イブの夜に歩哨に立つ輩は大抵、頑固者、偏屈者、卑屈者、失恋した者、単にすることがない者、日々を静かに過ごしたい者、冷ややかな者、それから――。
「寒いですね」
その声に驚き振り返ると、マフラーと外套で防寒した猫背の上忍はのんびりとした歩調で近付いてイルカの隣に立った。
「カカシさん、お疲れ様です」
労いの言葉にカカシはどーもと気の抜けた返事をし、里を囲む外壁の上からどこまでも続く森を眺める。
丸まると膨らんだ月は優しく森を照らし、冬特有の澄んだ空気はいっそ清々しい。夜空にはオリオンが美しく輝き、月の左側にひとつだけふっくらとした雲が控え目に浮かんでいた。背後にある里の中心は今どんちゃん騒ぎの真っ只中なのだろうが、二人が立つ外壁までその喧噪は届かない。
イルカは手袋をしたまま口に手を当て、そこに息を吹きかけた。その手袋はまず色が悪く、形も悪く、ついでに左の中指の部分に穴が開いており、その上何故かどこか軍手のように見える代物だった。それは元受け持ちの生徒だった下忍のくのいちが好きな子の為に編んだものだったのだが、初めて編み物をしたらしいそのデキがあまりに悪かったために彼女がイルカに寄越したのだ。しかし、せんせ、女の子から手編みの手袋なんて貰ったことないでしょ?と、悪気もへったくれもなくそう言い放ったその元生徒の目には、半分からかい、しかしもう半分は毎日寒そうに手を擦り合わせている自分への思いやりがあるとイルカは見抜いていた。だからイルカはその手袋を大切にしていた。
息を吹きかける度に少し温まる指先を感じながら、イルカは隣の上忍のことを想う。
「イルカ先生。ここ、朝まで?」
「ええ。カカシさんは?」
「俺も朝まで」
写輪眼のカカシが見張りだってよ、と焚火にあたりながら休憩中に同じ見張りの仲間達が話題にしていたことをイルカは思い出す。
「カカシさん、珍しいですよね歩哨なんて。自主的? さてはカカシさん、女性から逃げてますね?」
イルカのからかうような声に、カカシは口布の下で苦笑する。実際にイブにカカシを誘う女は多い。
「ま、それもありますけどね。イルカ先生は今日はどうなされたんです? この日は毎年大勢に囲まれて楽しく飲んでるみたいなのに」
「ああ、あれは今年はパスしました。あれ、クリスマス抹殺会なんですよ。どういう会かと言いますと、モテない男どもがここぞとばかりに集まってですね、イブの夜にぐでんぐでんになるまで飲み明かすんです。そうすると次の日は酷い二日酔いで、もうくだらないこと考える暇もなくてですね、布団の中でうんうん唸ってる間にクリスマスなんて終わっちゃうんです。面白いでしょう?」
「えらく自虐的な会を発足させたもんですね」
「受付連中は基本的に馬鹿なんですよ」
イルカはへへっと悪戯っぽく笑ってから、ふと感じた寒気に大きく身震いした。イルカも外套と手袋で防寒しているものの、夜が更けるにつれて冷え込みは厳しくなってきている。
カカシは真っ直ぐに森を見据えていた。
ほうほうと、梟が鳴いているのが聞こえる。
「カカシさん、裏の方でしたよね、持ち場」
「ん」
「どうなされました? こっちに何か気になることでも?」
「いや」
休憩に入ったからと付け加え、カカシはマフラーの端に手を伸ばした。しかしそこを握ったまま何もしない。
ただ真っ直ぐ森を見ている。
里を覆う結界の外まで見回りに出ていた暗部が数人、里に戻って来るのがイルカの目に映った。そして、隣の上忍はその中の誰かを待っていたのかもしれないと思った。
イルカは彼とそれほど親しい仲ではなく、たまに少しだけ立ち話をする程度だ。休憩に入ったからと言ってわざわざ彼がイルカに会いに来たはずがないのだし、そこには何か目的があったのだろうと思っていたからだ。
