今日もイルカ先生は、目覚まし時計が鳴る寸前にバネ仕掛けの人形みたいに飛び起きて目覚ましのボタンをブン殴った。
そりゃもう、朝が来ると鳴く鶏みたいに正確に毎朝それをするんだ。ガバ!って起きてバコ!っと殴る動作をね。前に一度だけ、何でそんなに力一杯ブン殴るの?って訊いたら、イルカ先生は、だって目覚まし鳴ったらカカシさん起きちゃうじゃないですかって言ったんだ。本当にそう言ったんだよ。そんな力一杯モノを叩く音がしたら誰だって起きちゃうんじゃないかな、そもそも俺はアンタが突拍子もなくいきなり飛び起きる度にビックリして起きちゃってるんだよ、何てことは言わなくて良いし言う必要もないから、俺は今日も寝てるフリをするんだ。
だってすごく嬉しいじゃない。
イルカ先生は、俺が起きちゃわないようにって毎朝目覚ましが鳴る直前に飛び起きてくれて、朝っぱらから騒音を立てる目覚ましを敵忍殺すような勢いでブン殴ってくれるんだよ。俺のために。
だから俺は毎朝目が覚める度に嬉しいの。すっごく嬉しいの。この目覚ましは俺とイルカ先生が一緒に暮らし始めてから七代目なんだけど、俺は歴代の、イルカ先生によって壊されちゃった目覚ましを全部持ってるんだ。自分の家にね、ちゃんと保管してあるの。内緒で。
だって大事でしょ。全部大事でしょ。
イルカ先生は今、俺の顔をこっそり覗き込んでる。俺が目覚めてしまっていないか確認してるんだ。これも毎朝することで、勿論俺のタヌキ寝入りが成功するのも毎朝のことね。
うん、今朝も成功。
イルカ先生は安心して、任務の時みたいに慎重に気配を消し物音を立てず部屋を出て行った。
居間に行ってカーテンと窓を開けて、それから浴室に行きシャワーを浴びる。スッキリしてから台所で朝ごはんを作り始める。全部手に取るように分かるよ。
フンフンと調子っぱずれの鼻歌を歌いながら、包丁を握ってる。耳をすませればトントンと何かを刻んでる音が聞こえる。鍋を出した音も、冷蔵庫を開ける音も、あ、イルカ先生くしゃみした。
居間に行って、テレビをつけた。いつもの番組にチャンネルを合わせて、また台所に戻って行った。この番組の天気予報が始まるとイルカ先生は俺を起しに来るんだ。
だから俺はそれまで、イルカ先生の音を聴いてんのよ。だってイルカ先生がナスを切ったり味噌汁を作ったり干物を焼いたり、洗濯機を回したり鼻歌歌ったりしてる音だから。イルカ先生の音だから。全部聴いていたいから。イルカ先生の音は全部。
あ、天気予報が始まった。
イルカ先生は今度は寝室の戸を勢い良く開けて、ドカドカと足音を立てて近づいて来る。
「カカシ先生、今日も元気に朝がやって来ました!」
晴れの日も曇りの日もイルカ先生はそう言う。
「イルカせんせ、おはよのちゅーしてくれたら俺起きます」
雨の日も雪の日も俺はそう言う。
でもイルカ先生はしてくれないんだよね。ケラケラ笑って、俺の頭をパコパコ叩くだけ。捕まえようとして腕を伸ばしても、逆に捕まって布団から引き摺り出されたりしちゃう。イルカ先生を内勤の中忍だからって馬鹿にする奴は痛い目に遭うよ。俺だって本気出さないと敵わないんだから。それに前に一度、構って欲しくて布団の中に潜り込んでいくら呼ばれても出なかったことがあるのよ。本当にただ構って欲しかっただけだったんだけど、と言うかおはよのちゅーをして欲しかっただけなんだけど、イルカ先生はいい加減にしなさい!って怒って、布団をひっぺがえして俺の頭をフライパンで殴った。容赦なかったよあれは。だって俺、たんこぶできたもん。
とにかくね、布団の中でグダグダしてたら駄目なの。イルカ先生怒る。
だから俺は今日も頃合いを見計らってちゃんと起きて、イルカ先生におはよのちゅーをした。イルカ先生は照れて自分からはおはよのちゅーしてくれないけど、そんなの平気。イルカ先生ができないなら、俺からすれば良いだけのことだからね。
シャワー浴びて来てくださいって言うから、俺はさっさとシャワーを浴びる。その間にイルカ先生は朝ごはんの支度を整えてくれる。
