月光が踊る世界

 除夜の鐘が鳴るまでもう少し。
 眼下に広がる森は穏やかに口を閉じ、ただのんびりと新年の訪れを待ち構えている。
 昼すぎから降り始めた雪は瞬く間に里を白銀色に塗り替えた。その勢いは随分と緩んだものの、歩哨に立つカカシの頭や肩に今も雪はひらりひらりと舞い落ちてくる。舞い落ちては積もっていく。手を繋ぎ合う小さな子供のような無邪気さで降り積もっていく。

「寒いですね」
 その声に驚き振り返ると、手袋と外套、それにマフラーで防寒した中忍は寒そうに身を縮ませながらトンと跳躍しカカシの側にやって来た。
「カカシさん、お疲れ様です。今日はやけに降りましたねー」
 労いの言葉に対する返事も忘れ、カカシは半ば呆然と隣に並んだ彼を見詰める。
 まさか向こうから来るとは思わなかった。今晩彼が歩哨に立つことは知っていたが、それでもこうして会いに来るとは全く予想していなかった。
 彼はカカシの隣に並ぶと嬉しそうに目を細めて森を見遣る。
 寒さで鼻の頭を赤くし、今年初めての大雪に興奮して目を輝かせているその様はまるで彼が普段相手にしているアカデミーの生徒達のようだ。
「イルカ先生も、お疲れ様。休憩?」
 冷静さを取り戻してそう問うと、イルカは雪に覆われた森からカカシに視線を移してはいと答える。
「火、当たりに行かなくても良いの?」
「良いんです」
「寒くない?」
「マフラーありますから」
 イルカはどこか得意気に返事をし、照れくささを吹っ切るようにニカっと笑う。
 カカシはそんなイルカを見て眩しそうに瞬きをすると、するりと視線を外して森を眺める。
 一面を覆う雪は厚い雲の向こうから射す微かな月光を難なく拾い受け、柔らかな単一の色彩を二人に見せていた。カカシは雪によって描かれるその無口な世界が嫌いではない。
「カカシさん、正月は毎年どうなされてるんです?」
 イルカが再び森に視線を戻してそう問う。
「任務ない時は家でのんびりしてるよ。イルカ先生は?」
「俺はアカデミーや里の行事の手伝いですね」
「今年も?」
「ええ、餅つきです。子供達と一緒にぺったんぺったん」
 そういうの似合うよねと可笑しそうに笑う上忍に、あれは意外と体力使うんですよと返しつつイルカも笑う。
 それからカカシ自身が意外に思えるほど自然に、幾つかの話をした。いつも読んでいる本は何か、任務がない日は何をしているのか、最近見た映画は何か、良く行く定食屋の話などを。
 カカシはずっと森を見ていた。
 イルカもまた、同じように白い森を見ていた。

「そう言えば、さっき何で気配消してたの?」
「いつです?」
「ここに来る時」
 意識を里の外に向けていたとはいえ、人が近付けば気配は感じる。それがイルカの気配であれば尚更カカシは敏感にそれを察することが出来たはずだった。
「驚かそうと思って。本当は背後に立ってから声をかけたかったんですが流石にそれは無理だと諦めました。でもギリギリまで頑張ってみた甲斐ありましたよ」
 カカシさんの驚く顔が見れた。
 そう言ってイルカはニシシと笑う。それは何をしでかすか分からない自分の小さな金髪の部下を彷彿とさせて思わず笑みが零れる。そして、そうやって息を潜めて自分の元にやって来た彼を想像して笑みを深くし、自分の驚く顔が見れたと喜ぶ彼が楽しくて思わず口元を押さえた。
「なに笑ってるんですかー」
「だって」
「あ、分かった。中忍の気配に気付かなかったから悔しいんですね! う、俺としたことが一生の不覚!とか思ってるんでしょ」
「まさか。貴方の忍としてのセンスは相当なものだと思ってますよ」
 誉めるとイルカの頬が赤くなる。先程まで悪戯を成功させた子供のように笑っていたその顔を見事なほどに真っ赤にさせ、顔を横切る傷をポリポリと掻いてはイルカは何やらモゴモゴと口籠っている。
 木の葉の忍の質の高さは他里に比べ群を抜いている。だからこそ教育の重要さを理解しているし、忍を育てるアカデミー教師も選び抜かれた者が任命されてきた。子供達に忍としての基礎を教え込み忍としての一生の基盤を固めるアカデミー教師は希望を出せばそれになれるというわけではなく、実力や教師としての適性を調べ上げられ上層部の厳しい適任審査を通った者のみが漸く教職に就けるのだ。
 カカシはそれを知っている。だが、当の本人であるイルカにその自覚はないらしい。
 可笑しくて、カカシはまた笑う。
 イルカもつられて笑う。