しかしカカシは暗部が戻ってもなお動こうとはしなかった。先程と何も変わらず片手でマフラーの端を掴んだまま、じっと森を眺めている。
木の葉の里はそれなりに広い。カカシはイルカのいる場所と正反対に位置する外壁の見張りを担当しているはずであり、それは気紛れにふと顔を出すような距離ではなかった。休憩用に使われている場所には火が焚かれ、そこで皆身体を温めるのが通例であり、休憩場所は要所要所にポツポツとある。
イルカは本当にカカシがここに来た理由が思い当たらなく、不思議に思えた。
またほうほうと梟が鳴く。
会話は途切れたままで、イルカはもう一度息を当てて手を温めた。そうしながら会話を探した。
「で、イルカ先生は今年はクリスマス抹殺しないの?」
ナルトの話でも、と思っていたところで話し掛けられる。
「ええ、今年は大人しくクリスマスに苛められようかと」
「彼女でもできたのかと思いましたよ」
「いたら今日の歩哨だってパスしてます」
笑おうとしたが、そこでイルカはまた大きく身震いする。身じろぎもしなかったカカシがそこで漸く手を動かし、マフラーを外してイルカの方を向いた。
イルカもまた、首を傾げてカカシを見る。
銀髪の上忍は顔のほとんどが口布と額当てで隠れており、表情が読めない。唯一露になっているその右目からもイルカは何も読み取ることは出来なかった。
カカシは何も言わず、ゆっくりと腕を上げる。
イルカの首元にまだカカシの体温が残るそれが触れ、ふわりと柔らかな
ふとすぐ眼下で藪が揺れる音がし、二人は瞬時に忍の目でそこを注視する。
だがひょっこりと顔を出した狐の姿を目にして二人はまた同時に視線を互いに戻し、僅かに笑みを浮かべた。
カカシの腕が再度ゆっくりと動き、ふわりと柔らかなマフラーがイルカに巻かれる。
「貴方、ずっと寒そうで」
「カカシさんずっと森の方見てたじゃないですか」
揶揄するイルカの言葉に返事をせず、カカシはマフラーを丁寧に結ぶ。
「有難うございます。俺遠慮なく御厚意に甘えちゃいますよ。カカシさんは寒くないんですか?なんて聞きませんよ。カカシさんの休憩終わるまで借りちゃいますから」
「それ、あげる。イルカ先生持ってないでしょ、マフラー」
確かにイルカはマフラーを持っていなかった。去年の春先に使い古したものを捨てたので、今年は新しいものをと思っていたのだが結局買わずじまいだったのだ。しかしイルカはカカシとそれほど親しくはなく。
「貰ってよ」
返事をしないイルカに、カカシが小さな声でそう言う。
イルカはじっとカカシを見詰め、それからとても嬉しそうににっこりと笑って礼を言った。
僅かな沈黙が落ちる。
それは蒼く透明な夜の空気に浸透し、二人を包み込む。
カカシの右手が動き、イルカの頬を指先で触れようとした。イルカはただ真っ直ぐにカカシを見詰め、カカシもまた真っ直ぐにイルカを見詰めていた。
だが、結局その指先はイルカには触れずに下ろされる。
「俺ね、好きな人がいるんです」
突然のカカシの言葉にイルカは思わず目を伏せた。カカシはそこで一旦言葉を区切り、先程までそうしていたようにまた森を眺めた。
「イルカ先生は?いる?好きな人」
訊ねられ、イルカも体を森に向けた。
大きな月を見上げ、自分が吐いた白い息が現れては消えていくのを眺める。
「います。好きな人」
ほうほうと梟が鳴く。
華やかだろう里内に比べ、眼下に広がる森と頭上にある月はあまりにも静かで穏やかだった。
「どんな人?」
会話など終わってしまったと思えるほど長い間を置いてから、カカシがポツリと訊ねる。
イルカは白く輝く月を見上げながら少しだけ目を細めた。それから長い逡巡の後、何かを決断したかのように清澄な表情で口を開ける。