で、俺がサッパリして浴室から出ると実際に朝ごはんの準備は万全で、俺は服を着て卓袱台の前に座って手を合わせる。
「いただきます」
二人でちゃんと言う。そんでイルカ先生と一緒に朝ごはんを食べる。
あったかい朝ごはんを食べる。
湯気が出ている朝ごはんを食べる。
そういうのって凄いよね。本当にすごい。イルカ先生のごはんは誰が作ったものよりもおいしくて、あったかい。
イルカ先生はきっと知らない。
イルカ先生の朝ごはんが、どんな忍術よりもどんな血継限界よりも凄いってこと。
朝ごはんを食べ終えるとごちそうさまをして、じゅんばんこで歯を磨いて、出勤の準備をする。
俺は神経質に脚絆を巻いて手甲を嵌めて、額当てで写輪眼を適当に隠す。イルカ先生は物凄く几帳面に髪を括って丁寧に額当てをして、素早く脚絆を巻いて適当に鞄を肩にかける。
そうして二人で家を出る。
二人で並んで歩く。最初の四つ角を右折、すぐ右折、次は左折、三叉路を右、それから途中で用水路がある脇道に入る。天気が良い日はね、そうやって裏道から裏道へどんどん進むんだ。イルカ先生に教えてもらったの。ここ通ると早いんですよーって。雨の日のルートはちょっと違うけど、やっぱり面白い道を通るよ。イルカ先生曰く、傘がなくてもあんまり濡れなくて済む道、なんだって。
イルカ先生はね、木の葉の里の色んな抜け道を知ってるんだ。森の中も凄く詳しいんだよ。子供の頃に一杯遊んだからだって言ってた。でも普通、いくら一杯遊んだからって里中の用水路の配置や生態系まで知らないと思うんだけどな。ま、イルカ先生は凄いってことだ。
アカデミーに到着すると、イルカ先生は俺に手を振って職員室へ向かって歩いて行く。俺はそれを見送って、慰霊碑に向かう。
今日は待機してろ。とのことだったから、俺はオビトとの会話を終えると上忍待機所へ行く。と見せかけてイルカ先生の授業を盗み見に行く。
イルカ先生の授業を見るの趣味なんだよね、俺。
ほんとうに真面目な顔をして、イルカ先生は生徒たちにサバイバルの話をしている。生き残るために必要なのは冷静な状況判断、冷静な状況判断を下すには正しい知識が必要になると、ほんとーーに真面目な顔をして生徒たちに教えている。正しい知識の必要性を半分脅しみたいに説いてから、イルカ先生は詳しい授業に入る。
まずは水。
これ以上なく丁寧に、分かりやすく水について教えてくれる。水の必要性と摂取の仕方は、忍として生きていくには欠かせない知識のひとつだ。食糧って忍ともなると意外とどうにかなるもんだし、兵糧丸の支給もあるけれど、水は違うからね。
イルカ先生って凄いなー。
イルカ先生の授業って、基本の基本から全部教えてくれるんだよね。俺だったら当たり前すぎて端折っちゃう部分も、ちゃーんと分かりやすい言葉にして教えるの。そういうのって本当に凄いなー。
午前中の授業が終わると、お昼。
俺とイルカ先生は一緒に食堂でお昼ごはんを食べる。
イルカ先生はね、ラーメン各種、うどん各種、そば各種、焼きそば、夏限定で冷やし中華、そのどれか。あのね、イルカ先生は麺党なの。うん。
だからね、あのね。
俺もイルカ先生と一緒にお昼ごはんを食べる時は、麺類にするの。そうして二人で麺類を食べるわけ。食堂の窓際の小さなテーブルに陣取ってさ、二人で座って手を合わせていただきますって言って食べるわけ。
今日のイルカ先生のお昼ごはんは、きつねうどん。俺は焼きそば。
凄いよね、イルカ先生と一緒にお昼ごはん食べれるなんて。一年前の俺からすると、もう奇跡みたいなもんだから。ずっと片思いしてて、一緒にお昼食べませんかなんて声もかけれずに離れた席に座ってさ、あ、今日はイルカ先生ラーメン定食だな、今日は焼きそばだな、一緒に座ってる人は誰だろう、同僚なのかな、なんて思ってた頃に比べると、今のこの状態なんて奇跡としか言いようがないでしょ。