 何もない単調な日々は、彼が現れたことによって色を変えた。
 色を変え意味を変え、成り立ちを変えた。
 例えば雪。
 カカシはずっと雪が嫌いだった。雪はあらゆるものを問答無用で覆い尽くし世界を白く染めていく。雪に覆われた世界は生命の息吹を閉ざされ、温もりを奪われ、形を奪われ、そこに残るのはまるでカカシ自身のような冷たく無機質な風景だけだと思っていた。

「カカシさん」
 呼びかけられ、カカシはイルカに視線を遣る。
 しかしイルカは赤い鼻をスンと吸って、雪が舞う空を一心に見上げていた。
「なに?」
「俺ね、今年のイブは凄く良い日でした。すっごく良い日でした」
 酷く真っ直ぐな視線を空に向け、イルカはとても素直な声でそう言う。
「奇遇ですね。俺も今年のイブは良い日でした」
 カカシも自分とは思えないほど素直な声でそう言った。
 じっと雪が舞い落ちるのを眺めていたイルカがカカシに身体を向けると、熱を孕んだ黒い瞳は躊躇うことなくカカシを捉えた。
 二人の間に雪は舞う。
「雪、積もってる」
 カカシがイルカの髪の上に降り積もった雪を優しく払う。それから肩の上の雪も。
 白い吐息が少しだけ近付いた。
 僅かな沈黙が落ちる。
 それは白く静寂な夜の空気に浸透し、二人を包み込む。
 カカシの右手が動き、イルカの頬を指先で触れようとした。だが触れる寸前でカカシの指は止まる。
 そのまま探るように見詰め合うと、イルカの手がゆっくりと動きそれがマフラーの端を握る。
 迷いのないイルカの視線に誘われ、カカシはほんの少しだけ、そっとイルカの頬に触れた。

 深々と雪は降る。
 墨絵の世界に雪は降る。

 人の気配に二人が振り向くと、外壁の上を二人組の中忍がダラダラと歩いて来るのが見えた。カカシが手を上げると、炊き出しの豚汁食べますー?と能天気な声がかかる。カカシが頭の上でバツを作ってそれに応えると、二人組は、一応残しておきますー!と声をあげてまたダラダラと戻って行った。
「炊き出しの豚汁美味しいですよ」
「いつ食べたの?」
「作ってる時」
「イルカ先生が作ったの?」
「はい」
「じゃあ食べよ」
 カカシの言葉にイルカは嬉しそうに笑い、鼻をスンスンと鳴らしながら何かから逃げるようにそこにしゃがみ込んだ。足元の雪を掻き集め、それを握って雪玉を作る。そうして雪玉を二つ作ると、今度はそれを転がして徐々に大きくしていく。どうやら雪だるまを作るつもりらしい。
 自分の足元でせっせと雪と戯れるイルカの隣で、カカシはイルカに触れた部分を親指の腹で静かに触ってみた。人差し指と中指。
 そこだけ熱い。
「俺ね、好きな人ができて好きなものが増えたんです」
 唐突なカカシの言葉に、イルカは一瞬雪玉を転がす手を止めた。
 そうしてピタリと動きを止めた後、また手を動かし始める。
 カカシは白く滑らかな森を眺めながら、独り言のように言葉を続けた。
「雪なんて大嫌いでした。足跡残りますから任務し難いし、何よりも雪に覆われた世界が嫌だったんですよ。冷たくって物音がしなくって寂寞とした孤独しか感じなかったんです。何もかも閉ざしていく雪と閉ざされた世界が心象風景みたいに感じましてね。でも、好きな人ができてから雪って綺麗だなぁって思うようになったんです。雪ってほら、よく見ると綺麗じゃないですか。結晶が子供みたいに手を取って固まって降りてくるなんて、何だか楽しそうだなぁと。雪に覆われた世界も、これはこれでとても自然でとても美しいものなんだなぁって思うようになったんです。それでね、そう思うようになったのは、たぶん好きな人が雪が好きだからなんです。その人の好きなものを、俺もどんどん好きになってきましてね、今じゃ好きなものだらけ」
 カカシはそこでふうと大きく息を吐き出し、白い吐息が現れては消えていくのを眺める。
 イルカは黙々と雪だるまを作っている。
「大晦日も嫌いだったんですよねー。一年が終わるからって何だって言うんだろうって思ってました。日捲りカレンダーの中の一枚じゃないか、燃えるゴミの日と何が違うんだ、そもそもその年を振り返ったってロクなことしか思い浮かばないって。でもね、今日は楽しみだったんです。俺ね、イブの日に好きな人に会えましてね。それは本当に偶然だったんですけど、今日はその人が歩哨に立つって知ってましたから」
 俺、会いに来たわけです。
 そう言って笑い、カカシは口を閉じた。

