左手でそれらを紙に書き出した。
左手で書いた文字はかろうじて解読できる程度の有様だったが、まるで明日を考えない幼稚園児のように能天気でのびのびしており、俺はそれに満足した。