俺はね、外で素顔をあまり見せないようにしてるから、バカみたいに早喰いなの。熱かろうが冷たかろうが関係ないんだよね、お腹に入っちゃえば。だから食堂で食べる時も本当はすぐ食べ終えちゃうんだけど、いっつも半分残して、待ってる。イルカ先生が自分の分を半分食べるまでね。
イルカ先生は何でもとても美味しそうに食べるんだ。とーっても幸せそうな顔をしてね。
そういうのって凄いよね。凄いことだよ。何かを食べておいしいと思えることって凄いことなんだ。忍なんて稼業してたら、そんなこと思わなくなるし思えなくなる。イルカ先生だって内勤だけど優秀な忍だよ。でもこんなに幸せそうな顔してきつねうどん食べれる。
でもイルカ先生の凄いところって、それだけじゃない。
イルカ先生が幸せそうにきつねうどん食べてるところを見ると、俺まで幸せになれるんだ。食堂のさ、窓際の席でお昼食べてるだけなのにね。
イルカ先生とお昼食べてるって、それだけなのにね。
「んー」
「ん」
きつねうどんを半分食べ終えたイルカ先生がそう合図するから、俺はにっこり笑って返事をする。
トレーごと持ち上げて、俺のは上から渡して、イルカ先生のは下から貰う。一緒にお昼ごはん食べる時は、いっつもこうやって半分残してかえっこするんだよね俺たち。
最初は、イルカ先生があまりに美味しそうにラーメン食べるから、何だかイルカ先生が食べてるラーメンを食べたくなったのよ俺。それでかえてもらった。次にラーメンを注文して食べてみたけど、今度はイルカ先生が食べてた焼うどんが食べたくなった。んで、かえっこしてもらった。そうやって毎回かえっこしてもらってたら、イルカ先生と俺の間には「お昼ごはんかえっこ黙契」みたいのがいつの間にかできあがってた。
だから今日もかえっこ。
俺はイルカ先生とお昼を食べれる。
イルカ先生にかえっこしてもらったきつねうどんを食べれる。
お昼ごはんが終わるとバイバイして、イルカ先生はアカデミーに戻っていく。俺は待機してろとの命令なので上忍待機所へ行く。と見せかけてイルカ先生の授業を盗み見に行く。
午後からの授業は、手裏剣の実技だ。
演習場へ引率するイルカ先生は子供たちに囲まれて、いっぱい笑っていた。あったかくて、全部受け止めてくれるようなイルカ先生の笑顔。
でも演習場へ到着して説明を始めると、すぐに忍の顔になった。
ちょっとでもふざけてる生徒がいると、真剣に叱る。そうやって、これから忍具を扱うんだということを自覚させた。
アカデミー教師って凄いなって、心から思うよ。上忍たちの中にもアカデミー教師をバカにする連中がいるけど、一度授業を見てみると良い。これだけ綺麗で無駄のない見本中の見本みたいに忍具を扱う忍なんてそうそういないよ。俺みたいにロクにアカデミーに行かず戦場へ放り込まれた忍なんて、クセだらけだからね。
でも一番凄いのはやっぱり集中力と忍耐力。
忍具の実技だけあって、イルカ先生は一瞬たりとも気を抜かない。殺傷能力があるものを、まだ忍の卵とも言えないようなチビッコたちが使ってるんだから当然と言えば当然なんだけど、でもやっぱり凄いよ。俺だったらこの生徒たちの数と同じ人数の敵忍に囲まれた方がマシだね。だって殺していけば数は減っていくんだから。
でもイルカ先生は違う。生徒たちが怪我をしないように、授業が終わるまでずっと集中して生徒たちに目を配り続けている。何をしでかすか分からない、わらわらと動きまくっている子供たちから一瞬たりとも意識を離さない。
これだけの数の、理解不能なことをしでかすヘンテコな忍もどきに長時間集中して意識を向け続けるなんて、想像するだけで疲れるよ。ほんと、アカデミー教師って普通の忍じゃできない。
手裏剣の実技授業は途中で生徒同士の不穏な空気も流れたけど、すぐにイルカ先生が仲裁に入ったおかげで何事もなく無事終了した。
それからイルカ先生はいつものイルカ先生に戻って、いっぱい笑って、生徒たちに囲まれて、どーん!って抱きつかれたり女の子から花をもらったり、いたずら小僧に足をひっかけられたりしながらアカデミーに戻って行った。
イルカ先生! イルカ先生!
