空は二人を気遣って

 人形のように可愛らしいその少女は、この取りたてて特徴のない夜空を見上げ、誰かが……例えば神様や雪の女王様なんかが、もう少し気を利かせてくれたら良かったのに、と言った。
 例えばふわふわと雪が降っていたり、ぷくぷくに膨らんだお月さまがぽっかり浮いていたりするだけでも良いし、そういったちょっとした優しさじゃなくても、何だったら記録的な大雪、あるいは猛吹雪になったってそれはそれで私は構わないのに。とにかくクリスマス・イブの夜として、もう少し気を利かせてくれたら良かったのに、と。
 その少女はクリスマス用に誂えたらしい赤いビロードのコートを羽織っており、首には白い手編みのマフラーを巻いていた。豊かで艶やかな黒髪を先の方で優雅にカールし、右耳の上に付けられた小さくて上品な髪留めで華を添えている。
 アカデミーのクリスマス会に参加している全女子生徒の中でも、少女は飛び抜けて美しかった。陶器のような肌と瑞々しい唇、大きな黒い目を持った彼女は、正に人形のように可愛らしかった。と同様に、少女は飛び抜けてめかしこんでいた。コートは勿論、おろしたてのブーツやツリーの形をしたイヤリングは如何にも今日のために購入したものだったし、何よりも「スカートに皺が寄るから」と言って立ち続けていた点からしても気合いが違う。
 幾人かの女子生徒からは何やら顰蹙を買っていたようだが、少女は外野のブーイングなど欠片も気にすることなく本日の主役として注目を浴び続けていた。
 その人形のように可愛らしい彼女がイルカの隣でそう言ったのだ。
 もう少し気を利かせてくれたら良かったのに、と。
「プレゼントは渡せたのか?」
 日常的な夜空に恨めしげな視線を送る少女にイルカはそう問うた。夜空にまで気遣いを求めるほど彼女にとって今日という日が特別だったことは分かっているし、彼女がその特別な日に何をしたいのかも分かっている。
 少女は少しだけ唇を尖らせ、「これからよ」と答えた。
 夜空を見上げる少女は年頃の娘と呼ぶにはまだまだ幼いが、しかし子供だからと軽んじる事は出来ぬひたむきな恋心を抱いている。ある種の女の子は、生まれ落ちた瞬間から死ぬ間際までずっと「女の子」なのだろうなとイルカは思った。
 夜空を見上げていた少女がキャンプファイヤーの炎に視線を移し、その周囲で屯っている生徒の中の一人に視線を定める。それからポケットの中を確認して一度大きく息を吸い込み、颯爽と歩いて一人の少年に声を掛けた。
 冷やかしや揶揄する声が一斉に上がり、声をかけられた少年の顔が赤く染まる。友人達に怒ってみせ、少女に冷淡な態度を取る少年の目は年相応のものだったが、覚悟を決めた少女の目は潔く、やけに大人びていた。
 少女は嫌がる少年を半ば強引に校庭の隅にある大きな楠の影まで連れて行った。
 イルカは今しがたまで隣にいた少女のように夜空を見上げる。
 月もなければ星もない、雪も降らなければ雨も降らない空。いっそのこと静かに黒く染まればまだ良いものの、キャンプファイヤーの炎と煙、それに生徒達の喧騒で雰囲気もへったくれもない。むしろこんな日に感じる典型的な心と状況の差異……心が一歩後ろに下がっているような感覚が浮き彫りになるようだった。
 暫くすると少年が走って仲間の元に戻って来た。何人かにからかわれていたものの、少年が酷く怒ってそれを嫌がったので冷やかしの声はすぐに止んだ。
 続いて少女がイルカの隣に戻って来る。
「平気」
 まだ何も言ってないのに、少女はそれを遮るようにそう言った。
 それからビロードのコートの裾をぎゅっと握り、震える声で続ける。
「私、後悔なんかしてないから。諦めないから」
 イルカは何も言わず、少女に手を伸ばした。しかしその手は少女に触れることなく静かに元に戻る。
 少女は喰って掛かるような目でキャンプファイヤーの炎を睨みつけていた。