 雪は楽しげに舞い続ける。
 眠り続ける動物達を様々な雑音や複雑なしがらみから守るように。

「俺も今日は楽しみだったんですよ」
 膝の高さほどになった雪だるまに満足し、イルカは言う。
 形を整えると雪を掻き分けて小枝を見つけ出すとそれを雪だるまに差し込み、目の部分に小石を付けた。
「正月にですね、アカデミーで餅搗きをした後に皆でお雑煮を食べるんです。それ、俺が作るんですよ。俺の母がお雑煮作るの得意な人でして、その味を知っている三代目がそれを恋しがりましてね。イルカ、お主はあれを作れんのかーって。それで俺が作ることになったんです。覚えてますからね、母の味は。出汁に凝る人でしたから完璧に再現出来るかどうかは分かりませんけど、どんな材料を使っていたかは分かっているのでそれに近いものなら作れるし」
 イルカは完成した雪だるまの頭をポンと叩いて立ち上がる。
 大きく背伸びをして、息を吸い、ゆっくり吐き出した。
「それでね、俺の好きな人にもそれ、食べて欲しいなーって思ってるんです。新年早々の希望!野望?願望? まぁそんなところです。俺、イブの日にその人から凄く素敵なもの貰ったんで、そのお返しにって。それでですね、調べてみたところその人、大晦日の夜に歩哨に立つらしいってことを知りまして。偶然俺も歩哨に就く日だったんで、こりゃ良い、思い切って誘っちゃおう!って思って」
 俺も会いに来たわけです。
 イルカはそう語ると夜空を見上げ、ひらりひらりと舞い降りて来た雪を手で受け止める。
「奇遇ですね」
「本当に。お互い好きな人に会いに来たんですね」


 雲の隙間から月光が射し、夜の森は柔らかく美しく光を唄った。


「じゃ、俺は向こうに戻りますんで」
 そう言ってイルカは歩き出す。
 ザクザクと足音を立てて歩くイルカの姿が遠のいていく。
 月光を反射し薄く輝く世界に、イルカの後姿だけが妙に映えて目に焼き付く。
 それはまるで一枚の絵のようで。

 世界は白銀。
 月光が踊る世界。

 遠のいたイルカがふと振り返り、大声で訊ねた。
「カカシさん、お雑煮に入れるお餅何個ーー!?」
「二個ー!」
 カカシも大声で答え、それから二人でクスクスと笑った。

 イルカが去ると分厚い雲に月は隠れる。
 カカシはその場にしゃがみ込み、イルカが作っていった雪だるまを覗き込んだ。
 それには、顔を横切る傷がひとつ。
 じんじんと熱が引かない指先で、カカシは何度も何度もその傷がある雪だるまの頬を撫でる。
 遠くで除夜の鐘が鳴り始めた。

 雪は降る。
 全ての者の上に雪は降る。
 小さき者、老いた者、傷付いた者、優しき者、醜き者、美しき者、恋する者の上に雪は降る。

 深々と雪は降る。
 墨絵の世界に雪は降る。
 二人が新年を迎えるまで、あと少し。


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