みんなイルカ先生を呼ぶ。
イルカ先生聞いて! イルカ先生これ見て! イルカ先生知ってる? あのね、イルカ先生。
イルカ先生、イルカ先生って。
アカデミーの授業が終わると、イルカ先生は職員会議に出席した。
真面目な顔をして資料を見ているように見えるけど、俺には分かる。今、イルカ先生はとっても気を抜いている。実は欠伸を噛み殺すことに心血を注いでいる。ほら、目を擦った。
それから資料に目をやったまま、ぼんやりとしはじめた。ぼーっとしていたと思えば、今度はデレデレと笑い出す。多分今晩の音楽番組のことでも考えているんだろう。今日はイルカ先生のお気に入りの焼元モミジちゃんが新曲を歌う日だから。
ああ、イルカ先生モミジちゃんの曲を頭の中で歌い出したよ。頭がゆらゆら揺れてリズムとってるもん。あの独特のリズムは彼女のヒット曲「告白突撃」だなー。きっと次の曲は「告白玉砕」だよ。だっていつものパターンだもん。
で、実際に告白玉砕を頭の中で歌っている途中でイルカ先生は上司らしき人物に名指しで何か言われ、焦って立ち上がったは良いが資料をまき散らしていた。
職員会議が終わると、イルカ先生の本日の業務は終了。今日は受付担当日じゃないからね。
俺はアカデミーの門でイルカ先生を待ち伏せして、一緒に帰る。
イルカ先生と並んで帰る。
途中でスーパーに寄って、特売だったラップと洗剤をホコホコした笑顔で手にしていたイルカ先生。真剣に大根を選ぶイルカ先生。牛乳の日付をチェックするイルカ先生。スーパーのカゴを持って、そういった何でもないものを楽しそうに買うイルカ先生。
それから二人で堤防を歩いて帰る。イルカ先生は、帰りはこの道をのんびり歩くの気に入ってるんだよね。
夕日に染まった里や刻一刻と色を変える雲、ねぐらに帰る鳥達、虫の声、風の音、静かに輝きだす月や星、すれ違うどこかの親子の会話、そういうものに、ひとつひとつ目を細める。そういうものひとつひとつに反応して、俺を見て微笑む。
だからね。
だから俺も、そういうものひとつひとつに、価値があることを知ったんだ。
イルカ先生が教えてくれた。
擦れ違いざまに届く見ず知らずの子供の「ねぇお母さん」って呼びかける弾んだ声ですら、たったそれだけのものですら、価値があるものなんだって教えてくれたの。イルカ先生は本当に愛おしそうに目を細めてそういうものを全て慈しんで、俺にあったかくあったかく微笑みかけて。
そうやって教えてくれたの。
世界はこんなに美しいんだよって教えてくれたの。
イルカ先生のアパートに帰ると、二人でただいまって言う。サンダルを脱いで脚絆を外すと、イルカ先生は俺の額当を外して口布を取ってくれる。それは必ずイルカ先生がやってくれるんだ。
それからイルカ先生は洗濯物を取り込んで、簡単に掃除をする。部屋を綺麗にするとお茶を淹れて一息ついて、それから夕ごはんの準備を始める。俺はお風呂の準備をして、台所で料理をしているイルカ先生と少しお喋りをする。ここは狭いから居間でくつろいでてくださいって今までに何回も言われたけど、そんな勿体ないことできないじゃない。いつだってすぐそばにいたいもん。だから俺は台所に折りたたみ式の小さな椅子を持ち込んで、邪魔にならないようにそこに座ってイルカ先生とお喋りするんだ。でもたまにお手伝いすることもあるよ。お味噌取ったり、お皿取ったり、お鍋の番をしたりね。
今日は何もお手伝いすることがなかったから、俺はお風呂が沸くと椅子を片付けて先にお風呂に入った。イルカ先生と同じ石鹸を使って、同じシャンプーを使う。イルカ先生お気に入りの入浴剤を入れて湯船に入る。