 炎に赤く染められる少女は誰の慰めも必要としておらず、凛として、とても美しかった。




 夜空がどれほど平凡な様相であれ、冬の空気は冷たい。
 買って来た惣菜と貰って来たケーキをぶら下げマフラーに顔を半分ほど埋めながら歩いていると、アパートの前にいつもの白猫がいた。郵便受けの上で丸く眠っている白猫をそっと抱えて階段を上る。
 ふたつ隣の部屋のドアにはクリスマスのリースが飾られていた。隣の部屋の住民は五日前から任務に出ていて、新聞受けが大変なことになっている。自分の部屋の前にはドアノブに細い筒が入ったビニール袋が掛けられており、袋には中山花屋と書かれてあった。きっといのがカレンダーを持って来てくれたのだろう。
 片手で猫を抱き直し、ポケットの中を探って鍵を取り出す。鍵を開けてドアノブに手を触れるとパシリと音を立てて静電気が走り、イルカは顔を顰めた。
 部屋の中に入ると電気を点け、猫を下ろしてストーブに火を入れる。服を着替えてどてらを羽織り、それから冷蔵庫の中からビールを持って来て、炬燵の上に置いた。買って来た惣菜のパックを広げ食べる準備を整えると、ああ箸がないと台所に戻り、二人分の箸が収まる箸立ての中から自分のものを取る。
 炬燵に入るとそこは雪原のように冷たかった。慌ててスイッチを入れて「強」にして暖まるのを待つ。
 白猫がやって来て膝の上で丸くなった。
「メリー・クリスマス」
 イルカは白猫の頭を撫でてそう言う。
 白猫は嬉しそうに目を細めて喉を鳴らし、イルカの手をペロリと舐める。
「今日は寒いな。そろそろ暖まってくるだろうから、炬燵の中に入るか?」
 入りやすいように炬燵布団を少し捲ってみたが、白猫は膝の上から動かない。いつもこの猫は、猫のくせに炬燵に入ろうとしない。
 イルカは箸を取り、遅い晩餐を一人で始める。今日は奮発して少し値の張る惣菜を二品、それに半額になっていた小さめの弁当だ。冷えた料理とビールの組み合わせで身体はもっと冷えたが、何か温かいものを作ろうという気にはなれなかった。少し疲れすぎていたし、イブの夜を独りで過ごすのだから冷たい惣菜を食べた方が気分的にも無理がなかった。
 テレビを点ける気にもなれず、イルカは黙々と箸を動かす。背後にあるストーブの薬缶がシュンシュンと音を立て始め、それだけでイルカの心をほっとさせる。
「魚、喰うか?」
 問えば白猫がイルカに頭を擦り寄せる。
 弁当の中に入っていた魚の切り身から骨を取って、手の平に載せた。それを膝の上で喉を鳴らす白猫に差し出すと、猫はペロリと平らげる。その他のものも、猫が欲しいと反応を示せばイルカはせっせと手の平に載せてそれを分けてやった。
 一ヶ月程前から急に現れるようになったこの白猫の好物は、魚と鶏肉だ。その他にも海藻やハムが好きでよく食べる。今日は魚とハム、それから蒲鉾を食べた。
 部屋が暖まり腹も膨れると眠くなる。
 それでもアカデミーのクリスマスパーティで余ったケーキを貰って来たんだと思い出し、イルカはその箱を開けた。何てことはないただのショートケーキだったはずだが、持って帰る時に斜めにしてしまったようでそれは見るも無残な姿に成り果てていた。
 しかし勿体ないと思い、イルカは食べる。フォークを持って来るのが面倒だったので箸で食べる。
「今年のクリスマスこそ、一人で過ごさずに済むと思ったんだけどな」
 惨めなケーキを箸で突きながら、イルカは独りごちた。
 しかし誰が返事をするでもなく、それはイルカを更に寂しくさせただけだった。
 その後、イルカは炬燵に入ったまま少しうたたねをした。しかし白猫がイルカの顔をしつこく突くので目を覚まし、炬燵とストーブを切ると風呂にも入らず布団に入った。
「寒い」
 イルカは小さな声で訴える。
 白猫がイルカの顔に頭を寄せたので、布団の中に入れる。
「寒い」
 猫の身体を抱きながら、イルカは鼻を啜ってそう言う。呟く。告げる。訴える。
「一人は寂しいな」
 口にすると寂しさが増す気がして、イルカは諦めて目を閉じた。