「尊敬できる人です。仲間思いで、実力者なのに全然偉ぶったところがなくて。ずっと憧れに近い感情は持っていたのですが、去年のイブにその人が……こう、異性に口説かれているのを偶然見かけてしまいましてね。俺、その時凄く胸が痛くなって。何て言うか、妙に辛くて、自分の中にみっともない感情が溢れそうで、そういうのも本当に嫌で。でもそれで、ああ俺はその人に憧れてたんじゃなくて、好きだったんだなぁって自覚をしました。まぁそれでも普段は受付なんかでたまに見かける程度しか接点なんてないんですけどね。特に親しくしてもらっているわけじゃないんで。でも挨拶してもらえるだけで嬉しかったりするんです。その人におかえりなさいって、お疲れ様でしたって言えるだけでも嬉しかったりするんです」
イルカはカカシに巻いてもらったマフラーの端を手で掴み、輝く月を見上げながらそう語った。
そして小さく息を吐くと、視線を森へと戻した。
「実は今日、その人が口説かれてるのをまた偶然見てしまうのが怖くてこうして歩哨にやって来たわけだったりするんですよ。その人本当にモテる人でして、里内にいるとどうしても色々見たり聞いたりしちゃうんで」
俺、逃げてきたわけです。
そう言って笑い、イルカは口を閉じた。
イルカはマフラーの端を握り続ける。
カカシは黙って月に照らされる森を眺め続ける。
「カカシさんの好きな人は、どんな人なんです?」
会話など終わってしまったと思えるほど長い間を置いてから、イルカがポツリと訊ねる。
カカシはイルカの声が聞こえなかったかのように黙りこくっていたが、やがて大きく息を吸い込み拳を握って口を開いた。
「尊敬できる人です。いつも笑顔で真っ直ぐでね、優しくて何でもちゃんと受け入れてくれる人。俺はずっとその人が好きでした。でもね、その人は人気者で、みんな本当にその人が好きなんです。誰からも愛される人なんですよね。でも本人にその自覚なし。そんな人。俺もね、その人とは挨拶する程度なんですよ。それだけでも嬉しいですよね。でもその人、手編みの手袋なんてもらったりするんですよ。それでそれを大切にしてるんですよ。そういうの見ると参っちゃいますよホント。去年のイブも偶然その人を見かけたんですけど、肩は組まれてるわベタベタ触られてるわ罰ゲームか何かで同僚とキスしてるわ。参っちゃいますよホント。だからね」
俺も逃げてきたわけです。
そう一気に語ると、カカシはフウと大きく息を吐いて握っていた拳を緩めた。
「奇遇ですね」
「本当に。お互い好きな人から逃げて来たんですね」
ひゅるりと音を立てて、一陣の風が舞った。
「じゃ、俺は向こうに戻りますんで。イルカ先生、またね」
そう言って歩き出すカカシに、イルカは慌ててマフラーを掴んだまま頭を下げた。
「マフラー、本当に有難うございました。俺、凄く凄く大切にしますから」
カカシは手を上げてそれに応じ、その場から去ろうとした。
しかしすぐに足を止め、振り返ってイルカを真っ直ぐに見詰める。
「ねぇイルカ先生。去年の今日、俺は貴方を見たよ」
「奇遇ですね。俺も貴方を見ました」
イルカも真っ直ぐにカカシを見詰める。
ひっそりとした夜の闇の中、互いの視線が強く絡み合うのを二人は感じた。
イルカがクスリと笑う。
カカシもクスクスと笑い、今度こそ去って行く。
イルカはカカシの後姿が見えなくなると両手でマフラーを掴んで持ち上げ、微かに残る元の持ち主の匂いを胸一杯に吸い込んだ。
丸まると膨らんだ月はどこまでも優しく森を照らす。
ほうほうと、梟が楽しそうに笑う。
イブの夜に歩哨に立つ輩は大抵、頑固者、偏屈者、卑屈者、失恋した者、単にすることがない者、日々を静かに過ごしたい者、冷ややかな者、それから――。