お風呂から出ると、今度はイルカ先生の番。一緒には滅多に入らせてくれないんだよね。だってイルカ先生は照れ屋だから。本当は脱衣所で待っていたいけど、それは駄目なのよ。前に待ってたら場所的にどうしてもイルカ先生の裸を想像してさかっちゃって、思わず風呂場に乱入したら洗面器で思いっきり殴られたんだ。それから、脱衣所での出待ちは禁止になっちゃったのよね。
イルカ先生がお風呂からあがると、二人でビールを飲む。本日の報告会第一弾が始まる。今日こんなことがあったよ、あんなことがあったよって話ね。炊飯器が鳴ったらイルカ先生はお味噌汁を温めなおし、下ごしらえしてあったもので手早く炒め物を作ったりして、夕ごはんの開始。
本日の報告会第二弾も同時に始まる。
褪せた畳、ぺちゃんこの座布団、年代物の卓袱台、古い箪笥、どこかから貰って来たらしいカレンダー、変な土産物の置物、部屋の隅っこに積み上げられた巻物や紙の束、転がってるボールペン、そういうイルカ先生んちの居間。イルカ先生んちの匂い。
醤油入れ、俺のお茶碗、イルカ先生のお茶碗、俺の箸、イルカ先生の箸、いっぱい笑うイルカ先生。
イルカ先生の作った夕ごはん。
おいしいよ。すごくおいしいんだから。もう、言葉にならないくらい、おいしいんだから。
夕ごはんがすむと二人で片付けをして、イルカ先生に持ち帰りの仕事がない限り二人でくつろぐ。
今日は何もなかったみたいで、イルカ先生は俺の予想通り音楽番組を見始めた。イルカ先生のお気に入りのモミジちゃんは一番手で出てきて、新曲を披露した。「復活告白」というタイトルの、ふられたけどもう一度意中の彼に薔薇の花束を持ってアタックする女の子の恋心を歌った曲で、イルカ先生はやたらニコニコしながらモミジちゃんを見ていた。
彼女は歌がドヘタクソで、ちょっとしもぶくれ系の顔をしている。目も口も大きくて少し幼く見えるが、とにかく巨乳としか言いようがないほど無駄に乳房が大きい。俺はずっと彼女が嫌いだった。イルカ先生が彼女を気に入ってるから。
でも今は違う。だってイルカ先生は。
例えば俺が難しい任務から帰って来た時、イルカ先生はいつだって泣きそうな顔で飛んできて、怪我はないですかって怒鳴るみたいに訊いてくれる。ないよって言うと全身の力を込めて俺を抱きしめてくれる。それから、おかえりなさいって言ってくれる。腹は減ってませんか、風呂に入りますか、マッサージしましょうか、少し休みますかって、俺が返事をする暇もなく矢継ぎ早に質問してきて、大抵俺は腹ぺこ状態だからお腹減ってるーって言うと、すぐに用意しますからくつろいでいてくださいって、怒鳴るみたいに言う。それから俺をじーーーっと見る。
イルカ先生は凄いよ。
俺の顔色や状態を、よーーっく見て、瞬身を使って台所に飛んで。凄いの本当に。俺が弱っている時は消化の良いものを作ってくれるし、もっと弱ってたり体調が酷い時はお粥を作ってくれる。逆に俺に余裕のある時は、スタミナがつくものをたっぷり作ってくれる。ナスの味噌汁つきでね。俺の状態を、本当に正確に把握してくれるんだよ。
居間から台所まですぐなのにイルカ先生は瞬身を使うから、俺は舞った木の葉を笑いながらこっそり片付けるよ。だって嬉しいじゃない。少しでも早くって気持ちが、一秒でも早くって気持ちが、いつもは里内で無駄なチャクラは使わないって俺を叱るイルカ先生がそうやってくれるのは、すごく嬉しいじゃない。くつろいでてくださいって言うわりには、イルカ先生は焦りすぎてお鍋やお皿を落としたり割ったりで大騒ぎして俺は全然くつろげないんだけど、でも、全部嬉しい。すごく嬉しい。