 金縛りに遭ったのかと思った。
 手足は動かないし、胸や腹の上には重石でも乗せられているかのようだ。息苦しくて堪らないし、酷いストレスを感じる。重い、とにかく重い、圧迫死しそうだ。肺がどれほど酸素を求めても重石のせいで上手く呼吸できない。あまりの苦しさに呻くと、顔を何かで突かれた。
 白猫の感触だ。
「――あれ?」
 やっと意識が覚醒するとイルカはまず自分の身に起きている現状に小首を傾げた。金縛りであったなら目が覚めたと同時に重みは消えるはずなのだが、まだ重い、とにかく重い。それに顔の両脇になにか毛むくじゃらのものがいる。布団の中にも、イルカの身体を挟むように毛むくじゃらのものがひしめいている。
 みっちりと、ひしめいている。
「なんだこりゃ!」
 驚いて身体を起こすと、イルカの胸や腹の上で眠っていたらしい猫が転がり落ちた。
 しかも布団を捲ればそこには……、猫で埋め尽くされている。
「お前等、一体どこから入って来たんだ!」
 いつもの白猫は勿論のこと、黒猫三毛猫虎猫、太ったのから小さいのまで、とにかく猫が布団の中でひしめいている。ぎゅうぎゅう詰めだ。イルカの足の間も三匹の猫がいるほどだ。
「おま、お前等な、あのな、俺は白いのでさえヤバイってのにこんな、ばか、大家さんに見つかったら! て言うかどこから入って来たんだ!」
 動揺して大声を出すイルカを尻目に、猫達は各々のんびりと背伸びをし、欠伸をし、窓際に歩いて行く。そしてあんぐりと口を開けるイルカの前で一匹が器用に窓を開け、そこから出て行った。
 他の猫もそれに続く。
「なんだ? 昨晩は猫の集会がうちで行われたのか? しかも俺の布団の中でか?」
 残った白猫に訊ねたが、白猫は欠伸をしただけだった。



 今年のクリスマスは休日だ。しかしイルカは火影の雑用を手伝うために仕事に出なくてはならない。
 午前中は雑務、午後からは受付、そして夕方からは歩哨の炊き出しを手伝うことになった。
 大鍋で温かいものを作るのは楽しく、イルカは炊き出しの手伝いが好きだった。野菜を洗うために冷水に手を付けても、火の側で行う作業だからか身体はそれほど冷えない。牛蒡や人参、蒟蒻、豆腐、豚肉、葱……具を沢山入れれば入れるほど、不思議と楽しくなってくるのも良い。それに、炊き出しを配る時に仲間が見せてくれる笑顔がとても好きだった。
「イルカぁ、お前のトン汁マジで美味いよな」
 ハフハフと息をしながら食べるその上忍は、イルカの炊き出しの一番のファンだった。
「おかわりありますから」
「おかわり!」
「食べてから言いましょうね。おにぎりもありますから」
「おかわり! 蒟蒻と豚多め! こんぶ!」
「焦らなくて良いので、ゆっくり食べてくださいね」
 二人のやりとりを見て、他の忍達がクスクスと笑う。
 特に凝ったことはしないのに、とにかくその上忍はイルカの作る炊き出しを好きだと言ってくれていた。おにぎりも塩加減が丁度良いと言って喜んで食べてくれる。他の忍にもイルカの炊き出しは好評で、多めに作ってもすぐに無くなってしまう。
 人に喜んでもらえると、それだけでイルカは嬉しい。今日はずっとここにいて、朝が来るまで何かを作っていたいと思った。そうすれば寂しくなんかない。
「また食べてない方、誰かおられますか?」
 大きな鍋からトン汁がどんどん減っていき、あと一人か二人分しかなくなったところでイルカは自分の炊き出しの一番のファンの上忍にそう訊ねた。
「カカシだけじゃねーかな? でもアイツ、いらないって言ってたけど」
 しかし答えたのは、イルカのおにぎりを口いっぱいに頬張っていた上忍ではなく、側にいた中忍だった。
 カカシの名前を耳にしてイルカの胸が跳ねあがる。
 しかし、彼はいらないと言っていた。
 だから胸が痛い。きっと自分が作ったものだからだ。だから胸が痛い。
「食うと思うぞ? お前が持って行けば、アイツ、食べると思う」
 おにぎりを嚥下した上忍は、指に付いた飯粒を舐め取ってそう付け加える。それからイルカを見て優しく微笑み、持って行けと言うように顎をしゃくった。
 イルカは迷う。
 持って行っても食べてくれないかもしれない。それどころか無視される可能性が高い。蔑んだ目で見られるかもしれないし、それに酷い言葉を吐かれる可能性だって、それだけじゃなく、
「良いから、持ってけって」
 イルカの戸惑いは上忍が言葉で絶ち切ってくれた。
 上忍の思いやりに心を決め、イルカは炊き出しを盆に載せてカカシの元に行く。