だからね、もう俺はモミジちゃんが嫌いじゃないんだ。あんなに嫌いだった彼女の乳房も、ドヘタクソな歌も、もう気にならない。
「イルカせんせ、膝まくらして」
寝転がって膝をつんつん突くと、イルカ先生はちゃんと俺に膝枕をしてくれる。俺はイルカ先生の膝に頭を擦りつける。毎晩してもらうんだよ俺。膝枕。
そうやって、二人でテレビを見る。
何人目かの歌手が歌い終える頃になると、イルカ先生は今日も無意識に俺の髪を撫ではじめてくれた。ゆっくりと、いいこ、いいこって、すごく優しく。
奇跡としか言いようがないよね。
ずっと片思いしてて、ずっとイルカ先生を遠くから見ることしかできなかった俺が、部下を持ったことをきっかけにほんのちょぴっとだけお話できるようになってさ。今日はイルカ先生とお話できるかな、夕飯誘ったら迷惑かな、報告書わざと間違えようかな、なんて色々考えて、本当にちょっとずつイルカ先生と仲良くなれて。
告白して。受け入れてもらって。
キスして。セックスして。
一緒に暮らすようになって。
奇跡だよね。イルカ先生にこうして膝枕してもらって、いいこ、いいこって髪を撫でてもらうことができるなんて。
奇跡だよ本当に。
イルカ先生の部屋。畳、壁、柱の傷。箪笥、卓袱台、湯呑。全部優しい。古くて、優しくて、あったかい。俺の部屋みたいに他人の顔なんてしない、イルカ先生の部屋。
この部屋に俺のものがある。忍具も、忍服も、巻物も、茶碗も湯呑も箸も、写真も。この古い部屋は、俺のものを受け入れてくれる。まるでイルカ先生みたいに。
イルカ先生の匂い。体温。
優しい。
優しい。
「これ、良い曲ですね」
イルカ先生が言う。
それは痩せた男が歌う、どこにでもありそうな、とてもありふれた感じの恋の歌だった。
夜もふけてくると、イルカ先生は明日の授業の確認と用意をして寝室に布団を敷く。二人でじゅんばんこで歯を磨いて、狭い布団に二人で入る。
「イルカせんせとエッチなことがしたいです」
「明日は体術の授業があるので無理です」
「エッチなことしたいです」
「無理です」
「エッチなことしたーい」
「駄目」
「触りっこしたーい」
「アンタそれだけじゃすまないだろ」
ビシっと額を叩かれる。でもイルカ先生と触りっこをすると、俺は本当にそれだけじゃすまなくなるので我慢する。前にイルカ先生が駄目って言ってるのに強引に触りっこ状態に持って行ったら、やっぱりそれじゃ我慢できなくなって結局最後までヤっちゃったことがあるんだけど、凄かったよ。次の日。
俺、追い出されたから。
激怒したイルカ先生に玄関の外に蹴り出されたから。
三日間口きいてくれなかったから。イルカ先生。
だからね、俺はちゃんと言うこときかなきゃ駄目なの。イルカ先生が怒るのはしょうがないんだよ。実際俺は一度始めるとひたすらイルカ先生を求めちゃうし、しかも上忍やってるだけあって無駄に体力あるから終われない。イルカ先生に随分負担かけてるのは分かってるんだけど、でも一回で終わらせるとかできない。イルカ先生はよくなるとどんどん乱れてくるから、もっと見たいもっと欲しいって自制心なんて全然役に立たなくなる。上忍なんだけどね、俺。駄目な上忍だよね、体力はあるのに自制心はないなんて。任務ならどれだけでも自制心きくのにね。
とにかく、今日は駄目な日。
俺はイルカ先生にぴったりとくっついて、ぎゅーってしがみつく。そうするとイルカ先生は俺を腕の中に抱きこんで、俺の頭をぽんぽんと叩いて、おやすみなさいって言ってくれる。俺もおやすみなさいって言う。
そうやって二人で眠るんだ。
イルカ先生はね、ぎゅーってしがみついている俺を毎晩しっかり腕の中に抱きこんでくれるよ。離さないでいてくれるよ。しがみつく俺の髪にキスしてくれるよ。それから、とても優しく頭を撫でてくれるよ。
いいこ、いいこって撫でてくれるよ。
凄いよね。本当に凄い。
イルカ先生は凄い。
抱きしめてくれる。あたたかいごはんを作ってくれる。いっぱいお話してくれる。一緒に眠ってくれる。
頭を撫でてくれる。いいこ、いいこって。
いいこ、いいこって。
イルカ先生には絶対に言えないような任務を、数多くこなした。
里からの命令であれば何でもした。するしかなかったし、今も任務とあれば俺はそれを行う。
例えどんな任務でも俺は遂行する。
イルカ先生には絶対に言えない内容の任務でも俺はそれを平然とやってのけ、何でもない顔をしてイルカ先生の元へ帰る。
イルカ先生は、きっと全部知っている。
俺が隠しておきたいことを、きっと全部知っている。
それでもイルカ先生は、おかえりなさいと言って抱きしめてくれる。
抱きしめて、一緒に眠ってくれる。
朝になると、目覚まし時計が鳴る寸前にバネ仕掛けの人形みたいに飛び起きて目覚ましのボタンをブン殴ってくれる。あたたかい、湯気が出ている朝食を作ってくれる。俺のために、あたたかい朝食を。
知ってるんだ。
イルカ先生は元々、朝食を作らない人だった。朝はギリギリまで寝てて、出勤する寸前に昨晩の残り物を温めもせずそのまま適当に腹に詰め込む人だった。少し仲良くなれた時に本人からそれを聞いたし、任務が終わり朝方に帰った時などに、そうしているのを何度も目にした。
イルカ先生は、俺のためにあたたかい朝食を作ってくれている。
イルカ先生。
イルカ先生は、俺と暮らしてくれる。俺の恋人でいてくれる。
イルカ先生は教えてくれる。朝露に濡れる花、降り注ぐ木漏れ日、子供が笑っている声、手を繋ぐ親子、そういうものひとつひとつに価値があると教えてくれる。
明日も一緒にいてくれるイルカ先生。
明日も膝枕をして、俺の髪を優しく撫でてくれるイルカ先生。
一緒に買い物に行って、食べ物を買うんだ。キャベツとか人参とか、そういった何でもないものを。
明日も布団で眠るんだ。イルカ先生と一緒に。
明日もイルカ先生はひとつひとつ丁寧に俺に微笑みかけ、教えてくれるんだ。
世界はこんなに美しいんだよって教えてくれるんだ。
俺がどんな任務をしても、イルカ先生は。
イルカ先生は、うん。イルカ先生は。
イルカ先生。
ねぇ、イルカ先生。
涙が溢れるよ。
「良い曲でしたね、あの曲」
俺を腕に抱きこんで眠っていたはずのイルカ先生が、柔らかい声でそう言った。
俺は返事ができず、ただ小さく頷いた。
イルカ先生は今日聴いたばかりの曲の、覚えたばかりの曲の、サビの部分をゆっくりと歌いだした。
全部分かってるからって言うように、大丈夫なんだよって言うように、小さな子供にそうするように、俺の背中を本当に本当に優しく叩いて。
とんとんって、俺の背中を優しく叩いて。
イルカ先生。
イルカ先生は、目を閉じたままでいてくれる。そうやって、全部分かってるって俺に伝えてくれる。大丈夫だよって伝えてくれる。
イルカ先生は、俺の背中をとても優しく叩いてくれる。とんとんって、小さな子供にそうするように。
それから歌を歌ってくれる。
サビの部分を、何度も何度も。
それは、貴方を心から大切に想うと告げる、ありきたりな恋の歌。