「お疲れ様です」
 声を掛けてから歩調を緩め、ゆっくりと近付く。
 外套で防寒したカカシの視線は真っ直ぐに外壁の外に広がる森に向けられ、そこから微動だにしなかった。
「炊き出し、持って来ました」
 そこに置かれた簡易椅子の上に盆を置き、イルカは静かに息を吐く。
 やはり無視された。
 そしてこの人は、これには手を付けないだろう。俺の作ったものなど、決して口にしてくれないだろう。
 イルカはもう一度静かに息を吐き、踵を返そうとした。
 ここにいても沈黙が重なる一方だし、胸の痛みも増す一方だ。彼は自分の存在が近くにあるだけで嫌がるだろうし、きっと自分を見てもくれない。一瞥すらくれない。蔑んだ視線もくれない。
 存在自体を疎まれているのならば、早く立ち去ろうと。
「……雪」
 しかしその時、カカシが小さな声でそう呟いた。
 見上げれば灰色の空から白い雪がひらりひらりと舞い落ちて来る。歩哨に立つカカシとそこに佇むイルカの頭や肩に、雪はひらりひらりと舞い落ちて来る。手を繋ぎ合う小さな子供のような無邪気さで、空から真っ白な雪が降りて来る。

 それは昨晩少女が待ち望んでいた、空の気遣いだった。
 少なくともイルカはそう思った。
 そして雪は、自分の隣で「後悔してない。諦めない」と言った少女の、凛とした美しさをイルカに思い出させた。

「貴方の箸も茶碗もコップも、ハブラシだってまだ捨ててません。貴方が俺の家に置いていったものは、どれもこれも何一つ捨てていません。俺は……俺は貴方と別れたなんて思ってない。貴方のことを諦めてもない。諦めるつもりだってない」
 痛む胸や怖気づく心を叱咤するように、イルカは自分のマフラーをぎゅっと握り締めてそう告げた。
 イルカはカカシを諦めるつもりなんてなかった。諦められるわけもなかった。ずっと胸の内であたためていた恋は、去年思いがけず実を結んだ。その後始まったカカシとの生活は正に夢のようで、イルカを幸福な海に沈めた。愛と思いやりに満ちた海だった。もう他の誰もいらないと思った。
 今もそう思っている。
 カカシ以外、もう誰も愛せない。
 だから諦めるつもりなんてない。
「炊き出し、俺が作りました。もし良かったら食べてください」
 反応しないカカシに頭を下げてそう告げ、イルカは小さく苦笑する。自分の声が惨めに揺れていたからだ。
 後悔してない、諦めないと断言した少女に比べ、自分はなんて弱いんだろうと思った。恋の切実さはどちらも同じ、なのに自分は根性がないと。
 それから、あの少女はなんて強い子なんだろうと少し羨ましく思った。
「箸も茶碗もコップもハブラシも、全部取っておいてくれてるのは知ってる」
 真っ直ぐに森を眺め続けていたカカシが低く呟く。
 無視されるだろうと決めつけていたイルカは、驚いて顔を上げる。
「どうして」
「だって俺、イルカ先生の家に毎日行ってる」
 思いもよらぬ言葉に呆然とすると、カカシは少し怒っているような口調で続けた。
「イルカ先生が変なのを家に上がらせるかもしれないと思って、毎日行ってる。寒がりな貴方をあたためようと毎日傍にいる。でも貴方がまだ怒ってる気がして……どうすれば良いのか分からなくて。でも少しでも傍にいたいから毎日通って、イルカ先生の膝の上で眠る。寒い寒いって言うから影分身であたためたり」
「あれ……あれ貴方の仕業だったんですか! 窒息死させるつもりだったんですか!」
「寒いって言うから! 一人は寂しいって言うから!」
 大声を出し、カカシがやっとイルカを見遣った。
 怒っているような声とは裏腹に、その顔は今にも泣き出しそうに歪んでいた。

 雪が降る。
 空は二人を気遣って、真っ白な雪をひらりひらりと舞い降らせる。

「仲直りしましょう」
 イルカは優しくそう言った。
 カカシは小さく頷いて、それから少しだけイルカに近付く。
 イルカが先に手を伸ばし、カカシがそれに応えるようにイルカの身体を抱き締めた。
 仲直りしたい、とカカシが言う。
 仲直りしましょう、とイルカは言う。
 互いの気持ちが分かり、二人は安堵しキスをする。抱き締めて、頬を擦り寄せて、好きだと気持ちを告げ合って、寂しかった辛かったと心を告げ合って、ひらりひらりと雪が舞う中、キスをする。

 初めて喧嘩したから、仲直りの仕方が分からなかっただけなんだ。



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